新たな修行と、最初の一歩。
「――というわけで、一回だ」
「何が『というわけで』なんですか?」
ついさっきまで百回と言っていたはずなのに、師匠はまるで最初からそう決めていたかのような顔で、人差し指を一本だけ立てていた。
「百回振ればセレナに怒られる」
「はい」
「五十回でも怒られる」
「たぶん」
「十回も怪しい」
「でしょうね」
「なら一回だ」
「急に慎重になりすぎじゃないですか?」
「私は学習する女だからな」
「ついさっきまで百回振らせようとしてた人が言います?」
「過去は振り返らない主義だ」
「数分前ですよ!」
朝の森に、私の声が響いた。
師匠はどこ吹く風で、地面に横たわる黒と赤の大剣を見下ろしている。その口元には、まだ少しだけ笑みが残っていた。
たぶん、楽しいのだ。
私に大剣を渡したことが。
今日という日を楽しみにしすぎて、普段なら絶対に起きないような時間から私を叩き起こしたくらいなのだから、疑う余地はない。
「まあ、冗談はここまでだ」
「どこからですか?」
「百回のところから」
「ほとんど全部じゃないですか」
「細かいことを気にするな」
師匠はそう言って、大剣の柄を軽く叩いた。
「まずは一回。振ってみろ」
「……本当に一回だけですか?」
「なんだ、不満か?」
「逆です。師匠が素直に一回で終わらせてくれるのか疑ってます」
「信用がないな」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「セレナ?」
「師匠です」
即答すると、師匠は小さく笑った。
そして、私の隣へ歩いてくる。
「まあ、振れるかどうかは別としてな」
「え?」
「持つのと振るのは違う」
師匠の視線が大剣へ落ちた。
「さっきは持ち上げただけだろ。今度はそこから構えて、自分の意思で振る。やってみれば分かる」
「…………」
私は改めて、自分の大剣を見た。
黒を基調とした巨大な刀身。その表面を走る深紅の紋様は、朝の木漏れ日を受けて、かすかに光っている。
さっきまで存在すら知らなかったもの。
それが今は、私の剣になった。
そう考えると、少しだけ不思議な気分になる。
「どうした?」
「いえ」
私は首を横に振り、大剣の前に立った。
「やってみます」
「よし」
両手で柄を握る。
重い。
分かっていた。
ついさっき一度持ち上げているのだから、分かっていたはずなのに、改めて握ってみると、やっぱり重い。
これを振れと言われている。
本当に?
「師匠」
「なんだ?」
「やっぱり大きすぎません?」
「格好いいだろ?」
「大きすぎません?」
「格好いいだろ?」
「会話してください」
師匠は楽しそうだった。
私は小さく息を吐き、もう一度大剣へ意識を戻す。
まずは持ち上げる。
さっきもできた。
なら、今度もできるはずだ。
身体の内側へ意識を向ける。
魔力を巡らせる。
腕だけじゃない。足へ、腰へ、背中へ。全身を支えるように、ゆっくりと。
強くしすぎないように。
慎重に。
慎重に。
「…………」
「リリア」
「なんですか?」
「顔が怖いぞ」
「集中してるんです!」
「そうか」
「話しかけないでください」
「はいはい」
絶対に笑っている。
でも、今は無視する。
私は大剣の柄を強く握った。
必要なだけ。
少しだけ。
さっきと同じくらい。
「――ふっ!」
一気に力を込めた。
大剣が地面から離れる。
「……っ!」
持ち上がった。
思ったよりも、軽い。
いや。
違う。
「あ」
軽いんじゃない。
私が――。
「リリア」
師匠の声が聞こえた。
けれど、もう遅かった。
予想以上の勢いで持ち上がった大剣に引っ張られ、身体が後ろへ傾いていく。
「え、ちょっ――」
足が浮いた。
視界がぐらりと傾く。
「きゃっ!」
ぼすん、と。
