落ちこぼれのばすだった。
魔法には、才能が必要だ。
それは、この世界では空が青いことと同じくらい、当たり前の話だった。
生まれ持った魔力量。
魔力を操る繊細さ。
炎や水といった属性との相性。
呪文を記憶する頭の良さに、魔法陣を正確に描く器用さ。
努力によって伸ばせるものは、もちろんある。
けれど、その努力を始めるためにさえ、最低限の才能がいる。
そして私は。
「次。リリア・アステル」
「……はい」
どうやら、その最低限にすら届いていないらしかった。
私は握り締めていた杖を胸元に寄せ、石畳の演習場へと歩み出た。
早春の冷たい風が、学院を囲む白い城壁の上を吹き抜けている。
雲の切れ間から差し込む淡い日差しが、中央に置かれた木製の標的を照らしていた。
標的の表面は、先に実技を終えた生徒たちの魔法によって焼け焦げ、凍りつき、場所によっては深く抉れている。
中には、標的を粉々にして教師から叱られた生徒までいた。
一方、私はこれから。
あの頑丈な標的に、焦げ跡を一つ付けられるかどうかを試される。
「指定魔法は初級火炎術式。制限時間は一分です」
演習担当の教師、エルナ先生が淡々と告げた。
風に揺れる灰色の髪も、細い銀縁の眼鏡も、いつも通りきっちりと整えられている。
表情から感情が読み取りにくい先生だけれど、私の順番になると、ほんの少しだけ眉間の皺が深くなる。
きっと気のせいではない。
「準備ができたら始めなさい」
「はい」
私は杖を両手で構えた。
背後に並ぶ生徒たちの視線が、一斉に背中へ突き刺さる。
お願いだから、見ないでほしい。
見学しても面白いことなんて何もない。
今から私は、十歳の子供でも使える魔法に失敗するだけなのだから。
そう心の中で訴えてみても、もちろん誰にも届かない。
私は静かに息を吸った。
空気には、まだ冬の名残があった。
冷たさが喉を通り、胸の奥へ入っていく。
身体の内側に眠っている魔力を探す。
魔力そのものを感じ取ることはできる。
むしろ、それだけなら人より得意なくらいだった。
胸の奥から、腕へ。
腕から手のひらへ。
そして、杖の先端へ。
何度も繰り返してきた手順を、頭の中で一つずつ確かめる。
「炎よ。我が魔力に応え――」
杖の先に、小さな赤い光が灯った。
背後から、誰かが息を呑む音が聞こえる。
驚くのも無理はない。
私の魔法が、発動直前まで進んだのだから。
いける。
今度こそ。
昨日は寮の消灯時間を過ぎるまで練習した。
その前の日だって。
指に豆ができて、潰れて、治癒薬を塗って。
それでも繰り返した。
だから、今日くらいは成功してもいいはずだ。
「――その姿を現せ。フレイム!」
杖の先端で、赤い光が弾けた。
ぽっ。
小さな火の粉が一つ、頼りなく宙へ飛ぶ。
十センチほど進んで。
風に吹かれ。
あっさり消えた。
「…………」
広い演習場に、重たい静寂が落ちた。
城壁の向こうから聞こえる鳥の鳴き声が、やけに鮮明だった。
私は杖を突き出した姿勢のまま、動けなかった。
標的は無傷だ。
焦げ目どころか、火の粉が届いてすらいない。
やがて、背後から小さな囁き声が聞こえ始めた。
「今の、魔法?」
「火打ち石の方がまだ火出るんじゃない?」
「風が吹いてなかったら、もうちょっと飛んだかも」
「慰めになってないって」
全部、聞こえている。
聞こえていないふりをしているだけだ。
「リリア」
「……はい」
エルナ先生の声に、私は恐る恐る振り返った。
「もう一度です」
「え?」
「制限時間はまだ残っています」
先生は腰に下げた懐中時計を見せた。
まだ三十秒以上ある。
つまり。
もう一度、みんなの前で失敗する時間があるということだ。
「……はい」
逃げたい。
でも、ここで逃げたら、本当に終わってしまうような気がした。
私は再び標的へ向き直る。
震える指で杖を握り直した。
今度は詠唱を短くする。
余計なことは考えない。
魔力を集めて。
外へ放つ。
「フレイム!」
ぽっ。
一度目より少しだけ大きな火の粉が飛んだ。
二十センチほど進んで、消えた。
倍である。
距離だけなら大成長だ。
「…………」
「……記録、更新しました」
思わず口から出た。
