第38話「二冊の、帳面」
私はメルカディンの家に会いに行った。
帳簿の芯にいる家だ。
金融の家。
銀を貸し、信用を握り、誰が銀を持てるかを決める家。
三家の中で、麦の値をいちばん深いところで動かしている家だった。
物流のオルセラが、麦を止める手なら。
金融のメルカディンは、その止め方を決める頭だ。
会うには、また口実がいった。
私は本土の麦の話の続きを餌にした。
オルセラとの商談で、すでに海を渡った商人としての名はすこし通っていた。
その名を使った。
本土の麦がどう動くか。
その先の話を、金融の家にも売りたい、と。
金融の家は、麦の値の先をいちばん知りたがる。
先の値が分かれば、先物で儲けられるからだ。
会う口実は商いだった。
けれど、私が本当に突きつけに行ったのは、商いの話ではなかった。
懐に、私は二つのものを入れていた。
ヒナが写した帳簿の数の写しと、私が書いた餓死者の帳面。
倉に満ちる麦と、市に出る薄い一筋と、堰の外で岩になった者の名。
そのふたつを突き合わせれば、誰でも分かる。
麦はある。
なのに、人が死んでいる。
麦を握っている手が、人を飢えさせている、と。
私はそれを突きつけに行った。
◆ ◇
メルカディンの館は白かった。
水路に面した大きな館だ。
白い石を磨いて積んである。
窓には、薄い色の硝子がはまっていた。
アズリアでも、めったに見ない硝子だ。
床は磨かれた大理石で、その模様が、夜の水面のように静かに光っていた。
路地の饐えた匂いとは別の世界だった。
同じ都の中に、こんなに違う世界があった。
奥の一室に通された。
卓も、椅子も、黒く重い木だった。
よく磨かれて、灯火を深く映している。
卓の上には、銀の燭台と本が数冊。
商いの帳面ではない。
星の本だった。
天の星の動きを記した本。
それから、数の本もあった。
図が描いてある。
円がいくつも重なった図だ。
天の星がどう回るかを、数で解く本らしかった。
メルカディンは、麦の値も星の動きと同じものとして見ているのだ、と私は思った。
天の星が決まった道を回るように。
麦の値も、決まった理で動く。
市の入り用、倉の量、来年の見込み。
それを数で解く。
星を読むのと同じ目で、人の生き死にを解いている。
卓の上の星の本は、そう語っていた。
この男にとって、麦の値も星も、同じ数の世界の出来事だった。
星が落ちて誰かが死んでも、星は悪びれない。
麦の値が誰かを死なせても、メルカディンは悪びれない。
たぶん、同じ目で見ているのだ。
アンドレアス・メルカディンが、その卓の向こうに座っていた。
痩せた、背の高い男だった。
年は私と同じくらいか。
けれど、品が違った。
仕立てのいい暗い色の衣を着ている。
髪はきれいに撫でつけて、白いものが上品に混じっていた。
指が長い。
その指が卓の上で組まれている。
荷役のオルセラの節くれだった手とは、まるで違う手だった。
一度も土を握ったことのない手だ。
その目が私を見た。
オルセラの目には侮りがあった。
隻腕の女に何ができる、という。
けれど、メルカディンの目には、侮りも興味もなかった。
ただ静かに、私を見ていた。
卓の向こうから。
麦の値を見るのと同じ目で、私を見ていた。
数を読む目だ。
この女はいくらの価値があるか。
何を欲しがっているか。
それを読んでいる目だった。
私はその目の前に座った。
名は名乗らなかった。
海を渡ってきた麦の商人。
それだけだ。
◆ ◇
私は懐から帳簿の写しを出した。
卓の上に置いた。
三本の指で。
倉に満ちる麦の数と、市に出る薄い一筋の数。
それを並べた。
それから、もう一冊。
私が書いた、太いゆがんだ字の帳面。
餓死者の名と、年と、数。
それも隣に置いた。
二冊は、並べると釣り合いの取れない奇妙な対だった。
帳簿の写しは、几帳面な商人の字だった。
ヒナが写したものだ。
細い筆で整った数の列。
きれいに桁が揃っている。
もう一冊は、私の太いゆがんだ字だ。
筆を握り慣れない手が、押さえる手もなく書いた字。
歪んで、傾いて、墨の濃さもまちまちだった。
整った数の帳面と、歪んだ名の帳面。
けれど、その二冊は同じことを語っていた。
きれいな数のいちばん下の段に、歪んだ名があった。
メルカディンはその二冊を見た。
長い指で、帳簿の写しを一枚めくった。
私が並べた数をたどる。
それから、私のゆがんだ字の帳面をめくった。
名と、年と、数を。
