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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第33話「勝ったのに」


 宿へ帰る道は、長く感じた。


 ヒナと二人で、夕暮れの青の都を歩いた。


 商談には、勝った。


 倉の麦が、すこし市へ流れる。


 値が、すこし、下がる。


 それは、勝ちだった。


 けれど、その勝ちが、てのひらの中でひどく軽かった。


 握っても、重さのない勝ちだった。


 市を、通った。


 夕暮れの市に、まだ麦の店が開いていた。


 山と積まれた、乾いた、いい麦。


 明日には、その値がすこし下がるはずだった。


 倉の麦が、市に出れば。


 買えなかった者が、買えるようになる。


 それは、いいことのはずだった。


 なのに、私の胸は、晴れなかった。


 市の裏の路地を、私は見た。


 あの、薄暗い路地を。


 日の当たらない、冷たい石畳の路地を。


 そこに、まだ人が座り込んでいた。


 壁にもたれて、痩せた者たちが。


 子供を抱えた女が。


 骨の浮いた老人が。


 商談に勝った、その日も、路地の者たちは、そこにいた。


 今日も、麦は彼らのところまで届いていなかった。


 明日、麦の値がすこし下がっても。


 あの者たちが、買えるようになるだろうか。


 すこしは、なるかもしれない。


 麦の値が下がれば、いくらかの者は買える。


 一日、生き延びる者が増えるかもしれない。


 けれど、それだけだ。


 値が下がっても、銀のない者は、買えない。


 路地の者たちには、銀がない。


 値が下がろうと、上がろうと、銀のない者は麦に手が届かない。


 私が商談で勝ち取ったのは、すこしの麦の値下げだった。


 それは、路地の飢えを、終わらせる勝ちではなかった。


 ヒナが隣で、路地の方を見ていた。


 数えの木札に、指が動いている。


 無意識に。


 路地に座る者の数を、数えているのだ。


 何人、座っているか。


 何人が、子供か。


 年寄りか。


 この子も、数えずにはいられない。


 私が市の麦の山を見て、量らずにいられないように。


「レン」


 ヒナが、低い声で言った。


「勝ったのに」


 そこで、ヒナは言葉を切った。


 続きを、言えなかったのだ。


 勝ったのに、路地の者は、まだ座っている。


 勝ったのに、何が、変わったのか。


 その続きを、ヒナは飲み込んだ。


「ああ」


 私は、それだけ答えた。


 私にも、続きは言えなかった。


 勝ったのに、という言葉の先にあるものを、私たちは二人とも、まだ言葉にできなかった。


 ただ、勝ったのに、軽い。


 勝ったのに、終わらない。


 その、ねじれた感じだけが、二人の間にあった。


 ◆  ◇


 宿に、着いた。


 ナダと、ネネが、待っていた。


 商談の首尾を訊いた。


 私は、勝ったと答えた。


 倉の麦を、すこし市に出させた、と。


 ナダが、しわがれた声でよくやった、と言った。


 ネネが、布の下からすこし笑った。


 ヒナが帳面に、商談の結果を記した。


 みんな、勝ちを喜んでいた。


 私はその輪にいながら、笑えなかった。


 部屋の隅に座って、私は樫の棒を膝の上に置いた。


 握りの内側の灰の字を、てのひらでなぞった。


 脇腹の傷は、もう疼いていなかった。


 ファルディンから、離れたからだ。


 けれど、傷が疼かなくなった代わりに、胸の底に別の重いものが沈んでいた。


 勝ったのに。


 飢餓は、終わらない。


 私は、それを、噛みしめていた。


 怒りでは、なかった。


 怒りなら、もっと、熱い。


 これは、もっと、冷たかった。


 勝利の、空虚だ。


 剣で敵を倒せば、その敵はいなくなる。


 けれど、商談で倉の主に勝っても、飢えはなくならない。


 倉の麦をすこし出させても、路地の者は、まだ飢えている。


