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新たな日常と、新たな出会い。


 朝。


 鳥のさえずりが、窓の外から聞こえてくる。


 カーテンの隙間から差し込む朝日が、床に細長い光を描いていた。


 新しい部屋。


 新しいベッド。


 新しい生活。


 そして――。


「師匠」


「…………」


「起きてください」


「…………」


「朝ですよ」


「…………」


「師匠?」


「…………死んだ」


「喋ってます」


「…………なら、まだ寝ている」


「それも喋ってます!」


 私は、ベッドの横に立っていた。


 もちろん、自分のベッドではない。


 師匠の寝室だ。


 昨夜。


 師匠は私の部屋を訪ねてきて、しばらく故郷――日本の話をした。


 その後、ちゃんと自分の部屋へ戻った。


 そこまではいい。


 問題は今朝だ。


 朝食を作り終えても起きてこない。


 仕方なく部屋へ呼びに来たところ。


 戦禍の魔姫。


 世界に八人しか存在しないオクトマギアの一人。


 単身で軍勢を退けたことすらあるという、世界最高峰の魔法使い。


 レヴィア・クローデルは。


 布団に包まり。


 完全に芋虫になっていた。


「師匠」


「あと五分」


「さっきも聞きました」


「では十分」


「増やさないでください」


「交渉だ」


「成立してません」


「弟子よ」


「何ですか」


「これは修行だ」


「何のです?」


「戦禍の魔姫を起こす修行」


「ただの寝坊です!」


 布団を引っ張る。


 動かない。


 もう少し強く引っ張る。


 やはり動かない。


「師匠、離してください!」


「嫌だ」


「子供ですか!」


「この布団は私のものだ」


「知ってます!」


「ならば、所有者の意思を尊重しろ」


「朝食が冷めます!」


 その言葉に。


 布団の中が、ぴくりと動いた。


「……朝食?」


「作りました」


「何を?」


「パンと卵とスープです」


「肉は?」


「朝から重いです」


「そうか……」


 再び動かなくなった。


「師匠」


「肉がない」


「そこまで落ち込みます?」


「私には朝から肉を食べる権利がある」


「ありません」


「戦禍の魔姫だぞ」


「称号は朝食に関係ありません!」


「オクトマギアだ」


「もっと関係ありません!」


「偉いぞ」


「自分で言わないでください!」


 私は師匠の布団を掴んだ。


 思い切り引っ張る。


「起きてください!」


「嫌だ」


「もう知りませんよ!」


「待て」


「起きるんですか?」


「いや」


「じゃあ何です!」


「リリアも入るか?」


「入りません!」


「暖かいぞ」


「知りません!」


「一人分くらい空いている」


「二度寝に誘わないでください!」


 結局。


 戦禍の魔姫をベッドから引きずり出すまでに、さらに十五分かかった。


     ◇


「美味い」


「そうですか」


「ああ」


「なら、もう少し早く起きてください」


「善処する」


「それ、セレナ様にも信用されてませんでしたよね?」


「ミネルは疑り深い」


「師匠が信用されてないだけだと思います」


「酷い弟子だ」


 食卓を挟み、私と師匠は朝食を食べていた。


 窓の外には、朝日に照らされた草原が広がっている。


 昨日までなら。


 この時間、私は学院寮の食堂にいた。


 大勢の生徒たちに囲まれて。


 聞こえてくる会話をぼんやり聞きながら、一人で朝食を食べていた。


 今は違う。


 目の前には師匠がいる。


 眠そうな顔でパンを齧り。


 時々、スープを飲み。


 私の皿に残っている卵を狙っている。


「師匠」


「なんだ」


「私の卵を見ないでください」


「見ていない」


「ずっと見てます」


「観察しているだけだ」


「何を?」


「お前が食べきれるか」


「食べられます」


「無理をするな」


「してません」


「弟子の健康管理も師匠の務めだ」