エルナ先生が眼鏡の奥で目を閉じる。
「そうですね」
先生は優しかった。
だから、否定しなかった。
その優しさが今は苦しい。
「もう結構です。列へ戻りなさい」
「はい……」
私は俯きながら、同級生たちの間へ戻った。
誰も露骨に笑ってはいなかった。
憐れむように視線を逸らす子もいれば、関心を失って次の生徒を見ている子もいる。
どちらの反応も、少しだけ胸に刺さった。
地面に穴があったら入りたい。
いっそ自分で掘ってしまいたい。
残念ながら、土魔法も使えないのだけれど。
「面白い」
そのとき。
演習場の上方から、聞き覚えのない女の声が落ちてきた。
大きな声ではなかった。
それなのに、不思議とはっきりと耳に届いた。
静かで、低くて、どこか気怠そうな声。
私は顔を上げた。
演習場の二階には、来賓用の観覧席が設けられている。
普段は教師か学院関係者しか使わないその場所に、今日は数人の女性が座っていた。
その中心にいる女性と、目が合った。
長く艶やかな黒髪。
前髪の隙間から覗く、鮮やかな紅い瞳。
白いシャツの上に、黒と濃紫を基調とした外套を気怠そうに羽織っている。
胸元には金の鎖と、紫色の宝石が付いた装飾品。
細い指にはいくつもの指輪がはめられ、左手を頬に添えながら、退屈そうにこちらを見下ろしていた。
その女性の周囲だけ、空気が違って見えた。
見えない熱が揺らめいているような。
それでいて、真冬の湖の底のように静かでもある。
彼女が座っているだけで、周囲の大人たちが緊張しているのが分かった。
あの顔を、私は知っていた。
本で何度も見た。
学院の資料室にある戦史にも、王都で売られている英雄譚にも、その姿は描かれている。
この世界には、あらゆる魔法使いの頂点に立つ八人の女性がいる。
国にも属さず。
軍にも縛られず。
一人ひとりが、歴史を変えるほどの力を持つ魔女たち。
その総称が、八魔姫
通称オクトマギア。
そして彼女は、その中でも戦闘と破壊において右に出る者はいないとされる魔女だった。
炎を呼べば城壁が溶け。
雷を落とせば軍勢が消え。
かつて二つの国が争った戦場に一人で現れ、一夜で戦争そのものを終わらせたという。
戦場に立てば、敵味方の区別なく戦禍すら呑み込む魔姫。
人々が畏怖を込めて呼ぶ、その異名は。
――戦禍の魔姫、ヴァルマギア。
レヴィア・クローデル様。
「……面白い?」
私は思わず呟いた。
何がだろう。
私の失敗が?
世界最高峰の魔法使いから見れば、私の火の粉なんて余興にもならないはずなのに。
レヴィア様は私を見たまま、ほんの少し口元を緩めた。
笑われた。
そう思って、私は慌てて視線を落とす。
その直後、エルナ先生が次の生徒の名前を呼んだ。
授業は何事もなかったかのように続いたけれど。
私はそのあと、誰がどんな魔法を使ったのか、ほとんど覚えていなかった。
◇
「リリア・アステル。少し残りなさい」
実技授業が終わり、生徒たちが演習場から出ていく中。
片付けをしていたエルナ先生に呼び止められた。
「はい……」
やっぱり怒られるのだろうか。
最近の実技評価は、最低点ばかりだった。
座学の成績でどうにか補っているけれど、この学院は魔法使いを育てる場所だ。
魔法が使えない生徒を、いつまでも在籍させてはくれない。
「先生」
「なんですか」
「もしかして、退学の話ですか?」
エルナ先生が、珍しく目を丸くした。
「なぜそうなるのです」
「だって、今日も駄目でしたし……」
「今日も、という自覚はあるのですね」
「あります……」
「では、明日からの練習に活かしなさい」
「え?」
先生は、演習場の出口へ目を向けた。
「あなたに客人です」
「客人?」
私を訪ねてくる客人なんて、思い当たらない。
寮生活をしている私の家族は、王都から馬車で何日もかかる村に住んでいる。
ましてや、学院の実技授業が終わった直後に待っているような知り合いなど――。
「遅かったな」
演習場の出口。
午後の日差しが差し込む石造りの回廊に、レヴィア様が立っていた。
先ほどまで羽織っていた外套は、片側だけ肩から落ちかけている。
白いシャツの襟元は少し緩められ、細い金の鎖が覗いていた。
