第二十一話「アナザー・ヴァース」1
第一章 新宿の紫煙、歌舞伎町のオムライス
東京、新宿。 無機質な高層ビル群が墓標のように空を切り取る、巨大都市の谷間。 その一角、築四十年はくだらない古びた雑居ビルの屋上で、久遠灯は錆びついた手すりに体重を預け、気だるげに紫煙を吐き出していた。
眼下には、血管を流れる赤血球のように、無数の車と人が行き交っている。 クラクションの音、大型ビジョンの広告音声、遠くで響くサイレン。 それらが混じり合い、都市特有の「静寂」とも呼べるホワイトノイズを作り出している。平和だ。 吐き気がするほど、平和で、退屈な午後。
彼女は、しがない私立探偵だ。事務所は狭く、エアコンの効きは悪く、依頼といえば浮気調査かペットの捜索ばかり。 今日も、逃げ出した三毛猫を追いかけて、路地裏を泥だらけになって走り回った帰りだった。 猫の爪痕が残る手の甲を眺め、灯は鼻を鳴らした。
「……あーあ。やってらんねえ」
灯は、吸い終わった「わかば」を携帯灰皿に押し込んだ。 なぜだか分からないが、昔からこの銘柄以外は身体が受け付けない。安っぽくて、辛くて、喉を焼くような味。 時代遅れのパッケージ。だが、その煙を肺に満たす瞬間だけが、彼女の退屈な日常における唯一の刺激であり、鎮痛剤だった。
「先生、電話ですよー」
事務員の女性が、窓から顔を出して声をかける。 気のいいおばちゃんだ。
「はいはい。……今行く」
灯は、重い腰を上げた。ふと、左腕をさする。 古傷も何もない、健康な腕。 日焼けした肌の下に、確かな脈動がある。 だか、雨の日になると時折、そこが熱を持つような幻肢痛を感じることがある。
焼けるような熱さ。骨が砕ける音。そして、その痛みの先にあった、誰かと手を繋いだ確かな感触。誰かを抱きしめ、背中を預けた温度。 名前も顔も思い出せない誰か。けれど、魂の形が覚えている「半身」のような存在。
「……変な夢でも見てんのかな」
灯は自嘲気味に笑い、薄汚れたガラス戸を開けて、薄暗い事務所へと戻っていった。夢なら、覚めないでほしかった気もする。だが、コーヒーメーカーの沸騰する音が、彼女を容赦なく現実へと引き戻した。
新宿区、歌舞伎町。 欲望と喧騒が渦巻く歓楽街の一角。 極彩色のネオンサインに埋もれるようにして、コンカフェ『しゅがーぽいずん』はあった。
「おいしくな~れ! 萌え萌えキュン♡」
天羽祈が、客のオムライスにケチャップで猫の絵を描いていた。 彼女は、この店の人気キャストだ。少しドジで、おっとりしていて、でも誰よりも一生懸命な笑顔が、疲れたサラリーマンたちの心を癒やしている。フリルのついたエプロン、リボンのついたカチューシャ。 それは、彼女が社会で生きていくために纏った「鎧」だ。
「はい! しふぁちゃん特製、うさぎさんライスです!」
「ありがとう、しふぁちゃん。……今日も可愛いね」
「えへへ。……ありがとうございます」
祈は、はにかんでトレーを抱きしめた。 彼女の目は、普通の黒目だ。右も左も、同じ色。 背中に翼もないし、空を飛ぶこともできない。 ただの、専門学校に通いながらバイトをしている、ごく普通の女の子。
休憩時間。 狭いバックヤードで、パイプ椅子に座り込んでスマートフォンの画面を見つめる。SNSのタイムラインには、煌びやかなアイドルの写真や、友人の楽しげな投稿が流れていく。 「いいね」の数だけが価値を持つ、デジタルの海。
「……私、このままでいいのかな」
ふと、胸の奥に小さな穴が開いているような感覚に襲われることがある。何か、とても大切なことを忘れているような。 誰かと、とても重要な約束をしていたような。 もっと、命がけで、魂が震えるような「何か」をしていた記憶が、水底の泡のように浮かんで消える。
それは、焦げたパンの匂いかもしれない。 あるいは、雨上がりのアスファルトの匂い。
「……疲れてるのかな」
祈は、ため息をついて冷蔵庫を開けた。そこには、店長に内緒で冷やしてある缶チューハイが並んでいる。『ストロングゼロ・ダブルレモン』。彼女は一本取り出し、プシュッと音を立てて開けた。
一口飲むと、強烈な炭酸とアルコールの刺激が喉を駆け抜け、脳髄を痺れさせる。 漠然とした不安を、少しだけ麻痺させてくれる魔法の水。
「……ふぅ」
祈は、冷たい缶を額に押し当てた。 どこか遠くで、誰かが私を呼んでいる気がする。でも、その声は雑踏にかき消されて、もう届かない。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




