再測定と、夢の中。
朝食の席で、師匠が肉を食べていた。
とても幸せそうだった。
「…………」
「なんだ?」
「いえ」
「食べたいのか?」
「違います」
「なら、なぜ見ている」
「昨日の夜、あれだけ騒いでたなと思って」
「何のことだ?」
「肉です」
「ああ」
師匠は頷いた。
そして何事もなかったように、もう一口。
「美味いぞ」
「そうですか」
「食べるか?」
「いりません」
「そうか」
「…………」
「…………」
「師匠」
「なんだ?」
「昨日、夜から買いに行ったんですか?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
「…………」
「なんだ?」
「そこまでして食べたかったんですね」
「食べたかった」
即答だった。
私は何も言わず、パンを口に運んだ。
この人は世界最強の八人の一人である。
世界中の魔法使いから畏怖と尊敬を集める、戦禍の魔姫。
そして、夜中に肉を買いに行く人でもある。
「何か失礼なことを考えていないか?」
「いえ、別に」
「そうか」
師匠は気にする様子もなく肉を食べ続けた。
窓から差し込む朝日が、食卓を明るく照らしている。
この家で暮らし始めて、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。
それでも、いつの間にか。
こうして師匠と向かい合って朝食を食べることが、当たり前になりつつあった。
昨日は、久しぶりにエマに会った。
学校で唯一、友達と呼べた女の子。
私が突然学院を去ったことを心配して、先生から居場所を聞き、一人でここまで訪ねてきてくれた。
『私が困るんだけど』
あの言葉を思い出す。
私はずっと、自分なんていなくなっても誰も困らないと思っていた。
でも、違った。
私を探してくれる人がいた。
私がいなくなって、寂しいと思ってくれる人がいた。
「……リリア」
「はい?」
「肉を見ながら笑うな」
「笑ってません」
「笑っていたぞ」
「師匠の肉を見てたわけじゃありません」
「なら何を考えていた?」
「別に」
「怪しいな」
「師匠にだけは言われたくありません」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です」
師匠が何か言おうとした、そのときだった。
コンコン。
玄関の扉を叩く音がした。
「……お客さん?」
「らしいな」
「誰でしょう」
「さあな」
「師匠の家ですよね?」
「ああ」
「心当たりは?」
「ない」
「…………」
この人、本当に大丈夫なんだろうか。
「何だ、その目は」
「何でもありません」
昨日はエマが来た。
まさか今日も誰か来るとは思っていなかった。
私は椅子から立ち上がる。
「私が出ます」
「ああ」
「師匠は?」
「朝食中だ」
「知ってます」
「肉が冷める」
「はいはい」
「雑だな」
無視して玄関へ向かった。
扉を開く。
「はい、どちらさ――」
言葉が止まった。
そこにいたのは、二人の女性だった。
一人は、淡い銀金色の髪を後頭部で緩くまとめた女性。
頬に垂れる長い前髪。
細い銀縁眼鏡の奥には、深い青色の瞳。
黒を基調としたローブには、白金色の繊細な刺繍が施されている。
「おはようございます、リリアさん」
「セ、セレナ様!?」
「ええ」
王立アルセリア魔法学院の学院長。
セレナ・アルヴェリス様。
そして。
「おはよう、リリアちゃん」
その隣から、もう一人が顔を覗かせた。
淡い紫色の長い髪。
角度によっては銀色にも、青色にも見える。
眠たげに細められた紫色の瞳。
少し大きめのローブに身を包み、いつものように何を考えているのか分からない微笑を浮かべている。
「……メイヴ様」
「覚えててくれた?」
「もちろんです」
「嬉しいなぁ」
メイヴ様は楽しそうに笑った。
「どうしてお二人が……?」
「少し確認したいことがありまして」
セレナ様が答える。
「確認?」
「ええ。あなたについてです」
「私?」
「正確には、あなたの魔法について」
「…………」
胸が少しだけ騒いだ。
私の魔法。
師匠に見つけてもらった、私自身に強く作用する特殊な魔法。
「それと」
セレナ様が続ける。
「レヴィアに少し話があります」
「師匠に?」
「ええ」
何だろう。
そう思った直後。
メイヴ様が小さく笑った。
「怒られるかもねぇ」
「え?」
「メイヴ」
「はぁい」
セレナ様が静かに名前を呼ぶ。
メイヴ様は楽しそうに返事をした。
……何だか嫌な予感がする。
「あら」
「……何ですか?」