私は背中から草の上へ倒れた。
「…………」
空が見える。
青い。
雲が流れている。
朝の森は静かで、鳥の声まで聞こえてくる。
とても綺麗だった。
「…………」
「…………」
少し離れたところに、師匠が立っていた。
目が合う。
師匠は黙っていた。
けれど。
「……師匠」
「なんだ?」
「今、笑いました?」
「いや」
「絶対笑いましたよね?」
「笑ってない」
口元が震えている。
「じゃあ、こっち見てください」
「嫌だ」
「笑ってるじゃないですか!」
「ふっ」
「ほら!」
「悪い悪い」
全然悪いと思っていない顔だった。
師匠は肩を揺らしながら、こちらへ歩いてくる。
「でも、まあ」
私の前で足を止めると、師匠は地面に倒れた私を見下ろした。
「悪くない」
「どこがですか」
「持ち上がっただろ?」
「そのまま倒れましたけど」
「最初から全部できたら、私の出番がなくなる」
「師匠、教える気あったんですね」
「あるに決まってるだろ。私は師匠だぞ」
「…………」
「なんだ、その目は」
「いえ、別に」
師匠が片手を差し出す。
私はその手を掴み、身体を起こした。
服についた草を払いながら、もう一度大剣を見る。
「何が駄目だったんでしょう」
「分かってるだろ?」
「……強くしすぎた」
「そうだ」
師匠はあっさり頷いた。
「お前の場合、足りないんじゃない。多すぎるんだ」
その言葉に、私は師匠を見る。
さっきまで笑っていた師匠の顔から、少しだけふざけた色が消えていた。
「十でいいところに百を出す。百でいいところに千を出す。お前の魔法はそういうところがある」
「……でも、加減しようとはしてます」
「知ってる」
返事はすぐだった。
「だから難しいんだろ」
「…………」
「最初からできるなら修行なんていらない」
師匠はそう言って、地面の大剣を指さした。
「例えば、こいつの重さが百だとする」
「はい」
「なら、お前は百一だけ強くなればいい」
「……百一?」
「ああ」
師匠はしゃがみ込み、黒い刀身を指先で軽く叩く。
「百五十も二百もいらない。持つために必要なのが百なら、それをほんの少しだけ上回ればいい」
「そんな細かく調整できるものなんですか?」
「できる」
「師匠は?」
「できる」
即答だった。
「……なんか腹立ちます」
「なんでだよ」
「私ができないこと、全部簡単そうに言うからです」
「簡単とは言ってないぞ」
師匠は立ち上がる。
「私だって最初から全部できたわけじゃない」
「本当ですか?」
「本当だ」
「ちょっと怪しいです」
「お前な」
少し不満そうな顔をする師匠を見て、私はほんの少しだけ笑った。
それから、再び大剣の前へ立つ。
「もう一回やります」
「おう」
柄を握る。
深く息を吸う。
百では足りない。
百五十では強すぎる。
必要なのは、百一。
言葉にすれば簡単だ。
でも。
「――っ!」
力を込める。
大剣は、動かなかった。
「…………」
「弱いな」
「分かってます!」
もう一度。
今度は少しだけ強く。
「っ!」
刀身が地面から浮いた。
そのまま勢いよく持ち上がる。
「あっ」
「強すぎる」
「分かってます!」
慌てて力を抜き、大剣を地面へ戻す。
鈍い音が森に響いた。
「……難しくないですか?」
「だから修行なんだろ」
「師匠、急にそれっぽいこと言いますね」
「私はずっと師匠だぞ」
「…………」
「なんだ、その目は」
「いえ」
もう一度。
弱すぎる。
もう一度。
強すぎる。
少し抑える。
今度は足りない。
足す。
多い。
「…………」
「…………」
「師匠」
「なんだ?」
「百一って、もう少し分かりやすくできません?」
「無理だな」
「即答しないでください」
「じゃあ百・一」
「言い方を変えただけですよね?」
