大剣と、ロマン。
「リリアー」
声が聞こえた。
「…………」
「おーい、リリア」
聞き慣れた声だった。とてもよく知っている声で、毎日聞いているし、時々うるさいくらいに聞いている。
だから、誰なのかはすぐに分かった。
「……んぅ」
「朝だぞー」
「…………」
「起きろー」
私は目を閉じたまま眉を寄せた。
おかしい。何かがおかしい。
いや、声の主がおかしいわけではない。師匠はいつもこんな感じだ。
問題は時間だった。
瞼の向こうに感じる朝の光はまだ淡く、窓の外から聞こえてくる鳥の声もまばらだ。どう考えても、いつも私が起きる時間より早い。
そして何より――この人が起きている。
それが一番おかしい。
「リリアー。早く起きてくれー」
「…………」
「朝ごはんを作ってくれー」
「自分で作ってください……」
「嫌だ」
即答だった。
「リリアの方が美味い」
「…………」
ずるい。
そう言われると、少しだけ嬉しい。いや、嬉しいけれど、でも眠い。ものすごく眠い。
私は布団を頭まで引き上げた。
「あと少し……」
「駄目だ」
「なんでですか……」
「腹が減った」
「いつもはもっと寝てるじゃないですか……」
「今日は早く目が覚めた」
「珍しいですね……」
「ああ」
「…………」
「…………」
「じゃあ、もう少し静かに待っててください」
「嫌だ」
「子供ですか……」
「リリア」
「なんですか……」
「早く朝ごはんを作ってくれー」
「もう!」
私は勢いよく布団を剥いで目を開けた。
そこには、師匠がいた。
私のベッドのすぐ横に、黒に近い深紅の長い髪を無造作に流し、腕を組んで堂々と立っている。
世界最強の八人――オクトマギアの一人。
戦禍の魔姫、ヴァルマギア。
レヴィア・クローデル様。
そんな人が、朝っぱらから弟子のベッドの横で朝ごはんを待っていた。
「……師匠」
「なんだ?」
「近いです」
「そうか?」
「そうです」
「気にするな」
「気にしますよ」
私は寝ぼけた目を擦りながら、師匠を見上げる。
そこで、ふと気づいた。
「…………」
「なんだ?」
「師匠」
「だからなんだ?」
「なんでそんなに嬉しそうなんですか?」
一瞬、本当に一瞬だけ師匠が黙った。
「そう見えるか?」
「見えます」
「気のせいだ」
「…………」
絶対に嘘だ。
妙に機嫌がいい。口元が少し緩んでいるし、いつも以上に目が輝いている。
何より、この人が自分から早起きしている。
怪しい。あまりにも怪しい。
「それより朝ごはんだ」
「話を逸らしましたね?」
「今日は何だ?」
「まだ起きたばかりなのに決まってるわけないじゃないですか」
「卵は?」
「あります」
「パンは?」
「あります」
「肉は?」
「朝から重いですよ」
「そうか」
「残念そうにしないでください」
「野菜は?」
「ありますよ」
「そうか……」
「なんで肉より残念そうなんですか?」
「気のせいだ」
「師匠、野菜嫌いですよね?」
「嫌いではない」
「昨日も残してましたよね?」
「食べたぞ」
「一口だけ」
「一口も食べた」
「言い方で誤魔化さないでください」
師匠は目を逸らした。
私はため息をつく。
やっぱりいつもの師匠だ。でも、何かがおかしい。いつもよりずっと機嫌がいい。
「師匠」
「なんだ?」
「何か隠してません?」
「何も」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、なんで今日はこんなに早起きなんですか?」
「偶然だ」
「…………」
「…………」
「師匠」
「なんだ?」
「今、目を逸らしましたよね?」
「朝ごはんはまだか?」
「話まで逸らしましたよね!?」
「腹が減った」
「もう……」
結局、私は師匠に押し切られる形で、いつもよりずっと早くベッドから出ることになった。
◇
「師匠」
「なんだ?」
「食べづらいです」
「そうか?」
「はい」
「気にするな」
「気にします」
朝食の席でパンを口に運びながら、私は目の前に座る師匠を見た。
いや、正確には、ずっと私を見ている師匠を見返した。
「…………」
「…………」
「師匠」
「なんだ?」
「なんでずっとこっち見てるんですか?」
「別に」
「別にって顔じゃないですよ」
「そうか?」
「そうです」
今日の朝食は、パンと卵、それから簡単な野菜のスープ。いつもと変わらない朝食だ。
ただ一つ、師匠の様子を除けば。
「食べ終わったか?」
「まだです」
「そうか」
「…………」
「…………」
「師匠」
「なんだ?」
「急かさないでください」
「急かしてないぞ」
「ずっと見てます」
「見てるだけだ」
「食べづらいです!」
「気にするな」
「だから気にしますって!」
師匠は何食わぬ顔でパンを食べると、ちらりと窓の外を見た。
一度。
二度。
三度。
「…………」
「なんだ?」
「今日、何かあります?」
「何もない」
「さっきから三回も窓の外を見ましたけど」
「景色が綺麗だからな」
「毎日同じ景色ですよ?」
「今日の森は一味違う」
「どこがですか?」
「……空気とか」
「適当ですよね?」
「そんなことはない」
絶対に何かある。
でも、何だろう。
昨日の再測定だろうか。それなら、もう結果は出ている。
自己作用効率、九十八・七パーセント。
未だに、自分のことだとは思えないような数字だった。
それとも、昨夜の夢?