「ううん。何でもないよ?」
「…………」
私は何も言っていない。
メイヴ様は笑っている。
やっぱり、この人は少し苦手かもしれない。
「ふふ」
「…………」
今、笑うところだっただろうか。
「ごめんねぇ」
「……いえ」
何に謝られたのか分からない。
私は少し迷ってから、二人を家へ招き入れた。
「どうぞ」
「失礼します」
「お邪魔しまぁす」
そして。
居間に入った瞬間。
肉を食べていた師匠と。
セレナ様の目が合った。
「…………」
「…………」
師匠が肉を食べる手を止めた。
「よう」
「おはようございます、レヴィア」
「朝から珍しいな」
「ええ」
「何か用か?」
「あります」
「そうか」
「…………」
「…………」
何だろう。
空気が少しだけ重い。
師匠もそれを感じたのか、ゆっくりと皿を置いた。
「リリア」
「はい?」
「客に茶を」
「分かりました」
「私も手伝おうか?」
メイヴ様が言う。
「い、いえ。大丈夫です」
「そう?」
「はい」
「残念」
何が残念なのだろう。
「私が淹れたら、もっと美味しくなるのに」
少しだけ怪しいと思った。
「あら」
「……何も言ってません」
「そうだった?」
「はい」
たぶん。
この人の前では、余計なことを考えない方がいい。
「無理だと思うよ?」
「…………」
無理らしい。
「ここに来る途中でも、同じことをしていました」
セレナ様が言った。
「何が?」
「人が考えていることを勝手に読んだような振る舞いをすることです」
「読んでないよ?」
「では、なぜ分かるのです」
「さあ?」
「…………」
「ふふ」
セレナ様が小さくため息をついた。
私は何となく安心した。
どうやら、セレナ様でもこうなるらしい。
「あら。仲間ができてよかったねぇ」
「……何も言ってません」
「そうだった?」
やっぱり。
この人の前で考え事をするのは危険な気がする。
◇
お茶を用意して戻ると、師匠とセレナ様は向かい合って座っていた。
メイヴ様はその横で、どこから持ってきたのか分からない焼き菓子を食べている。
「どうぞ」
「ありがとうございます、リリアさん」
「ありがと、リリアちゃん」
「いえ」
私も師匠の隣に座る。
少しして。
セレナ様が口を開いた。
「では、レヴィア」
「なんだ?」
「ノエルから聞きました」
「…………」
師匠が止まった。
「何をだ?」
「分かっているでしょう」
「分からんな」
「グレイファング」
「…………」
「三匹」
「…………」
「リリアさんの初めての実戦」
「…………」
師匠が私を見る。
私は師匠を見る。
「リリア」
「何です?」
「ノエルは口が軽いな」
「そこですか?」
「他に何がある」
「いっぱいあると思います」
「そうか?」
「レヴィア」
セレナ様が静かに名前を呼んだ。
「はい」
師匠が素直に返事をした。
少し驚いた。
「なぜ、初めて実戦を経験するリリアさんを、グレイファング三匹と戦わせたのですか?」
「成り行きだ」
「詳しく」
「森で遭遇した」
「それで?」
「リリアが戦った」
「その間、あなたは?」
「見ていた」
「…………」
「…………」
セレナ様が眼鏡を押し上げた。
「レヴィア」
「待て」
「何をですか」
「結果だけ聞け」
「聞きましょう」
「勝ったぞ」
「そういう問題ではありません」
「三匹相手にな」
「聞いていますか?」
「しかも初陣だ」
「レヴィア」
「…………」
師匠が黙った。
私はそっとお茶を飲む。
「リリア」
「はい?」
「お前はどっちの味方だ?」
「今回はセレナ様です」
「即答か」
「怪我を隠した私も悪かったですけど」
「そうだぞ」
「でも、それとこれは別です」
「…………」
師匠が腕を組んだ。
「最近、本当に生意気になったな」
「誰の弟子でしょうね」
「私だな」
「はい」
「なら仕方ない」
「開き直らないでください」
「仲良しだねぇ」
メイヴ様が呟いた。
私はそちらを見る。
メイヴ様は焼き菓子を食べながら、楽しそうにこちらを眺めていた。
「メイヴ」
「何?」
「あなたも何か言ってください」
「レヴィアに?」
「ええ」
「うーん」
メイヴ様は少し考えた。
「もう少し大事にしてあげたら?」
「しているぞ」
「そう?」
「ああ」
「ふぅん」
メイヴ様が私を見る。
「リリアちゃんはどう思う?」
「え?」
突然、話を振られた。
「大事にされてる?」
「…………」
私は師匠を見る。
師匠も私を見ている。
「まあ」
「まあ?」
「……されてるとは、思います」
「そう」
メイヴ様が微笑む。
「よかったね、レヴィア」