壁に背を預け、腕を組んでいる姿は、英雄というより授業を抜け出してきた上級生のようにも見える。
「…………」
「どうした」
レヴィア様が首を傾げた。
「声は聞こえているか?」
「……はい」
「では、なぜ固まっている」
「自分がまだ演習中に倒れていて、夢を見ている可能性を考えています」
「なるほど」
レヴィア様は顎に手を当て、何かを考えるような顔をした。
「それなら、一度頬をつねってみるか?」
「自分でやります」
「遠慮するな。こういうのは人にやってもらった方が痛い」
「痛くするつもりなんですか?」
「夢から覚めないと困るだろう?」
「覚めたくない場合はどうすれば……」
「諦めろ」
レヴィア様が小さく笑った。
戦禍の魔姫。
数千人の兵を前にしても眉一つ動かさない、冷酷無比の魔女。
資料室で読んだ本には、確かそう書かれていた。
たぶん、作者は本人に会ったことがない。
「レヴィア様」
エルナ先生が近づき、丁寧に頭を下げた。
「リリアに何か?」
「ああ。少し借りたい」
「借りるって……」
物みたいな言い方だった。
私が口を挟むより先に、エルナ先生は頷いた。
「承知しました」
「先生?」
「失礼のないように」
「私の意思は?」
「失礼のないように」
二度言われた。
「安心しろ」
レヴィア様が私の肩へ手を置いた。
細い指だった。
軽く触れられただけなのに、身体がびくりと跳ねる。
「食べたりはしない」
「……本当ですか?」
「おそらく」
「先生、帰っていいですか?」
「失礼のないように」
三度目だった。
◇
レヴィア様に連れてこられたのは、学院の北側にある裏庭だった。
華やかな正門前の庭園とは違い、ここを訪れる生徒は少ない。
古い研究棟と城壁の間に挟まれた細長い庭で、中央には大きな楡の木が一本だけ立っている。
春には少し早いため、枝にはまだ若い芽しか付いていない。
けれど、木の根元には小さな白い花がいくつも咲いていた。
風が吹くたびに、研究棟の蔦がかさかさと音を立てる。
遠くから、生徒たちの声と鐘楼の鐘が聞こえていた。
「座れ」
レヴィア様は楡の木の下にある古いベンチを指した。
「はい」
私は端へ腰を下ろした。
レヴィア様も隣に座る。
肩が触れそうなほど近かった。
ベンチは十分広い。
大人が三人座っても余裕がある。
なのに、なぜかレヴィア様は私のすぐ横を選んだ。
私は気づかれないように、少しだけ端へ移動した。
レヴィア様も同じだけ近づいた。
「…………」
もう一度、横へ移動する。
また近づいてくる。
私の腰が、ベンチの端ぎりぎりまで来た。
これ以上動けば落ちる。
「あの」
「なんだ」
「近いです」
「そうか?」
「近いです」
「私は気にならない」
「私が気になるんですけど」
「なら、慣れればいい」
「そういう問題ですか?」
「大抵のことは、慣れればどうにかなる」
レヴィア様は、どこか遠いところを見るように空を見上げた。
「納豆も、梅干しも、満員電車もな」
「……なっとう?」
聞いたことのない言葉だった。
私が首を傾げると、レヴィア様は一瞬だけ目を見開いた。
すぐにいつもの薄い笑みへ戻ったけれど、その顔には少しだけ寂しそうな色が浮かんでいた。
「気にするな。昔住んでいた場所の話だ」
「レヴィア様の故郷ですか?」
「まあ、そんなところだ」
「どこの国なんです?」
「遠いところだよ」
レヴィア様の視線は空へ向いたままだった。
薄い雲が風に流れ、その向こうに青い空が広がっている。
「帰ろうとしても、もう帰れないくらい遠い」
静かな声だった。
先ほどまでのふざけた調子とは少し違っていた。
何か聞いてはいけないことを聞いたような気がして、私は口を閉じる。
レヴィア様はしばらく空を見ていた。
けれど、私の視線に気付くと、突然こちらへ顔を寄せた。
「それで、どこまで近づけば落ちる?」
「今の話、誤魔化しましたね?」
「何のことだ」
「絶対に誤魔化しました」
「細かいことを気にすると背が伸びないぞ」
「関係ないと思います」
「日本ではよく言ったものだ」
「にほん?」
「言っていない」
「今、はっきり言いましたよね?」
「風の音だ」
無理がある。
でも、レヴィア様はこれ以上話すつもりがないらしい。
