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小さな傷と、クッション争奪戦。


 朝。


 目を覚ました私が最初にしたことは、自分の部屋を見渡すことだった。


 新しいカーテン。


 新しい本棚。


 新しいランプ。


 足元には柔らかな絨毯が敷かれ、机の上には私が選んだ小さな髪飾りと、師匠が勝手に選んだ謎の木彫りの鳥が置かれている。


 そして、ベッドの上には。


 昨日買った、大きなクッション。


「…………」


 私は少しだけ笑った。


 昨日までは、ただ寝るだけの部屋だった。


 師匠の家にある、私が借りているだけの部屋。


 そんな感じがしていた。


 でも、今は違う。


 少しだけ。


 本当に、ほんの少しだけだけど。


 ここが自分の居場所になったような気がする。


「……よし」


 身体を起こす。


 その瞬間。


「――っ」


 脇腹に、鋭い痛みが走った。


「…………」


 動きを止める。


 ゆっくりと息を吐いてから、服の裾を少し持ち上げた。


 右の脇腹。


 そこには、小さな傷があった。


 昨日。


 帰り道の森で、三匹のグレイファングと戦った。


 師匠に教わった身体強化。


 足への魔力集中。


 視覚強化。


 聴覚強化。


 それらを使って、私は初めて魔物と戦い。


 そして。


 初めて勝った。


 たぶん、そのときだ。


 必死だったから、気づかなかった。


 いや。


 正確には。


「……気づいてたんだよね」


 小さく呟く。


 帰り道で少し痛いとは思っていた。


 でも。


 せっかく師匠が褒めてくれたのに。


 初めて魔物に勝てたのに。


 こんな小さな怪我くらいで騒ぎたくなかった。


 それに。


 師匠に言えば。


 きっと。


「…………」


 私は昨日の師匠を思い出した。


『よくやったな、リリア』


 そう言って。


 私の頭を撫でてくれた。


 いつものように豪快で。


 自信満々で。


 でも。


 どこか嬉しそうに。


「これくらい、大丈夫」


 自分に言い聞かせる。


 少し痛いだけだ。


 血も止まっている。


 普通に歩ける。


 なら。


 問題ない。


 私は服を戻し、ベッドから降りた。


「朝食、作らないと」


 師匠が起きてくる前に。


 昨日、結局買い忘れた食材は、ほとんど残っていない。


 パンと卵。


 それから少しの野菜。


 まあ。


 師匠が肉がないと文句を言うだろうけど。


 それは昨日、買い忘れた本人が悪い。


 そう思いながら。


 私は部屋を出た。


     ◇


「リリア」


「はい?」


「肉は?」


「ありません」


「なぜだ」


「昨日買い忘れたからです」


「誰が?」


「師匠が」


「そうだったか?」


「私もですけど!」


 朝食の席。


 師匠――レヴィア・クローデル様は、不満そうに皿を見ていた。


 パン。


 目玉焼き。


 野菜。


 それだけ。


「健康的ですよ」


「肉がない」


「野菜も食べてください」


「食べている」


「まだ一口も食べてませんよね?」


「これから食べる」


「じゃあ食べてください」


「肉と一緒ならな」


「ありません!」


 私はため息をついた。


 師匠は野菜を睨んでいる。


 戦禍の魔姫。


 ヴァルマギア。


 世界に八人しかいないオクトマギアの一人。


 世界最強とも呼ばれる魔法使い。


 そんな人が。


 野菜を前にして、ものすごく嫌そうな顔をしている。


「師匠」


「なんだ」


「食べてください」


「嫌だ」


「子供ですか?」


「戦禍の魔姫だ」


「関係ありません」


「オクトマギアだぞ」


「もっと関係ありません」


「偉いぞ」


「だから何ですか!」


 昨日も。


 似たような会話をした気がする。


「……仕方ないですね」


 私は立ち上がった。


「何か他に残ってないか見てきます」


「肉か?」


「期待しないでください」


「期待している」


「やめてください!」


 食料棚へ向かう。


 確か。


 奥に何か残っていたはずだ。


 背伸びをして。


 上の棚へ手を伸ばす。


 もう少し。


 あと少し。


「…………っ」


 痛みが走った。


 思わず。


 身体を丸める。


「……痛っ」


「リリア」


 後ろから。


 低い声がした。


「…………」


 嫌な予感がした。


 ゆっくり振り返る。