「何がだ」
「嫌われてなくて」
「嫌われる要素がないだろう」
私は何も言わなかった。
野菜嫌い。
人の卵を狙う。
クッションを勝手に使う。
肉が食べたいから夜中に買い物へ行く。
「リリア」
「はい?」
「今、何か考えたか?」
「いいえ」
「そうか」
「…………」
メイヴ様が笑っている。
どうか黙っていてほしい。
「ふふ」
やっぱり、この人には全部分かっている気がする。
◇
「さて」
しばらくして。
セレナ様が話題を変えた。
「今日ここへ来た本来の目的に移りましょう」
「本来の目的?」
私が聞く。
「あなたの再測定です」
「……再測定」
「ええ」
その言葉に。
胸の奥が、わずかに固くなった。
適性測定。
その言葉には、あまりいい思い出がない。
王立アルセリア魔法学院。
私が通っていた学校。
そこで何度も受けた測定。
魔力量。
出力。
外部作用効率。
属性適性。
そして。
何度測っても、結果は変わらなかった。
平均的な魔力量。
低い出力。
最低水準の外部作用効率。
ほとんど反応しない属性適性。
落ちこぼれ。
そう呼ばれる理由を。
数字で見せつけられる時間だった。
「嫌ですか?」
セレナ様の声に。
私は顔を上げる。
「……いえ」
「嘘ですね」
「…………」
即答された。
「別に責めているわけではありません」
「はい」
「以前の経験を考えれば、当然でしょう」
「…………」
セレナ様は。
私の顔を静かに見ていた。
「ですが、今回は以前と同じ測定ではありません」
「違うんですか?」
「ええ」
セレナ様が手を伸ばす。
その指先に、青白い光が灯った。
次の瞬間。
空間に魔法陣が広がる。
複雑な文字。
幾重にも重なった円環。
その中心から。
透明な水晶が、ゆっくりと姿を現した。
「魔導晶……」
「そうです」
見覚えがある。
学院で。
何度も見た。
適性測定に使われる水晶。
「アルヴェリア王国では、すべての公認魔法教育機関において、王国標準魔力適性測定法が採用されています」
セレナ様が言う。
「王立アルセリア魔法学院も例外ではありません」
「はい」
「測定項目は主に五つ。保有魔力量、瞬間魔力出力、外部作用効率、属性適性、そして魔法系統適性」
私は頷いた。
何度も聞いた説明。
でも。
今日は少し違って聞こえた。
「この世界において、魔法の基本とは何か。分かりますか?」
「魔力を使って、現象を起こすこと……ですか?」
「大まかには正解です」
セレナ様が頷く。
「より正確には、術者が自身の魔力を対象へ作用させ、何らかの現象を引き起こすこと。火を生む。水を操る。風を起こす。物体を動かす。傷を治す。結界を形成する。形は違えど、基本原理は同じです」
「対象に、魔力を作用させる」
「ええ」
セレナ様の指が、魔導晶に触れる。
水晶の内部に、淡い光が走った。
「そして、人間が最も一般的に魔法を使用する場合、その対象は自分以外に存在します」
炎。
水。
風。
大地。
他人。
物。
確かに。
「そのため、アルヴェリア王国の標準測定法は、術者から外界へ向かう魔力を測定するよう設計されています」
「……じゃあ」
「ええ」
セレナ様が私を見る。
「あなたの測定結果は、間違っていませんでした」
「…………」
胸が。
少しだけ痛んだ。
分かっていたはずなのに。
その言葉を聞くと。
やっぱり。
「最後まで聞きなさい」
「……はい」
「あなたは外部作用魔法が苦手です。それは事実です」
「はい」
「しかし」
セレナ様の声は。
冷静だった。
でも。
冷たくはなかった。
「問題は、誰もあなた自身を測定対象に含めなかったことです」
「……私自身」
「ええ」
セレナ様が魔導晶を見る。
「標準測定が誤っていたのではありません。あれは、あなたの外部作用能力を正確に測定しています」
「…………」
「ただし、測っていないものは、見つけられない」
その言葉が。
静かに胸へ落ちた。
「リリアさん」
「はい」
「あなたは、測定で落ちこぼれと判定されたのではありません」
「え?」
「測定結果を見た人間が、そう判断したのです」
「…………」
「数字は事実を示します。しかし、事実のすべてを示すわけではない」
セレナ様が。
眼鏡の奥から私を見る。
「そこを見落としたのは、教育する側の責任です」
「セレナ様……」
「私も含めて」
その言葉に。
私は何も返せなかった。
学院長が。
世界最高峰の魔法理論研究者が。
私に対して。
自分の責任だと言っている。
「セレナ」
師匠が口を開いた。
「何ですか?」
「お前は何でも背負いすぎだ」