「自分の朝食は全部食べたからって、もっともらしいことを言わないでください」


「一口でいい」


「嫌です」


「半分」


「増えてます」


「では交換しよう」


「何と?」


 師匠は自分の皿を見る。


 空だった。


「愛情」


「いりません」


「即答か」


「卵の方がいいです」


「私の愛情は卵以下なのか?」


「朝食の話です!」


 師匠は不満そうに頬杖をついた。


 私は卵を口へ運ぶ。


 すると。


「…………」


「そんな目で見ないでください」


「見ていない」


「すごく見てます」


「美味そうだな」


「師匠の分も同じ味です」


「人のものは美味そうに見える」


「子供ですか?」


 私はため息をついた。


 そして。


 残っていた卵を半分に切る。


 師匠の皿へ置いた。


「……いいのか?」


「そんな顔されたら食べづらいです」


「そうか」


 師匠は嬉しそうに食べた。


「美味い」


「同じ味ですって」


「違う」


「何が?」


「弟子からもらった」


「……そうですか」


 何となく。


 顔を見られなくなった。


「顔が赤いぞ」


「朝日です」


「私も昨日、それに似た言い訳をしたな」


「うるさいです」


「師匠に向かって?」


「うるさい師匠です」


 レヴィアは楽しそうに笑った。


 こうして。


 師匠との生活、二日目の朝が始まった。


     ◇


「それで」


 朝食を終えた私は、食器を片づけながら師匠へ尋ねた。


「今日から修行ですか?」


「ああ」


 長椅子に寝転がりながら、師匠が答えた。


「楽しみにしておけ」


「その姿で言われても説得力がありません」


「今は休憩中だ」


「起きてから一時間も経ってませんよ?」


「人間には休息が必要だ」


「師匠はさっき『元は人間』みたいなこと言ってましたよね」


「細かいことを覚えているな」


「気になりますから」


「そのうち話す」


 師匠は片手をひらひら振った。


「それより、修行の前にやることがある」


「何です?」


「物置の整理だ」


「…………」


「…………」


「修行は?」


「その後だ」


「どうして急に物置を?」


「昨日、お前の荷物を置く場所を作ろうと思ってな」


「私の部屋に置けますけど」


「本が増えるだろう」


「まだ十二冊しかありません」


「増やせ」


「命令ですか?」


「ああ。本はいいぞ」


「セレナ様みたいですね」


「やめろ。あいつと一緒にするな」


「どうしてです?」


「ミネルは本を捨てない」


「師匠は?」


「読んだらその辺に置く」


「もっと悪いですよ!」


 師匠は起き上がった。


「とにかく来い」


「はいはい」


「返事は一回」


「子供扱いしないでください」


「なら、はいと一回だけ言え」


「嫌です」


「反抗期か」


「弟子入り二日目です!」


     ◇


 問題の物置は、一階の廊下の突き当たりにあった。


 師匠が扉の前で止まる。


「ここだ」


「普通の扉ですね」


「ああ」


「何が入ってるんです?」


「色々だ」


「例えば?」


「忘れた」


「開けるのが怖くなってきました」


「安心しろ。危険なものはない」


「本当ですか?」


「ああ」


「師匠、目を見てください」


「…………」


「目を逸らしましたね?」


「眩しかった」


「廊下ですよ!」


 私は一歩下がった。


「やっぱり開けたくありません」


「大丈夫だ」


「師匠の大丈夫は信用できません」


「昨日から酷くないか?」


「昨日までの行動を思い出してください」


「何かしたか?」


「覚えてないんですか!?」


「細かいことは気にしない主義だ」


「私は気にします!」


 師匠は扉の取っ手へ手を掛けた。


「では、開けるぞ」


「ちょっと待ってください!」


「三」


「数えるんですか!?」


「二」


「待って!」


「一」


「師匠!」


「開ける」


 扉が開いた。


 そして。


 雪崩が起きた。


「――きゃあっ!?」


 本。


 箱。


 杖。