ベンチの背もたれに腕を置き、こちらを眺めている。
「それで……私をここへ連れてきた理由は何ですか?」
「聞きたいことがある」
「はい」
「お前は、自分を魔法が下手だと思っているな」
「……思っているというか」
私は膝の上で杖を握った。
「実際、下手です」
「なぜそう思う」
「今日の授業を見てましたよね?」
「ああ」
「初級魔法で、火の粉が二十センチです」
「最初は十センチだったな」
「そこは忘れてください」
「一度の授業で倍に伸びた。目覚ましい成長だ」
「馬鹿にしてます?」
「少しだけ」
正直な人だ。
私は頬を膨らませた。
レヴィア様が私の顔をじっと見る。
「なんですか」
「いや」
レヴィア様が指先で、私の膨らんだ頬を軽く押した。
「柔らかいなと思って」
「触らないでください!」
私は慌てて顔を背ける。
「怒ったか?」
「怒りますよ」
「そうか。良かった」
「何がですか?」
「さっきまでは、何を言われても俯いているだけだったからな」
その言葉に、私は動きを止めた。
レヴィア様は笑っていなかった。
「笑われても、教師に呆れられても、反論しようとしない。自分は駄目だから仕方がない。そんな顔をしていた」
「……事実ですから」
「事実かどうかを決めるのが早すぎる」
レヴィア様は、膝の上に置かれた私の杖を指先で叩いた。
「今日、お前はこの杖を使っていたな」
「はい」
「貸してみろ」
杖を手渡す。
レヴィア様は何度か回し、先端を眺め、軽く振った。
ただそれだけだった。
呪文も詠唱もない。
なのに、杖の先から紫色の火花が流れ、宙に小さな鳥の形を作った。
紫の鳥は私たちの周りを一周し、楡の枝へ止まる。
羽ばたくたびに、光の粒がきらきらと零れた。
「綺麗……」
「この杖は悪くない」
レヴィア様が杖を返してくる。
「お前の魔力量も少なくない。制御も乱れてはいなかった」
「でも、魔法は出ませんでした」
「そうだな」
レヴィア様は、私の右手を見た。
「手を出せ」
「どうしてですか?」
「調べたい」
「痛いことはしません?」
「なるべく」
「する可能性があるんですか?」
「人生には予想外がつきものだ」
「嫌です」
「では、私から握る」
「選択肢の意味がないですよね?」
私が手を引くより早く、レヴィア様の指が私の手首を捕まえた。
そのまま、右手を両手で包まれる。
細く冷たい指が、私の指の間へ触れた。
「ひゃっ」
「変な声を出すな」
「急に触るからです!」
「事前に宣言した」
「拒否したのに!」
「聞こえなかった」
「嘘です!」
レヴィア様が小さく笑う。
こうしていると、戦場を終わらせた大魔女にはとても見えない。
ただ、妙に距離感のおかしい綺麗な人だ。
「目を閉じろ」
「今度は何をするんですか?」
「お前の魔力の流れを見る。私の魔力を少し流すから、力を抜け」
「失敗したら?」
「庭が少し吹き飛ぶ程度だ」
「帰ります」
「冗談だ」
「本当に?」
「研究棟も少し巻き込むかもしれない」
「悪化してるじゃないですか!」
「力を抜け。大丈夫だ」
レヴィア様の声が、急に柔らかくなる。
「私がいる」
その一言が、不思議と耳に残った。
根拠なんてない。
会ってから、まだ一時間も経っていない。
それなのに。
この人が大丈夫と言うのなら、本当に大丈夫なのかもしれないと思った。
私は目を閉じる。
春の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
遠くで、鐘楼の鐘がもう一度鳴った。
「自分の魔力を感じろ」
レヴィア様の低い声が、すぐ近くから聞こえる。
「いつものように、外へ出そうとするな。身体の内側を巡らせろ」
「内側……」
「そうだ。胸から腕へ。腕から杖へ流していたものを、今度は全身へ広げる」
握られた手から、温かなものが伝わってきた。
冷たかったはずのレヴィア様の指が、ゆっくりと熱を持つ。
彼女の魔力だ。
濃く、強く、触れただけで息が詰まりそうなほど膨大な力。
けれど、その魔力は暴れることなく、細い糸のように私の中へ入ってきた。
「焦るな」
耳元で囁かれる。