「あなたは背負わなさすぎです」
「そうか?」
「そうです」
「足して二で割るか?」
「嫌です」
「即答だな」
「当然です」
少しだけ。
笑ってしまった。
「笑ったな、リリア」
「笑ってません」
「笑ったぞ」
「気のせいです」
「そうか」
師匠も。
少しだけ笑っていた。
◇
「では、始めましょう」
セレナ様が言った。
「何をすれば?」
「まずは通常の測定を行います」
「普通の?」
「比較対象が必要ですから」
「……はい」
少しだけ。
緊張する。
分かっている。
今さら。
結果が悪くても。
師匠は私を見捨てない。
セレナ様も。
私の才能を否定しない。
それでも。
身体は覚えていた。
何度も。
この水晶の前で。
何も起こらなかったことを。
「リリア」
師匠の声。
「はい?」
「大丈夫だ」
「…………」
「壊れても弁償すればいい」
「そっちの心配はしてません!」
「そうか」
「あと壊しません!」
「分からんぞ」
「何でちょっと楽しそうなんですか?」
「弟子が測定器を壊す。ロマンがある」
「ありません」
「そうか?」
「ないです」
少しだけ。
肩の力が抜けた。
私は魔導晶に手を置く。
冷たい。
「魔力を流してください」
「はい」
目を閉じる。
魔力を。
外へ。
流す。
魔導晶が淡く光る。
でも。
弱い。
とても。
弱い。
昔と同じ。
「測定完了」
セレナ様が結果を見る。
「保有魔力量、平均域。瞬間出力、平均以下。外部作用効率、最低水準。属性反応、微弱」
「…………」
やっぱり。
変わっていない。
「リリア」
「大丈夫です」
師匠が何か言う前に。
私は答えた。
「分かってますから」
「そうか」
「はい」
「ならいい」
師匠はそれ以上何も言わなかった。
セレナ様が魔導晶へ手を伸ばす。
「では、ここからです」
青白い魔力が。
セレナ様の指先から水晶へ流れ込んだ。
瞬間。
魔導晶の内部に無数の術式が浮かび上がる。
「通常、この測定術式は術者から外界へ向かう魔力の流れを追跡します」
「はい」
「ですので」
セレナ様が。
さらりと言った。
「反転させます」
「……反転?」
「ええ」
「そんなことできるんですか?」
「できます」
「簡単に?」
「簡単ではありません」
「ですよね」
「私だからできます」
「…………」
私は。
少しだけ師匠を見た。
「何だ?」
「いえ」
似てるなと思った。
「一緒にしないでください」
セレナ様が言った。
「まだ何も言ってません」
「顔に出ています」
「…………」
「おい、セレナ」
「何ですか?」
「今のはどういう意味だ?」
「そのままです」
「失礼だな」
「あなたに言われたくありません」
メイヴ様が小さく笑った。
この三人。
思っていたより。
ずっと昔から、こういうやり取りをしているのかもしれない。
「そうかもねぇ」
「……え?」
「何でもないよ?」
「…………」
まただ。
メイヴ様は楽しそうに紅茶を飲んでいる。
やっぱり。
この人の前で考え事をするのは危険な気がする。
「気にしなくていいのに」
「……はい」
本当に?
「ふふ」
やっぱり信用できない。
メイヴ様が、また笑った。
◇
魔導晶の術式が変化した。
これまで外側へ向いていた光の線が。
中心へ。
内側へ。
ゆっくりと反転していく。
「準備できました」
セレナ様が言う。
「リリアさん。もう一度、手を」
「はい」
水晶へ触れる。
「今度は外へ魔力を出す必要はありません」
「じゃあ?」
「自分自身に魔法を使用してください」
「身体強化でいいんですか?」
「ええ。ただし最低限の出力で」
「分かりました」
目を閉じる。
呼吸を整える。
自分の中にある魔力を感じる。
外へ出さない。
自分へ。
足。
腕。
身体。
ゆっくりと。
魔力を巡らせる。
その瞬間。
「――っ」
魔導晶が。
光った。
先ほどとは比べものにならない。
強い光。
内部の術式が高速で回転する。
「おお」
師匠の声。
「へぇ」
メイヴ様の声。
セレナ様は何も言わない。
ただ。
水晶を見ている。
「セレナ様?」
「そのまま」
「はい」
「出力を上げないでください」
「分かりました」
魔導晶の光が。
さらに強くなる。
やがて。
術式が止まった。
「もう結構です」
私は魔法を止める。
魔導晶から手を離す。
「結果は……?」
セレナ様が。
黙っている。
「セレナ?」
師匠が呼ぶ。
「……少し待ちなさい」
「珍しいな」
「何がですか」
「お前が測定結果を二度見するのは」
「黙ってください」
「はい」
師匠が素直に黙った。
そんなに?