水面に浮かぶ大きな月。何もなかった場所に突然現れた白いテーブルと二脚の椅子。ティーセット。
そして、向かいに座っていたメイヴ様。
『レヴィアがね』
『あんなに楽しそうなの』
『久しぶりだから』
「…………」
「リリア」
「え?」
「どうした?」
「いえ」
私は慌ててスープを口に運んだ。
「今、ぼうっとしてただろ」
「してません」
「してた」
「してません」
「怪しいな」
「師匠ほどじゃありません」
「どういう意味だ?」
「そのままです」
師匠が少しだけ不満そうな顔をした。
その顔を見ながら、ふと昨夜のメイヴ様の言葉を思い出す。
師匠が楽しそう。
私と一緒にいるから?
「…………」
「今度はなんだ?」
「何でもありません!」
「なんで急に声が大きくなった?」
「気にしないでください!」
「怪しい」
「師匠にだけは言われたくありません!」
師匠は首を傾げた。私は誤魔化すようにパンを食べる。
そんな私を見ていた師匠が、ふと口を開いた。
「そういえば」
「はい?」
「昨日の測定のことだが」
私は手を止める。
「九十八・七パーセント」
「……はい」
「改めて考えても、馬鹿みたいな数字だな」
「もう少し言い方ありません?」
「凄まじい数字だ」
「急に言い直しましたね」
「不満か?」
「いえ」
師匠は頬杖をついて私を見る。
さっきまでとは違う、少しだけ真剣な目だった。
「セレナも言っていたが、勘違いはするなよ」
「はい」
「お前の魔法は強い」
「……はい」
「だが、お前自身が強いわけじゃない」
その言葉が、胸に少しだけ刺さる。
けれど。
「今はな」
師匠はすぐに続けた。
「……今は?」
「ああ」
師匠が笑う。
「これから強くなればいい」
「…………」
「そのための師匠だろ」
何でもないことのように、さらっと言う。
この人は本当に、時々こういうことをする。
「何だ?」
「いえ」
「また何か考えたな」
「何も」
「怪しい」
「師匠ほどじゃありません」
「またそれか」
「だって今日は本当に怪しいですから」
「そうか?」
「そうです」
師匠は少し考え、にやりと笑った。
「なら、そろそろ教えてやる」
「……え?」
「食べ終わったか?」
「はい」
「よし」
師匠が勢いよく立ち上がる。
早い。あまりにも。
「師匠?」
「行くぞ」
「どこに?」
「裏の広場だ」
「何をするんですか?」
「新しい修行だ」
「新しい?」
「ああ」
師匠の口元がさらに上がる。
「お前に渡すものがある」
やっぱり、何かあった。
◇
家の裏手には、森に囲まれた開けた広場がある。普段から私たちが修行に使っている場所だ。
朝の光が木々の隙間から差し込み、草の上に残った露を輝かせている。風が吹くたび、木の葉がさわさわと心地よい音を立てた。
その中を、師匠はいつもより少しだけ速い足取りで歩いていく。
「…………」
「なんだ?」
「いえ」
「何か言いたそうだな」
「師匠」
「なんだ?」
「楽しみにしてました?」
「何をだ?」
「今日」
師匠が黙った。
「やっぱり」
「何がだ?」
「朝も早起きしてたし」
「偶然だ」
「ずっと窓の外見てたし」
「景色だ」
「朝ごはんも急かしてたし」
「腹が減ってた」
「今も歩くの速いですよ」
「健康的だろ」
「全部言い訳じゃないですか!」
「細かいことを気にするな」
「絶対楽しみにしてたんですよね?」
「…………」
「師匠?」
「リリア」
「はい?」
「お前は少し喋りすぎだ」
「誤魔化しましたね!?」
師匠は答えない。
でも、少しだけ耳が赤く見えたのは気のせいだろうか。
「ほら」
師匠が言う。
「着いたぞ」
広場の中央には何もない。少なくとも、私にはそう見えた。
「……何もありませんけど?」
「焦るな」
「朝からずっと急かしてた人が言います?」
「私は急かしてない」
「…………」
「なんだ、その目は」
「いえ」
師匠は広場の中央まで歩くと、私を振り返った。
「リリア」
「はい」
「昨日の話を覚えているか?」
「どの話です?」
「お前の身体の話だ」
師匠の表情が少しだけ真剣になる。
「お前の自己作用効率は九十八・七パーセント。馬鹿みたいに高い」
「だから言い方」
「凄まじく高い」
「はい」
「一の魔力を使えば、そのほとんどがそのままお前自身への効果になる。普通なら途中で失われる魔力まで、ほぼ全部だ」
「はい」
「つまり、お前の身体強化は恐ろしく効率がいい」
「……でも」
「ああ」
師匠が頷く。
「身体が追いついていない」
私は自分の手を見た。
以前、限界を超えて身体強化を使い、腕を傷つけた。グレイファングと戦ったときも怪我をした。
魔法は使える。
以前より、ずっと。
でも、その力を受け止める身体がない。
「だから鍛える」
師匠が言った。
「筋力、体力、持久力。それから、魔力の制御」
「はい」