 鍋。


 何かの骨。


 壊れた椅子。


 丸い金属板。


 謎の人形。


 大量の紙。


 見たことのない道具。


 それら全てが、一斉に廊下へ流れ出してきた。


「師匠!」


「危ない」


 レヴィアの腕が私の腰へ回る。


 次の瞬間には身体が宙へ浮き。


 師匠に抱えられたまま、数歩後ろへ移動していた。


 目の前を大量の物が流れていく。


 数秒後。


 ようやく止まった。


「…………」


「…………」


 廊下が埋まった。


「師匠」


「なんだ」


「危険なものはないって言いましたよね?」


「怪我はなかった」


「そういう意味じゃありません!」


「私が守っただろう」


「自分で原因を作った人が言わないでください!」


 師匠は私を床へ降ろした。


「それと」


「なんだ?」


「いつまで腰に手を回してるんですか?」


「安全確認だ」


「もう安全です」


「本当に?」


「離してください!」


「つれないな」


 師匠がようやく手を離した。


 私は改めて、廊下を埋め尽くす物を見る。


「……本当に何なんですか、これ」


「私の持ち物だ」


「それは分かります!」


 足元に転がってきた、小さな箱を拾う。


 開ける。


 中には、黒い四角形の板が入っていた。


「これは?」


「…………」


 師匠の顔が変わった。


「師匠?」


「懐かしいな」


 私の手から、そっと受け取る。


 黒い板。


 片面は艶があり。


 側面には小さな突起。


「魔道具ですか?」


「違う」


「では?」


「スマートフォンだ」


「すまーとふぉん?」


「ああ」


「昨日言っていた、遠くの人と話せる板ですか?」


「そうだ」


 私は驚いた。


「本物なんですか!?」


「いや」


「え?」


「私が作った偽物だ」


「偽物?」


「ああ」


 師匠は黒い板を見つめる。


「こちらへ来て、しばらくした頃にな。どうしても故郷の物が恋しくなって、記憶を頼りに作った」


「動かないんですか?」


「時計くらいは表示できた」


「すごいじゃないですか」


「通話はできない。誰にかけることもできないからな」


 その言葉に。


 私は何も言えなくなった。


 誰にかけることもできない。


 遠くの人と話せる道具。


 でも。


 師匠が話したい相手は。


 別の世界にいる。


「……捨てるんですか?」


「いや」


 師匠は少し笑った。


「これは残す」


「そうですか」


「ああ」


 私は頷いた。


 その後も。


 物置からは色々な物が出てきた。


「これは?」


「炊飯器」


「何をする道具です?」


「米を炊く」


「鍋では駄目なんですか?」


「日本人には必要だ」


「動くんですか?」


「爆発する」


「捨てましょう」


「待て」


「捨てます」


「思い出だぞ」


「爆発する思い出は危険です!」


 次。


「これは?」


「炬燵」


「机に布団がついてます」


「冬の最終兵器だ」


「武器なんですか?」


「ある意味ではな」


「何と戦うんです?」


「寒さ」


「暖炉でいいのでは?」


「分かっていないな」


「何がです?」


「炬燵は人を駄目にする」


「じゃあ駄目じゃないですか!」


「それがいい」


「よくありません!」


 次。


「この人形は?」


「私だ」


「師匠?」


「ああ」


「どうして師匠の人形が?」


「昔、どこかの街で売られていた」


「勝手に?」


「ああ」


「人気なんですね」


「買ってみた」


「自分で自分の人形を?」


「記念だ」


 私は人形を見る。


 黒い髪。


 赤い目。


 黒い外套。


 手には杖。


 ただし。


「……顔、怖いですね」


「ああ」


「師匠、こんなに怖くないですよね」


「そうか?」


「はい」


 人形と師匠を見比べる。


「本物の方が、もう少しだらしないです」


「褒めてないな?」


「褒めてません」


「破門にするぞ」


「便利に使わないでください」


 次。