不安になる。
「セレナ様」
「リリアさん」
「はい」
「自己作用効率」
セレナ様が。
私を見る。
「九十八・七パーセントです」
「…………」
「…………」
「……え?」
「九十八・七パーセント」
「聞こえてはいたんですけど」
「そうですか」
「それって」
私は。
少し迷ってから聞く。
「高いんですか?」
「高いぞ」
師匠が即答した。
「レヴィア。あなたには聞いていません」
「だが高い」
「黙っていてください」
「はい」
また素直だ。
「一般的な自己強化術師の場合」
セレナ様が説明を始める。
「自己作用効率が三十パーセントを超えれば、優秀と評価されます」
「三十……」
「五十パーセントを超える者は、アルヴェリア王国内でも極めて稀です」
「じゃあ」
「ええ」
セレナ様が水晶を見る。
「あなたの場合、注いだ魔力のほぼすべてが、そのまま自分自身への効果へ変換されています」
「…………」
実感がない。
九十八・七。
数字だけ聞いても。
あまりにも。
「少なくとも」
セレナ様が続ける。
「アルヴェリア王国の正式な記録に、同等の数値はありません」
「……この国には?」
「ええ」
「じゃあ、世界にも?」
「それは違います」
セレナ様は即座に否定した。
「アルヴェリア王国は、確かに魔法研究と教育において世界有数の先進国です。しかし、この国が世界のすべてではありません」
「世界……」
「このエルディアには、数多くの国家と文化が存在します」
エルディア。
私たちが暮らす、この世界の名。
「軍事魔法を独自に発展させたグランヴェル帝国。治癒、浄化、結界術に長い歴史を持つ聖法国ルミナリア。商業と錬金術、魔導具技術が盛んな自由都市連合セレスタ。さらに東方には、我々とは異なる魔術体系を持つカグラ諸国も存在します」
「…………」
「我々が知らない魔法は、まだ世界に無数に存在する」
セレナ様の言葉に。
私は。
少しだけ。
窓の外を見た。
森。
空。
その向こう。
もっと。
ずっと遠く。
私は。
ほとんど何も知らない。
「世界は広いですよ、リリアさん」
「……はい」
「ですから私は、あなたが世界で唯一だとは断言しません」
「はい」
「ただし」
セレナ様が。
少しだけ。
眼鏡を押し上げる。
「少なくとも、私が知る限りでは異常です」
「異常……」
「褒め言葉ですよ」
「そうなんですか?」
「たぶんな」
師匠が言った。
「あなたは黙っていてください」
「はい」
メイヴ様が笑っている。
「でも」
私は。
ふと思った。
「セレナ様」
「何ですか?」
「オクトマギアは?」
「はい?」
「世界で最強の八人、なんですよね」
「ええ」
セレナ様が頷く。
「世界魔導評議会によって正式に認定された、八人の魔法使い」
師匠。
セレナ様。
メイヴ様。
ノエル様。
そして。
まだ会ったことのない四人。
「ただし」
師匠が口を挟んだ。
「別に奴らに選んでもらったわけじゃないぞ」
「……え?」
「私が強かったから、向こうが勝手に認めただけだ」
「レヴィア」
「事実だろう」
「言い方の問題です」
「そうか?」
「そうです」
セレナ様がため息をつく。
「世界魔導評議会は、各国が参加する国際的な魔法機関です。オクトマギアを自由に任命する権限があるわけではありません」
「じゃあ?」
「一つの魔法分野において世界の常識を超越し、単独で国家戦力に匹敵するほどの力を持ち、世界的にその実力を認められた者。その中でも、各分野の頂点に立つ八人を正式に認定する。それが評議会の役割です」
「……国家戦力」
思わず。
師匠を見る。
「何だ?」
「いえ」
肉が好きで。
野菜が嫌いで。
人の卵を狙う。
この人が。
一人で。
国と同じくらい。
「何を考えている?」
「何でもありません」
「怪しいな」
「気のせいです」
「ちなみに」
メイヴ様が。
ゆっくりと口を開いた。
「レヴィアは特に酷いよ?」
「おい」
「何がですか?」
「色々?」
「説明になってません」
「ふふ」
やっぱり。
この人は。
教えてくれる気がないらしい。
「分かってきたねぇ」
「……何も言ってませんけど」
「そうだった?」
「はい」
メイヴ様が楽しそうに笑った。
◇
「ただし」
セレナ様の声が。
少しだけ低くなった。
「リリアさん。勘違いしてはいけません」
「はい」