 師匠が。


 こちらを見ていた。


「はい?」


「今、痛がったな」


「気のせいです」


「こっちへ来い」


「嫌です」


「なぜだ」


「嫌な予感がするので」


「いいから来い」


「何もありませんって」


「リリア」


 声が変わった。


 さっきまで。


 野菜を食べたくないと駄々をこねていた人と。


 同じ声とは思えなかった。


「……はい」


「来い」


「…………」


 仕方なく。


 師匠の前へ行く。


「どこだ」


「何がです?」


「痛む場所」


「ありません」


「嘘をつけ」


「本当です」


「なら、なぜさっき痛がった」


「ちょっと身体を捻っただけです」


「リリア」


「…………」


「見せろ」


「嫌です」


「なぜだ」


「大したことないからです」


「それを決めるのは、見てからだ」


「私の身体なんですけど!?」


「知っている」


「なら私が決めます!」


「駄目だ」


「横暴です!」


「師匠だからな」


「便利に使わないでください!」


 逃げようとした。


 でも。


 師匠の手が、私の肩を掴んだ。


「捕まえた」


「離してください!」


「嫌だ」


「子供ですか!?」


「観念しろ」


「何をです!」


「怪我を見せろ」


「怪我なんてしてません!」


「では確認するだけだ」


「だから嫌ですって!」


 師匠が私を見る。


 じっと。


 紅色の瞳で。


「……リリア」


「…………」


「頼む」


 その一言に。


 私は。


 何も言えなくなった。


「……少しだけです」


「ああ」


「本当に」


「ああ」


「大したことないですからね?」


「分かった」


 服の裾を少しだけ持ち上げる。


 脇腹。


 傷。


 師匠の顔から。


 表情が消えた。


「…………」


「ほら」


 私は笑った。


「大したことないでしょう?」


「いつだ」


「え?」


「いつ怪我をした」


「……たぶん、昨日です」


「森か?」


「はい」


「グレイファングとの戦いで?」


「たぶん」


「なぜ言わなかった」


 静かな声だった。


 怒っている。


 そう思った。


「このくらい、大丈夫だと思って」


「大丈夫かどうかは、お前が決めることじゃない」


「私の身体なんですけど!?」


「そういう意味ではない」


 師匠の眉が寄る。


「怪我をしたなら言え」


「でも」


「小さな傷でもだ」


「師匠」


「私は――」


 そこで。


 師匠は言葉を止めた。


「…………」


「師匠?」


「いや」


 視線を逸らす。


「とにかく、言え」


「……はい」


「本当に分かったか?」


「分かりました」


「ならいい」


 師匠は頷いた。


 そして。


「ノエルを呼ぶ」


「え?」


「今すぐだ」


「待ってください」


「なんだ」


「ノエル様って」


「ああ」


 師匠は当然のように答えた。


「霊命の魔姫だ」


「…………」


「治療に関しては、あいつ以上の者はいない」


「いやいやいやいや!」


「どうした?」


「大げさすぎます!!」


「そうか?」


「そうです!」


 私は自分の脇腹を指差した。


「見てください! これですよ!?」


「見た」


「小さいですよね!?」


「ああ」


「血も止まってます!」


「ああ」


「なのにオクトマギアを呼ぶんですか!?」


「ああ」


「何でですか!」


「心配だからだ」


「…………」


 即答だった。


「…………」


「なんだ」


「いや」


「どうした?」


「そういうことを普通に言わないでください」


「なぜだ」


「何でもありません!」


 顔が熱い。


「とにかく!」


 私は声を上げた。


「大丈夫ですから!」


「私が大丈夫じゃない」


「師匠が怪我したわけじゃないでしょう!?」


「知っている」


「なら!」


「もう呼んだ」


「え?」


「ノエルを」


「いつ!?」


「今」


「どうやって!?」


「魔法で」


「早すぎません!?」


「安心しろ」


「何をですか!?」


「すぐ来る」


「そういう意味じゃありません!」


     ◇


 三分後。


 窓の外から。


 何かが飛んできた。


「…………」


 私は目を疑った。


「師匠」


「なんだ」


「あれは?」


「ノエルだ」


「いや、その下です」


「クッションだ」


「それは見れば分かります!」


