弟子入りします。
眩い紫色の光が、視界いっぱいに広がった。
「――っ!」
足元の地面が消える。
身体だけが空中へ置き去りにされ、胃の中身が一拍遅れて追いかけてくるような浮遊感に襲われた。
思わず、私は隣に立つ師匠の腕へしがみついた。
「師匠!」
「なんだ」
「これ、本当に大丈夫なんですか!?」
「大丈夫だ」
「地面がないんですけど!」
「転移中だからな」
「それのどこが大丈夫なんですか!」
「私がいる」
耳元で、師匠が落ち着いた声を出した。
その言葉だけなら、少し格好いい。
私たちが学院の裏庭から、学院長の許可もなく転移しようとしているのでなければ。
「師匠、行き先は本当に学院長室なんですよね?」
「ああ」
「壁の中に出たりしません?」
「おそらく」
「おそらく!?」
「安心しろ。過去に三度ほどしか失敗していない」
「結構失敗してますよね!?」
「全部、昔の話だ」
「どのくらい昔ですか?」
「最後は半年前だな」
「最近じゃないですか!」
私が叫んだ直後。
身体を包んでいた紫の光が、一気に収束した。
消えていた床の感触が、靴の裏へ戻ってくる。
「わっ」
勢い余って、私は前へ倒れかけた。
けれど、床へ手をつくより先に、腰へ腕が回された。
「危ないな」
師匠が片腕で私を支えている。
顔を上げれば、すぐ目の前に師匠の顔があった。
艶のある黒髪。
赤い瞳。
唇の端には、いつもの余裕ありげな笑み。
「……助かりました」
「ああ」
「もう離してもらって大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「もう少し、このままでもいいぞ」
「離してください」
「つれない弟子だな」
師匠は不満そうに言いながらも、素直に腕を解いた。
私は乱れた制服の裾を整え、周囲を見渡す。
そこは、学院の裏庭ではなかった。
広い部屋だった。
床には深い藍色の絨毯が敷かれ、天井からは魔石を使った照明が柔らかな光を落としている。
壁一面を埋め尽くしているのは、巨大な本棚。
革張りの魔導書。
金属板を束ねた古代文書。
封蝋が押された巻物。
意味の分からない文字が刻まれた石板。
背丈より高く積み上げられた紙の束。
どこを見ても、本と書類しかない。
本棚に収まりきらない資料は床へ積まれ、いくつかの山は今にも崩れそうに傾いていた。
部屋の奥には、王都を一望できる大きな窓がある。
学院の白い校舎。
尖塔。
その向こうに広がる、赤や灰色の屋根。
雲の影が、街の上をゆっくり流れていた。
「ここは……」
「学院長室だ」
師匠が答えた。
予想していた答えなのに、身体が固まった。
ゆっくりと、部屋の中央へ目を向ける。
書類の山に囲まれた大きな机。
その奥に、一人の女性が座っていた。
淡い銀金色の髪を、後頭部で緩くまとめている。
長い前髪の一部は頬へ垂れ、細い銀縁眼鏡の奥には、深い青色の瞳。
黒を基調としたローブには、白と金の糸で複雑な魔法陣が刺繍されていた。
容姿だけを見れば、二十代後半ほどに見える。
けれど、その静かな目には、人の一生では到底得られないほどの知識と年月が沈んでいるようだった。
王立アルセリア魔法学院学院長。
世界に八人しかいない、オクトマギアの一人。
魔法理論。
歴史。
古代文明。
失われた言語。
魔物や薬草。
この世界に存在するあらゆる知識に通じているとされる魔女。
本名、セレナ・アルヴェリス。
そして、人々が敬意と畏怖を込めて呼ぶ異名は。
――叡智の魔姫、ミネルマギア。
「…………」
セレナ様は、無言で私たちを見ていた。
最初に私を見る。
次に、師匠を見る。
それから、私の腰にまだ添えられていた師匠の手へ視線を落とした。
「レヴィア」
「なんだ」
「手を離しなさい」
「もう離している」
「今、離したのでしょう」
「細かいな」
「それから」
セレナ様の声が、わずかに低くなる。
「扉を使いなさい」
「面倒だった」
「扉を使いなさい」
「聞こえている」
「ならば、なぜ使わないの?」
「歩くと疲れる」
「裏庭からここまで、階段を上っても五分よ」
「五分も歩くのか?」
「歩きなさい」
「次からな」
セレナ様が、机の端に置かれていた一冊の帳面を開いた。
「あなたが私の前で『次から』と言った回数は、これで百四十八回目ね」
「数えているのか?」
「私は記録を大切にしているの」
「暇なんだな」
セレナ様の眉が、ほんのわずかに動いた。
私は反射的に背筋を伸ばした。
「師匠」
「なんだ」
「謝った方がいいと思います」
「なぜ?」
「今、学院長を暇人みたいに……」
「暇人とは言っていない」
「ほぼ言ってましたよね?」
「私はただ、暇なんだなと確認しただけだ」
「同じです!」
「リリア・アステル」
「は、はい!」
セレナ様に名前を呼ばれ、私は声を裏返した。
セレナ様は、少しだけ目元を和らげた。
「あなたが謝る必要はないわ」
「そうだろう」
「あなたは黙っていなさい、レヴィア」
「はい」
師匠が即座に黙った。
戦禍の魔姫が。
一人で軍勢を退けるオクトマギアが。
一言で黙らされた。
この人、すごい。
「まったく……」
セレナ様は小さく息を吐き、机の上の紙を一枚持ち上げた。
「話はすでに聞いているわ」
「なら早いな」
「あなたが一方的に書き置きを転送してきただけでしょう」
「内容は伝わった」
「『面白い弟子を見つけた。連れて帰る』の一文だけで、何を理解しろと言うの?」
「全てだ」
「あなたの中では、そうなのでしょうね」
セレナ様は紙を机へ戻した。
「リリア」
「はい」
「先ほど、この女から弟子入りを求められたのでしょう」
「はい」
「そして、あなたはそれを受けた」
「……はい」
改めて聞かれると、少し緊張する。
けれど、返事に迷いはなかった。
「私からも、念のため確認させてもらうわ」
セレナ様の青い瞳が、真っ直ぐ私を見る。