「九十八・七パーセントという効率は、確かに異常です。しかし、それはあなたが無条件に強いという意味ではない」
「……はい」
「むしろ」
セレナ様が。
私を見る。
「危険です」
「…………」
「一の魔力を注げば、そのほぼすべてが効果へ変換される。通常の術者なら失われるはずの魔力まで、あなたの場合は肉体へ届く」
ノエル様の言葉を思い出す。
魔法が。
身体を追い越す。
「身体が、その効果に耐えられなければ?」
「……壊れる」
「ええ」
セレナ様が頷いた。
「筋肉。骨。神経。感覚器官。魔法によって強化されることと、その強化に肉体そのものが耐えられることは別問題です」
「…………」
「だから」
師匠が言った。
「急ぐな」
「師匠」
「前にも言っただろう」
「はい」
「強くなることは逃げん」
「…………」
「お前が今日できないことは、明日やればいい。明日できなければ、その次だ」
「でも」
「焦るな」
師匠が。
私を見る。
「お前には時間がある」
「…………」
「私もいる」
その言葉に。
胸の奥が。
少しだけ暖かくなった。
「はい」
「うむ」
「でも師匠」
「なんだ?」
「この前、明日は修行二倍って言いましたよね」
「言ったな」
「急ぐなって言った直後に」
「…………」
「…………」
「それとこれは別だ」
「便利ですね」
「師匠だからな」
「またそれですか」
セレナ様がため息をつく。
メイヴ様が笑う。
私も。
少しだけ笑った。
◇
その後。
セレナ様は、測定結果を何度も確認した。
魔導晶の術式に異常がないか。
測定誤差はないか。
私自身の魔力状態に問題がないか。
何度確認しても。
結果は大きく変わらなかった。
九十八・七パーセント。
数字だけ見れば。
すごいのだろう。
でも。
不思議だった。
嬉しくないわけじゃない。
むしろ。
嬉しい。
学院では。
何度測っても。
駄目だった。
何もなかった。
それが。
今は。
私にしかないものがあると言われた。
嬉しい。
はずなのに。
「…………」
何だろう。
少しだけ。
怖い。
「リリアちゃん」
「え?」
声に。
顔を上げる。
メイヴ様が。
私を見ていた。
「何ですか?」
「ううん」
笑っている。
「何でもないよ」
「…………」
なら。
どうして。
そんな目で。
「ふふ」
「……何ですか?」
「本当に何でもないよ?」
「そうですか」
「うん」
分からない。
やっぱり。
この人が何を考えているのか。
でも。
なぜだろう。
少しだけ。
見透かされたような気がした。
◇
夕方。
「では、私たちは帰ります」
セレナ様が立ち上がった。
「はい。今日はありがとうございました」
「いいえ」
「測定も」
「私は学院長です」
「でも、もう私は学院の生徒じゃ……」
「それが何か?」
「え?」
「元生徒なら、気にかけてはいけないのですか?」
「…………」
「それに」
セレナ様が。
師匠を見る。
「この人に任せきりにするのは不安です」
「おい」
「事実です」
「私は立派に師匠をしているぞ」
「数日で弟子に怪我をさせましたね」
「…………」
「レヴィア?」
「リリア」
「嫌です」
「まだ何も言ってないぞ」
「逃げるなら一人でお願いします」
「弟子なら師匠と運命を共にしろ」
「都合のいいときだけ師弟の絆を使わないでください」
「冷たいな」
「普通です」
セレナ様がため息をつく。
メイヴ様は。
楽しそうに笑っていた。
「じゃあね、リリアちゃん」
「はい」
「また会おうね」
「はい。メイヴ様も、今日はありがとうございました」
「私は何もしてないよ?」
「……確かに」
「あら」
「い、いえ、その」
「ふふ。冗談」
「…………」
少しだけ。
からかわれた。
たぶん。
「またね」
「はい」
二人が家を出る。
私はその背中を見送った。
そして。
ふと。
メイヴ様が一度だけ振り返った。
紫色の瞳。
目が合う。
「…………」
メイヴ様が。
小さく笑った。
それだけ。
そして今度こそ。
二人は帰っていった。
◇
夜。
私はベッドに横になっていた。
部屋は暗い。
窓から月明かりが差し込んでいる。
「九十八・七……」
小さく呟く。
自己作用効率。
私の才能。
今まで。
何もないと思っていた。
それなのに。
急に。
こんなものが見つかった。
「…………」
嬉しい。
本当に。
でも。
少し怖い。
私は。
これから。
どうなるんだろう。
強くなれる?
師匠みたいに?