「細かくなったぞ」
「そういう意味じゃありません!」
師匠が笑う。
私はため息をついて、もう一度柄を握った。
それから、何度繰り返しただろう。
最初は数えていた。
五回。
六回。
七回。
けれど、十を超えたあたりでやめた。
持ち上がらない。
勢いがつきすぎる。
腕だけに力が入り、姿勢が崩れる。
足へ意識を向けすぎて、今度は上半身がついてこない。
そのたびに師匠が短く言う。
「強い」
「弱い」
「今のは足だな」
「腰が抜けてる」
「腕だけで持とうとするな」
さっきまでロマンだの格好いいだの言っていた人と同じとは思えないくらい、師匠の指摘は的確だった。
少し悔しい。
いや、師匠なのだから当然なのだけれど。
「…………」
息が上がっている。
額に汗が滲む。
腕も少し重い。
それでも、もう一度。
私は柄を握った。
「リリア」
「まだ、できます」
「そうか」
師匠は止めなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、私を見ていた。
魔力を巡らせる。
足。
腰。
背中。
腕。
全身へ。
強くしすぎない。
でも、弱くもしない。
百一。
必要な分だけ。
「…………っ」
ゆっくりと力を込める。
大剣が動いた。
黒い刀身が、少しずつ地面から離れていく。
跳ね上がらない。
身体も後ろへ持っていかれない。
私は両手で柄を握ったまま、ゆっくりと身体を起こす。
「……っ」
重い。
でも、持てる。
腕は震えている。
足にも力が入っている。
それでも。
立っている。
「……師匠」
「そのまま」
いつもより低い声だった。
私は口を閉じる。
「今の感覚、覚えろ」
「…………はい」
「無理に振ろうとしなくていい」
師匠は私の前に立ち、大剣と私を交互に見る。
「焦るなって。まずはちゃんと持てるようになれ。振るのはその後でいい」
「でも……」
「でも?」
「まだ、一回も振ってません」
「お前、大剣を持ったの今日が初めてだろ?」
「……はい」
「なら今日は十分だ」
「…………」
私は大剣を持ったまま、師匠を見る。
「師匠がそんなまともなことを……」
「お前は私をなんだと思ってるんだ?」
「朝から百回振らせようとした人です」
「……それは忘れろ」
「数時間も経ってませんよ」
「過去は振り返らない主義だ」
「それ、さっきも聞きました」
師匠は笑った。
私も、少しだけ笑った。
その瞬間。
「もう下ろしていいぞ」
「え?」
「そろそろ限界だろ」
「まだ大丈夫です」
「腕、震えてるぞ」
「これは……大剣が重いだけです」
「それを限界って言うんだよ」
「まだ――」
「リリア」
名前を呼ばれた。
声は優しかったけれど、逆らわせる気はなさそうだった。
「今日は終わりだ」
「…………」
「なんだ。不満か?」
「少しだけ」
「珍しいな」
「もう少しで、何か分かりそうな気がして」
そう言うと、師匠は少し黙った。
そして。
「だから終わりだ」
「え?」
「その『もう少し』で無茶するだろ、お前は」
「…………」
何も言い返せなかった。
心当たりがありすぎる。
師匠は満足そうに頷いた。
「よし。反論なしだな」
「ずるくないですか?」
「師匠だからな」
「便利ですね、それ」
「だろ?」
私はゆっくりと大剣を下ろした。
刀身が地面へ触れ、重い音を立てる。
途端に身体から力が抜けた。
「…………」
「どうした?」
「疲れました」
「知ってる」
「腕が重いです」
「知ってる」
「お腹も空きました」
「それは私もだ」
「師匠は何もしてないじゃないですか」
「見てた」
「それだけですよね?」
「応援もしたぞ」
「いつですか?」
「心の中で」
「便利ですね、心の中」
師匠は笑いながら、家の方へ歩き出した。