「魔力を外へ捨てる必要はない。お前の身体は、それを求めていない」
「求めて、いない?」
「ああ。魔法を使おうとするたびに、身体の方が魔力を引き戻している」
言われてみれば、思い当たることがあった。
魔法を使うとき。
杖へ流したはずの魔力が、途中で身体へ戻ってくるような感覚。
自分の集中力が足りないのだと思っていた。
だから無理やり外へ押し出そうとしていた。
「押すな」
レヴィア様が、私の手の甲を親指で撫でる。
「戻ってくるのなら、戻せばいい。お前の身体へ。血液が巡るように、指先から足先まで」
胸の奥にある魔力を、外ではなく内側へ流す。
頭へ。
腕へ。
指へ。
腹部へ。
脚へ。
全身を満たすように。
その瞬間。
世界の輪郭が変わった。
「……え?」
目を開ける。
空の色が、先ほどまでより鮮やかに見えた。
楡の木の枝先にある、小さな芽の筋まで見える。
研究棟の壁を這う蔦が擦れる音。
土の中で虫が動く微かな気配。
遠くの演習場で、誰かが杖を落とした音まで聞こえた。
身体が軽い。
長い眠りから目覚めた直後のように、全身に力が満ちている。
「立ってみろ」
私は立ち上がった。
脚に力を入れたつもりはなかったのに、身体が勢いよく持ち上がる。
「わっ」
慌てて姿勢を整える。
「どうだ?」
「変です。身体が、自分の身体じゃないみたいで」
「それが本来のお前だ」
「これが……」
「少し走ってみろ」
「どこまでですか?」
レヴィア様は庭の反対側にある石像を指差した。
距離は五十メートルほど。
「あの石像まで行って戻れ」
「分かりました」
「ただし」
レヴィア様が悪戯っぽく笑った。
「全力は出すな」
「どうしてです?」
「壁に刺さる」
「人は壁に刺さりませんよ」
「今のお前なら刺さる」
まさかと思いながら、私は軽く地面を蹴った。
景色が消えた。
「えっ――」
一瞬だった。
目の前に、石像の背中がある。
止まれない。
「ぶつかる!」
両腕で顔を守った、その瞬間。
身体が柔らかなものに包まれた。
「だから言っただろう」
顔を上げる。
いつの間に移動したのか、レヴィア様が私を抱き止めていた。
背中に片腕を回され、もう片方の手で頭を支えられている。
私の鼻先が、レヴィア様の胸元に触れそうだった。
「レ、レヴィア様」
「なんだ」
「近いです」
「今さらだな」
「降ろしてください」
「立っているぞ」
「離してください!」
「せっかく受け止めたのに」
レヴィア様は少し不満そうに言いながら、腕を解いた。
けれど完全には離れず、倒れないように腰へ手を添えている。
「理解したか?」
「何をですか?」
「お前は、魔法が使えないんじゃない」
レヴィア様の顔から、ふざけた笑みが消えた。
紅い瞳が、まっすぐ私を見る。
「魔力を外へ放つことが苦手なだけだ」
「同じじゃないんですか?」
「まるで違う」
レヴィア様は私の手を取り、掌を上へ向けさせた。
「この世界の魔法使いは、魔力を外へ出し、現実へ干渉する。炎を生み、水を操り、風を起こす」
レヴィア様が指を鳴らす。
私の掌の上に、小さな紫色の炎が灯った。
熱くはない。
薄暗い庭を照らしながら、花の蕾のように揺れている。
「だから、誰もが外へ放つことばかり教える。身体の中へ魔力を留めるのは危険だと考えるからな」
「危険なんですか?」
「普通の人間がやれば、身体が耐えられない。魔力に内側から焼かれる」
「えっ」
私は慌てて自分の身体を見る。
「安心しろ。お前は逆だ」
レヴィア様が紫の炎を消す。
「お前の身体は、魔力を取り込むためにできている。筋肉、骨、神経、感覚。そのすべてへ魔力を染み込ませることができる」
「そんな魔法、聞いたことがありません」
「自己強化魔法自体は珍しくない。騎士や冒険者も使う。だが、お前の適性は異常だ」
「異常……」
「褒めている」
「褒め方が怖いです」
「一度教えただけで、私より速く走りかけたんだ。十分怖いだろう」
「レヴィア様より?」
「走る速さだけならな」
レヴィア様は少しだけ楽しそうに目を細めた。
「身体強化。感覚強化。自己治癒。毒や呪いへの耐性。おそらく、お前の魔力は自分自身を対象にする術式なら、通常とは比較にならないほど強く作用する」