「強い魔法を使うだけじゃ駄目だ。お前はむしろ、どれだけ少ない魔力で、必要なだけ身体を強化できるかを覚えなきゃならない」
「必要なだけ……」
「ああ。常に全力なんて馬鹿のすることだ」
「師匠、全力好きそうですけど」
「好きだぞ」
「…………」
「だが、それとこれとは別だ」
「便利ですね、その言葉」
「だろう?」
「褒めてません」
師匠は気にした様子もなく腕を組んだ。
「とにかくだ。お前には、身体そのものを鍛えながら、同時に魔力の制御も覚えられるものが必要だ」
「そんな都合のいいものがあるんですか?」
「ああ。まず――筋力を鍛えるなら、ある程度の重さが必要だ」
「それは、まあ……そうですね」
「軽すぎるものを振り回しても、お前の場合は身体強化に頼って終わるだけだからな。素の身体では簡単に扱えないくらいがちょうどいい」
「……嫌な予感がしてきました」
「まだ早い」
「まだ?」
師匠は一本指を立てた。
「次に、体力。持っているだけで身体に負荷がかかるものがいい」
「それ、すごく疲れません?」
「だから体力がつくんだろ」
「そうですけど……」
「それに、歩く。構える。振る。全部に負荷がかかれば、全身を鍛えられる」
言っていることは分かる。
分かるけれど、どうしてだろう。話を聞けば聞くほど、嫌な予感が強くなっていく。
「そして、一番重要なのが魔力制御だ」
師匠は二本目の指を立てた。
「身体強化を使わなければ、まともに扱えないものがいい」
「…………」
「強化しすぎれば無駄に魔力を使う。弱すぎれば持ち上がらない」
「つまり……」
「ああ」
師匠が頷く。
「必要最低限の魔力を身体に巡らせる。その感覚を身につけるんだ」
「なるほど……」
そこは確かに理にかなっている。
私の自己作用効率は九十八・七パーセント。普通の魔法使いなら失われるはずの魔力まで、ほとんどそのまま自分自身への効果になってしまう。
だからこそ、私は強くしすぎる。
必要以上に、自分でも気づかないうちに。
「お前の場合、身体強化の出力を上げることは難しくない。むしろ逆だ。必要な分だけ使う方が難しい」
「……はい」
「なら、分かりやすい基準があった方がいい」
「基準?」
「ああ」
師匠が笑う。
「持ち上がらなければ、足りない」
「はい」
「持ち上げた瞬間に空まで飛んでいったら、強化しすぎだ」
「そんなに!?」
「例えばの話だ」
「極端すぎません?」
「分かりやすいだろ」
「まあ……分かりやすいですけど」
「ちょうど持ち上げられる。それを維持できる。歩ける。構えられる。振れる。そうやって少しずつ必要な強化の量を覚えていく」
なるほど。
今度は本当に納得した。ただ身体を鍛えるだけではなく、重さそのものを魔力制御の基準にする。
「さらに」
「まだあるんですか?」
「当然だ」
師匠は三本目の指を立てた。
「お前の馬鹿みたいな自己作用効率にも耐えられるくらい頑丈でなければならない」
「また馬鹿みたいって言いました?」
「凄まじい自己作用効率にも耐えられるくらい頑丈でなければならない」
「言い直しましたね」
「細かいことを気にするな」
「師匠が言ったんですよ」
「とにかく、すぐ壊れるものじゃ意味がない。お前がこれから成長して、もっと強い身体強化を使えるようになっても耐えられるものが必要だ」
「はい」
「重い」
「はい」
「持っているだけで身体を鍛えられる」
「はい」
「身体強化を使わなければ、まともに扱えない」
「はい」
「魔力を流しても壊れないくらい頑丈だ」
「はい」
師匠はそこで一度、言葉を切った。
ここまでならちゃんとしている。驚くほど、すごくちゃんとした修行の話だった。
なのに。
師匠の口元が、にやりと上がった。
「そして最後に」
「……まだあるんですか?」
「ああ」
嫌な予感がした。
「これが一番重要だ」
「一番……?」
師匠は大真面目な顔で言った。
「最高に格好いいことだ」
「…………」
「…………」
「最後の、本当に必要ですか?」
「最重要だ」
「今までの話が全部台無しになった気がするんですけど」
「馬鹿を言うな。実用性だけで修行ができるか」
「できますよ!」
「できん」
「できます!」
「少なくとも私は嫌だ」
「師匠の好みじゃないですか!」
「当然だろ」
「認めるんですね!?」
師匠は腕を組み、妙に誇らしげに胸を張った。
「つまりだ。重くて、持っているだけで体力が鍛えられて、身体強化の制御にも使えて、馬鹿みたいに頑丈で――」
「凄まじく頑丈で」
「……細かいな、お前」
「師匠がさっき言い直したんですよ」
「まあいい。そして何より、最高に格好いい」
「最後だけ完全に師匠の趣味ですよね?」
「そんな条件をすべて満たすものが、一つだけある」
「……一つだけ?」
「ああ」
師匠の口元が楽しそうに上がった。
それを見た瞬間、私は思った。
あ。この顔。
絶対にろくなことを考えてない。