いや。
そんなのは無理だ。
でも。
もし。
どんどん強くなったら。
私は。
今までの私じゃなくなるのだろうか。
「…………」
考えても。
答えは出ない。
目を閉じる。
師匠の言葉を思い出す。
『私もいる』
「……ずるいなぁ」
あんなことを。
何でもない顔で言う。
私は布団を少しだけ引き上げた。
そして。
いつの間にか。
眠りに落ちた。
◇
目を開ける。
「…………」
私は。
立っていた。
どこまでも。
どこまでも続く。
静かな水面の上。
「……え?」
空には。
巨大な月。
足元にも。
同じ月が映っている。
空と水。
境界がない。
どちらが上で。
どちらが下なのか。
分からない。
一歩。
歩く。
音はしない。
ただ。
足元から。
波紋だけが広がる。
「……ここは」
「こんばんは、リリアちゃん」
「――っ」
背後から声。
振り返る。
そこに。
いた。
「……メイヴ様?」
「正解」
昼間に。
帰ったはずの人。
淡い紫色の髪。
眠たげな紫の瞳。
そして。
何を考えているのか分からない微笑。
「どうして、ここに……?」
「どうしてだと思う?」
「…………」
質問を。
質問で返された。
やっぱり。
この人は少し苦手かもしれない。
「ふふ。傷つくなぁ」
「え?」
「苦手なんて言われたら」
「……私、声に出してました?」
「出してないよ?」
「…………」
なら。
どうして分かったんだろう。
「さあ、どうしてでしょう?」
「…………」
私は黙った。
何も考えない方がいい気がする。
「それは無理じゃない?」
「…………」
無理らしい。
「ここは……私の夢ですか?」
「うん」
「どうしてメイヴ様が?」
「遊びに来たの」
「…………」
人の夢に?
「うん」
「…………」
勝手に?
「そうとも言うねぇ」
まだ。
何も言っていない。
「……帰っていただくことは?」
「嫌」
「…………」
即答だった。
「せっかく来たんだから、少しくらいいいでしょう?」
「……まあ」
「決まりね」
まだ。
何も決めていない気がする。
「ふふ」
メイヴ様が。
細い指を。
軽く振った。
その瞬間。
何もなかった水面の上に。
ぽつり。
白いテーブルが現れた。
向かい合う二脚の椅子。
白いティーポット。
二つのカップ。
そして。
小さな皿には。
見たことのない焼き菓子。
「…………」
「少し、話そっか」
メイヴ様が椅子を引く。
まるで。
月夜の下で。
こうしてお茶をすることが。
最初から決まっていたみたいに。
「どうぞ、リリアちゃん」
「……はい」
断っても。
意味がない気がした。
「あら。そんなことないよ?」
「…………」
「ちゃんと嫌なら帰るもの」
本当だろうか。
「ふふ」
たぶん。
嘘だ。
「酷いなぁ」
「……何も言ってません」
「そうだった?」
「はい」
私は。
椅子へ座った。
メイヴ様が。
向かいに座る。
ティーポットを傾ける。
紅茶が。
静かにカップへ注がれていく。
「夢なのに」
「うん?」
「飲めるんですか?」
「飲めるよ」
「味も?」
「もちろん」
「……そうなんですね」
「疑ってる?」
「少しだけ」
「正直だねぇ」
メイヴ様が笑う。
私はカップを手に取った。
一口。
「…………」
「どう?」
「美味しいです」
「でしょう?」
「はい」
不思議だ。
夢なのに。
温かい。
甘い香り。
ちゃんと。
味がする。
「それじゃあ」
メイヴ様が。
自分のカップを持ち上げる。
「少し、お話しよっか」
「……何をですか?」
「何でも」
「何でも……」
「今日のこととか」
「はい」
「嬉しかったこととか」
「…………」
「怖かったこととか」
「…………」
私は。
カップを見る。
紅茶の水面に。
月が映っている。
「今日」
メイヴ様が言う。
「嬉しかった?」
「……はい」
「何が?」
「自分にも」
少し。
言葉を探す。
「ちゃんと、才能があったこと」
「うん」
「学校では、ずっと何もできなかったから」
「うん」
「だから」
私は。
少し笑った。
「嬉しかったです」
「そっか」
「はい」
メイヴ様は。
それ以上。
何も言わない。
ただ。
紅茶を飲む。
静かだ。
でも。
嫌な静けさではない。
「じゃあ」
少しして。
メイヴ様が言った。
「怖かった?」
「…………」
「自分に才能があるって分かって」
「……どうして」
「ん?」
「どうして、そう思うんですか?」
「さあ?」
「…………」
やっぱり。
教えてくれない。
「よく分かってきたねぇ」
「……何も言ってませんけど」
「そうだった?」
「はい」
メイヴ様が笑う。
「怖いです」
私は。
言った。
自分でも。
少し驚いた。
「うん」
「ずっと」
カップを握る。
「私は、何もできないと思ってました」
「うん」
「魔法が苦手で。落ちこぼれで」
「…………」
「それが急に」
師匠に会って。