「でも、炎や水は……」
「不得意なままだろうな」
「やっぱり魔法使いとしては落ちこぼれでは?」
「まだそんなことを言うか」
レヴィア様が私の額を指で弾いた。
「痛っ」
「魚に木を登らせて、登れないから才能がないと決めつけるようなものだ」
「私は魚なんですか?」
「嫌か?」
「もう少し可愛いものがいいです」
「では、ペンギン」
「木登りから離れてます」
「可愛いだろう」
「ペンギンを知りません」
レヴィア様が固まった。
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だったけれど。
彼女の顔から、表情が消えた。
「……そうだったな」
小さく呟き、遠くを見る。
その視線は、庭にも、学院にも向いていないように見えた。
「レヴィア様?」
「白と黒の、丸くて可愛い鳥だ。空は飛べないが、泳ぐのが得意でな」
「詳しいんですね」
「昔、好きだった」
「この辺りにはいないんですか?」
「いないだろうな」
レヴィア様は、どこか寂しそうに笑った。
「少なくとも、私はこの世界で一度も見ていない」
この世界。
その言い方が少し気になった。
けれど私が尋ねる前に、レヴィア様はいつもの調子へ戻っていた。
「話を戻そう」
「誤魔化してません?」
「戻そう」
「はい……」
強引だった。
「つまり、お前は誰にも適切な魔法を教わっていなかった」
レヴィア様は私の頭へ手を置いた。
髪を撫でるように、ゆっくりと指を動かす。
「できないことばかりやらされ、才能がないと言われてきた。それだけだ」
「……でも」
「私が違うと言っている」
静かな声だった。
強い言葉ではないのに、不思議と胸の奥まで届いた。
「私の目を疑うか?」
「それは……」
疑えるはずがない。
目の前にいるのは、八人のオクトマギアの一人。
世界中の魔法使いが憧れる、戦禍の魔姫だ。
その人が。
私に才能があると言っている。
「泣くほど嬉しかったか」
「泣いてません」
「泣いているぞ」
「風が目に入っただけです」
「両目に?」
「今日の風は器用なんです」
「なるほど」
レヴィア様は私の頬へ手を伸ばし、親指で涙を拭った。
「なら、この件は風のせいにしておこう」
優しい声だった。
その優しさに触れたら、余計に涙が止まらなくなった。
私はずっと、自分が悪いと思っていた。
努力が足りない。
頭が悪い。
才能がない。
この学院に入学できたこと自体が、何かの間違いだったのだと。
家族は期待してくれた。
村のみんなも見送ってくれた。
だから、できないとは言えなかった。
毎日練習して。
毎日失敗して。
それでも平気なふりをしてきた。
「よく頑張ったな」
レヴィア様が言った。
「誰にも教わらず、諦めもしなかった」
その一言で。
張り詰めていた何かが、完全に切れた。
「……頑張りました」
「ああ」
「本当に、毎日……」
「見れば分かる」
レヴィア様は、杖を握る私の手を見た。
潰れた豆の跡。
何度も擦れて硬くなった掌。
「偉いぞ」
頭を撫でられる。
子供扱いされている。
普段なら嫌だったかもしれない。
でも今は、その手を振り払う気になれなかった。
「リリア・アステル」
しばらくして、レヴィア様が私の名前を呼んだ。
「はい」
「私の弟子になれ」
「…………はい?」
「聞こえなかったか。私の弟子になれ」
「聞こえましたけど」
「なら、返事は?」
「待ってください!」
「待つのは嫌いだ」
「急すぎます!」
「そうか?」
「今日、初めて会ったんですよね?」
「授業中から見ていた。初めてではない」
「一方的に見てただけですよね?」
「それに、さっき手も繋いだ」
「それは魔力を調べるためです!」
「抱き合いもしたな」
「私が壁にぶつかりそうだったからです!」
「もう十分親しいだろう」
「距離の詰め方がおかしいです!」
レヴィア様は愉快そうに笑った。
「もちろん、無理にとは言わない」
意外な言葉だった。
私は目を瞬く。
「断ってもいいんですか?」
「ああ」
「断ったら?」
「毎日お前を誘いに来る」
「無理に誘ってますよね?」
「断る自由はある」
「諦める気がないだけですよね?」