「安心しろ。完璧な答えを用意してある」
「その顔を見ると全然安心できません」
「見れば分かる」
そう言って、師匠は一歩前へ出た。さらにもう一歩進み、私に背を向ける。
朝の風が吹き、黒に近い深紅の長い髪がふわりと揺れた。
師匠は動かない。
私も黙って待つ。
けれど、まだ動かない。
「……師匠?」
「静かに」
「はい?」
「今、大事なところだ」
「何のですか?」
「演出の」
「演出?」
何を言っているんだろう、この人は。
師匠は私に背を向けたまま、ゆっくりと右手を持ち上げた。やたらとゆっくりだった。本当に、ものすごくゆっくりだった。
絶対にわざとだ。
そして。
パチン。
指を鳴らした。
その瞬間だった。
――空が、赤く染まった。
「え……?」
思わず空を見上げる。
私たちの頭上。何もなかったはずの青空に深紅の光が走っていく。一本、また一本と複雑な紋様を描きながら空を駆け、やがて巨大な円を描いた。
魔法陣。
その内側に、さらに一つ。
そして、もう一つ。
三重に重なった巨大な魔法陣が、空を覆う。
私は言葉を失った。
見たこともない文字と、複雑に絡み合う紋様。三つの円環は互いに異なる方向へゆっくりと回転し、その深紅の光が森を、木々を、草を、そして師匠の背中を照らしていた。
黒に近い深紅の髪が赤い光を浴び、まるで炎の中に立っているように揺れている。
「師匠……?」
「よく見てろ、リリア」
師匠が低く、静かに言った。
普段とは違う声で。
その直後。
バチッ。
魔法陣の中心で黒い雷が弾けた。
「っ!」
バチッ、バチバチッ――!
黒と赤、二つの光が空で入り乱れる。
「ちょ、師匠!? 何が始まるんですか!?」
師匠は答えない。
ただ、こちらに背を向けたまま、少しだけ横顔を覗かせた。
笑ってる。
絶対に楽しんでる。
次の瞬間、魔法陣の中心から何かがゆっくりと姿を現した。
「……え?」
最初に見えたのは、夜よりも濃いような深い黒。その表面を、燃えるような深紅の光が走っている。
巨大な何かが、少しずつ魔法陣の中から姿を現していく。
切っ先。
幅広の刀身。
黒鉄の鍔。
長い柄。
剣だった。
巨大な、あまりにも巨大な一振りの大剣。
それが切っ先を地上へ向けたまま、空に浮かんでいる。
大きい。
私の身長に迫るほどの長さを持つ、幅広の両刃。刀身は深い黒を基調としていて、その中央にはまるで亀裂のような深紅の紋様が走っている。
無骨で、重厚。
なのに、不思議なくらい美しかった。
派手なのに下品ではない。強そうで、少し怖くて、それでも――
「……格好いい」
思わず口から出た。
その瞬間、師匠の口元がさらに上がった。
「だろ?」
「…………」
しまった。
聞かれた。
「よく見てろ」
師匠はそう言って、ゆっくりと右手を下ろした。
「――来い」
次の瞬間。
大剣が落ちた。
――ドォンッ!!
「きゃっ!?」
轟音とともに大地が揺れ、衝撃が足元を走った。
土煙が一気に舞い上がり、風圧に髪を煽られた私は、思わず腕で顔を覆う。
「ちょっ、師匠! 何してるんですか!?」
返事はない。
「師匠!?」
やがて風が吹き、舞い上がっていた土煙が少しずつ晴れていく。
そして、その向こうに一振りの大剣があった。
地面に深々と突き刺さった、黒と赤の巨大な大剣。朝日を浴びた黒い刀身の中央では、深紅の紋様がまるで鼓動するように淡く明滅している。
私はしばらく大剣を見つめたあと、ゆっくりと師匠へ視線を移した。
師匠は腕を組み、堂々と、ものすごく満足そうな顔で立っている。
「どうだ?」
「……師匠」
「なんだ?」
「普通に出せなかったんですか?」
「出せるぞ」
「じゃあなんで!?」
即答だった。
師匠は、何を当たり前のことを聞いているんだ、とでも言いたげな顔で私を見る。
「格好いいだろ?」
「地面に穴開いてますよ!」
「演出だ」
「自分の家の庭ですよね!?」
「細かいことを気にするな」
「気にしてください!」
「だが格好よかっただろ?」
「それは……」
「…………」
「…………」
「それは?」
師匠が、ものすごく期待した目でこちらを見る。
「……格好よかったですけど」
「だろ!」
「嬉しそうですね!?」
「当然だ!」
師匠は今日一番の笑顔だった。
私はそんな師匠を見つめながら、今朝からのことを思い返す。
朝早くから私を起こして、朝ごはんを急かし、食事中もずっとそわそわしていた。何度も窓の外を見ていたし、ここまで来る足取りも妙に速かった。
そして今、ものすごく満足そうに笑っている。
「…………」
「なんだ?」
「師匠」
「なんだ?」
「もしかして、朝からずっとこれやりたくてそわそわしてたんですか?」
「…………」
師匠が黙った。
「…………」
「師匠?」
「リリア」
「はい」
「次の話をしよう」
「図星なんですね!?」
「何のことだ?」
「絶対そうじゃないですか!」
「証拠はあるのか?」