「これは?」


「ゲーム機」


「動きます?」


「動く」


「本当に?」


「ああ」


「何ができるんです?」


「魔物を倒す」


「現実でできるじゃないですか」


「違うんだ」


「何が?」


「ゲームでは、倒した魔物から必ず素材が出る」


「現実では?」


「運だ」


「そこですか?」


「重要だぞ」


 次から次へと。


 師匠の過去が出てきた。


 日本を再現しようとして作った物。


 この世界で手に入れた物。


 昔の服。


 壊れた魔道具。


 誰かからもらった手紙。


 そして。


「師匠」


「なんだ」


「これ、日記ですか?」


 私が一冊の古い本を持ち上げる。


 その瞬間。


 師匠が消えた。


「え?」


 次の瞬間には。


 私の手から日記がなくなっていた。


 師匠が部屋の反対側に立っている。


 手には日記。


「それは駄目だ」


「速っ!?」


「見るな」


「見ませんよ!」


「本当に?」


「はい」


「絶対に?」


「そんなに言われると気になります」


「燃やすか」


「駄目です!」


「なぜ?」


「思い出なんでしょう?」


「黒歴史だ」


「クロレキシ?」


「故郷の言葉だ。人に見られると死にたくなる過去の記録を言う」


「ますます気になります」


「やはり燃やそう」


「駄目ですって!」


 私は師匠の腕へ飛びついた。


「待ってください!」


「離せ」


「燃やすのは禁止です!」


「これは存在してはいけない」


「何が書いてあるんです?」


「言わない」


「魔法?」


「違う」


「恋愛?」


「違う!」


「今、反応しましたね」


「していない」


「顔が赤いです」


「朝日だ」


「ここ、窓ありませんよ?」


「…………」


「師匠?」


「弟子よ」


「何です?」


「世の中には、知らない方が幸せなことがある」


「誤魔化しましたね?」


「大人の知恵だ」


「絶対違います」


 結局。


 日記は師匠の部屋へ厳重に保管されることになった。


 いつか見てみたい。


 そう思ったのは。


 師匠には秘密だ。


     ◇


 物置の整理が終わった頃には。


 太陽は、すっかり高く昇っていた。


「疲れました……」


 私は家の前の草原に座り込んだ。


「だらしないな」


「誰の物置のせいですか!」


「私のだ」


「分かってるなら言わないでください!」


 師匠は私の隣へ座った。


 風が吹く。


 草原が揺れる。


 遠くには森。


 その向こうには青い山々。


「さて」


 師匠が言った。


「修行を始めるか」


「今からですか?」


「ああ」


「休憩は?」


「さっきしただろう」


「いつです?」


「物置の整理中」


「師匠が昔の手紙を読み始めた時間を休憩に数えないでください!」


「私は休んだ」


「私は片づけてました!」


「偉いな」


「他人事みたいに!」


 師匠が笑う。


「安心しろ。今日は簡単なことしかしない」


「本当に?」


「ああ」


「どんな修行です?」


「走る」


「……走る?」


「ああ」


 師匠が立ち上がる。


「身体強化の基本だ」


 先ほどまでのふざけた空気が。


 少しだけ変わった。


「リリア」


「はい」


「お前の魔力は、外へ放つことに向いていない」


「はい」


「だが、自分自身へ使うなら話は別だ」


 師匠が私の胸元を指す。


「魔力を身体へ流せ」


「前にやったように?」


「ああ。ただし、今日は足だけだ」


「足」


「筋肉。骨。関節。そして感覚」


 師匠が自分の脚を軽く叩く。


「そこへ魔力を流す」


「それだけですか?」


「それだけだ」


「簡単そうです」


「そう思うか?」


 師匠が笑った。


 嫌な笑いだった。


「……何ですか?」


「やってみろ」


 私は目を閉じた。


 魔力を感じる。


 胸の奥。


 温かい何か。


 それを。


 ゆっくりと下へ。


 腰。


 太腿。


 膝。


 脛。


 足首。