「よく分かったな」
レヴィア様は、私の前へ手を差し出した。
「私は、お前に私と同じ魔法を教えることはできない」
「レヴィア様と同じ魔法?」
「私は攻撃と破壊ばかり得意でな。何かを壊せと言われれば、たいてい上手くやれる」
「知っています」
「褒められると照れる」
「褒めてはいません」
「だが、お前の力の扱い方なら教えられる。私もこの世界の人間とは少し魔力の性質が違うからな」
「それは、どういう……」
「いずれ話す」
また、少し寂しそうな顔をした。
けれど今度は、すぐに笑って隠さなかった。
「長い話になる。だから、その話を聞く相手が一人くらいいると、私も助かる」
「それって……」
「私は案外、寂しがり屋なんだ」
冗談のような口調だった。
でも、紅い瞳は笑っていなかった。
世界中から恐れられている魔女。
誰よりも強く、何者にも縛られず、一人でどこへでも行ける人。
そんなレヴィア様が。
その瞬間だけ、ひどく遠い場所に一人で立っているように見えた。
「弟子というより、話し相手が欲しいんですか?」
「弟子兼話し相手兼食事相手だな」
「増えましたね」
「できれば、一緒に暮らしてくれると助かる」
「さらに増えました」
「朝、一人で起きるのは退屈だからな」
「それは寂しがり屋というより、生活能力の問題では?」
「私を起こすだけで、世界最高峰の魔法を教えてもらえる。お得だろう?」
「レヴィア様が寝坊しなければ済む話ですよね?」
「それは難しい」
断言した。
「それで、どんな修行をするんですか?」
「気になるか?」
「弟子になるか決めるために必要です」
「なるほど」
レヴィア様は真剣な表情で腕を組んだ。
「まず、朝は私を起こす」
「修行ですか?」
「起床魔法の実践だ」
「そんな魔法、ありません」
「次に朝食を作る」
「家事ですよね?」
「火属性と水属性の複合訓練だ」
「料理を魔法訓練みたいに言わないでください」
「そのあと森を散歩する」
「普通ですね」
「魔物に追いかけられながら」
「普通じゃなかった!」
「大丈夫だ。危なくなったら私が助ける」
「危なくなる前に助けてください!」
「それでは成長しない」
「さっき厳しい修行はしない雰囲気だったのに!」
「厳しくはない。愉快な修行だ」
「師匠側だけが愉快なやつですよね?」
私が言うと、レヴィア様が目を細めた。
「今、師匠と言ったか?」
「言ってません」
「言ったな」
「師匠側って言っただけです!」
「半分弟子入りしたようなものだな」
「どういう計算ですか!」
レヴィア様は、心底楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると。
先ほど感じた寂しさが、ほんの少し薄れたような気がした。
「本当に、私を強くできますか?」
私は聞いた。
レヴィア様の笑みが静かになる。
「ああ」
「私でも?」
「お前だからだ」
迷いのない答えだった。
「いつか、みんなと同じように魔法使いになれますか?」
「同じになる必要はない」
レヴィア様が私の手を取った。
「誰とも違う魔法使いになれ」
「誰とも違う……」
「私が、そうしてやる」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、小さな火が灯った。
授業で出した、風に消される火の粉とは違う。
誰にも消せない。
熱くて、明るい何か。
「……お願いします」
私は、差し出された手を握った。
「私に、魔法を教えてください」
「ああ」
「レヴィア様」
レヴィア様が、少し不満そうな顔をした。
「なんですか?」
「呼び方」
「呼び方?」
「弟子になるのに、いつまで様付けで呼ぶつもりだ」
「では、レヴィアさん?」
「他人行儀だ」
「レヴィア先生?」
「教師ではない」
「ヴァルマギア?」
「異名で呼び捨てにする弟子がどこにいる」
「面倒ですね、この人」
「声に出ているぞ」
私は少し考えた。
答えは最初から一つしかないのだろう。
でも、それを口にするのは妙に恥ずかしかった。
「……師匠」
小さな声で呼ぶ。
レヴィア様は黙った。
「…………」
「あの」
「もう一度」
「嫌です」
「なぜだ」