指は、整った数をたどるときも、歪んだ名をたどるときも同じ速さだった。
同じ静けさで。
その顔は動かなかった。
驚きも、後ろめたさもなかった。
咎められた、という顔ではなかった。
ただ、出された数を確かめる顔だった。
間違いがないかを確かめる、商人の顔。
私が突きつけたものを、メルカディンはただ検算していた。
「倉に、麦は、ある」
私は言った。
声を低く抑えて。
「市に出るのは、これだけだ。わざと、細くしている。値が、上がる。買えない者が、買えない。買えない者が、飢える。飢えた者が、死ぬ。これが、その死んだ者の数だ」
私はゆがんだ字の帳面を指で示した。
「あんたが、麦を握り、値を決めた。その結果、この者たちが、死んだ」
私の声は平らだった。
怒っていなかった、のではない。
私は怒っていた。
腹の底が煮えていた。
戸板の下の女の顔が、目の裏にあった。
子供の数を書いた、私のゆがんだ字が。
腹の底で、それが煮えて、熱を持っていた。
けれど、私の顔は動かなかった。
穴の底で覚えた能面だ。
何も映さない顔。
怒りを通り越すと、私の顔は無表情になる。
これは、タカハシから手で覚えたものだった。
あの男も、いちばん危ないとき、いちばん静かだった。
届く手は見られる。
見られた手は潰される。
だから、煮える腹を能面の奥へ沈めた。
声を荒げなかった。
卓を叩かなかった。
立ち上がりもしなかった。
ただ、平らな声で数を突きつけた。
ここで崩れれば、ただの感情で来た女になる。
感情で来た者の話は聞かれない。
数で来た者の話だけが聞かれる。
メルカディンは、私のゆがんだ字の帳面をもう一度見た。
それから、長い指でそれを卓の上で、私の方へすこし押し返した。
返された帳面の上で、灯火がゆれた。
メルカディンは、しばらく何も言わなかった。
長い指を卓の上でまた組んだ。
窓の外の水路をすこし見た。
それから、私に目を戻した。
その目は、最初から終わりまで静かだった。
「あなたは、商人だと、聞きました」
最初に、メルカディンはそう言った。
声は低く、よく響いた。
読点を、二つ、きちんと、置く話し方だった。
急がない。
荒げない。
優雅な声だった。
けれど、その優雅さの奥は、氷のように、冷たかった。
「海を、渡ってきた、麦の、商人だと」
「そうだ」
私は答えた。
「では、あなたも、ご存じのはずです」
メルカディンは、私のゆがんだ字の帳面に長い指を置いた。
「麦を、安く、仕入れ、高く、売る。それが、商人の仕事です。安いときに、買い、高いときに、売る。あなたも、本土の麦が、流れてくる前に、それを、見越して、こちらの倉の主に、麦を、出させようとした。同じことです」
私は言葉を返せなかった。
その通りだった。
私も、オルセラとの商談で本土の麦の流れを読んで、利を突いた。
値の上がり下がりを読んで、動かす。
やっていることは、根が同じだ。
私が倉の麦を市に出させたのも、本土の麦という餌で利を突いた手だった。
路地の者のためだ、と思っていた。
けれど、その手口は、メルカディンと同じ理の上に乗っている。
値を読み、動かす。
私もその理を使った。
違うのは向きだけだ。
私は値を下げようとした。
メルカディンは上げる。
けれど、値を動かして人を振り分けることに、変わりはなかった。
だから、私はメルカディンの理を頭から否めなかった。
否めば、自分のオルセラとの商談まで否むことになる。
私は商人として、この場に座っている。
商人の理を使って、ここまで来た。
その同じ理で、メルカディンは人を飢えさせていた。
同じ理が、片方では人を救おうとし、片方では人を殺していた。
理そのものには向きがなかった。
向きを決めるのは使う者だ。
メルカディンは、その向きを上へ取った。
それだけだった。
「私どもは」
メルカディンは続けた。
「麦を、買いました。正当な値で。倉に、しまいました。誰も、咎められない、保管です。市に、すこしずつ、出しました。いくつ売るかは、売る者の自由です。値は、市が、決めました。私どもが、吊り上げたのではありません。欲しがる者が、多いから、上がる。それだけです」
ひとつずつ、メルカディンは、私が罪を探したその場所をなぞった。
保管。
取り決め。
市が決めた値。
私が卓の上でたどった、その同じ場所を。
そこに罪はないと、メルカディンは言った。
私が見つけられなかった、その通りに。