「そうだ」


 師匠の声が聞こえる。


「急ぐな」


「はい」


「水を流すように」


 魔力が。


 足先まで届く。


「できました」


「なら走れ」


「どこまで?」


 師匠が遠くを指差す。


 百歩ほど先に、大きな木が一本立っている。


「あそこまで」


「分かりました」


「ただし」


「はい?」


「全力で行け」


「全力?」


「ああ」


「大丈夫ですか?」


「私がいる」


 師匠が笑う。


「行け」


 私は地面を蹴った。


 そして。


「――え?」


 景色が消えた。


 風が。


 顔を殴った。


「きゃああああああああっ!?」


 速い。


 速すぎる。


 足が地面を蹴るたび。


 身体が前へ飛ぶ。


 止まれない。


「師匠おおおおおっ!?」


「足に力を入れろ!」


「入れてます!」


「もっとだ!」


「無理です!」


 木が迫る。


「ぶつかる!」


 目を閉じた。


 その瞬間。


 身体が、柔らかい何かへ飛び込んだ。


「おっと」


 師匠の声。


 目を開ける。


 私は。


 師匠に抱き止められていた。


「……え?」


「速かったな」


「どうしてここに?」


「走ってきた」


「私より速く?」


「ああ」


「いつ?」


「お前が叫んでいる間に」


「…………」


 化け物だ。


「誰が化け物だ」


「声に出てました!?」


「ああ」


「すみません!」


「気にするな。よく言われる」


 師匠の腕が。


 私の背中と膝裏に回っている。


「……師匠」


「なんだ」


「降ろしてください」


「足が震えているぞ」


「誰のせいですか!」


「修行の成果だ」


「始めて五分ですよ!」


「才能があるな」


「褒めて誤魔化さないでください!」


「本当に褒めている」


 師匠の声が。


 少しだけ真面目になった。


「お前はすごいぞ、リリア」


「……え?」


「初めてで、あれだけ魔力を足へ集中できる者は少ない」


「でも、止まれませんでした」


「最初からできる必要はない」


 師匠は私を地面へ降ろした。


「できないから、私がいる」


 その言葉に。


 胸の奥が。


 少しだけ熱くなった。


「……はい」


「もう一度やるか?」


「少し休んでからで」


「駄目だ」


「どうしてです!?」


「今の感覚を忘れる前に、もう一度だ」


「さっき優しかったのに!」


「気のせいだ」


「詐欺です!」


「ほら、行け」


「師匠!」


「今度は止まれ」


「簡単に言わないでください!」


 こうして。


 私の初めての本格的な修行が始まった。


 二度目。


 止まれず、師匠へ飛び込んだ。


 三度目。


 転んだ。


 師匠が笑ったので蹴った。


 避けられた。


 四度目。


 少しだけ速度を落とせた。


 五度目。


 師匠が途中に立っていたので。


「邪魔です!」


「避けろ」


「無理です!」


「なら捕まえてみろ」


「絶対ですからね!」


 私は方向を変えた。


 師匠が消える。


「どこですか!?」


「後ろだ」


「え!?」


 振り返る。


 いない。


「右」


「どこ!?」


「左」


「師匠!」


「上だ」


「上!?」


 見上げる。


 本当に浮いていた。


「ずるいです!」


「魔法使いだからな」


「降りてきてください!」


「捕まえられたらな」


「絶対捕まえます!」


 いつの間にか。


 私は笑っていた。


 魔法を使うことが。


 楽しかった。


 今まで。


 魔法は、私を傷つけるものだった。


 失敗するものだった。


 できないことを証明するものだった。


 でも今は。


 違う。


「もっと足へ流せ!」


「はい!」


「右!」


「はい!」


「止まれ!」


「――っ!」


 足へ力を込める。


 地面を滑る。


 土が舞う。


 それでも。


 止まった。


「…………」


 私は自分の足を見る。


「止まれた」


「ああ」