 私の勝ちは、海のひとすくいだった。


 すくっても、すくっても、海は、減らない。


 穴の底を、思い出した。


 穴の底で、私は水を数えた。


 一杯ずつ。


 骨を、研いだ。


 一本ずつ。


 火を、消さずに、守った。


 一夜ずつ。


 地味なことを続けて、生き延びた。


 けれど、あれは、私一人が生き延びるための地味さだ。


 私一人なら、地味な手の動きで、生き延びられる。


 けれど、路地の飢えは、私一人の地味さでは、どうにもならなかった。


 すくっても、すくっても、減らない海だった。


 ◆  ◇


 夜、私はひとり、宿の屋上に出た。


 みんなが、眠ったあとで。


 商談の勝ちを喜んで、眠ったあとで。


 私は、ひとりになりたかった。


 屋上から、夜の青の都が見えた。


 水路に、月が、映っていた。


 夜風が屋上を渡っていく。


 昼の熱を失った石が、足の裏から、冷たい。


 遠くで、酔った船乗りの笑い声がひとつ上がって、すぐ消えた。


 あとは、水路を舟の櫂がときおり鳴らす音だけだ。


 豊かな都の、夜の音だった。


 その音の届かぬ路地で、今夜も誰かが冷えていく。


 豊かな都だ。


 麦があふれ、銀が回り、舟が行き交う。


 その豊かな都の薄暗い路地で、今夜も、人が、飢えて、死ぬ。


 商談の最中、私は、能面だった。


 マッテオの侮りにも、ファルディンの視線にも、脇腹の疼きにも、顔を動かさなかった。


 怒りも、驚きも、出さなかった。


 穴の底で覚えた、何も映さない顔。


 商人の場では、それがいちばんの武器だった。


 けれど、能面の奥で、私はずっと何かをこらえていた。


 ひとりになって、私はそれを、すこしほどいた。


 拳を、握った。


 たったひとつの右手を。


 三本の指と、親指で。


 爪が、てのひらに食い込んだ。


 食い込んで、すこし、痛んだ。


 それでも、握る力を、ゆるめなかった。


 商談のあいだ、能面の奥でこらえていたものが、ひとりになって、ようやく外に出てきた。


 怒りでは、なかった。


 怒りなら、もっと熱く、まっすぐだ。


 これは、もっと、ねじれていた。


 勝ったのに、負けた。


 倉の麦は、すこし出させた。


 けれど、路地の飢えは、終わらない。


 ファルディンは盤を動かさなかった。


 石の手すりに、私はその拳を、一度押し当てた。


 強く、ではない。


 声を上げたりも、しない。


 レンは、人前で、崩れない。


 穴の底で、それを覚えた。


 崩れる者から先に岩になった。


 だから、私の怒りは、いつもこうやって、ひとりの夜の石の上に降りる。


 誰にも、見せずに。


 拳を石に押し当てて、奥へ、奥へ、沈めていく。


 私は、駒に、勝って、盤に、負けた。


 その悔しさを、私は夜の石に預けた。


 月のない夜の奪いなら、私は何度もやった。


 あの頃は、奪えば銀が手に入った。


 手応えが、あった。


 けれど、商談に勝っても、手応えがなかった。


 すくった海は、すぐ元に戻る。


 私は、自分が何と戦っているのかが、まだ見えていなかった。


 倉の主では、ない。


 ファルディンでも、ない。


 もっと、大きな、何か。


 盤そのもの。


 けれど、その盤の正体が、まだ掴めなかった。


 屋上で、私はしばらく夜の都を見ていた。


 怒りを、すこしずつ奥へ沈めながら。


 怒っても、麦は動かない。


 怒りは、海を減らさない。


 私は、怒りを見極めに変えなければならなかった。


 何と、戦うべきか。


 どこを断てば、海が減るのか。


 それを見極めるまで、私は勝てない。


 商談に勝っても、勝てない。


 この都のどこかに、その手がある。


 麦を握り、値を決め、人を振り分ける手が。


 まだ、顔は、見えない。


 けれど、いる。


 月が水路の上を、ゆっくりと渡っていった。


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