「今日の師匠全部が証拠ですよ!」
「知らんな」
「目を逸らさないでください!」
師匠は露骨に私から目を逸らした。
どうやら本当に、これをやりたくて仕方なかったらしい。
「……子供ですか」
「何か言ったか?」
「何も言ってません」
「そうか」
「はい」
私はもう一度、大剣を見る。
黒と赤を基調とした、堂々として、派手で、強そうで、少し怖い大剣。
「……なんだか」
「なんだ?」
「師匠みたいですね」
「どこがだ?」
「黒くて、赤くて」
「ああ」
「派手で」
「うむ」
「強そうで」
「当然だな」
「ちょっと怖いところとか」
「最後のはいらん」
「でも」
私は大剣を見上げた。
「格好いいです」
師匠が少しだけ黙った。
「そうか」
「はい」
「ならいい」
その言い方が、何となくいつもより嬉しそうに聞こえた。
私はもう一度大剣を見上げ、そこでようやく一番大事なことに気づいた。
「……師匠」
「なんだ?」
「これ、何ですか?」
「見て分からんか?」
「大剣です」
「分かってるじゃないか」
「そういうことを聞いてるんじゃありません!」
思わず声が大きくなった。
師匠が心外そうに眉を上げる。
「じゃあ何だ?」
「なんで大剣なんですか!?」
師匠が黙った。
その表情から笑みが消え、急にものすごく真剣な顔になる。
「リリア」
「はい」
「お前は、魔法使いだ」
「……はい」
「魔法使いといえば?」
「杖……ですか?」
「そうだな」
「はい」
「普通はな」
嫌な予感がした。
ものすごく。
「だが、考えてみろ」
師匠は地面に突き刺さった大剣の柄へ片手を置いた。
「小柄な女の子が、自分の身体より馬鹿でかい大剣を背負っている」
「……はい」
「普段はどう考えても扱えそうにない。細い腕で、そんなもの振れるわけがないって、誰もが思う」
「はい……?」
「だが、戦いになった瞬間」
師匠の口元がゆっくりと上がる。
「身体強化を纏って――そいつを軽々と振り回す」
「…………」
「敵を薙ぎ倒す」
「…………」
「地面を叩き割る」
「最後のはいります?」
「いる」
「いりませんよ」
「いるんだよ」
「なんでそこだけは譲らないんですか?」
「重要だからだ」
「何が?」
「地面を割るのは格好いい」
「…………」
ものすごく真剣だった。
怖いくらいに。
「そして最後には、その馬鹿でかい大剣を肩に担いで堂々と立つ」
「…………」
「どうだ?」
「何がですか?」
「分からないか?」
「分かりません」
「本当に?」
「はい」
「まったく?」
「はい」
師匠は、信じられないものを見るような目で私を見た。
「リリア」
「なんですか?」
「私はお前の教育を間違えたかもしれん」
「まだ弟子になってそんなに経ってませんよ!」
「なら間に合うな」
「何を教えるつもりですか!?」
「ロマンだ」
「魔法を教えてください!」
「魔法とロマンは別腹だ」
「意味が分かりません!」
師匠は腕を組み、大剣を背に堂々と胸を張る。
世界最強の八人――オクトマギアの一人。数多の魔法使いから畏怖される、戦禍の魔姫。
その人が、まるで世界の真理でも語るような顔で言った。
「――女の子に大剣はロマンだろ!」
「知りませんよ!」
「なんでだ!?」
「なんで私が怒られるんですか!?」
「見ろ、この大剣を!」
「ずっと見てます!」
「格好いいだろ!」
「それはまあ、格好いいですけど!」
「ほら見ろ!」
「何がですか!?」
「分かってるじゃないか!」
「大剣が格好いいのと、私が持つのは別問題です!」
「同じだ」
「違います!」
「同じだ!」
「なんでそんなに必死なんですか!?」
「ロマンだからだ!」
「知らないですよ!」
森の中に私たちの声が響き、驚いた鳥が何羽か木々の間から飛び立っていく。
「……鳥、逃げましたよ」
「ロマンを理解しない鳥だな」
「鳥にまで求めないでください」
師匠はどこか不満そうに空を見上げていた。
私はそんな師匠に呆れながら、もう一度、黒と赤の大剣を見る。
確かに格好いい。
それは認める。
少しだけ。本当に、少しだけだけど。
ただ、それを師匠に言えば絶対に調子に乗る。
だから今は黙っておこう。
そう思った。
◇
「まあ、ロマンだけじゃない」
「……今までの熱弁は何だったんですか?」
「ロマンだ」
「でしょうね」
師匠は大剣の柄を軽く叩いた。
「だが、お前にこれを選んだ理由はちゃんとある」
さっきまでとは少し違う声だった。
私は黙って続きを待つ。
「さっきも言った通り、お前の身体強化は強すぎる。だからこそ、普通の武器じゃ軽すぎる。身体を強化したときと、していないとき。その差を感覚で覚えるには、ある程度の重さが必要だ」
「…………」
「この大剣なら、素の状態では簡単には扱えない。だが、最低限の身体強化を使えば持てる」
「つまり……」
「ああ」
師匠が頷く。