「師匠!」


 顔を上げる。


「止まれました!」


「ああ」


 師匠は。


 とても嬉しそうに笑っていた。


「よくできたな、リリア」


 その瞬間。


 胸の奥が。


 今まで魔法を成功させたどんなときより。


 温かくなった。


     ◇


 翌日。


「学院へ行くぞ」


 朝食を食べながら。


 師匠が突然言った。


「学院へ?」


「ああ」


「どうしてです?」


「お前の特別研修生としての手続きが終わったらしい」


「セレナ様から?」


「手紙が来た」


「どこに?」


「燃やした」


「何でですか!?」


「読んだから」


「返事は?」


「していない」


「してください!」


「面倒だ」


「だから信用されないんですよ!」


 結局。


 私たちは学院へ向かうことになった。


     ◇


 学院の門をくぐった瞬間。


 視線が集まった。


「……師匠」


「なんだ」


「見られてます」


「いつものことだ」


「私は違います」


「そのうち慣れる」


「またそれですか」


 生徒たちが。


 こちらを見ている。


 正確には。


 私と。


 隣を歩く師匠を。


「あれ……リリア?」


「隣にいるのって……」


「嘘だろ」


「戦禍の魔姫?」


 声が聞こえる。


 私は少しだけ俯いた。


 すると。


「前を向け」


 師匠が言った。


「でも」


「お前は何も悪いことをしていない」


「はい」


「それに」


 師匠の手が。


 私の頭へ置かれる。


「私の弟子だろう」


「……人前で触らないでください」


「嫌か?」


「恥ずかしいんです」


「なら慣れろ」


「慣れません!」


 周囲がざわついた。


「今、弟子って……」


「本当だったの?」


「リリアが?」


 そのとき。


「リリア!」


 声がした。


 振り返る。


 同じクラスの少女が走ってくる。


「本当に辞めるの!?」


「辞めないよ」


「え?」


「特別研修生になるの」


 私は説明した。


 学院に籍を残すこと。


 師匠の家で修行すること。


 時々、学院にも来ること。


「じゃあ、もう会えないわけじゃないんだ」


「うん」


 少女が安心したように笑う。


 その後。


 他の生徒たちも集まってきた。


「本当にヴァルマギア様の弟子なの?」


「どうやって?」


「何を教わるの?」


「一緒に住んでるって本当?」


「えっと……」


 質問が多い。


 困っていると。


 師匠が私の肩を抱いた。


「私が気に入った」


「師匠!」


「事実だろう」


「言い方があります!」


「こいつは私の弟子だ」


 師匠が堂々と言う。


「誰よりも面白い才能を持っている」


 周囲が静かになる。


 私は。


 何も言えなかった。


「だから、私が育てる」


 その言葉は。


 あまりにも迷いがなかった。


「……師匠」


「なんだ」


「恥ずかしいです」


「なぜだ」


「人前で言うからです!」


「事実だぞ」


「そういう問題じゃありません!」


 師匠が笑う。


 周りの生徒たちも。


 少しずつ笑い始めた。


 その日。


 私は。


 初めて。


 落ちこぼれではなく。


 戦禍の魔姫の弟子として。


 学院のみんなと話した。


     ◇


 夕方。


 用事を終え。


 私と師匠は、学院の廊下を歩いていた。


「疲れました」


「何もしていないだろう」


「質問攻めにされました」


「人気者だな」


「師匠のせいです」


「私のおかげだ」


「そういうことにしておきます」


 西日が。


 長い廊下を橙色に染めている。


 生徒たちの姿も少ない。


 私たちは、学院の正門へ向かっていた。


 そのとき。


「――あら」


 女の声がした。


 柔らかく。


 甘く。


 けれど。


 なぜか。


 耳ではなく。


 頭の中へ直接響いたような声だった。


「珍しいものを見つけたわ」


 足を止める。


 廊下の先。


 夕日に染まった窓辺に。