「レヴィアに脅されたり、断ったら燃やすと言われたりはしていない?」
「言っていない」
「あなたは黙っていなさい」
「はい」
師匠の返事が、先ほどより少しだけ不満そうだった。
「脅されてはいません」
「本当に?」
「断ってもいいとは言われました」
「そう」
「ただ、断ったら毎日誘いに来るとも言われました」
「レヴィア」
「なんだ」
「それは一般的に、断らせる気がないと言うのよ」
「断る自由は与えた」
「諦める自由を自分へ与えなかっただけでしょう」
「気に入ったからな」
「物のように言わないの」
「弟子としてだ」
師匠がそう言って、私の頭へ手を置いた。
ぽん、と軽く撫でられる。
「私の弟子だ」
「分かりましたから、いちいち触らないでください」
「嫌か?」
「……嫌というか」
セレナ様の前だ。
恥ずかしい。
けれど、師匠の手を本気で払いのけるほど嫌でもなかった。
「人前なので」
「二人きりならいいのか?」
「そういう意味じゃありません!」
セレナ様が、眼鏡越しに私たちを見比べる。
「ずいぶん早く懐かれたものね」
「懐いてません」
「そうだ」
師匠と声が重なった。
私たちは同時に顔を見合わせる。
「師匠まで否定するんですか?」
「まだ弟子になって一時間も経っていないからな」
「では、これから懐かせるつもりなの?」
セレナ様が聞く。
「当然だ」
「当然なんですか!?」
「弟子とは、師匠に懐くものだろう」
「初めて聞きました」
「今、私が決めた」
「勝手に決めないでください!」
私が言い返すと、師匠は満足そうに笑った。
セレナ様は、こめかみに指を当てている。
「……思っていたより相性は悪くなさそうね」
「どこを見てそう思ったんですか?」
「レヴィアにこれだけ言い返せるなら、少なくとも一方的に振り回されるだけではなさそうだから」
「十分振り回されてます」
「これからもっと増えるわ」
「増えるんですか?」
「止める気はないのか、ミネル」
「あなたが私の言うことを聞くのなら、今頃もっとまともに生きているでしょうね」
「私は十分まともだ」
セレナ様が私を見る。
「今の言葉を覚えておきなさい」
「はい」
「覚えるな」
「どっちですか!」
部屋に私の声が響いた。
セレナ様の口元が、ごくわずかに緩む。
冷たい人だと思っていた。
でも、どうやら違うらしい。
表情が分かりにくいだけで、私たちのやり取りを少し楽しんでいる。
「それでは、本題に入りましょう」
セレナ様が椅子から立ち上がった。
机の周りを回り、私の正面まで歩いてくる。
近くで見ると、想像していたより背が高い。
「レヴィアから、おおまかな話は聞いているわ。腕を見せてくれる?」
「はい」
私は右腕の袖を少し捲った。
セレナ様が手首へ指を添える。
肌へ触れた指先から、淡い金色の光が広がった。
光は細い糸のように腕を上り、胸元へ吸い込まれていく。
「力を抜いて」
「はい」
胸の奥に、微かな温かさを感じる。
師匠に魔力を調べられたときとは違う。
師匠の魔力は、火の近くへ立ったときのような、圧倒的な熱と力があった。
セレナ様の魔力は、水面へ落ちた雫のように静かだった。
ほとんど何も感じないまま、身体の中へ深く入り込んでくる。
「なるほど」
セレナ様の青い瞳が、少しだけ細くなった。
「あなたが興味を持つわけね」
「ああ」
師匠が私の反対側へ立つ。
「魔力の自己還流。それだけなら、過去にも例はある」
「けれど、この子の身体は還流した魔力を拒絶していない」
「むしろ、自分から取り込んでいるように見えた」
「そうね」
二人が私には分からない言葉で話し始めた。
「自己還流?」
私が尋ねると、セレナ様が手を離した。
「あなたが外へ放とうとした魔力が、途中で身体へ戻っているということよ」
「師匠からも、そう聞きました」
「普通なら、戻った魔力は身体を傷つける。実際、あなたも火炎魔法を使うときに、身体の内側が焼けるような痛みを感じていたのでしょう」
「はい」
「それは術式の性質まで、あなたの身体へ戻っていたからよ」
私は右腕を押さえた。
魔法を使うたびに感じていた痛み。
自分が未熟だからだと思っていた。
「だが、適切に制御すれば違う」
師匠が言った。
「この子は、戻ってきた魔力そのものへ極端に高い耐性と親和性を持っている」
「身体強化だけではないでしょうね」
「治癒、感覚強化、毒への抵抗。できることは多い」
「ただし」
セレナ様の声が、少し厳しくなった。
「扱いを誤れば危険よ」
師匠が眉を上げた。
「私がいる」
「だから危険なのよ」
「酷いな」
「あなたは加減を知らないでしょう」
「知っている」
「以前、初心者向けの火炎術式を教えると言って、演習場を一つ消したのは誰?」
「あれは生徒が優秀だった」
「教師の責任よ」
「私は教師ではない」
「だから余計に質が悪いの」
セレナ様は、改めて私を見た。
「リリア」
「はい」
「魔法に関して、レヴィアの見る目は確かよ」
「珍しく褒めるな」
「最後まで聞きなさい」
「はい」
「けれど、指導者としては信頼しすぎないこと」
「どちらなんですか?」
「技術と理論は信じていい。でも、修行内容については疑いなさい」
「なぜだ」
「昨日まで何も知らなかった子に、いきなり魔力を全身へ流させたのでしょう?」
「成功した」
「成功したからいいのではないわ」
「結果が全てだ」
「過程も大切よ」
「面倒だな、学者は」
「雑なのよ、戦闘屋は」
二人の視線がぶつかる。
空気が少しだけ重くなった気がした。
私は慌てて二人の間へ入る。
「け、喧嘩はやめてください」
「喧嘩ではない」
「いつものことよ」
二人が同時に答えた。
いつものことらしい。
「二人は、昔からのお知り合いなんですか?」
「ああ」
「残念ながらね」
「残念とは何だ」
「言葉通りよ」
「私はお前を友人だと思っていたが」
「…………」
セレナ様が黙った。
師匠は首を傾げる。