 大きなクッション。


 淡い色の、ふかふかしたクッション。


 その上に。


 一人の女性が寝転がっている。


 眠そうな目。


 ゆったりとした服。


 柔らかそうな髪。


 そして。


 こちらへ向かって。


 ふよふよ。


 本当に。


 ふよふよと飛んでくる。


「……レヴィアぁ」


「遅い」


「……呼ばれて、三分しか経ってないんだけど」


「弟子が怪我をした」


「……重傷?」


「分からん」


「分かります! 軽傷です!」


 クッションが。


 窓から入ってくる。


「窓から!?」


「……玄関まで行くの、面倒だから」


「歩いてください!」


「……嫌」


 クッションが床から少し浮いたまま止まる。


 その上で。


 女性は。


 寝転がったまま、私を見た。


「……この子?」


「ああ」


「……レヴィアの弟子」


「そうだ」


「……ふぅん」


 眠たげな瞳が。


 私を見る。


 頭の先から。


 足元まで。


「……可愛いね」


「え?」


「そうだろう」


「師匠が答えないでください!」


「事実だ」


「そういう問題じゃありません!」


「……元気そう」


「元気です!」


「怪我をした」


「師匠!」


「……どこ?」


「本当に大したことないんです!」


「脇腹だ」


「勝手に答えないでください!」


 女性は。


 クッションから。


 動かない。


「…………」


「…………」


「……見せて」


「いや」


「リリア」


「師匠は黙っててください!」


「……リリアっていうんだ」


「あ」


 私は姿勢を正した。


「はい。リリア・アステルです」


「……ノエル」


「え?」


「……ノエル・ヴィンセント」


 女性は。


 少しだけ。


 手を上げた。


「……霊命の魔姫とか、呼ばれてる」


「知ってます!」


「……そう」


 そして。


 目を閉じた。


「…………」


「…………」


「ノエル様?」


「寝たぞ」


「寝たんですか!?」


「ノエル」


「…………」


「起きろ」


「……起きてる」


「目を開けろ」


「……眠い」


「治療しろ」


「……帰っていい?」


「駄目だ」


「……横暴」


「お前にだけは言われたくない」


「……じゃあ、レヴィアが治せば?」


「私の治癒魔法より、お前の方が上だ」


「……知ってる」


「ならやれ」


「……面倒」


「ノエル」


「……はいはい」


 ようやく。


 ノエル様が起き上がった。


 クッションから。


 降りない。


 そのまま。


 ふよふよと私の前まで来る。


「……見せて」


「でも」


「……リリア」


「はい」


「……それを決めるのは、患者じゃないよ」


「…………」


 さっき。


 師匠も似たようなことを言っていた。


「ほら、聞いたかリリア」


「レヴィアも黙ってて」


「なぜだ」


「……うるさいから」


「お前、私の家に来て早々酷くないか?」


「……いつものこと」


「いつもではない」


「……そうだっけ」


「寝ぼけてるのか?」


「……眠いから」


「会話にならんな」


「師匠も人のこと言えませんよ」


「なぜだ?」


「自覚ないんですか!?」


「……二人とも、うるさい」


「お前が言うな」


 私は。


 少し笑ってしまった。


 オクトマギア。


 世界に八人しかいない。


 魔法の頂点に立つ魔女たち。


 もっと。


 恐ろしくて。


 近寄りがたくて。


 人間離れした人たちだと思っていた。


 でも。


 師匠といい。


 メイヴ様といい。


 ノエル様といい。


 何というか。


「……どうしたの?」


「いえ」


「……今、失礼なこと考えた?」


「考えてません!」


「……そう」


 怖い。


 メイヴ様とは違う意味で怖い。


「座って」


「はい」


 言われた通り。


 椅子へ座る。


 服を少し上げ。


 傷を見せる。


「…………」


 ノエル様の目が。


 傷を見る。


 その瞬間。


 空気が変わった。


「いつ?」


 声から。


 眠気が消えていた。


「昨日です」


「魔物?」


「はい。グレイファングと」


「三匹だった」


 師匠が答える。


「リリアに戦わせたの?」


「ああ」


「レヴィア」


 ノエル様が。


 師匠を見る。


「何だ」


「弟子入りして、何日?」


「数日だ」


「…………」


「なんだ」