その言い方には力みがなかった。
言い訳をする声ではなかった。
咎められて、慌てて繕う声でもない。
当たり前のことを当たり前に教える声だった。
星の本を開いて、星の動きを説くように。
天の星が決まった道を回るように、麦の値も決まった理で動く。
自分はその理を読んでいるだけだ。
そういう声だった。
長い指は、卓の上で静かに組まれたままだった。
私はその指を見ていた。
穴の底で配る量を決めた手も、こんなふうに静かだったのだろうか、と思った。
柵の向こうの見えなかった手。
あの手も、悪びれずに、ただ量を決めていたのか。
多い、少ない、と。
生かす、死なせる、と。
決めることと、殺すことは違う。
メルカディンの顔は、そう言っていた。
決めただけだ、と。
◆ ◇
「では、この者たちは」
私はゆがんだ字の帳面を指した。
「あんたの値で、死んだ」
メルカディンはその帳面を見た。
名と、年と、数を。
子供を二人亡くした女を。
名の知れない、六十ばかりの老人を。
戸板の下の人を。
長い指で、その字をなぞった。
私の太いゆがんだ字を。
そして、メルカディンは言った。
優雅な声で。
読点を、二つ、置いて。
「私は、誰も、殺していない。値段を、決めただけだ」
部屋が静かになった。
その言葉は低く、よく響いた。
声を荒げてはいない。
読点を、二つ、置いた、優雅な言い方だ。
けれど、その優雅さが、かえって私の腹の底を深く抉った。
叫ばれたなら、私も叫び返せた。
脅されたなら構えられた。
けれど、メルカディンは、ただ静かに当たり前のことを述べた。
当たり前のことだから揺るがない。
揺るがないものは突き崩せない。
窓の外で、水路を舟が滑っていく音が、遠く聞こえた。
灯火がゆれて、メルカディンの痩せた頬に影を落とす。
その顔に、悪びれた色はない。
嘘をついている顔でもなかった。
本当にそう思っている顔だ。
自分は誰も殺していない、と。
値段を、決めただけだ。
その言葉が、部屋の中に長く残った。
メルカディンは剣を抜いていない。
毒を盛っていない。
誰の喉も突いていない。
麦を買い、しまい、すこしずつ売った。
値は市が決めた。
決まりは、ひとつも破られていない。
その手はきれいだった。
一度も血を握ったことのない、長い指。
けれど、その手が決めた値で、戸板の下の人は死んだ。
メルカディンはそれを知っていた。
私が突きつけた数を検算して、確かめた。
間違いがないことを。
自分の決めた値で、何人が堰の外へ振り分けられたかを。
知っていてなお、その顔は動かなかった。
「あなたは」
メルカディンは静かに続けた。
「私を、悪人だと、思っているのでしょう。けれど、私は、決まりの外には、一歩も、出ていません。私を、縛る決まりは、どこにも、ありません。麦の値を、決めるなと、いう決まりが、どこに、ありますか。決まりが、ないことを、して、咎められる、いわれは、ありません」
長い指が、卓の上でまた組まれた。
その指は震えていなかった。
私のゆがんだ字の帳面を見ても。
戸板の下の人の名をなぞっても。
震えなかった。
私は何も言えなかった。
反論を探した。
盗賊の頃、襲う前に崩せる一点を探したように。
メルカディンの言葉のどこかに、崩せる一点があるはずだ。
その理を突き崩せるひとことが。
私はそれを探した。
残った左の目でメルカディンを見たまま。
腹の底で怒りが煮えたまま。
けれど、なかった。
メルカディンは嘘をついていなかった。
麦を買う。
倉にしまう。
すこしずつ市に売る。
値は市が決める。
決まりは、ひとつも破られていない。
その通りだった。
私が帳簿を隅から隅まで読んで、崩せる一点を探して、見つけられなかった。
その通りに、メルカディンの言葉にも崩せる一点はなかった。
「あんたの値で、人が、死んだ」
私はもう一度言った。
それしか言えなかった。
「ええ」
メルカディンは頷いた。
否定もしなかった。
「飢えた者は、死にます。麦が、買えなければ。けれど、それは、私が、殺したのではありません。麦が、買えなかったのは、銀が、なかったからです。銀が、なかったのは、私のせいではありません」
私は言葉を失った。
その理が間違っているのは分かった。
腹の底では分かっていた。
麦はある。
倉に、唸るほどある。
なのに、人が死んでいる。
それが間違っていないはずがない。