「違ったのか?」
「そういうことを、何でもない顔で言うのをやめなさい」
「なぜだ」
「……調子が狂うからよ」
セレナ様は眼鏡を押し上げ、顔を少し逸らした。
耳が、ほんの少しだけ赤くなっている。
師匠は本当に意味が分かっていないらしく、不思議そうな顔をしていた。
私は思った。
もしかすると。
師匠は人との距離が近いのではなく。
人との距離の測り方そのものを、少し間違えているのかもしれない。
「さて」
セレナ様は咳払いを一つした。
「弟子入りそのものは、本人同士で決めたこと。私から異論はないわ」
「最初からそう言っている」
「ただし、リリアはこの学院の生徒よ。あなたが勝手に連れ帰って、それで終わりにはできない」
「面倒だな」
「必要なことよ」
「弟子になってからも、学院へ通うんですか?」
私が尋ねる。
「通常通りではないわ」
セレナ様は机へ戻り、書類の山から数枚の紙を抜き取った。
「あなたの適性は、学院の一般的な教育内容と大きく異なる。これまでと同じ授業を受け続けても、十分な成果は期待できないでしょう」
分かってはいた。
けれど学院長本人に言われると、少しだけ胸が痛んだ。
「ただし」
セレナ様は続けた。
「学院を辞める必要もない」
「え?」
「あなたには、学院外特別研修生という立場になってもらうわ」
「特別研修生?」
「学院に籍を残したまま、外部の指導者から専門的な教育を受ける制度よ」
「そんな制度があるんですか?」
「あるわ」
師匠が書類を覗き込む。
「初めて聞いたぞ」
「七十八年前に一度だけ使われた制度だから」
「よく残っていたな」
「私を誰だと思っているの?」
「物を捨てられない女」
セレナ様の眉が動いた。
「師匠」
「なんだ」
「今のはさすがに怒られます」
「事実だろう。この部屋を見ろ」
師匠の言う通り、部屋は本と書類で溢れている。
ただし、同意していい雰囲気ではない。
「レヴィア」
「なんだ」
「この書類、あなたにも署名してもらうから」
「なぜ?」
「指導者だからよ」
「嫌だ」
「書きなさい」
「字を書くのは苦手だ」
「知っているわ」
「なら、代筆を」
「認めません」
「リリアに」
「保護責任者欄よ」
「ミネルが」
「あなたの弟子よ」
「面倒だな」
「レヴィア」
「……はい」
師匠が、しぶしぶ机へ近づいた。
ペンを持つ。
紙を睨む。
「名前を書くだけですよね?」
私が尋ねる。
「ああ」
「どうしてそんなに嫌そうなんですか?」
「字が汚い」
「どのくらい?」
「読めない」
「自分でも?」
「たまに」
「駄目じゃないですか!」
「魔法陣は綺麗に書ける」
「名前も魔法陣だと思って書いてください」
「なるほど」
師匠が少し考えたあと、紙へペンを走らせる。
セレナ様が横から覗き込んだ。
「レヴィア」
「なんだ」
「そこは住所を書く欄よ」
「先に言え」
「書いてあるでしょう」
「文字が小さい」
「あなたの視力で読めないわけがないでしょう」
「読む気がなかった」
「胸を張って言うことではないわ」
私は、少し不安になってきた。
本当にこの人の弟子になって大丈夫なのだろうか。
魔法に関しては。
きっと。
「リリア」
セレナ様が別の書類を私へ差し出す。
「あなたも、ここへ署名を」
「はい」
「内容を読んでからよ」
「あ……はい」
「今、読まずに書こうとしたな」
師匠が言った。
「師匠にだけは言われたくありません」
書類には、学院外での教育を受けること。
定期的に学院へ経過を報告すること。
学期ごとに必要な試験を受けること。
学院の図書館や施設を引き続き利用できることなどが記されていた。
「授業には出なくてもいいんですか?」
「基礎学科や座学については、必要に応じて出席してもらうわ。実技は、レヴィアの指導を優先します」
「なら、毎日学院へ来る必要はないんだな」
「ええ。ただし」
セレナ様が師匠を見る。
「月に一度、リリアの状況を報告しに来なさい」
「書面でいいか?」
「本人を連れてきて」
「面倒だ」
「来なければ、私からそちらへ行くわ」
師匠の顔が、露骨に嫌そうになった。
「それは困る」
「何か困ることでも?」
「家を見られたくない」
「なぜ?」
「特に理由はない」
「散らかっているの?」
「散らかっていない」
「では、何が困るの?」
「お前が来ると、勝手に掃除する」
「掃除されて困る理由が分からないわ」
「物の位置が変わる」
「床に置かれていた空の酒瓶を捨てただけでしょう」
「あれは目印だった」
「何の?」
「躓く場所の」
「捨てて正解ね」
師匠が私を見る。
「ミネルを家に入れるな」
「セレナ様の方が正しそうなので、お約束できません」
「裏切るのか」
「弟子になって一時間で、妙な共犯関係を求めないでください」
セレナ様が小さく笑った。
「いい弟子を見つけたわね」
「ああ」
師匠は、少し誇らしそうに答えた。
「私の弟子だからな」
「まだ何も教えてもらってませんけど」
「今後に期待しろ」
「不安の方が大きいです」
「そのうち慣れる」
「そればかりですね!」
◇
手続きが終わる頃には、窓から差し込む日差しが、少しずつ橙色へ変わり始めていた。
私と師匠が署名した書類を、セレナ様が一枚ずつ確認していく。
師匠の文字を見たときだけ、眉間の皺が深くなった。
「……この部分は、レヴィア・クローデルで合っているのよね?」
「ああ」
「古代魔族の呪詛ではなく?」
「失礼だな」
「名前だと分かるように書きなさい」
「本人が分かれば十分だ」
「公的な書類なのよ」
「私が本人だ」
「そういう意味ではありません」
セレナ様は諦めたように息を吐き、書類を揃えた。
「これで手続きは完了よ」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「礼なら、今後の成果で返してちょうだい」
「はい」
「それと」