「……馬鹿なの?」


「なぜだ」


「師匠!」


「レヴィア、黙って」


「さっきから酷くないか?」


「黙って」


「…………」


 師匠が黙った。


 本当に黙った。


「師匠、ノエル様の言うことは聞くんですね」


「聞いていない」


「……聞いて」


「…………」


 また黙った。


 少し面白い。


「リリア」


「はい」


「触るよ」


「はい」


 ノエル様の指が。


 傷へ触れる。


 淡い。


 緑色の光。


 暖かい。


 痛みが。


 ゆっくりと消えていく。


「すごい……」


 傷が。


 消える。


 まるで。


 最初から。


 何もなかったように。


「……終わり」


「もうですか?」


「うん」


「本当に?」


「……信用ない?」


「いえ!」


 慌てて傷を見る。


 ない。


 本当に。


 跡すら。


「ありがとうございます!」


「……どういたしまして」


 ノエル様の声が。


 再び。


 少しだけ眠そうになる。


 でも。


 すぐに。


「リリア」


「はい?」


「もう少し、診てもいい?」


「え?」


「傷じゃない」


 ノエル様が。


 私の腕を取る。


「魔力」


「私の?」


「うん」


 指先が。


 手首へ触れる。


「…………」


 目を閉じる。


 数秒。


 十秒。


「……ノエル?」


 師匠が声をかける。


 ノエル様は答えない。


「…………」


 そして。


 目を開けた。


「レヴィア」


「なんだ」


「この子の身体強化、誰が教えたの」


「私だ」


「どこまで?」


「まだ基礎だけだ。足への強化。昨日は目と耳にも教えた」


「……そう」


 ノエル様が。


 もう一度。


 私を見る。


「何か問題があるんですか?」


「……問題、というほどじゃない」


「本当ですか?」


「うん」


 少し。


 間があった。


「でも」


「はい」


「気をつけて」


 眠そうな瞳。


 でも。


 その奥は。


 真剣だった。


「リリアの魔力は、自分の身体に強く作用しすぎる」


「それは師匠にも言われました」


「うん。でも……たぶん、レヴィアが思ってるより強い」


 師匠の顔から。


 笑みが消える。


「どういう意味だ」


「そのまま」


「詳しく言え」


「……身体強化って、普通は身体が耐えられる範囲で使うものだから」


「はい」


「でも、リリアの場合は違う」


 ノエル様の指が。


 私の手首に触れたまま。


「魔法が、身体の限界を超えて作用する可能性がある」


「限界を?」


「うん」


「それって……」


「今すぐ危険って話じゃない」


 ノエル様が言う。


「まだ基礎だけなら、大丈夫」


「……そうか」


 師匠が答えた。


「でも、レヴィア」


「なんだ」


「急がないで」


「…………」


「この子の魔力は強い。でも、身体はまだ普通の女の子だから」


「分かった」


 師匠が。


 すぐに答えた。


 いつもなら。


 何かしら冗談を言う。


 そんな人なのに。


「本当に分かった?」


「ああ」


「……ならいい」


 ノエル様が。


 私の手を離す。


「リリアも」


「はい」


「無茶は駄目」


「はい」


「怪我を隠すのも」


「…………」


「駄目」


「……はい」


「聞いたか、リリア」


「師匠も昨日気づかなかったじゃないですか!」


「…………」


「……レヴィア」


「なんだ」


「……反省して」


「なぜ私まで怒られる」


「……師匠だから」


「便利に使うな」


「師匠がいつも使ってる言い訳ですよ!」


「私はいい」


「何でですか!?」


「師匠だからだ」


「だから便利に使わないでください!」


「……レヴィア」


「なんだ」


「……うるさい」


「お前まで言うな!」


 少しだけ。


 空気が戻った。


 いつもの。


 騒がしい空気に。


 私は。


 ほっとした。


     ◇


「……じゃあ」


 治療を終えたノエル様が。


 クッションの上へ寝転がった。


「……帰る」


「もうですか?」


「……眠いから」


「来たときから眠そうでしたよね?」


「……いつも眠い」


「そうなんですか」


「……うん」


 クッションが。


 ふわりと浮かぶ。


「助かった、ノエル」


 師匠が言った。


「……ん」


「今度、何か礼をする」


「……じゃあ」