「どれだけ少ない魔力で、必要なだけ身体を強化できるか。その制御を覚えるのにちょうどいい」
私は大剣を見る。
さっきまで完全に師匠の趣味だと思っていた。
いや、たぶん趣味ではある。
かなり。
「それに、振るだけでも筋力がつく。持って動けば体力もつく。姿勢も鍛えられる」
「……ちゃんと考えてたんですね」
「当たり前だろ」
「てっきり九割くらいロマンかと」
「失礼な」
「じゃあ何割です?」
「…………」
「師匠?」
「…………」
「何割ですか?」
師匠が目を逸らした。
「七割」
「ほとんどロマンじゃないですか!」
「三割も実用性があるぞ!」
「少ないですよ!」
「十分だろ!」
「十分じゃありません!」
やっぱりこの人は、この人だった。
◇
「で」
私は大剣の周りをゆっくり歩きながら、改めて観察した。
近くで見ると、より分かる。
ただの剣ではない。
刀身の黒は単純な鉄の色ではなく、光を吸い込むような深い黒。その中を走る深紅の紋様は、まるで何かが眠っているように微かな光を宿している。
「これ、普通の大剣じゃないですよね?」
「ああ」
「ですよね」
「お前用だ」
「……私用?」
「ああ」
師匠がさらっと言った。
「お前のために作らせた」
「…………」
私は大剣を見て、それから師匠を見る。
「作らせた?」
「ああ」
「誰に?」
「イヴ」
一瞬、名前だけでは分からなかった。
けれど、すぐに気づく。
「イヴ……って」
「ああ」
「それって、創成の魔姫、イヴ・ローゼン様ですか!?」
「そうだ」
「…………」
私はもう一度、大剣を見た。
「オクトマギアの?」
「他に誰がいる」
「いや、そうですけど!」
思わず声が大きくなる。
「どうして私の大剣を作るのにオクトマギアが出てくるんですか!?」
「いい剣が欲しかったからだ」
「理由が単純すぎます!」
「だが事実だ」
「イヴ様って、創造魔法と錬金術、それに魔導具開発の頂点にいる方ですよね!?」
「ああ」
「そんな人に、私の大剣を作ってもらったんですか!?」
「ああ」
「……師匠」
「なんだ?」
「もしかして、すごく迷惑をかけたんじゃ」
「失礼な」
「本当に?」
「ちゃんと頼んだ」
「本当に?」
「…………」
「師匠?」
「細かいことを気にするな」
「絶対何かしたじゃないですか!」
「結果的に作ってくれたんだからいいだろ」
「よくない気がします!」
「イヴも途中から楽しんでたぞ」
「途中から?」
「ああ」
「最初は?」
「帰れと言われた」
「やっぱり!」
頭が痛くなってきた。
「でも」
私は大剣を見る。
「素材も……特別なんですか?」
「ああ」
「どこで?」
「クロエに聞いた」
「クロエ?」
一瞬考えて、すぐに気づく。
「――って、それ、空界の魔姫のクロエ・フェルン様ですか!?」
「ああ」
「オクトマギアを二人も巻き込んだんですか!?」
「巻き込んだとは人聞きが悪いな」
「じゃあ?」
「協力してもらった」
「本当に?」
「…………」
「師匠?」
「細かいことを気にするな」
「二回目ですよ!」
師匠は悪びれもしない。
「クロエは世界中を飛び回ってるからな。珍しい素材にも詳しい」
「それで相談したんですか?」
「ああ。馬鹿みたいに頑丈で、馬鹿みたいに重くて、魔力を流しても壊れない素材はないかって」
「言い方が馬鹿っぽいです」
「分かりやすいだろ」
「もっと他にあったと思います」
「伝わったんだからいい」
師匠らしい。あまりにも。
「それで、クロエ様が素材を?」
「ああ。心当たりを教えてくれた」
「それをイヴ様に?」
「ああ」
私はまた大剣を見る。
黒い刀身。深紅の紋様。
さっきまで、ただ格好いいと思っていた。師匠の趣味が爆発したものだと思っていた。
でも違う。
いや、趣味が爆発しているのは間違いない。
それでも、それだけじゃない。
世界中を飛び回るクロエ様に相談して素材を探し、それをイヴ様のところへ持っていって、私専用の大剣に仕上げてもらった。
「…………」
「どうした?」
「いえ」
「さっきから大人しいな」
「……ちょっと」
何と言えばいいんだろう。
分からない。
「思ってたより」
「なんだ?」
「ちゃんとしてるなって」
「お前は私を何だと思ってる?」
「女の子に大剣を持たせたい人です」
「よく分かってるじゃないか」
「否定してくださいよ」
「なぜだ?」
駄目だ。この人には。
でも、私は少しだけ笑った。
◇
「それだけじゃないぞ」
師匠が言った。
「え?」
「その剣」
師匠が黒い刀身へ触れる。
その瞬間。
――ドクン。
「……え?」
深紅の紋様が光った。
まるで眠っていた何かが目を覚ましたように、暗い赤色の光が黒い刀身を走っていく。
強くはない。
眩しくもない。
ただ、熾火のように静かに赤く輝いている。
知っている。
この魔力を。
毎日、近くで感じている。
「師匠……?」
「ああ」
