第33話「勝ったのに」
宿へ帰る道は、長く感じた。
ヒナと二人で、夕暮れの青の都を歩いた。
商談には、勝った。
倉の麦が、すこし市へ流れる。
値が、すこし、下がる。
それは、勝ちだった。
けれど、その勝ちが、てのひらの中でひどく軽かった。
握っても、重さのない勝ちだった。
市を、通った。
夕暮れの市に、まだ麦の店が開いていた。
山と積まれた、乾いた、いい麦。
明日には、その値がすこし下がるはずだった。
倉の麦が、市に出れば。
買えなかった者が、買えるようになる。
それは、いいことのはずだった。
なのに、私の胸は、晴れなかった。
市の裏の路地を、私は見た。
あの、薄暗い路地を。
日の当たらない、冷たい石畳の路地を。
そこに、まだ人が座り込んでいた。
壁にもたれて、痩せた者たちが。
子供を抱えた女が。
骨の浮いた老人が。
商談に勝った、その日も、路地の者たちは、そこにいた。
今日も、麦は彼らのところまで届いていなかった。
明日、麦の値がすこし下がっても。
あの者たちが、買えるようになるだろうか。
すこしは、なるかもしれない。
麦の値が下がれば、いくらかの者は買える。
一日、生き延びる者が増えるかもしれない。
けれど、それだけだ。
値が下がっても、銀のない者は、買えない。
路地の者たちには、銀がない。
値が下がろうと、上がろうと、銀のない者は麦に手が届かない。
私が商談で勝ち取ったのは、すこしの麦の値下げだった。
それは、路地の飢えを、終わらせる勝ちではなかった。
ヒナが隣で、路地の方を見ていた。
数えの木札に、指が動いている。
無意識に。
路地に座る者の数を、数えているのだ。
何人、座っているか。
何人が、子供か。
年寄りか。
この子も、数えずにはいられない。
私が市の麦の山を見て、量らずにいられないように。
「レン」
ヒナが、低い声で言った。
「勝ったのに」
そこで、ヒナは言葉を切った。
続きを、言えなかったのだ。
勝ったのに、路地の者は、まだ座っている。
勝ったのに、何が、変わったのか。
その続きを、ヒナは飲み込んだ。
「ああ」
私は、それだけ答えた。
私にも、続きは言えなかった。
勝ったのに、という言葉の先にあるものを、私たちは二人とも、まだ言葉にできなかった。
ただ、勝ったのに、軽い。
勝ったのに、終わらない。
その、ねじれた感じだけが、二人の間にあった。
◆ ◇
宿に、着いた。
ナダと、ネネが、待っていた。
商談の首尾を訊いた。
私は、勝ったと答えた。
倉の麦を、すこし市に出させた、と。
ナダが、しわがれた声でよくやった、と言った。
ネネが、布の下からすこし笑った。
ヒナが帳面に、商談の結果を記した。
みんな、勝ちを喜んでいた。
私はその輪にいながら、笑えなかった。
部屋の隅に座って、私は樫の棒を膝の上に置いた。
握りの内側の灰の字を、てのひらでなぞった。
脇腹の傷は、もう疼いていなかった。
ファルディンから、離れたからだ。
けれど、傷が疼かなくなった代わりに、胸の底に別の重いものが沈んでいた。
勝ったのに。
飢餓は、終わらない。
私は、それを、噛みしめていた。
怒りでは、なかった。
怒りなら、もっと、熱い。
これは、もっと、冷たかった。
勝利の、空虚だ。
剣で敵を倒せば、その敵はいなくなる。
けれど、商談で倉の主に勝っても、飢えはなくならない。
倉の麦をすこし出させても、路地の者は、まだ飢えている。
私の勝ちは、海のひとすくいだった。
すくっても、すくっても、海は、減らない。
穴の底を、思い出した。
穴の底で、私は水を数えた。
一杯ずつ。
骨を、研いだ。
一本ずつ。
火を、消さずに、守った。
一夜ずつ。
地味なことを続けて、生き延びた。
けれど、あれは、私一人が生き延びるための地味さだ。
私一人なら、地味な手の動きで、生き延びられる。
けれど、路地の飢えは、私一人の地味さでは、どうにもならなかった。
すくっても、すくっても、減らない海だった。
◆ ◇
夜、私はひとり、宿の屋上に出た。
みんなが、眠ったあとで。
商談の勝ちを喜んで、眠ったあとで。
私は、ひとりになりたかった。
屋上から、夜の青の都が見えた。
水路に、月が、映っていた。
夜風が屋上を渡っていく。
昼の熱を失った石が、足の裏から、冷たい。
遠くで、酔った船乗りの笑い声がひとつ上がって、すぐ消えた。
あとは、水路を舟の櫂がときおり鳴らす音だけだ。
豊かな都の、夜の音だった。
その音の届かぬ路地で、今夜も誰かが冷えていく。
豊かな都だ。
麦があふれ、銀が回り、舟が行き交う。
その豊かな都の薄暗い路地で、今夜も、人が、飢えて、死ぬ。
商談の最中、私は、能面だった。
マッテオの侮りにも、ファルディンの視線にも、脇腹の疼きにも、顔を動かさなかった。
怒りも、驚きも、出さなかった。
穴の底で覚えた、何も映さない顔。
商人の場では、それがいちばんの武器だった。
けれど、能面の奥で、私はずっと何かをこらえていた。
ひとりになって、私はそれを、すこしほどいた。
拳を、握った。
たったひとつの右手を。
三本の指と、親指で。
爪が、てのひらに食い込んだ。
食い込んで、すこし、痛んだ。
それでも、握る力を、ゆるめなかった。
商談のあいだ、能面の奥でこらえていたものが、ひとりになって、ようやく外に出てきた。
怒りでは、なかった。
怒りなら、もっと熱く、まっすぐだ。
これは、もっと、ねじれていた。
勝ったのに、負けた。
倉の麦は、すこし出させた。
けれど、路地の飢えは、終わらない。
ファルディンは盤を動かさなかった。
石の手すりに、私はその拳を、一度押し当てた。
強く、ではない。
声を上げたりも、しない。
レンは、人前で、崩れない。
穴の底で、それを覚えた。
崩れる者から先に岩になった。
だから、私の怒りは、いつもこうやって、ひとりの夜の石の上に降りる。
誰にも、見せずに。
拳を石に押し当てて、奥へ、奥へ、沈めていく。
私は、駒に、勝って、盤に、負けた。
その悔しさを、私は夜の石に預けた。
月のない夜の奪いなら、私は何度もやった。
あの頃は、奪えば銀が手に入った。
手応えが、あった。
けれど、商談に勝っても、手応えがなかった。
すくった海は、すぐ元に戻る。
私は、自分が何と戦っているのかが、まだ見えていなかった。
倉の主では、ない。
ファルディンでも、ない。
もっと、大きな、何か。
盤そのもの。
けれど、その盤の正体が、まだ掴めなかった。
屋上で、私はしばらく夜の都を見ていた。
怒りを、すこしずつ奥へ沈めながら。
怒っても、麦は動かない。
怒りは、海を減らさない。
私は、怒りを見極めに変えなければならなかった。
何と、戦うべきか。
どこを断てば、海が減るのか。
それを見極めるまで、私は勝てない。
商談に勝っても、勝てない。
この都のどこかに、その手がある。
麦を握り、値を決め、人を振り分ける手が。
まだ、顔は、見えない。
けれど、いる。
月が水路の上を、ゆっくりと渡っていった。