私はその背中を見てから、もう一度、大剣へ視線を落とす。
まだ振れない。
ちゃんと持てたのだって、一度だけだ。
それでも。
朝、この大剣を初めて見たときよりは、ほんの少しだけ近づけた気がした。
「リリアー」
前から師匠の声が飛んでくる。
「置いてくぞ」
「待ってください!」
「腹減った」
「私もです!」
私は大剣を置いて、慌てて師匠を追いかけた。
――その日の夜。
夕食を終えた私は、いつものように居間のテーブルに教本を広げていた。
師匠の弟子になったからといって、勉強をしなくてよくなったわけではない。
むしろ師匠は、
『魔法を使うなら、自分が何をしてるのかくらいは知っとけ』
と、この辺りだけは意外なほど真面目だった。
ただし、教え方が上手いかどうかは別の話だけれど。
「師匠」
「なんだ?」
向かいの椅子に座った師匠が、気怠そうに頬杖をついたまま返事をする。
私は教本の一節を指さした。
「この術式の説明、昨日と言ってること違いません?」
「そうか?」
「昨日は『こう、ぐっと集めて、すっと流す』って」
「分かりやすいだろ?」
「教本には一言も書いてありません」
「教本が悪いな」
「師匠が悪いです」
「そうか?」
「そうです」
まったく納得していない顔だった。
私はため息をついて、もう一度教本へ視線を戻す。
文字を追う。
一行。
二行。
三行。
「そういえば、リリア」
「はい?」
「明日、学院だぞ」
私の手が止まった。
「…………」
「忘れてたな?」
私はゆっくり顔を上げる。
「師匠は覚えてたんですか?」
「今思い出した」
「同じじゃないですか」
「間に合ったからいいだろ」
「前日の夜ですよ?」
「十分だ」
「何がですか?」
師匠は気にした様子もなく、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「定期技能考査」
「…………」
嫌な言葉を聞いた。
「私もですか?」
「お前以外に誰がいる」
「師匠が受ける可能性も」
「私を誰だと思ってる」
少し考える。
「朝ごはんを作れない人です」
「戦禍の魔姫だ」
「野菜も残します」
「それは今関係ないだろ」
少しだけ師匠が不満そうな顔をした。
私は小さく笑ってから、教本へ視線を戻そうとして。
止まった。
「…………」
嫌な予感がする。
「師匠」
「なんだ?」
「明日、大剣はどうするんですか?」
「持っていけよ」
「やっぱり!」
即答だった。
「無理ですよ!」
「なんでだ?」
「今日もらったばかりですよ!」
「だから?」
「まだまともに振れません!」
「でも持てただろ」
「一回だけです!」
「十分だ」
「十分じゃありません!」
「お前の剣だろ?」
「そうですけど!」
「なら持っていけ」
「絶対目立ちます!」
「格好いいからな」
「そういう意味じゃありません!」
夜の家に、私の声が響いた。
師匠は楽しそうに笑っている。
私はテーブルの上に突っ伏した。
明日は学院。
定期技能考査。
そして私は、今日もらったばかりの大剣を持っていくらしい。
嫌な予感しかしない。
私は顔を上げて、窓の外を見る。
月明かりの下。
そこには、黒と赤の巨大な大剣が静かに佇んでいた。
まだ、一度もまともに振れていない。
ちゃんと持てたのだって、一度だけ。
それなのに。
「……本当に持っていくんですか?」
「もちろん」
「置いていきません?」
「駄目だ」
「即答……」
師匠が笑う。
「諦めろ、リリア」
「…………」
「似合ってるぞ」
「それ、今関係あります?」
「ある」
「ないです」
「あるだろ」
「ないです!」
結局、その夜。
私は勉強よりも、明日どうやってあの大剣を学院まで運ぶのかを考えることになった。
そして答えは。
最後まで、出なかった。