セレナ様の視線が、少しだけ柔らかくなる。
「困ったことがあれば、いつでも学院へ来なさい」
「困ることなどない」
「レヴィアがそう言うと、余計に不安になるのよ」
「私も少し分かります」
「弟子」
「なんですか」
「師匠を信用しろ」
「セレナ様は、半分くらい疑えと言ってました」
「ミネルの言うことを聞くな」
「学院長の言葉ですよ?」
「私の方が偉い」
「どういう基準ですか?」
「強さ」
「子供みたいな基準を持ち出さないの」
セレナ様が割って入る。
「それと、レヴィア」
「なんだ」
「リリアの生活環境は整っているのでしょうね」
「ああ」
「部屋は?」
「ある」
「寝具は?」
「ある」
「食事は?」
「リリアが作る」
「聞いてません!」
私は師匠を見上げた。
「作ってくれると言っただろう」
「一緒に作るとは言いましたけど、私が全部作るとは言ってません!」
「私は料理が苦手だ」
「開き直らないでください」
「火を出すのは得意だ」
「料理は火を出せばいいわけじゃありません!」
「野菜を切るのも得意だ」
「包丁が使えるんですか?」
「風魔法で」
「台所ごと切らないでくださいね?」
「昔、一度だけだ」
「一度あるんですか!?」
セレナ様が眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「リリア」
「はい」
「やはり、しばらく学院寮に残ってもいいのよ」
「連れて帰る」
師匠が私の肩を抱き寄せた。
「私の弟子だ」
「師匠、近いです」
「逃げるな」
「逃げませんから!」
「ならいい」
腕は離れなかった。
セレナ様がその様子を見て、静かにため息をつく。
「……大丈夫そうね」
「どこを見て言ってるんですか?」
「少なくとも、レヴィアが一人で食事を抜き続けることは減りそうだから」
「食事を抜いてたんですか?」
私は師匠を見る。
「忘れることはある」
「どのくらい?」
「二日くらい」
「二日!?」
「魔法の研究をしているとな」
「師匠は破壊魔法以外も研究するんですか?」
「たまには」
「何を?」
「どうすれば、寝たまま飲み物を取り寄せられるか」
「研究じゃなくて怠ける方法ですよね!?」
「重要だぞ」
「どこがですか!」
「人類の進歩は、怠惰から始まる」
「それ、故郷の言葉ですか?」
「今、私が考えた」
「格言っぽく言わないでください!」
師匠が笑う。
私が言い返す。
セレナ様は、それを静かに見ていた。
その青い瞳には、ほんの少しだけ安堵が浮かんでいるように見えた。
「リリア」
「はい?」
「一つだけ、頼んでもいいかしら」
「何でしょうか」
セレナ様は、師匠へ視線を向けた。
「たまには、この子を学院へ連れてきて」
「この子?」
「誰が子供だ」
「あなたよ」
「私はお前より年上だぞ」
「精神年齢の話をしているの」
「失礼だな」
「半年も顔を見せなかったのは誰?」
「忙しかった」
「何をしていたの?」
「昼寝」
「師匠」
「なんだ」
「それは忙しいとは言いません」
「質のいい昼寝には準備が必要だ」
「準備?」
「枕の位置を調整する」
「一分で終わります!」
「布団の温度も大事だ」
「魔法でどうにでもできますよね?」
「弟子が厳しい」
「普通です!」
セレナ様の口元に、また小さな笑みが浮かんだ。
「月に一度と言わず、時々顔を見せてちょうだい」
「善処する」
「その言葉は信用していないわ」
セレナ様が私を見る。
「だから、あなたに頼んでいるの」
「分かりました」
「勝手に約束するな」
「師匠が来ればいいだけですよ」
「面倒だ」
「セレナ様に会いたくないんですか?」
「そういうわけではない」
師匠はセレナ様を見る。
「こいつは話が長い」
「誰の問題行動について話していると思っているの?」
「私か?」
「他にいるの?」
「リリアかもしれない」
「今日初めて会ったんですけど!」
私が抗議すると、師匠は楽しそうに笑った。
それから、ほんの少しだけ声を落とす。
「……まあ」
「何?」
「また来る」
師匠の声は、今までより静かだった。
セレナ様が少しだけ目を見開く。
「そう」
短い返事。
それだけだった。
けれど。
セレナ様は、少し嬉しそうに見えた。
◇
学院長室を出ると、私と師匠は女子寮へ向かった。
今度は転移ではなく、普通に廊下を歩いている。
「師匠」
「なんだ」
「ちゃんと歩けるんですね」
「私を何だと思っている」
「歩くことを極端に嫌う人」
「嫌いではない。面倒なだけだ」
「同じようなものです」
学院の廊下は、午後の授業を終えた生徒たちで賑わっていた。
私と師匠が並んで歩くたび、周囲から視線が集まる。
当然だ。
戦禍の魔姫が、学院の廊下を普通に歩いている。
しかも、学院で一番魔法が不得意と噂される私の隣を。
「見られてます」
「ああ」
「気にならないんですか?」
「慣れている」
「私は慣れてません」
「そのうち慣れる」
「またそれですか」
「便利な言葉だろう」
師匠は、周囲の視線など存在しないかのように歩いている。
私は少しだけ師匠から離れようとした。
すると。
師匠の手が伸びてきた。
私の手首を掴む。
「離れるな」
「どうしてですか?」
「見失う」
「同じ廊下ですよ?」
「人が多い」
「迷子になるのは師匠では?」
「だから、お前を見失うと困る」
「私が案内役なんですか?」
「ああ」
「それなら、私の後ろを歩いてください」
「嫌だ」
「なぜ?」
「隣がいい」
即答だった。
「……そうですか」
「ああ」
師匠は、私の手首から手を滑らせ。
そのまま、手のひらを握った。
「手首を掴む必要はないからな」
「手も握らなくて大丈夫です」
「人混みだ」
「十分歩けます」
「私が不安だ」
「師匠が?」
「ああ」
師匠は前を向いたまま答えた。
冗談かと思った。
けれど、握る手は少しだけ強かった。
「……寮に着くまでですよ」
「分かった」