「これ、師匠の魔力……ですよね?」
「ああ」
師匠は何でもないことのように頷いた。
「少しだけな」
「どうして?」
「イヴが入れろって言った」
「イヴ様が?」
「ああ。この剣は、お前の魔力を受け入れるように作られている。ただ、お前はまだ制御が下手だ」
「……否定できません」
「だから、剣の中核を安定させるための基準が必要だった」
「それが……」
「ああ」
師匠が大剣の柄に手を置く。
「私の魔力だ」
「…………」
黒い刀身の中で、赤い光がゆっくりと脈打っている。
師匠の魔力。
この人の。
「まあ、普段は何もしない」
「そうなんですか?」
「ああ。お前の剣だからな」
師匠が言う。
「振るうのはお前だ。戦うのもお前。強くなるのもお前だ」
「…………」
「私の魔力は、あくまで剣を安定させるためにある。だから勘違いするなよ」
「何をです?」
「この剣が、お前を勝手に強くしてくれるわけじゃない」
「分かってます」
「ならいい」
師匠はそれだけ言った。
私は大剣を見る。
黒と赤。
師匠みたいだと思った。
でも本当に、この剣の中には師匠の魔力がある。
不思議だった。
何だか、少しだけ安心する。
「何だ?」
「いえ」
「また何か考えてるな」
「何も」
「嘘だ」
私は少し迷ってから聞いた。
「師匠」
「なんだ?」
「これ、いつから準備してたんですか?」
師匠が少しだけ黙った。
「少し前だ」
「少し前って?」
「お前が来てからだ」
「…………」
「お前の魔法を見て、いずれ必要になると思った」
「でも」
「なんだ?」
「昨日ですよね。私の自己作用効率が九十八・七パーセントだって分かったの」
「ああ」
「それより前から?」
「そうだ」
私は言葉を失った。
数字が出る前から。
私の才能が、まだはっきりと証明される前から。
師匠は考えてくれていた。
「お前は自分を過小評価しすぎだ」
「……え?」
「数字なんか出なくても分かる」
師匠が私を見る。
「私は、お前の師匠だからな」
「…………」
ずるい。
本当に、この人は時々こういうことを言う。
何でもない顔で。
私は大剣を見る。
黒い刀身。深紅の光。
クロエ様が素材を探して、イヴ様が形にして、師匠が自分の魔力を込めた。
私のために。
「……師匠」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
師匠が少しだけ目を瞬いた。
「急にどうした」
「お礼です」
「聞けば分かる」
「なら聞かないでください」
「いや。お前が素直だから気持ち悪くてな」
「返してください」
「まだ渡してないぞ」
「じゃあいりません」
「嘘つけ」
師匠が笑った。
私も少しだけ笑う。
「ほら」
師匠が言う。
「持ってみろ」
「……はい」
私は大剣の前に立った。
近くで見ると、やっぱり大きい。
「本当に持てるんですよね?」
「持てる」
「絶対?」
「たぶん」
「師匠!」
「冗談だ」
「今のタイミングでやめてください!」
「大丈夫だ。潰れそうになったら助ける」
「潰れる可能性があるんですか!?」
「ない」
「本当に?」
「たぶん」
「もう!」
師匠が笑う。
私はため息をついて、柄へ手を伸ばした。
握る。
その瞬間、分かった。
重い。
まだ持ち上げてもいないのに、それだけははっきりと分かる。
「……師匠」
「なんだ?」
「重いです」
「大剣だからな」
「まだ持ち上げてません」
「頑張れ」
「軽い!」
「剣は重いぞ」
「言葉がです!」
「うまいこと言うな」
「褒めないでください!」
私は両手で柄を握り、足に力を入れた。
「ふっ……!」
持ち上げる。
いや。
持ち上がらない。
「…………」
「…………」
「師匠」
「なんだ?」
「動きません」
「そうだな」
「不良品では?」
「お前の筋力不足だ」
「言い方!」
「事実だ」
「もう少し優しくしてください!」
「頑張れ、リリア。お前ならできる」
「急に優しくされても腹立ちます!」
「難しい弟子だな」
「誰のせいですか!」
私は息を吐き、身体の中にある魔力を感じる。
少しだけ。
本当に、少しだけ。
足、腰、腕へと魔力を巡らせる。
「そうだ」
師匠の声が聞こえた。
「上げすぎるな」
「はい」
「一気に強化するな。必要な分だけだ」
「はい」
「剣の重さを感じろ」
重い。
とても。
でも少しずつ、身体がその重さに耐え始める。
「……っ」
力を込める。
大剣が地面から離れた。
「……持てた」
「ああ」
師匠の声が少しだけ嬉しそうだった。
「持てたな」
「はい……!」
重い。
腕が震える。
それでも、持っている。
私が、この大剣を。
「どうだ?」
「重いです」
「他には?」
「重いです」
「他には?」
「すごく重いです」
「…………」
「…………」
「格好いいだろ?」
「そこですか!?」
「大事だ」
「今、腕が震えてるんですよ!」