「なんだ?」


「…………」


 ノエル様が。


 止まった。


「……ノエル?」


「…………」


 視線が。


 ある一点に向いている。


 私の部屋。


 開いた扉の向こう。


 ベッドの上。


 昨日買った。


 大きなクッション。


「……レヴィア」


「なんだ」


「……あれ」


「駄目だ」


「まだ何も言ってない」


「顔を見れば分かる」


「……欲しい」


「駄目だ」


「早いですね!?」


 ノエル様が。


 ふよふよと。


 私の部屋へ入っていく。


「ちょっと、ノエル様!?」


「……いい」


 ぽふっ。


 自分のクッションから。


 私のクッションへ。


 移った。


「…………」


 寝転がる。


「……すごく、いい」


「でしょう?」


「……うん」


「リリア」


 師匠が言った。


「何ですか?」


「なぜ褒められて嬉しそうなんだ」


「昨日選んだものを褒められたからです」


「私が選んだ」


「私のためにでしょう?」


「そうだが」


「……欲しい」


 ノエル様が言った。


「駄目だ」


 師匠が答えた。


「だから早いですって!」


「……レヴィアのじゃないでしょ」


「私が買った」


「……リリアのために」


「そうだ」


「……じゃあ、レヴィアのじゃない」


「…………」


「師匠」


「なんだ」


「論破されてますよ」


「うるさい」


「……じゃあ、リリア」


「はい?」


 ノエル様が。


 私を見る。


「……ちょうだい」


「嫌です」


「…………」


「そんな悲しそうな顔しないでください!」


「……治療したのに」


「それとこれとは別です!」


「……傷、綺麗に治した」


「ありがとうございます!」


「……クッション」


「駄目です!」


「……けち」


「私が悪いんですか!?」


 ノエル様が。


 クッションへ顔を埋める。


「……これ、どこで買ったの?」


「街の家具屋です」


「……じゃあ、買ってきて」


「自分で行ってください!」


「……歩くの面倒」


「飛べるじゃないですか!」


「……それも面倒」


「どうやってここまで来たんですか!?」


「……レヴィアに呼ばれたから、仕方なく」


「ノエル」


「……なに」


「そろそろ降りろ」


「……嫌」


「それはリリアのだ」


「……知ってる」


「なら降りろ」


「……レヴィアも昨日使ったんでしょ」


「…………」


 師匠が黙った。


「え?」


 私は。


 師匠を見る。


「どうして知ってるんですか?」


「……クッションが教えてくれた」


「怖いこと言わないでください!」


「嘘だ」


「嘘なんですか!?」


「……レヴィアの顔を見れば分かる」


 師匠が。


 露骨に視線を逸らした。


「師匠?」


「なんだ」


「昨日使いましたよね?」


「少しだけだ」


「寝る体勢になってましたよね?」


「気のせいだ」


「目を閉じてましたよね?」


「瞑想だ」


「嘘つかないでください!」


「……レヴィア」


「なんだ」


「……ずるい」


「なぜだ」


「……私も使う」


「駄目だ」


「……自分は使ったのに?」


「ああ」


「……ずるい」


「私が買った」


「……リリアのために」


「そうだ」


「……じゃあ、レヴィアのじゃない」


「同じ話を繰り返すな!」


「……レヴィアが理解しないから」


「理解している!」


「……じゃあ、私も使う」


「それとこれとは別だ」


「……何が?」


「私とお前は違う」


「……どこが?」


「全部だ」


「……具体的には?」


「…………」


「師匠」


「なんだ」


「また論破されてますよ」


「うるさい!」


 私は。


 目の前の光景を見る。


 戦禍の魔姫。


 霊命の魔姫。


 世界に八人しか存在しない。


 伝説の魔法使い。


 その二人が。


 一つのクッションを巡って。


 本気で言い合っている。


「……あの」


「なんだ」


「……なに?」


 二人が。


 同時に私を見る。


「世界に八人しかいない伝説の魔女が、二人揃って何してるんですか?」


「…………」


「…………」


 沈黙。


 そして。


 ノエル様が。


 ゆっくりと答えた。


「……クッションの話」


「知ってます!」


「なら聞くな」


「師匠は黙っててください!」


     ◇


 結局。


 ノエル様がクッションから離れるまで。