私は、手を振りほどかなかった。
◇
私の部屋は、女子寮の三階にあった。
ベッド。
机。
椅子。
小さな本棚。
衣装箱。
必要最低限の物しかない、狭い一人部屋。
「何もないな」
部屋へ入るなり、師匠が言った。
「あります」
「何が?」
「見えてる物全部です」
「家具しかない」
「本もあります」
「何冊だ?」
「十二冊」
「少ない」
「師匠の基準で言わないでください」
私は衣装箱を開け、荷造りを始める。
制服。
普段着。
タオル。
下着。
「師匠」
「なんだ」
「後ろを向いてください」
「なぜ?」
「いいから!」
「私は女だぞ」
「関係ありません!」
「気にしない」
「私が気にします!」
「分かった」
意外にも、師匠は素直に背を向けた。
私は急いで下着を鞄の底へ詰める。
「終わったか?」
「まだです」
「暇だ」
「少し待ってください」
「歌っていいか?」
「嫌です」
「なぜだ」
「なんとなく不安なので」
「私は歌が上手いぞ」
「本当ですか?」
「日本の歌なら」
「ニホン?」
「故郷だ」
師匠は何でもないことのように言った。
けれど、その声にはほんの少しだけ懐かしさが混じっていた。
「どんな歌ですか?」
「色々だ」
「歌ってください」
「嫌だ」
「さっき歌いたいって言ってたじゃないですか!」
「急に求められると恥ずかしい」
「面倒くさい人ですね」
「破門にするぞ」
「まだ何も教わってません!」
私が振り返ると。
師匠はすでに私のベッドへ寝転がっていた。
「何してるんですか!」
「待っている」
「椅子があります」
「硬い」
「私のベッドです!」
「柔らかい」
「感想を聞いてません!」
師匠は枕へ顔を埋めた。
「お前の匂いがする」
「出ていってください!」
「冗談だ」
「本当ですか?」
「半分は」
「半分は本気なんですか!?」
私は師匠の外套を掴み、ベッドから引きずり下ろそうとした。
けれど、まったく動かない。
見た目は細身なのに、岩でも動かしているようだった。
「重いです!」
「女性に言う言葉ではない」
「なら自分で降りてください!」
「嫌だ」
「子供ですか!」
「眠い」
「昼寝する気ですか!?」
「一時間ほど」
「荷造りが終わります!」
「丁度いい」
「手伝ってください!」
「見守っている」
「目を閉じてるじゃないですか!」
「心の目で見ている」
「絶対寝るつもりですよね!」
師匠は答えなかった。
すでに寝息が聞こえている。
「……本当に寝た」
私は呆れながら、荷造りへ戻った。
服を畳み。
本を紐でまとめ。
机の引き出しを空にする。
部屋の中から、私の物が少しずつなくなっていく。
ここへ入学してから、一年近く暮らした部屋。
楽しい思い出ばかりではない。
魔法が使えず、一人で泣いた夜もある。
寮の裏で練習して、手を火傷した日も。
試験の結果を見て、布団から出られなくなった日も。
それでも。
ここは、私が初めて親元を離れて暮らした場所だった。
「寂しいか?」
背後から声がした。
振り返る。
師匠がベッドへ横になったまま、こちらを見ていた。
「起きてたんですか?」
「今起きた」
「まだ五分も経ってませんよ」
「質のいい睡眠だった」
「そうですか」
私は、ほとんど空になった机を見る。
「少しだけ、寂しいです」
「そうか」
「でも」
「でも?」
「師匠の家へ行くのも、少し楽しみです」
師匠が目を瞬いた。
「本当に?」
「本当です」
「私と暮らすのが?」
「正確には、新しい生活がです」
「同じことだ」
「違います」
「同じだ」
師匠が起き上がる。
ベッドの端へ座り、私を見る。
「後悔していないか?」
「何をですか?」
「弟子になったことを」
珍しく、冗談のない声だった。
私は師匠の顔を見る。
赤い瞳の奥に。
ほんのわずかに、不安が浮かんでいた。
弟子にすると言い出したのは師匠だ。
断られても毎日誘うと言っていた。
あれだけ自信満々だったのに。
本当は。
私が気を変えることを、少し怖がっているのかもしれない。
「今のところは」
私は答えた。
「してません」
「今のところ?」
「師匠が変な修行を始めたら、後悔するかもしれません」
「変な修行などしない」
「本当ですか?」
「ああ。まずは朝、私を起こすところからだ」
「修行じゃありません」
「起床魔法の練習だ」
「そんな魔法ありません」
「次に朝食を作る」
「家事です」
「火と水を操う複合訓練だ」
「料理を魔法訓練みたいに言わないでください」
「その後は散歩をする」
「それは普通ですね」
「魔物に追われながら」
「普通じゃなかった!」
師匠が笑う。
「冗談だ」
「本当に?」
「追いかけられるのではなく、追いかける」
「もっと嫌です!」
「安心しろ。最初は弱い魔物だ」
「どうして戦う前提なんですか?」
「魔法使いだからな」
「私はまだ戦えません!」
「なら、逃げればいい」
「修行内容が逃走なんですか?」
「身体強化の練習にはなる」
「師匠だけ楽しむつもりですよね?」
「少しだけ」
「やっぱり!」
師匠は心底楽しそうに笑った。
私はため息をつく。
でも。
先ほどまで師匠の目に浮かんでいた不安は、消えていた。
「今日からは、二人ですね」
私は、何気なく言った。
師匠の笑みが止まる。
「……ああ」
「何ですか?」
「いや」
「変なこと言いました?」
「言っていない」
師匠は私から顔を逸らし、窓の外を見た。
「そうだな」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「今日からは、二人だ」
「はい」
「だから、ベッドも半分貸してくれ」
「嫌です」
「なぜだ」
「今の雰囲気を返してください!」
◇
荷造りには、結局一時間近くかかった。
そのうち、師匠が手伝った時間は。
おそらく三分ほどだった。
「終わりました」
「ああ」
「師匠」
「なんだ」
「ほとんど何もしてませんよね?」