弟子になって。
魔物と戦って。
ノエル様に治療されて。
エマが訪ねてきて。
そして今日。
九十八・七パーセント。
「何だか」
言葉が。
上手く出ない。
「私だけが、置いていかれてるみたいで」
「…………」
「私のことなのに」
「うん」
「私自身が、一番分かってない」
メイヴ様は。
何も言わない。
ただ。
私を見ている。
「強くなりたい?」
「はい」
「怖い?」
「……はい」
「そっか」
「…………」
「なら」
メイヴ様が。
微笑む。
「怖いまま進めばいいんじゃない?」
「……え?」
「駄目?」
「いえ」
「怖くなくなってから進もうとしたら、いつになるか分からないでしょう?」
「それは……」
「怖くても。迷っても」
紫色の瞳が。
私を見る。
「進めばいいんじゃない?」
「…………」
「だって」
メイヴ様が。
少しだけ。
目を細める。
「リリアちゃん、一人じゃないでしょう?」
「…………」
頭に。
一人の顔が浮かんだ。
黒い髪。
自信満々の笑顔。
『私もいる』
「……今」
「え?」
「誰を思い浮かべたの?」
「…………」
「ふふ」
「……誰も」
「そう?」
「はい」
「へぇ」
「…………」
絶対。
分かっている。
「どうだろうねぇ」
「……何も言ってません」
「そうだった?」
「はい」
メイヴ様が。
楽しそうに笑った。
でも。
不思議だった。
この人と話すのは。
少し苦手だと思っていた。
今も。
何を考えているのか分からない。
怖くないと言えば。
嘘になる。
それでも。
今は。
少しだけ。
落ち着いていた。
「メイヴ様」
「なぁに?」
「どうして」
「うん?」
「どうして、私にこんなことを言うんですか?」
「…………」
初めて。
メイヴ様が。
少しだけ黙った。
月が。
水面で揺れる。
「面白そうだから?」
「…………」
やっぱり。
そう答えると思った。
「ふふ」
メイヴ様が笑う。
「がっかりした?」
「いえ」
「本当?」
「……少しだけ」
「あら。正直」
「すみません」
「謝らなくていいのに」
メイヴ様が。
カップを置いた。
「そろそろ」
「え?」
「おしまいかな」
「もう?」
思わず。
聞いてしまった。
メイヴ様が。
少しだけ。
驚いたように目を細める。
「もう少し話したかった?」
「……いえ」
「ふふ」
「…………」
聞かなければよかった。
「また来てもいいよ?」
「私の夢なんですけど」
「そうだったねぇ」
やっぱり。
この人は。
よく分からない。
でも。
少しだけ。
笑ってしまった。
そのとき。
ぽつり。
何かが。
カップの中へ落ちた。
雫。
波紋が広がる。
一つ。
二つ。
そして。
カップの中だけだったはずの波紋が。
テーブルへ。
椅子へ。
足元の水面へ。
世界全体へ。
広がっていく。
「メイヴ様?」
月が歪む。
水面が揺れる。
テーブルが。
椅子が。
メイヴ様が。
少しずつ。
ぼやけていく。
「……レヴィアがね」
「え?」
メイヴ様の声。
少しだけ。
遠い。
「あんなに楽しそうなの」
いつもの笑顔。
でも。
ほんの少しだけ。
違って見えた。
「久しぶりだから」
「…………」
「それって」
「おやすみ、リリアちゃん」
「待ってください」
世界が。
崩れる。
「メイヴ様!」
紫色の髪。
細い瞳。
微笑み。
全部が。
月明かりの中へ溶けていく。
そして。
最後に。
声だけが残った。
「またね」
◇
目を開けた。
「…………」
天井。
自分の部屋。
窓から。
月明かり。
「……夢」
私は。
ゆっくりと身体を起こした。
夢だった。
たぶん。
「…………」
でも。
口の中に。
ほんの少しだけ。
甘い紅茶の味が残っている気がした。
「……まさかね」
私は。
もう一度。
布団に横になる。
目を閉じる。
『レヴィアが、あんなに楽しそうなの、久しぶりだから』
「…………」
師匠。
私は。
この人のことを。
まだ。
ほとんど知らない。
強いこと。
豪快なこと。
肉が好きなこと。
野菜が嫌いなこと。
寂しがり屋なこと。
そして。
この世界の人ではないこと。
でも。
それだけ。
前に。
どんな人生を生きていたのか。
なぜ。
この世界に来たのか。
どれくらい。
一人だったのか。
私は。
知らない。
「…………」
いつか。
師匠自身から。
聞けるだろうか。
そのとき。
私は。
何を言えばいいんだろう。
「……まあ」
今は。
分からなくてもいい。
師匠が言った。
急ぐ必要はない。
今日できないなら。
明日。
明日できないなら。
その次。
きっと。
人を知ることも。
同じなのだろう。
私は。
ゆっくりと。
目を閉じた。
今度こそ。
本当の眠りへ落ちる前に。
小さく。
呟いた。
「……おやすみなさい、メイヴ様」
返事は。
なかった。
ただ。
窓の外に浮かぶ月が。
ほんの少しだけ。
笑っているように見えた。