けれど、その間違いを決まりの言葉で突き崩す方法を、私は知らなかった。
盗賊の頃なら、私は断てた。
明らかな悪をする者を選び、断つ。
獲物の掟だ。
麦を奪い、人を売る者を。
けれど、メルカディンは何も奪っていない。
何も売っていない。
決まりを守っている。
守ったまま、人を飢えさせている。
獲物の掟は、こういう者を選べなかった。
明らかな悪がないからだ。
断つべき悪が目の前にいるのに。
その悪は決まりの内側にいた。
決まりの内側にいる者を、私は断つ理由を持たなかった。
私の掟は、決まりの外の悪を断つための掟だった。
決まりの内側の悪には届かない。
◆ ◇
私は樫の棒を握っていなかった。
膝の上のたったひとつの手は、何も握れずに開いていた。
三本の指と、親指が。
剣の戦いなら、私はこの男に負けない。
樫の棒を握れば、メルカディンの長い指を、その喉を突くことはできた。
けれど、この男をここで突いても、何も終わらない。
メルカディンも駒だった。
メルカディンは、オルセラより深いところにいる。
けれど、麦の値を決める決まりを置いた手ではなかった。
決まりは、メルカディンよりもっと上にあった。
誰がその決まりを置いたのか。
麦の値を決めるなという決まりが、なぜないのか。
誰がそれをないままにしているのか。
その手は見えなかった。
メルカディンを突いても、その手はまた別の駒を置く。
決まりは残る。
決まりが残れば、また別の誰かが麦を握り、値を決め、人を飢えさせる。
私が戦うべきは、メルカディンではなかった。
この決まりそのものだった。
決まりの内側の悪を許している、その仕組みそのものだった。
けれど、それはどこにあるのか。
誰が置いているのか。
私には見えなかった。
掴めなかった。
掴めないものに刃を向けてはならない。
私は立ち上がった。
帳簿の写しを懐にしまった。
私のゆがんだ字の帳面も。
卓の上のメルカディンの長い指は動かなかった。
私を引き止めもしなかった。
送りもしなかった。
ただ座ったまま、私を見ていた。
数を読み終えた商人の目で。
私は頭を下げなかった。
名乗りもしなかった。
ただ背を向けて、扉の方へ歩いた。
背中で、メルカディンの静かな声を聞いた。
「あなたの、その帳面は」
メルカディンは言った。
「よく、できています。けれど、それを、いくら、増やしても、値段は、変わりません」
私は足を止めなかった。
扉を開けて、白い館を出た。
水路に面した磨かれた大理石の床を後ろに。
私は何も言い返せない。
腹の底の怒りは煮えたままだ。
けれど、それをぶつける言葉がなかった。
ぶつける相手もいない。
メルカディンは駒にすぎない。
決まりは見えなかった。
◆ ◇
その夜、私はひとり、館の見える水路の端まで歩いた。
みんなが眠ったあとで。
商館の白い館が、月明かりに遠く白く浮かんでいた。
あの中で、メルカディンは星の本を読んでいるのだろう。
震えない長い指で。
誰もいない水路の端で、私はようやく、それをほどいた。
たったひとつの右手を握った。
三本の指と、親指で。
爪がてのひらに食い込んだ。
商館の白い館に向かって、その拳を突きつけたかった。
叫びたかった。
お前が殺したのだと。
けれど、叫んでも、メルカディンは答えるだろう。
決めただけだ、と。
叫びは、決まりの壁に当たって戻ってくる。
怒りが行き場を失って、私の中で渦を巻いていた。
穴の底の怒りなら、私は知っていた。
配る手に向かう怒りだ。
柵の向こうの手を断ちたいという、まっすぐな怒り。
けれど、いまの怒りは行き先がなかった。
断つべき手が見えない。
怒りがまっすぐに飛んでいける、その先がなかった。
私はひとりでその渦をこらえた。
声を、上げずに。
レンは人前で崩れない。
ひとりの夜でも叫ばない。
叫んでも、麦は動かない。
私は握った拳をゆっくりとほどいた。
てのひらに、爪の半月の跡が残っていた。
怒りは消えなかった。
沈めただけだ。
けれど、沈めるしかなかった。
怒りを見極めに変えなければならなかった。
何と戦うべきか。
けれど、その夜、私にはまだそれが見えなかった。
◆ ◇
路地の戸板の下の人は、明日も増える。
私のゆがんだ字の帳面も、明日また増える。
値段は変わらない。
麦は倉にある。
人は飢えて死ぬ。
決まりは破られない。
誰も殺していない。
ただ、値段が決められて、人が死ぬ。
私はそれを止められなかった。