「見守っていた」
「寝ながら?」
「夢の中のお前は頑張っていた」
「現実の私を手伝ってください!」
「だが、終わっただろう」
「結果が全てみたいに言わないでください!」
師匠が指を鳴らす。
部屋の中央へ積み上げた荷物が、紫色の光に包まれた。
次の瞬間。
全ての荷物が消えた。
「……え?」
「家へ送った」
「一瞬ですね」
「ああ」
「最初から、師匠が荷物をまとめることもできたんじゃないですか?」
「できる」
「できるんですか!?」
「だが、勝手に触ると怒るだろう」
「そうですけど!」
「だから見守った」
「寝てただけですよね?」
「寝ながら見守った」
「認めましたね!」
◇
師匠の家は、王都から少し離れた丘の上に建っていた。
転移魔法の紫色の光が消えた瞬間。
私は言葉を失った。
「……綺麗」
丘の下には、どこまでも続く草原。
夕方の風が草を揺らし、緑色の波を作っている。
遠くには深い森。
その向こうには、夕日に照らされた山々が、幾重にも重なっていた。
空は西側から橙色に染まり始めている。
薄い雲の縁が金色に輝き、飛んでいく鳥の影が横切った。
そして、私たちの目の前。
丘の一番高い場所に、一軒の家が建っていた。
想像していたより、ずっと普通の家だった。
戦禍の魔姫が住んでいると聞き、城や巨大な塔を思い浮かべていた。
でも実際は、二階建ての落ち着いた建物。
白い石壁。
濃い茶色の木材。
大きな窓。
赤茶色の屋根には煙突があり、その先から細い煙が上がっている。
玄関の横には、小さな花壇。
正確には。
花壇だったと思われる場所。
「……草がすごいですね」
「ああ」
「これは花壇ですよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「昔は花が咲いていた」
「いつ頃ですか?」
「十五年ほど前」
「放置しすぎです!」
「植物は強いな」
「全部、雑草です!」
師匠は気にした様子もなく、玄関へ歩いていく。
木製の扉へ手を掛け、開いた。
「入れ」
「お邪魔します」
「違う」
「え?」
師匠がこちらを見る。
夕日が、長い黒髪の輪郭を赤く照らしていた。
「今日から、お前の家でもある」
「私の……」
「ああ」
師匠は少しだけ視線を逸らした。
いつもは堂々としているのに。
そのときだけ、何かを言い出しにくそうにしている。
「だから」
ほんの少しの間を置いて。
「ただいま、と言えばいい」
師匠の声は小さかった。
私は、開かれた扉の向こうを見る。
暗い玄関。
誰もいなかった家。
師匠がずっと、一人で帰ってきていた場所。
「……ただいま」
私が言う。
師匠の赤い瞳が、わずかに見開かれた。
次いで。
今まで見た中で、一番穏やかな笑みを浮かべる。
「おかえり」
その一言が。
初めて入る家を。
少しだけ、自分の帰る場所に変えた。
◇
家の中は、意外なほど綺麗だった。
「意外です」
「何がだ」
「もっと散らかっていると思ってました」
「失礼だな」
「だって、師匠は服とか脱いだら、そのままにしそうなので」
「脱いだ服は自動で籠へ飛ぶようにしてある」
「魔法で?」
「ああ」
「掃除も?」
「魔法だ」
「洗濯も?」
「魔法だ」
「料理も?」
「それは失敗した」
「何があったんですか?」
「肉を焼こうとしたら、台所が燃えた」
「やっぱり危険じゃないですか!」
「家は無事だった」
「台所は?」
「作り直した」
「料理に魔法を使うのは禁止です!」
「弟子が厳しい」
玄関の先には、広い居間があった。
大きな暖炉。
深い緑色の長椅子。
木製の低い机。
壁一面の本棚。
窓際には、一人掛けの椅子と小さな丸机。
丸机の上には、読みかけの本。
一つだけのカップ。
食卓にも、椅子は一脚しか出されていなかった。
「……ずっと、一人だったんですね」
口に出すつもりはなかった。
けれど、言葉が漏れた。
師匠が私を見る。
「ああ」
「どのくらい?」
「忘れた」
「そんなに長く?」
「人間、長く生きているとな」
師匠は何でもないことのように言った。
けれど、その目は、少しだけ遠い場所を見ていた。
「寂しくなかったんですか?」
「たまには」
「たまには?」
「ああ」
師匠は、丸机の上にある一つだけのカップを見た。
「でも、一人なら一人で慣れる」
「大抵のことは、慣れればどうにかなる?」
私が言うと、師匠が少しだけ笑った。
「覚えていたのか」
「師匠が何度も言うので」
「そうか」
師匠は二階へ向かう階段を上り始めた。
「部屋を見せる」
「はい」
二階には、長い廊下があった。
窓から夕方の光が差し込み、床へ細長い影を落としている。
師匠は一番奥の扉を開いた。
「ここがお前の部屋だ」
中は、寮の部屋より二回り以上広かった。
ベッド。
机。
本棚。
衣装棚。
大きな窓。
窓の外には、夕日に染まった草原と森が見える。
部屋の中央には、寮から送った荷物が置かれていた。
「本当に、使っていいんですか?」
「ああ」
「こんなに広い部屋を?」
「余っているからな」
「師匠の部屋は?」
「隣だ」
「隣?」
「ああ」
私は開いた扉の外を見る。
すぐ隣にも、同じ形の扉がある。
「どうして隣なんですか?」
「何かあったとき、すぐ行ける」
「何かって?」
「お前が寂しくなったとき」
「私は言ってません」
「なら、私が」
師匠は、そこで言葉を止めた。
「師匠が?」
「……家の中に誰かいることに、まだ慣れていないからな」
いつものふざけた声ではなかった。
私は何も言わず、師匠を見る。
「離れた部屋だと」
師匠が少しだけ言い淀む。
「本当に誰かいるのか、分からなくなる」
その言い方が。
妙に寂しそうだった。
「では、隣でいいです」
「そうか」
「ただし」
「なんだ」
「勝手に部屋へ入ってこないでください」
「ああ」
「絶対ですよ」
「ああ」
「目を見て言ってください」
