第32話「盤は、動かなかった」
商談は、まとまった。
契約の紙に、印が押された。
マッテオの、物流の家の印。
蝋に、印を、押しつける。
卓の上に、その小さな音がひとつ落ちた。
私は、無名の女商人として、印の代わりに約束の言葉を置いた。
盗賊の頃、約束は、いつも言葉だけだった。
盗賊は、紙の印を、持たない。
けれど、言葉の約束を破れば、命で払う。
それが、盗賊の信用だった。
いまも、私は紙の印を持たない。
無名のままだ。
だから、言葉で、約束した。
本土の麦の話を、聞かせる。
その代わり、倉の麦を、市に出す。
互いの、利が、噛み合った。
卓の上の小さな天秤が釣り合うように、二人の利が釣り合った。
マッテオは、私の言葉を信じた。
隻腕の、無名の女の言葉を。
倉の数えを読んでみせた、その数を、信用の代わりに。
私は、勝った。
目の前の倉の主に。
商館同盟の駒のひとつに。
剣ではなく、数と、利で。
倉の麦が、すこし市へ流れる。
値が、すこし、下がる。
路地の者が、すこし麦を買える。
それだけのことを、私は勝ち取った。
けれど、その勝ちがどこか軽いことに、私は気づいていた。
窓を背にしたファルディンを、私は目の隅で見ていた。
商談のはじめから、終わりまで。
ファルディンは、ただ、立っていた。
後ろ盾として。
倉の主が押され、私が商談を勝ち取る。
その一部始終を、ファルディンは窓を背に見ていた。
けれど、その目は最後まで動かなかった。
マッテオが、押されても。
私が、倉の麦を、引き出しても。
ファルディンは、剣に手をかけなかった。
眉一つ、動かさなかった。
まるで、この商談の勝ち負けが自分には何の関わりもない、というふうに。
その動かなさが、私に教えた。
◆ ◇
ファルディンは、倉の主の後ろ盾だった。
けれど、倉の主の味方ではなかった。
マッテオが商談で押されても、この男には、どうでもよかったのだ。
私はそれを見ていて、すこしぞっとした。
マッテオは、自分の倉の麦を守るために必死だった。
けれど、その後ろに立つファルディンは、もっと別のところを見ていた。
倉の麦の勝ち負けより、ずっと上のところを。
私が商談で勝ったのは、目の前の駒だった。
マッテオという、物流の家の当主。
商館同盟のひとつの駒。
私は、その駒を、弾いた。
倉の麦を、すこし市へ引き出す。
それは、できた。
けれど、ファルディンは、動かない。
ファルディンは、駒の後ろに立つ、もっと大きな手の影だった。
その手は、駒が一つ弾かれても、びくともしなかった。
盤は、動かなかった。
私は駒を、ひとつ弾いただけだった。
倉の麦を、すこし市に出させた。
値が、すこし、下がる。
けれど、それは、盤の上のひとつの駒の動きにすぎなかった。
盤そのものは、何も変わっていない。
麦を握り、値を決め、買えない者を飢えさせる、その大きな仕組みは、この商談ひとつで、びくともしなかった。
ファルディンの動かない目が、それを語っていた。
◆ ◇
帰り際、私はファルディンのすぐ前を通った。
窓を背にした男の、前を。
脇腹の傷が、いちばん近くで疼いた。
あの日、この男の刃が、私の体に残した傷。
その刃の主が、いま、手を伸ばせば届くところに立っていた。
ファルディンは、私を、見た。
帰っていく、隻腕の女商人を。
商談で倉の主を押した、海の向こうの女を。
そして、ひとこと、言った。
「面白い女だ」
余裕の、ある声だった。
読点ひとつない、傲岸な声。
負けを面白がる、あの男の声。
けれど、その「面白い」は、私を商談の相手として面白がる声だった。
あの日、剣の手合わせで自分を負かした少女を思い出した声ではなかった。
ファルディンは、目の前の女商人を、ただ手強い商人として面白がっただけだった。
私は、何も答えなかった。
ただ、頭をすこし下げて、部屋を出た。
脇腹の傷が、疼いていた。
すぐ手の届くところに、四十年余りの因縁が立っていた。
樫の棒を、握れば、届く。
剣ではなくても、この男の喉を突くことはできた。
カラスを死なせた手が、いま、目の前に、ある。
けれど、私は棒を握り直さなかった。
抜くべき場ではなかった。
この男を、ここで斬っても、何も終わらないからだ。
ファルディンは、駒の後ろに立つ、影にすぎない。
この男もまた、もっと上にいる、誰かの駒なのだ。
誰かが麦を握り、値を決め、この男に後ろ盾の役を振っている。
ファルディンを斬っても、その誰かは、また別の駒を置く。
断ちたいのは、この男ではなかった。
この男を駒として置いている、その手だった。
麦を握り、値を決め、人を飢えさせ、ファルディンのような男を後ろ盾に立てている、その盤そのものだった。
けれど、その盤は、まだ見えなかった。
誰が、置いているのか。
どこに、いるのか。
私には、掴めなかった。
掴めないものに、刃を向けてはならない。
それも、カラスから手で覚えたことだった。
それに、と私は思った。
カラスは、私に殺せとは言わなかった。
生きろ、と言った。
私を庇って、この男に刺された、その時でさえ。
私がいまここでファルディンの喉を突けば、それは、カラスの教えに背くことになる。
この因縁を、復讐の燃料にして、燃やすことになる。
私は、それを、しなかった。
脇腹の傷を疼かせたまま、私はそれを抱えて部屋を出た。
決着は、つかなかった。
私は、商談で、勝った。
けれど、ファルディンとの因縁は、何も決着しなかった。
盤は、動かなかった。
因縁は、因縁のまま、私の脇腹に疼いていた。
勝ったのに、何も終わっていない。
それが、この商談の、本当の姿だった。
痛み分けだ。
私は、目の前の駒に勝った。
けれど、ファルディンは盤を動かさなかった。
互いに、互いのいちばん大事なものには、手が届かなかった。





