第九話「腐肉の園の甘い毒 」1
第一章 食虫植物の接吻
灼熱の焦土、憤怒の領域を命からがら抜けた先。 灰色の砂漠と赤い岩肌の境界線を越えた瞬間、世界は暴力的なまでにその相貌を変えた。
久遠灯、ルシウス・クロウリー、チャーリー・Sの三人が足を踏み入れたのは、色彩と臭気が過剰に飽和した、極彩色の湿地帯だった。
空は、腐った桃の果汁をぶちまけたような、毒々しいピンク色の霧に覆われている。 太陽も月もなく、ただ霧そのものが妖しく発光し、影のないのっぺりとした明るさを地上に投げかけていた。地面は土ではない。 踏みしめるたびに、グチュリ、グチュリと湿った音を立てる、腐った果実のようなぬかるみ――あるいは、生暖かい肉の質感を持った有機的な大地だった。
「……吐き気がする場所だ」
灯が、口元を袖で覆いながら呻いた。吸血鬼の鋭敏な嗅覚が、大気中に充満する異常な臭気を捉えて悲鳴を上げている。 甘ったるい安物の香水と、熟れすぎて崩れ落ちた果実の腐敗臭、そして獣の交尾の匂い。 それらが混じり合い、濃厚なフェロモンとなって、呼吸するたびに肺腑を犯し、脳髄を痺れさせる。
至る所に、巨大な花が咲き乱れていた。 人間の背丈ほどもある大輪の花々。 だが、その花弁は植物の繊維ではなく、人間の皮膚のような質感をしており、血管が透けて見えている。中心にある雄しべと雌しべは、蠢く人間の指や舌の形をしていた。
霧の向こうでは、ぼんやりとした人影が見え隠れする。 半裸の男女――に見える悪魔たちが、互いに絡み合い、愛撫し合いながら、そのまま溶けて一つになっていく光景。 ここでは「愛」と「食欲」の境界がない。 他者と混ざり合い、個を失うことこそが至上の快楽とされる、冒涜的な楽園。
「……気をつけろ」
ルシウスが、十字架を構えながら低く警告した。 彼の額には脂汗が滲んでいる。聖職者としての本能が、この場所の邪悪さに拒絶反応を示しているのだ。
「ここは、ただの湿地帯ではない。……この空間そのものが、巨大な胃袋だ」
「あら、いい男たちじゃない」
突如、霧の中から甘い声が響いた。鼓膜ではなく、直接脳髄を撫で回すような、粘着質な声。
前方の霧が晴れる。 そこに鎮座していたのは、巨大なラフレシアのような花だった。 肉厚な花弁が開き、その中心から、一人の女の上半身が生えている。
艶やかな黒髪。陶器のように白い肌。豊満な肢体。だが、その下半身は、植物の根と内臓が複雑に絡み合ったような醜悪な塊となって、大地に根を張っていた。
『色欲の王:アヴァルフェム』。
七つの大罪が一柱。 満たされることのない渇望と、歪んだ愛欲を司る魔王。
彼女の姿は、見る者の理想に合わせて揺らぐ。ルシウスの目には、慈愛に満ちた聖女のように。 チャーリーの目には、かつて愛した酒場の踊り子のように。そして灯の目には――1000年前に失った、母のような温かさを持った女性のように。
だが、その本質は一つ。 底なしの飢餓を抱えた、巨大な食虫植物だ。
「こっちにいらっしゃい。……戦いなんて忘れて、私の中で溶け合いましょう?」
アヴァルフェムが微笑み、手招きをした。 その指先から、ピンク色の花粉が舞い上がる。 甘い、あまりにも甘い、死への招待状。
「貴方たちの痛みも、悲しみも、孤独も……私が全部食べてあげる。……一つになれば、もう寂しくないわ」
彼女の声は、理性を溶かし、本能を暴走させる毒だった。 安らぎ。快楽。忘却。戦い続け、傷つき疲れ果てた魂にとって、それは何よりも抗いがたい誘惑だった。