師匠が、わずかに目を逸らした。
「……善処する」
「今すぐ別の部屋にしてください!」
◇
その日の夕食は、二人で作ることになった。
正確には。
私が作り。
師匠が手伝うふりをしながら、邪魔をした。
「師匠」
「なんだ」
「その卵を返してください」
「嫌だ」
「料理に使います」
「私も使っている」
「何に?」
「手遊び」
「返してください!」
師匠は卵を頭上へ持ち上げた。
私が手を伸ばしても届かない。
「師匠!」
「なんだ」
「返してください!」
「欲しいか?」
「欲しいです!」
「なら、師匠と三回呼べ」
「今、呼びました!」
「あと二回だな」
「何なんですか、その条件!」
「嫌ならいい」
師匠が卵を持ったまま、身体を反対へ向ける。
「師匠!」
「二回」
「師匠!」
「三回」
「これでいいですか!」
「ああ」
師匠が卵を返す。
「よくできた」
「子供扱いしないでください!」
「弟子扱いだ」
「同じようなものです!」
「そんなに怒るな」
「誰のせいですか!」
「だが、師匠と呼ばれるのは悪くない」
「そんなに嬉しいんですか?」
「別に」
「では、もう呼びません」
「待て」
「やっぱり呼ばれたいんじゃないですか」
「弟子が師匠を師匠と呼ぶのは当然だ」
「三回言わせる必要はありませんよね?」
師匠は少し考えた。
「三倍嬉しい」
「素直ですね」
「今のは忘れろ」
「嫌です」
「師匠命令だ」
「聞きません」
私が卵を割る横で、師匠が少しだけ頬を膨らませた。
大魔女には見えない。
「オムライスという料理を作る」
師匠が言った。
「師匠の故郷の料理ですよね?」
「ああ」
「材料は?」
「卵と米と肉と……赤い調味料」
「曖昧ですね」
「昔の記憶だからな」
この世界にも、米に似た穀物はある。
師匠が保管していたものを炊き、細かく切った肉と野菜を炒める。
「師匠、火を弱くしてください」
「これくらいか?」
「強すぎます!」
「私にとっては弱火だ」
「師匠の基準で料理しないでください!」
「難しいな」
「火力を百分の一くらいに」
「分かった」
師匠が指を動かす。
炎が、先ほどの半分になった。
「もっとです!」
「これ以上弱くすると消える」
「普通の人はそのくらいで料理するんです!」
「人間は繊細だな」
「師匠も人間ですよね?」
「元はな」
「元?」
「気にするな」
師匠は、どこか誤魔化すように顔を逸らした。
けれど私は、それ以上聞かなかった。
まだ、出会ったばかりだ。
師匠の故郷。
日本という国。
魔法のなかった世界。
聞きたいことは、たくさんある。
でも。
急いで全部聞かなくてもいい。
これから一緒に暮らすのだから。
「できました」
出来上がったオムライスを、二人分の皿へ盛る。
形は少し崩れている。
師匠の記憶にあるものと同じかどうかも分からない。
けれど、師匠は食卓へ並べられた料理を見て、しばらく動かなかった。
「どうしました?」
「いや」
二枚の皿。
二つのカップ。
向かい合う二脚の椅子。
「久しぶりだと思ってな」
「何がですか?」
「家で、誰かと食事をするのが」
私は師匠の向かい側へ座る。
「今日からは、毎日ですよ」
「毎日?」
「一緒に住むんですよね?」
「ああ」
「なら、一緒に食べるのが普通になります」
「普通……」
師匠は、その言葉を確かめるように繰り返した。
「悪くないな」
「何がです?」
「普通というのも」
窓の外では、太陽が山の向こうへ沈もうとしていた。
草原が赤く染まり。
暖炉の中では、火がぱちぱちと小さな音を立てている。
師匠が、料理の前で両手を合わせた。
「いただきます」
「それ、故郷の言葉ですよね?」
「ああ」
「どんな意味ですか?」
「作った人や、食材になった命への感謝……みたいなものだ」
「では」
私も師匠の真似をして、両手を合わせる。
「いただきます」
師匠が固まった。
「師匠?」
「……なんだ」
「食べないんですか?」
「食べる」
「目が少し赤いですよ」
「元から赤い」
「そうではなくて」
「煙が入った」
「暖炉から離れてますよ?」
「今日の煙は器用なんだ」
どこかで聞いたような言い訳だった。
「泣きそうなんですか?」
「私は戦禍の魔姫だぞ」
「関係あります?」
「戦禍の魔姫は泣かない」
「誰が決めたんですか?」
「今、私が決めた」
「また勝手に」
師匠が笑う。
私も、つられて笑った。
◇
夜。
新しい部屋のベッドへ入った私は、なかなか眠れずにいた。
天井が違う。
布団の感触も。
窓から聞こえる音も。
寮なら、隣の部屋から誰かの声が聞こえた。
廊下を歩く足音。
扉が開く音。
笑い声。
ここは静かだった。
風が窓を揺らす音。
遠くで鳴く虫。
暖炉の薪が弾ける微かな音。
「…………」
寝返りを打つ。
目を閉じる。
でも眠れない。
そのとき。
コンコン。
扉が、二度鳴った。
「はい?」
「私だ」
師匠の声だった。
「どうしました?」
「入っていいか?」
「何かありましたか?」
「いや」
「なら、駄目です」
「なぜだ」
「寝るところなので」
「私もだ」
「自分の部屋で寝てください」
「そうか」
足音が、扉から離れていく。
「…………」
私は天井を見た。
しばらく迷い。
布団から起き上がる。
扉を開けた。
廊下の少し先に、師匠が立っていた。
まだ自分の部屋へは戻っていなかった。
月明かりに照らされた黒髪が、青白い光を帯びている。
「どうした?」
「師匠こそ」
「私は、もう戻るところだ」
「何か用があったんじゃないんですか?」
「いや」
師匠は少し黙った。
「本当に、お前がいるのか確かめに来ただけだ」
「私が?」
「ああ」
師匠が、少しだけ笑う。
「家に誰かいるというのが、まだ不思議でな」
「ノックして返事があったので、確認できましたね」
「ああ」
「では、おやすみなさい」
「おやすみ」
師匠が背を向ける。
「……師匠」
「なんだ?」