 三十分かかった。


「……じゃあ」


 玄関。


 ノエル様が。


 自分のクッションに寝転がっている。


「……帰る」


「今日はありがとうございました」


「……ん」


「傷、本当に全然痛くなくなりました」


「……よかった」


 ノエル様が。


 少しだけ笑う。


「でも」


「はい?」


「……次からは、隠さないで」


「…………」


「小さな傷でも」


「はい」


「……治す側は、怪我が大きくなってから呼ばれる方が困るから」


 その声は。


 やっぱり。


 少しだけ真剣だった。


「……分かりました」


「うん」


 ノエル様が頷く。


 そして。


「……また来る」


「はい」


「……近いうちに」


「はい」


「……絶対」


「…………」


 嫌な予感がした。


「治療のためですか?」


「……クッションのため」


「帰ってください!」


 ノエル様のクッションが。


 ふよふよと浮かぶ。


「……リリア」


「はい?」


「……次は、もらうから」


「絶対にあげません!」


「……交渉する」


「しません!」


「……レヴィア」


「なんだ」


「……次は邪魔しないで」


「断る」


「……けち」


「お前に言われたくない」


「……じゃあね」


「ああ」


「また来てください!」


 私は手を振った。


 ノエル様が。


 少しだけ。


 手を上げる。


 そして。


 クッションに寝転がったまま。


 空へ飛んでいった。


「…………」


「…………」


 私は。


 師匠と並んで。


 その姿を見送った。


「不思議な人ですね」


「ああ」


「ずっと眠そうでした」


「あいつはいつもああだ」


「でも」


「なんだ?」


「治療してるときは、全然違いました」


「ああ」


 師匠が。


 少し笑った。


「ノエルは、あれで誰より命にうるさい」


「そうなんですね」


「普段は何をするにも面倒がるが、患者のことだけは絶対に諦めない」


「……優しい人なんですね」


「まあな」


 師匠が。


 空を見る。


「昔から、ああいう奴だ」


「師匠とは長い付き合いなんですか?」


「それなりにな」


「どのくらい?」


「忘れた」


「絶対覚えてますよね?」


「さあな」


「教えてくださいよ」


「嫌だ」


「どうしてです?」


「面倒だからだ」


「ノエル様みたいなこと言わないでください!」


 師匠が笑った。


 私も。


 少しだけ笑った。


 そして。


 家へ戻る。


 廊下を歩いて。


 私の部屋の前を通る。


 師匠が。


 止まった。


「…………」


「師匠?」


「なんだ」


「どうして止まったんですか?」


「別に」


 師匠の視線。


 私の部屋。


 ベッド。


 その上の。


 大きなクッション。


「…………」


「師匠」


「なんだ」


「使いませんよね?」


「何を?」


「クッションです」


「…………」


「何で黙るんですか?」


「リリア」


「はい」


「ノエルに取られるくらいなら、私が使った方がいいと思わないか?」


「思いません」


「即答か」


「はい」


「少しくらいいいだろう」


「駄目です」


「私が買った」


「私のために!」


「知っている」


「なら!」


「五分だけ」


「昨日も聞きました!」


「なら十分」


「増やさないでください!」


 師匠が。


 私の部屋へ入ろうとする。


「ちょっと!」


「邪魔だ」


「駄目です!」


「リリア」


「何です?」


「師匠命令だ」


「便利に使わないでください!」


「弟子よ」


「何ですか!」


「退け」


「嫌です!」


「反抗期か?」


「弟子入りしてまだ数日です!」


 結局。


 その日。


 私は。


 世界最強の魔女から。


 自分のクッションを守るために。


 朝から身体強化を使うことになった。


 結果。


「返してください!」


「嫌だ」


「私のです!」


「知っている」


「なら返してください!」


「五分だけだ」


「さっきから十分使ってます!」


「では、あと五分」


「増えてます!」


 私の負けだった。


 やっぱり。


 師匠は強い。


 そして。


 その日の夜。


 眠る前。


 私は自分の脇腹に触れた。


 もう。


 痛みはない。


 傷も。


 跡すら残っていない。


 でも。


 ノエル様の言葉は。


 少しだけ。


