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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第32話「盤は、動かなかった」


 商談は、まとまった。


 契約の紙に、印が押された。


 マッテオの、物流の家の印。


 蝋に、印を、押しつける。


 卓の上に、その小さな音がひとつ落ちた。


 私は、無名の女商人として、印の代わりに約束の言葉を置いた。


 盗賊の頃、約束は、いつも言葉だけだった。


 盗賊は、紙の印を、持たない。


 けれど、言葉の約束を破れば、命で払う。


 それが、盗賊の信用だった。


 いまも、私は紙の印を持たない。


 無名のままだ。


 だから、言葉で、約束した。


 本土の麦の話を、聞かせる。


 その代わり、倉の麦を、市に出す。


 互いの、利が、噛み合った。


 卓の上の小さな天秤が釣り合うように、二人の利が釣り合った。


 マッテオは、私の言葉を信じた。


 隻腕の、無名の女の言葉を。


 倉の数えを読んでみせた、その数を、信用の代わりに。


 私は、勝った。


 目の前の倉の主に。


 商館同盟の駒のひとつに。


 剣ではなく、数と、利で。


 倉の麦が、すこし市へ流れる。


 値が、すこし、下がる。


 路地の者が、すこし麦を買える。


 それだけのことを、私は勝ち取った。


 けれど、その勝ちがどこか軽いことに、私は気づいていた。


 窓を背にしたファルディンを、私は目の隅で見ていた。


 商談のはじめから、終わりまで。


 ファルディンは、ただ、立っていた。


 後ろ盾として。


 倉の主が押され、私が商談を勝ち取る。


 その一部始終を、ファルディンは窓を背に見ていた。


 けれど、その目は最後まで動かなかった。


 マッテオが、押されても。


 私が、倉の麦を、引き出しても。


 ファルディンは、剣に手をかけなかった。


 眉一つ、動かさなかった。


 まるで、この商談の勝ち負けが自分には何の関わりもない、というふうに。


 その動かなさが、私に教えた。


 ◆  ◇


 ファルディンは、倉の主の後ろ盾だった。


 けれど、倉の主の味方ではなかった。


 マッテオが商談で押されても、この男には、どうでもよかったのだ。


 私はそれを見ていて、すこしぞっとした。


 マッテオは、自分の倉の麦を守るために必死だった。


 けれど、その後ろに立つファルディンは、もっと別のところを見ていた。


 倉の麦の勝ち負けより、ずっと上のところを。


 私が商談で勝ったのは、目の前の駒だった。


 マッテオという、物流の家の当主。


 商館同盟のひとつの駒。


 私は、その駒を、弾いた。


 倉の麦を、すこし市へ引き出す。


 それは、できた。


 けれど、ファルディンは、動かない。


 ファルディンは、駒の後ろに立つ、もっと大きな手の影だった。


 その手は、駒が一つ弾かれても、びくともしなかった。


 盤は、動かなかった。


 私は駒を、ひとつ弾いただけだった。


 倉の麦を、すこし市に出させた。


 値が、すこし、下がる。


 けれど、それは、盤の上のひとつの駒の動きにすぎなかった。


 盤そのものは、何も変わっていない。


 麦を握り、値を決め、買えない者を飢えさせる、その大きな仕組みは、この商談ひとつで、びくともしなかった。


 ファルディンの動かない目が、それを語っていた。


 ◆  ◇


 帰り際、私はファルディンのすぐ前を通った。


 窓を背にした男の、前を。


 脇腹の傷が、いちばん近くで疼いた。


 あの日、この男の刃が、私の体に残した傷。


 その刃の主が、いま、手を伸ばせば届くところに立っていた。


 ファルディンは、私を、見た。


 帰っていく、隻腕の女商人を。


 商談で倉の主を押した、海の向こうの女を。


 そして、ひとこと、言った。


「面白い女だ」


 余裕の、ある声だった。


 読点ひとつない、傲岸な声。


 負けを面白がる、あの男の声。


 けれど、その「面白い」は、私を商談の相手として面白がる声だった。


 あの日、剣の手合わせで自分を負かした少女を思い出した声ではなかった。


 ファルディンは、目の前の女商人を、ただ手強い商人として面白がっただけだった。


 私は、何も答えなかった。


 ただ、頭をすこし下げて、部屋を出た。


 脇腹の傷が、疼いていた。


 すぐ手の届くところに、四十年余りの因縁が立っていた。


 樫の棒を、握れば、届く。


 剣ではなくても、この男の喉を突くことはできた。


 カラスを死なせた手が、いま、目の前に、ある。


 けれど、私は棒を握り直さなかった。


 抜くべき場ではなかった。


 この男を、ここで斬っても、何も終わらないからだ。


 ファルディンは、駒の後ろに立つ、影にすぎない。


 この男もまた、もっと上にいる、誰かの駒なのだ。


 誰かが麦を握り、値を決め、この男に後ろ盾の役を振っている。


 ファルディンを斬っても、その誰かは、また別の駒を置く。


 断ちたいのは、この男ではなかった。


 この男を駒として置いている、その手だった。


 麦を握り、値を決め、人を飢えさせ、ファルディンのような男を後ろ盾に立てている、その盤そのものだった。


 けれど、その盤は、まだ見えなかった。


 誰が、置いているのか。


 どこに、いるのか。


 私には、掴めなかった。


 掴めないものに、刃を向けてはならない。


 それも、カラスから手で覚えたことだった。


 それに、と私は思った。


 カラスは、私に殺せとは言わなかった。


 生きろ、と言った。


 私を庇って、この男に刺された、その時でさえ。


 私がいまここでファルディンの喉を突けば、それは、カラスの教えに背くことになる。


 この因縁を、復讐の燃料にして、燃やすことになる。


 私は、それを、しなかった。


 脇腹の傷を疼かせたまま、私はそれを抱えて部屋を出た。


 決着は、つかなかった。


 私は、商談で、勝った。


 けれど、ファルディンとの因縁は、何も決着しなかった。


 盤は、動かなかった。


 因縁は、因縁のまま、私の脇腹に疼いていた。


 勝ったのに、何も終わっていない。


 それが、この商談の、本当の姿だった。


 痛み分けだ。


 私は、目の前の駒に勝った。


 けれど、ファルディンは盤を動かさなかった。


 互いに、互いのいちばん大事なものには、手が届かなかった。


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