「少しだけなら」
「何が?」
「話していきます?」
師匠の赤い瞳が、わずかに見開かれた。
「私も、まだ眠れないので」
言い訳をするように付け加える。
師匠はしばらく私を見ていた。
やがて。
「そうか」
とても小さく笑った。
「なら、仕方ないな」
「師匠が付き合うみたいな言い方はやめてください」
「私は優しいからな」
「自分で言います?」
「事実だ」
師匠を部屋へ入れる。
私はベッドの端へ腰掛けた。
師匠は床へ座ろうとして。
少し迷ったあと。
私の隣へ座った。
「近いです」
「今さらだろう」
「もう少し向こうへ行ってください」
「落ちる」
「十分余裕があります」
「寂しい」
「…………」
「冗談だ」
「今のは半分くらい本気でしたよね?」
「さあな」
師匠は窓の外を見る。
夜空には、丸い月が浮かんでいた。
「師匠の故郷にも、月はあったんですよね」
「ああ」
「同じですか?」
「よく似ていた」
「星も?」
「あった」
「魔法は?」
「なかった」
師匠は、窓の外を見たまま答えた。
「魔法がないなんて、想像できません」
「代わりに、色々なものがあった」
「オムライスとか?」
「ああ」
「他には?」
「そうだな」
師匠は少し考える。
「鉄でできた箱が、馬より速く走った」
「箱が走るんですか?」
「車という」
「魔物ですか?」
「違う」
「絶対に魔物です」
「空を飛ぶ巨大な鉄の鳥もあった」
「やっぱり魔物ですよ!」
師匠が笑った。
「手のひらに収まる板で、遠くの人と話せたりもした」
「通信魔法ですか?」
「魔法ではない」
「では、何です?」
「科学だ」
「カガク?」
「ああ」
聞いたことのない言葉だった。
「師匠は、その世界でどんな人だったんですか?」
尋ねると。
師匠の笑みが、少しだけ薄くなった。
「普通の人間だったよ」
「普通?」
「ああ。魔法も使えない。特別な力もない。何かを成し遂げたわけでもない」
師匠の声は静かだった。
「では、どうしてこの世界へ?」
「死んだからだ」
「……え?」
「元の世界で死んで、気がつけば、こちらで生まれ直していた」
あまりにも淡々と言うので。
すぐには意味を理解できなかった。
「転生した、ということですか?」
「ああ」
「そんなことが……」
「あるらしい」
「元の世界には、帰れないんですか?」
師匠が答えるまで。
少し間があった。
「帰り方は、まだ見つけていない」
「まだ?」
「ああ」
「なら、いつか見つかるかもしれません」
「…………」
「師匠なら、見つけられますよ」
世界最高峰の魔法使い。
どんな魔法も扱える師匠なら。
そう思って言った。
でも。
師匠は少し寂しそうに笑った。
「そうだな」
その声は。
本当に帰りたいのか。
帰るのが怖いのか。
私には分からなかった。
「いつか、師匠の故郷にも行ってみたいです」
私が言う。
師匠がこちらを向いた。
「日本へ?」
「はい」
「何もないぞ」
「オムライスがあります」
「この世界でも作れる」
「車も見たいです」
「鉄の箱だぞ」
「魔物じゃないか確かめます」
師匠が小さく笑う。
「案内してくれますか?」
「ああ」
師匠は窓の外へ目を戻した。
「いつかな」
「約束ですよ」
「……ああ」
その返事は、少しだけ掠れていた。
私は師匠の袖を掴んだ。
「どうした?」
「いえ」
「怖いのか?」
「師匠が急に消えそうな気がしたので」
「消えない」
「本当に?」
「ああ」
師匠は、私の手へ自分の手を重ねた。
「少なくとも、お前へ魔法を教え終わるまではな」
「では、ずっと教わっておきます」
「欲張りな弟子だ」
「師匠がいなくなると困りますから」
「…………」
「師匠?」
「いや」
師匠は私の手を、少しだけ強く握った。
「悪くないと思っただけだ」
「何がですか?」
「弟子を取るのも」
その夜。
師匠は、遠い故郷の話をした。
夜でも昼のように明るい街。
長い鉄の乗り物。
漫画。
映画。
花火。
夏祭り。
冬に暖かい部屋で食べる、蜜柑という果物。
私には、意味の分からない話ばかりだった。
それでも。
師匠が楽しそうに話すから。
私は何度も質問した。
師匠は笑って。
時々、言葉を止めて。
懐かしそうに。
少しだけ、寂しそうに。
話し続けた。
「そろそろ寝ろ」
「はい」
師匠が立ち上がる。
「私は戻る」
「はい」
扉の前まで歩き。
師匠が振り返った。
「おやすみ、リリア」
「おやすみなさい、師匠」
扉が閉まる。
静かな部屋へ、一人きりになる。
でも。
さっきまでとは違った。
壁の向こうには、師匠がいる。
一人ではない。
それだけで。
知らない部屋が、少しだけ自分の居場所になった気がした。
私は布団へ入り、目を閉じる。
明日から、修行が始まる。
何を教えてもらうのか。
何ができるようになるのか。
まだ何も分からない。
ただ。
一つだけ、確信していることがあった。
きっと。
静かな生活にはならない。
なぜなら。
私の師匠は。
戦禍の魔姫で。
世界最高峰の魔法使いで。
面倒くさがりで。
少し意地悪で。
人との距離の測り方がおかしくて。
思っていた以上に、寂しがり屋だったから。
そして翌朝。
私は知ることになる。
世界中から恐れられる戦禍の魔姫が。
オクトマギアの一人が。
朝になると。
「師匠」
「…………」
「起きてください」
「あと五分」
「さっきも言いました」
「では、十分」
「増えてます!」
「弟子よ」
「何ですか!」
「これは修行だ」
「何のですか!?」
「戦禍の魔姫を起こす修行」
「ただの寝坊ですよ!」
――とんでもなく、朝に弱いということを。
「起きてください、師匠!」
「無理だ」
「何でですか!」
「布団が私を離さない」
「師匠の方がしがみついてるんです!」
「なら、リリアも入ればいい」
「入りません!」
私の新生活は。
初日の朝から。
思っていた以上に、騒がしかった。