 頭に残っていた。


『この子の魔力は強い。でも、身体はまだ普通の女の子だから』


 自分自身に。


 異常なほど強く作用する魔法。


 今まで。


 それは。


 私が初めて見つけた才能だった。


 嬉しかった。


 魔法が苦手な私にも。


 できることがある。


 そう思えた。


 でも。


 その力が。


 自分自身を傷つけるかもしれない。


「…………」


 少しだけ。


 怖い。


 そのとき。


 扉が開いた。


「リリア」


「師匠?」


 レヴィアが。


 部屋へ入ってくる。


「どうしたんですか?」


「いや」


 師匠は。


 私の顔を見る。


「少し、気になってな」


「何がです?」


「ノエルに言われたことだ」


「…………」


 やっぱり。


 師匠も。


 気にしていたんだ。


「師匠」


「なんだ」


「私」


「安心しろ」


「まだ何も言ってません」


「顔を見れば分かる」


「…………」


 師匠が。


 ベッドの横に立つ。


「急ぐ必要はない」


「でも」


「お前は、まだ弟子になったばかりだ」


「はい」


「できないことがあって当然だ」


「…………」


「身体が追いつかないなら、追いつくまで待てばいい」


「そんな簡単に」


「簡単だ」


 師匠は。


 迷わず言った。


「私がいる」


「…………」


「お前が無茶をしそうになったら止める」


「師匠がですか?」


「ああ」


「師匠が一番、無茶しそうなのに」


「私はいい」


「何でです?」


「強いからだ」


「自信満々ですね」


「事実だ」


「そうでした」


 少し。


 笑ってしまった。


「だから」


 師匠の手が。


 私の頭へ置かれる。


「怪我をしたら言え」


「はい」


「痛かったら言え」


「はい」


「怖かったら、それも言え」


「…………」


「一人で抱えるな」


 優しい声だった。


「お前は、もう一人じゃない」


「…………」


 私は。


 少しだけ。


 俯いた。


「……はい」


「よし」


 頭を撫でられる。


 少し恥ずかしい。


 でも。


 今は。


 嫌ではなかった。


「ありがとうございます、師匠」


「ああ」


「…………」


「…………」


「ところで師匠」


「なんだ」


「いつまで頭撫でてるんですか?」


「嫌か?」


「恥ずかしいです」


「なら、もう少しだな」


「どうしてですか!」


 手を振り払う。


 師匠が笑った。


「おやすみ、リリア」


「はい。おやすみなさい」


 師匠が。


 部屋を出ようとする。


 そして。


 止まった。


「…………」


「師匠?」


「なんだ」


「クッション見ましたよね?」


「見ていない」


「見ました!」


「気のせいだ」


「持っていかないでくださいよ?」


「分かっている」


「本当に?」


「ああ」


「絶対ですよ?」


「信用がないな」


「昨日の行動を思い出してください」


「細かいことは気にするな」


「気にします!」


 師匠は。


 笑いながら部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


「…………」


 静かになった。


 私は。


 ベッドへ横になる。


 そして。


 隣のクッションを見る。


「……大人気だね、あなた」


 もちろん。


 返事はない。


 当たり前だ。


 クッションなのだから。


「…………」


 目を閉じる。


 今日。


 また一人。


 オクトマギアと出会った。


 霊命の魔姫。


 ヴィータマギア。


 ノエル・ヴィンセント。


 眠そうで。


 ぐうたらで。


 クッションが大好きで。


 でも。


 患者を前にすると。


 誰よりも真剣になる人。


 師匠。


 セレナ様。


 メイヴ様。


 ノエル様。


 オクトマギア。


 世界に八人しかいない。


 伝説の魔女たち。


「……まともな人、いるのかな」


 小さく呟いた。


 遠く離れた学院で。


 その瞬間。


「……?」


 叡智の魔姫セレナ・アルヴェリスが。


 誰もいない執務室で。


 小さなくしゃみをしたとか。


 しなかったとか。


 そんなことを。


 このときの私は。


 もちろん。


 知る由もなかった。

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