第九話「腐肉の園の甘い毒 」3
第三章 傲慢なる帰還
「抜けるぞ!」
久遠灯の叫びと共に、三人は光の渦へと身を投げた。背後から迫る色欲の王アヴァルフェムの絶叫と、粘着質な触手の群れを振り切り、境界線を越える。瞬間、鼓膜を圧迫していた甘ったるい腐臭と、脳髄を痺れさせるピンク色の霧が、嘘のように遮断された。
浮遊感。 そして、叩きつけられるような重力。
ドスゥン!!
鈍い音が響き、三つの影が硬い岩盤の上に転がり出た。受け身を取る余裕もなく、無様に地面を転がる。だが、その背中や頬に感じる感触は、先ほどまでの生暖かい「肉」の不快な弾力ではなかった。 冷たく、硬く、乾いた岩石の感触。 それが、どれほど愛おしく感じられたことか。
「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
灯は、大の字になって荒い息を吐いた。肺に入ってくる空気は冷涼で、鉄錆とオゾンの匂いがした。それは決して美味い空気ではないが、あの精神を溶かすフェロモンに比べれば、極上の酸素だった。
「……生きてるか、二人とも」
「ああ……。なんとか、な」
チャーリー・Sが、仰向けのまま片手を挙げた。彼はアロハシャツをはだけさせ、胸板に刻まれた亀甲の刺青を月光に晒している。 その顔色は青白い。神獣としての魔力を、氷壁の維持で使い果たしたのだ。
「主よ、感謝します……。我らを、誘惑の淵より救い出したまえり……」
ルシウス・クロウリーは、十字架にすがって膝をつき、震える手で聖印を切っていた。 彼の白銀の法衣は、アヴァルフェムの溶解液と自身の脂汗で汚れ、見る影もない。 だが、その瞳に宿る碧い光だけは、正気を取り戻し、鋭く輝いていた。
三人は、ゆっくりと起き上がった。振り返ると、彼らが飛び出してきた境界線――色欲の領域との境目には、見えない壁があるかのように、ピンク色の霧がピタリと止まっていた。 霧の奥では、未だに魔王の愛を乞う嘆きと、獲物を逃した獣の咆哮が混じり合って木霊している。
「……しつけえ女だ」
灯は、唾を吐き捨てた。 左腕が痛む。M500の銃身で自ら焼いた火傷の痕。 皮膚はケロイド状に引きつり、再生能力をもってしても、その痕跡を消し去るには時間がかかりそうだった。 だが、灯はその傷を袖で隠そうとはしなかった。 これは、彼女が「個」を保ち、甘い毒に屈しなかった証明の刻印だからだ。
「行くぞ。……ここに長居は無用だ」
灯が促すと、二人の男も無言で頷き、痛む体を起こした。彼らの足取りは重いが、その足跡は深く、力強く大地に刻まれている。
彼らが辿り着いたのは、魔界の最深部にして、最も標高の高いエリアだった。 そこは、これまでの領域とは全く異なる様相を呈していた。
植物一本生えていない、黒曜石の荒野。 見渡す限り、鋭利な岩肌と、切り立った断崖が続いている。 空には、ひび割れた月が一つだけ浮かび、冷徹な光を地上に投げかけていた。 風の音さえしない。虫の音も、魔獣の咆哮も、亡者のうめき声も、ここにはない。 あるのは、耳が痛くなるほどの、完全なる「静寂」だけ。
「……静かだ」
ルシウスが、警戒するように周囲を見渡した。これまでの領域――怠惰、強欲、嫉妬、憤怒、色欲。 それらは全て、過剰なまでのエネルギーと感情の渦巻く場所だった。だが、ここは違う。 何もない。 枯渇しているのではなく、最初から何も寄せ付けないような、厳格な拒絶の意志が空間を満たしている。
「敵の気配がねぇな」
チャーリーが、サングラスをかけ直して鼻を鳴らした。
「つーか、生物の気配そのものがねぇ。……ここは、死の世界よりも死んでやがる」
「ああ。……あいつにお似合いの場所だ」
灯は、前方を見据えたまま呟いた。彼女の視線の先。 荒野の中央に、天を衝くようにそびえ立つ、一本の巨大な塔があった。
それは、人工物でありながら、自然の岩山を削り出したかのような威容を誇っていた。装飾の一切ない、黒一色のモノリス。 窓もなく、入り口も見当たらない。 ただ、他者を拒絶し、天上の孤高を貫くためだけに存在しているかのような、圧倒的な「個」の塊。
「あれが……」
灯が息を呑む。 その塔から放たれるプレッシャーは、かつてノクタルニアの古城で対峙した、あの男の気配と酷似していた。
他者を必要とせず、理解を求めず、ただ己のみで完結する精神。 他を見下し、関わりを断つことで保たれる、哀れで強固なアイデンティティ。
花園を抜けた先。 魔界の最深部にして最高峰。 そこには、天(次元の裂け目)に向かってそびえ立つ、一本の巨大な塔があった。
『傲慢の塔』。
かつて、真祖ヴィクトル・ノスフェラトゥ(魔王アヴァトル)が支配していた領域。 そして、地上への唯一の出口。
「あと一つだ」
灯は、M500をリロードした。カチャリ、という金属音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
「行くぞ。……最後は、高いところまでの登山だ」
三人は塔を見上げる。 その頂上には、どんな試練が待っているのか。かつての主が去った後、誰も座ることのなかった「傲慢」の玉座。そこにあるのは、敵か、罠か、それともただの「虚無」か。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