アヴァルフェムが、口からピンク色の吐息を撒き散らした。 それを吸い込んだ瞬間、ルシウスの足がピタリと止まった。
「……あぁ」
ルシウスの碧眼から、険しい光が消えていく。 十字架を握る手が緩み、重たい金属の塊が地面にめり込む。 彼の視界には、魔王の姿ではなく、天国からの迎えが見えているのかもしれない。
「……神の、胸に抱かれるような……」
聖遺物の加護さえも浸食する、精神溶解のフェロモン。 彼の脳内では、H.L.O.H.での苦悩も、魔女狩りの罪悪感も消え失せ、ただ温かい光に包まれる幻覚が展開されていた。 赦し。彼が最も求め、決して得られないと思っていたものが、今ここにある。
「へへ……。もう、頑張らなくていいのか……?」
チャーリーもまた、その場に崩れ落ちるように膝をついた。玄武の鎧が霧散し、水流がただの水溜まりに戻っていく。四神としての重責。仲間を失った悲しみ。たった一人で大陸を支え続けてきた孤独。 それら全てを投げ出して、ただ眠りたいという欲求が、彼の屈強な精神を蝕んでいく。アロハシャツの男は、子供のような無防備な顔で、虚空に手を伸ばした。
「……あったけぇな。……酒より、気持ちいいぜ」
二人の身体が、徐々に変化を始めていた。 足元から、ゲル状に溶け始めているのだ。肉体が液状化し、地面の肉と同化しようとしている。 個の輪郭が溶け、思考が停止していく。死ぬことよりも甘美な、自我の消滅。
「……ッ、ふざけんな!」
灯だけが、ギリギリで踏みとどまっていた。 彼女は舌を噛み切り、口の中に鉄の味を広げることで、意識を繋ぎ止めていた。 吸血鬼の精神耐性と、何より彼女の持つ「強烈な自我」が、溶解を拒んでいる。
だが、視界は霞み、手足が鉛のように重い。まぶたが、接着剤でくっつけられたように閉じようとする。 このまま眠ってしまえば、どんなに楽だろうか。 周の元へ行ける。 何も考えなくていい。
(……ダメだ)
灯は、薄れゆく意識の中で歯噛みした。 ここで溶けてしまえば、私は「私」じゃなくなる。周を愛した記憶も、仲間と過ごした日々も、全部ドロドロのスープになって消えてしまう。
自我を保つには、強烈な楔が必要だ。 甘い夢を切り裂く、現実の痛みが必要だ。
「痛くねえ人生なんざ……死んでるのと一緒だ!」
灯は、震える手でM500を持ち上げた。重い。普段なら指先で回せる銃が、今は鉄アレイのように感じる。 彼女は、銃口を向けた。敵ではない。 自分自身の左腕に。
ジュウウウッ!!
灯は、直前の戦闘で発砲し、高熱を帯びていた銃身を、自らの二の腕に押し当てた。皮膚が焼ける音。 鼻をつく、肉の焦げる臭い。激痛が、脳天を突き抜ける。
「ぐ、ぁぁぁぁッ!!」
悲鳴。 だが、その鋭利な痛みが、麻痺しかけていた神経を無理やり覚醒させた。 安らぎを切り裂く、生の叫び。 痛みこそが、生きている証。
「起きろ! 神父! 亀!」
灯は、焼けた腕の痛みを推進力に変え、二人の元へ駆け寄った。 そして、思い切り彼らの頬を殴りつけた。
バチンッ!! ドゴッ!!
手加減なしの平手打ちと、裏拳。 熱と痛みが、二人を甘い夢から引きずり戻す。
「テメェらの誇りは……そんな安っぽい快楽で溶けるモンかよ!」
灯の怒号が、ピンク色の霧を震わせた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