「だが持ててる」
「それは……」
「リリア」
師匠が私を見る。
「似合ってるぞ」
「…………」
不意打ちだった。
「……本当ですか?」
「ああ」
「師匠の趣味じゃなくて?」
「それもある」
「やっぱり」
「だが、本当に似合ってる」
私は大剣を見る。
黒い刀身と赤い紋様。その表面に、自分の姿が微かに映っている。
まだ全然、様になっていない。
腕は震えているし、姿勢も怪しい。今にも落としそうだ。
でも。
「……いつか」
「ん?」
「師匠が言ってたみたいに、これを軽々と振り回せるようになったら」
「ああ」
「格好いいですかね」
「当然だ」
即答だった。
「地面も割れるぞ」
「それはいりません」
「いる」
「いりません」
「いるんだよ」
「なんでそこだけは譲らないんですか」
「ロマンだからだ」
また、それ。
私は少しだけ笑った。
「……じゃあ、頑張ってみます」
「ああ」
「師匠のロマンのために」
「お前自身のためにも頑張れ」
「七割ロマンなんですよね?」
「三割はお前のためだ」
「少ない!」
「冗談だ」
「本当に?」
「…………」
「師匠?」
「細かいことを気にするな」
「もう三回目です!」
師匠が笑う。
私も笑った。
◇
しばらくして、私は大剣を地面へ下ろした。
「はぁ……」
「疲れたか?」
「疲れました」
「まだ持っただけだぞ」
「誰のせいですか」
「大剣のせいだな」
「選んだ人が目の前にいます」
「格好いいだろ?」
「それで全部許されると思わないでください」
「駄目か?」
「駄目です」
「厳しいな」
私は息を整えながら大剣を見る。
やっぱり格好いい。
悔しいけれど。
「師匠」
「なんだ?」
「これ、本当に私がもらっていいんですか?」
「何を今さら」
「だって」
クロエ様。
イヴ様。
師匠。
オクトマギアが三人も関わった剣。
そんなものを、私が。
「高そうです」
「そこか?」
「大事ですよ」
「値段なんて知らん」
「知らないんですか!?」
「売る気がないからな」
師匠が当たり前のように言った。
「お前のために作ったんだ。他の誰かが持つことはない」
「…………」
「だから」
師匠が私を見る。
「お前のだ」
胸の奥が温かくなる。
私はもう一度、大剣の柄へ触れた。
微かに赤い紋様が光る。
師匠の魔力。
「……大切にします」
「ああ」
「ずっと」
師匠がほんの少しだけ黙った。
「……そうか」
小さく笑う。
いつもの自信満々な笑い方じゃない。豪快でもない。
ほんの少しだけ嬉しそうな、そんな笑顔だった。
私はもう一度、大剣を見る。
私の剣。
黒と赤の、大きすぎる剣。
師匠のロマンから始まって、クロエ様が素材を見つけ、イヴ様が形にして、その奥には師匠の魔力が眠っている。
いつか、この剣を本当に軽々と振り回せるようになるだろうか。
いつか、師匠の隣で胸を張って立てるようになるだろうか。
まだ分からない。
でも今は、少しだけそうなりたいと思った。
「よし」
師匠が言った。
「じゃあ、とりあえず百回振ってみるか」
「…………」
「…………」
私はゆっくりと師匠を見る。
「どうした?」
「師匠」
「なんだ?」
「昨日、セレナ様になんて言われたか覚えてます?」
「…………」
師匠が目を逸らした。
「覚えてますよね?」
「…………」
「師匠?」
「五十回にするか」
「そういう問題じゃありません!」
「なら三十」
「減らせばいいって話じゃないです!」
「十」
「急に弱気になりましたね!?」
「セレナに知られたら面倒だからな」
「私の身体を心配してくださいよ!」
「してるぞ?」
「今の流れで信じられると思います!?」
「心外だな」
「さっき百回って言った人が何言ってるんですか!」
師匠は少しだけ考え、ものすごく真剣な顔をした。
「……じゃあ今日は一回にするか」
「極端すぎます!」
「駄目か?」
「駄目というか!」
「なら二回」
「そういう問題じゃありません!」
「難しいな」
「師匠が適当すぎるんです!」
「じゃあ、セレナに聞くか?」
「絶対怒られますよ」
「…………」
「…………」
「やめておこう」
「即答ですね」
「命は惜しい」
「オクトマギア最強格ですよね!?」
「セレナの説教は別だ」
「そんなに?」
「ああ」
「…………」
「特に正論だからな」
「じゃあ従ってくださいよ!」
森の中に、また私の声が響いた。
鳥が飛び立つ。
師匠が笑う。
私も呆れながら、少しだけ笑った。
そして傍らには、黒と赤の大剣。
私にはまだ大きすぎて、重すぎて、まともに振ることさえできない。
でも、いつか。
本当にこの剣を軽々と振り回せるようになったら、そのときは少しくらい、師匠の言うことを認めてもいいかもしれない。
女の子に大剣はロマンだって。
ほんの少しくらいなら。
そう思ったことは、もちろん師匠には内緒にしておこう。
絶対に、調子に乗るから。




