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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第34話「その競りに、行く」


 次の日、私はもう一度、ステリオスに会った。


 オルセラの倉とつきあいのある、中ほどの商人だ。


 商談を、取り次いでくれた男。


 前と同じ酒場の卓に、私はステリオスを呼んだ。


 礼として、本土の薬草を、すこし渡した。


 リンが見立てた、北の山の薬草。


 アズリアでは、手に入らない品だ。


 乾いた葉を、ステリオスは指でつまんで、匂いを嗅いだ。


 本物だ、と分かる顔をした。


 商談を取り次いだ礼にしては、上等だった。


 ステリオスは、それを喜んだ。


 そして、すこし口がゆるんだ。


 商談がまとまったあとだ。


 私を、もう警戒していなかった。


 麦の話を売りに来た女商人。


 それで、片がついた、と思っている顔だった。


 私は、それとなく、訊いた。


 倉の麦を市に出す、その値を誰が決めるのか、と。


 マッテオは商談で、倉の麦をすこし出すと約束した。


 けれど、麦の値は、マッテオ一人で決めているのではないらしかった。


 商談の最中から、私はそれを感じていた。


 マッテオは、倉の麦を、握っている。


 けれど、その麦をいくらで売るかは、マッテオの胸ひとつではなかった。


 ステリオスは、すこし声をひそめた。


「値は、帳簿で、決まる」


 帳簿。


 私の中の頭の奥の番人が、その言葉に目を覚ました。


「商館同盟には、共通の、帳簿が、ある」


 ステリオスは薬草を懐にしまいながら、言った。


 三家がそれぞれの倉の麦の量を、その帳簿に書き込む。


 三家、合わせて、どれだけの麦があるか。


 その総量をにらんで、市に出す量と値を決める。


 一家だけでは、決めない。


 三家、揃って、決める。


 だから、マッテオが倉の麦を出すと言っても、その値は、帳簿の許す範囲でしか動かせない。


 ◆  ◇


 共通の、帳簿。


 その存在に、私は行き当たった。


 三つの商家がそれぞれの倉の麦を、ひとつの帳簿に書き込む。


 三家、合わせた、麦の総量。


 市に出す量。


 値。


 それが、一冊の帳簿に記されている。


 麦を握り、値を決め、買えない者を飢えさせる、その仕組みの芯が、その帳簿にあった。


 市にあふれる麦が、上澄みなら。


 倉に溜まる麦が、その下の水なら。


 帳簿は、その水をどこに流すかを決める、堰の設計図だった。


 私はそれを知って、すこし息を呑んだ。


 堰の上は、あふれ、堰の下は、乾く。


 市の賑わいと、路地の飢え。


 その二つを、隔てている、薄い壁。


 その壁を、誰がどう築いているか。


 私はそれを、ずっと見極めようとしてきた。


 海を渡って、青の都へ来て、三つの商家を知り、巨大な倉を見つけ、商談で倉の主に勝った。


 けれど、本当の壁は、倉でも倉の主でもなかった。


 壁の設計図は、帳簿だった。


 誰がいくらでどれだけ麦を出すか。


 それを、決めている、一冊の帳簿。


 盗賊の頃、私は護送の列の銀の箱を狙った。


 箱の中に、銀が、あった。


 けれど、この都の本当の箱は、銀の箱ではなかった。


 帳簿だった。


 麦の値を、生み死にを決める、向こうの帳面。


 向こうの帳面。


 その言葉が、胸に浮かんだ。


 穴の底の向こうの帳面を、私は思い出した。


 番号を書き込み、誰がいて、誰が岩になったかを記す帳面。


 八百三十二番。


 私を穴に縛った、向こうの帳面。


 あの帳面と、この都の麦の帳簿は、同じものだった。


 人を、数で、裁く。


 誰を生かし、誰を飢えさせるかを、紙の上で決める。


 穴の底の帳面が人を岩にしたように、この都の帳簿が、人を路地で飢えさせていた。


 懐の読めない帳面に、私はふとてのひらを当てた。


 カラスの遺品の薄い、読めない帳面。


 あの言葉のない男が、誰にも読ませずに、死んだ帳面。


 それは、私の懐に、まだあった。


 読めない帳面。


 けれど、この都の麦の帳簿は、違う。


 あれは、向こうの帳面だ。


 読めば、読める。


 読めば、麦の値を、生み死にを決める手が見える。


 私はその帳簿を読まなければならなかった。


 ◆  ◇


 その夜、私は、ヒナと、ナダと、ネネを呼んだ。


 宿の一室で、四人、額を寄せた。


 小さな灯火が、ひとつ。


 その火を、囲むように。


 本土の丘の火の輪が、ふと胸をよぎった。


 八人で、囲んだ火。


 あれは、もう、ない。


 八人は、散った。


 いまは、この海の向こうで、四人だ。


 それでも、火を囲んで額を寄せれば、丘の火の輪と同じだった。


 私は帳簿のことを話した。


 商館同盟の、共通の帳簿。


 麦の総量と値を記した帳面。


 それが、この都の飢えの、芯だ、と。


 三人が、灯火の向こうで聞いていた。


 ナダのしわの深い顔。


 ヒナの、若い顔。


 ネネの布の下の半分しか見えない顔。


 みんな、黙って、聞いていた。


 ナダが、しわがれた声で低く言った。


「その帳簿を、見れば」


「飢えの、設計図が、見える」


 私は答えた。


 倉の麦を、すこし市に出させた。


 それは、駒をひとつ弾いただけだった。


 盤は、動かなかった。


 ファルディンの動かない目が、それを教えた。


 けれど、盤を動かすには、まず盤を読まなければならない。


 盤の設計図を。


 麦の値を決める、向こうの帳面を。


 ヒナが数えの木札を、てのひらで撫でた。


「数えられる、ものか」


 ヒナの問いに、私は頷いた。


 黒い衣は、数えられなかった。


 けれど、帳簿は、数だ。


 数なら、読める。


 数えられる。


 その帳簿に並んだ数を読めば、この都の飢えがどう設計されているかが見える。


 剣では、読めない。


 数なら、読める。


 それが、剣を持たない私の戦い方だった。


「どうやって、その帳簿を、見る」


 ネネが、布の下から低く訊いた。


 商館同盟の共通の帳簿だ。


 三家の、秘中の秘。


 簡単に、見られるものではない。


 けれど、見えないものを見えるところから量る術を、私は知っていた。


 直に読めなくても、その縁を、たどる術を。


 私はまだ、その帳簿の在りかさえ掴んでいなかった。


 けれど、糸口は、見えた。


 麦の値が、帳簿で決まる、と分かった。


 なら、その帳簿の在りかへ辿っていける。


 商談に、勝った。


 けれど、飢えは、終わらなかった。


 駒を弾いても、盤は、動かなかった。


 私は、盤を、読みに行く。


 麦の値を決め、人を生かし、人を飢えさせる、向こうの帳面を。


 その帳面の、競りの場へ。


 値が、生み死にを決める、その芯へ。


 私は樫の棒の握りの灰の字を、てのひらで確かめた。


 剣の届かない、商いの国の、いちばん深いところへ。


 麦の値が、人の命の競りにかけられる、その場所へ。


 その競りに、行く。


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