 一人の女性が立っていた。


 長い髪。


 淡い紫色。


 いや。


 見る角度によって。


 銀にも。


 青にも見える。


 瞳は紫。


 細く。


 どこか眠たげで。


 微笑んでいるのに。


 何を考えているのか分からない。


「……誰ですか?」


 私が小さく尋ねる。


 師匠が答えなかった。


「師匠?」


 横を見る。


 レヴィアの顔から。


 笑みが消えていた。


「久しぶりね」


 女性が言う。


「レヴィア」


「……メイヴ」


 師匠が、その名を呼んだ。


 女性――メイヴは。


 ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


 足音がしない。


 まるで。


 夢の中を歩いているようだった。


「何年ぶりかしら」


「忘れた」


「相変わらずね」


「お前もな」


 メイヴの紫色の瞳が。


 私へ向く。


「この子?」


「何がだ」


「あなたが拾った、可愛い弟子」


「拾ってはいない」


「あら」


 メイヴが笑う。


「もう随分、気に入っているのね」


「分かるのか?」


「ええ」


 メイヴの指が。


 自分の唇へ触れる。


「だって、あなたの夢が」


 少しだけ。


 笑みが深くなった。


「前より、寂しくなくなったもの」


 師匠の目が細くなる。


「勝手に覗くな」


「覗いていないわ」


「嘘をつけ」


「夢の方から、私に見てほしそうにしていたの」


「そんなわけがあるか」


「ふふ」


 メイヴが笑う。


 私は。


 二人の間にある。


 不思議な空気を感じていた。


 敵ではない。


 でも。


 セレナ様と師匠のような関係とも違う。


「リリア」


「はい?」


 突然。


 名前を呼ばれた。


「どうして私の名前を?」


「知っているから」


「どこで?」


「夢で」


「……私の?」


「さあ」


 メイヴは笑った。


「誰の夢だったかしら」


 分からない。


 何を言っているのか。


 でも。


 背筋が。


 少しだけ冷たくなった。


「怖がらせるな」


 師匠が。


 私の前へ半歩出た。


 メイヴが目を細める。


「あら」


「なんだ」


「庇ったの?」


「悪いか?」


「いいえ」


 メイヴの笑みが。


 少しだけ。


 本物になった気がした。


「嬉しいの」


「何がだ」


「あなたにも、守りたいものができたのね」


「…………」


「昔は」


 メイヴが、師匠を見る。


「何も失いたくないから、何も持たないふりをしていたのに」


 師匠は答えなかった。


 夕日が。


 三人の影を長く伸ばしている。


「……メイヴ」


「なあに?」


「それ以上言うなら、燃やすぞ」


「怖い」


「顔が笑っている」


「だって」


 メイヴが。


 私を見る。


「今のあなたは、少し可愛いから」


「燃やす」


「やめてください、師匠!」


 私は師匠の腕を掴んだ。


「学院ですよ!」


「問題ない」


「あります!」


「ミネルが直す」


「セレナ様に怒られます!」


「慣れている」


「慣れちゃ駄目です!」


 メイヴが。


 声を出して笑った。


「ふふっ……本当に、変わったのね」


「変わっていない」


「そう?」


「ああ」


「なら」


 メイヴは。


 私の前まで歩いてきた。


 近い。


 紫色の瞳が。


 私を覗き込む。


「この子を、私にちょうだい」


「断る」


 師匠が即答した。


「まだ何も言ってませんよ、師匠」


「断る」


「二回言いましたね」


「駄目だ」


「三回目ですね」


 メイヴが笑う。


「冗談よ」


「お前の冗談は分かりづらい」


「あなたに言われたくないわ」


 その点は。


 私も同意した。


「リリア」


 メイヴが、もう一度私の名前を呼ぶ。


「はい」


「また会いましょう」


「……はい」


「次は」


 メイヴの指先が。


 私の額へ。


 触れる寸前で止まる。