「恥ずかしいからです」
「弟子になったんだから、遠慮するな」
「一度呼びましたよね?」
「聞き間違いかもしれない」
「絶対聞こえてましたよね?」
「私は耳が悪い」
「さっき、演習場の上から私の呟きまで聞いていたじゃないですか!」
師匠が笑った。
今までの余裕のある笑みとは少し違う。
子供みたいに、嬉しそうな笑顔だった。
「よろしくな、リリア」
「……はい。師匠」
もう一度呼ぶと、師匠は満足そうに頷いた。
「では、早速帰るか」
「帰る?」
「私の家へ」
「今日からですか?」
「善は急げと言うだろう」
「寮の荷物もありますし、学院への相談も必要です!」
「荷物は転移魔法で運べる。学院長にはもう話を通してある」
「いつの間に!?」
「授業中」
「私の意思を聞く前ですよね!?」
「断られたら、話を取り消すつもりだった」
「本当に?」
「毎日説得しながら待つつもりだった」
「結局、諦める気ないじゃないですか!」
師匠は立ち上がり、私の手を引いた。
「夕食は何が得意だ?」
「まだ私が作ると決まってません」
「卵料理はできるか?」
「人の話を聞いてください」
「オムライスが食べたい」
「おむらいす?」
聞き慣れない言葉だった。
師匠が足を止める。
振り返った顔には、少し驚いたような、少し寂しそうな表情が浮かんでいた。
けれど、すぐに柔らかく笑う。
「そうか。知らないか」
「故郷の料理ですか?」
「ああ。子供の頃、好きだった」
「作り方は分かるんですか?」
「なんとなくなら」
「では、師匠が作ってください」
「私が?」
「一緒に作ればいいじゃないですか」
言ってから。
師匠の目が、少しだけ大きく開いた。
「一緒に?」
「嫌なら、別に……」
「嫌ではない」
師匠は私の手を握り直した。
さっきより少しだけ強く。
「それがいい」
その声は、ひどく嬉しそうだった。
「では帰るぞ、弟子」
「学院に許可を取ってからです」
「堅いな」
「師匠が自由すぎるんです」
「そのうち慣れる」
「慣れたくないです」
「大抵のことは慣れればどうにかなる」
「納豆も梅干しも、ですか?」
私が言うと、師匠が立ち止まった。
「覚えていたのか」
「意味は分かりませんけど」
「いつか食べさせてやろう」
「この世界にないんですよね?」
「なければ作ればいい」
師匠は、空へ向かって片手を上げた。
その指先に、紫の光が集まる。
光は複雑な線を描き、私たちの頭上へ巨大な魔法陣を作り出した。
薄暗かった裏庭が、紫色の輝きに包まれる。
風が巻き起こり、楡の枝が大きく揺れた。
地面に咲いていた白い花びらが舞い上がり、光の中を雪のように踊る。
「師匠」
「なんだ」
「これ、何の魔法ですか?」
「転移だ」
「学院内で使っていいんですか?」
「許可は取っていない」
「止めてください!」
「もう遅い」
魔法陣の光が強くなる。
私は反射的に、師匠の腕へしがみついた。
「怖いか?」
「急だからです!」
「離れるなよ」
「誰のせいですか!」
師匠の腕が、私の肩へ回された。
抱き寄せられる。
近い。
けれど今度は、不思議と逃げようとは思わなかった。
「大丈夫だ」
師匠が言った。
「私がいる」
光が視界を埋め尽くす。
次の瞬間。
足元の感覚が消えた。
このときの私は、まだ知らなかった。
戦禍の魔姫の弟子になるということが。
朝、布団へ潜り込んできた師匠を追い出すところから一日が始まり。
朝食の卵を焦がしただけで、炎属性の適性がないと真剣な顔で診断され。
修行と称して買い物へ連れ回され。
疲れたと言えば、なぜか師匠の膝を枕に昼寝させられ。
寂しいからという理由で、寝るまで手を握られる。
そんな、騒がしくて。
少しだけ距離の近すぎる日々の始まりだということを。
そして。
世界中から恐れられている師匠が。
本当は、この世界のどこにも故郷を持たず。
誰にも話せない遠い国の記憶を抱え。
ずっと一人で生きてきた人なのだということを。
私はまだ、知らなかった。
これは。
戦禍の魔姫と呼ばれた天才魔法使いと。
落ちこぼれと呼ばれた私の。
長くて、騒がしくて、時々ちょっと甘すぎる。
そんな師弟生活の始まりでした。