「夢の中で」


 瞬きをした。


 次の瞬間。


 彼女はいなかった。


「……え?」


 廊下には。


 私と師匠しかいない。


「消えた?」


「幻だ」


「最初から?」


「おそらくな」


「本人はどこに?」


「知らん」


「知らないんですか?」


「あいつはいつもそうだ」


 師匠がため息をつく。


「突然現れて。意味深なことを言って。勝手に消える」


「変わった人ですね」


「オクトマギアは変人ばかりだ」


「師匠もですよね?」


「私は違う」


「セレナ様に聞いてみます」


「やめろ」


「どうしてです?」


「絶対に肯定する」


「自覚あるじゃないですか」


 師匠は何も言わなかった。


 私は。


 メイヴがいた場所を見る。


 もう。


 何もない。


「幻夢の魔姫……」


「ああ」


「ミラマギア」


「そうだ」


「師匠」


「なんだ」


「本当に夢に出てきますか?」


「分からん」


「怖いんですけど」


「なら」


 師匠の手が。


 私の頭へ置かれる。


「今日は一緒に寝るか?」


「嫌です」


「即答か」


「でも」


「なんだ?」


 私は。


 師匠の袖を掴んだ。


「寝るまでは、近くにいてください」


 師匠が目を瞬いた。


「……怖いのか?」


「少しだけ」


「そうか」


 師匠は。


 嬉しそうに笑った。


「なら、仕方ないな」


「どうして嬉しそうなんですか?」


「気のせいだ」


「絶対嬉しいですよね?」


「さあな」


 師匠が歩き出す。


 私は、その隣を歩く。


 夕日の中。


 二人で。


 家へ帰る。


「師匠」


「なんだ」


「今日の夕食、何がいいですか?」


「肉」


「昨日も肉でした」


「毎日でいい」


「駄目です」


「なぜだ」


「野菜も食べてください」


「嫌だ」


「子供ですか?」


「戦禍の魔姫だ」


「関係ありません」


「オクトマギアだぞ」


「もっと関係ありません」


「偉いぞ」


「はいはい」


「返事は一回」


「はいはい」


「反抗期か」


「弟子入り三日目です!」


 私の声が。


 夕暮れの学院に響いた。


 魔法を使えなかった私が。


 世界最高峰の魔女の弟子になり。


 初めて魔法を楽しいと思って。


 そして。


 また一人。


 不思議な魔女と出会った。


 戦禍の魔姫。


 叡智の魔姫。


 幻夢の魔姫。


 世界に八人しかいない、オクトマギア。


 あのときの私は。


 まだ知らなかった。


 師匠の弟子になったことで。


 これまで遠い伝説の中にしか存在しなかった彼女たちと。


 次々に出会っていくことになるなんて。


 そして。


 その出会いが。


 私自身の運命だけではなく。


 師匠が長い間、一人で抱えてきた過去さえ。


 少しずつ変えていくことになるなんて。


 もちろん。


 そんなことを知らない私は。


 ただ一つだけ。


 その日の夜。


 師匠へ尋ねた。


「師匠」


「なんだ?」


「メイヴ様って、本当に夢に出てくるんですか?」


「出るかもしれないな」


「…………」


「怖いか?」


「別に」


「そうか」


「…………」


「おやすみ」


「待ってください」


「なんだ?」


「……もう少し、ここにいてください」


「仕方ないな」


「何で嬉しそうなんですか?」


「気のせいだ」


「笑ってますよね?」


「笑っていない」


「こっち見てください」


「嫌だ」


「師匠!」


 結局。


 師匠は。


 私が眠るまで、ベッドの隣にいた。


 そして翌朝。


 目を覚ました私は。


 ベッドの横で眠っている師匠を見つけ。


「……何で床で寝てるんですか」


「…………」


「師匠」


「あと五分」


「自分の部屋で寝てください!」


 戦禍の魔姫との生活は。


 やっぱり。


 静かにはなりそうになかった。

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