第七話「水銀と嫉妬の鏡像 」3
第三章 傷跡の証明
「……はっ」
乾いた笑い声が、静寂を破った。 それは、絶望の淵からの嗚咽ではない。 あまりに出来すぎた幸福な悪夢に対する、痛烈な嘲笑だった。
「笑わせるな」
久遠灯は、震える足に力を込め、泥のような水銀の沼を踏みしめて立ち上がった。 彼女の視線の先には、純白の着物を着た「人間・久遠灯」と、愛する男・周の幻影が佇んでいる。彼らは悲しげに、そして誘うように手を差し伸べている。 その手を取れば、1000年の孤独は消え、温かな安らぎが手に入るだろう。 過去を書き換え、吸血鬼としての業を捨て去ることができる。
だが。
「確かに、そいつは私が望んだ夢かもしれない。……1000年前の私が、喉から手が出るほど欲しかった未来だ」
灯は、M500の撃鉄を起こした。カチリ、という硬質な音が、甘美な幻影の世界に亀裂を入れる。
「だがな……。今の私には、綺麗すぎるんだよ」
彼女は、自分の胸――動かない心臓がある場所を、泥だらけの拳で叩いた。 そこには、周を失った痛みがある。1000年間の放浪で刻まれた傷がある。仲間たちと出会い、喧嘩し、傷つけ合いながら絆を結んだ記憶がある。そして、つい先日、ノクタルニアの古城で父親を乗り越えた感触がある。
それら全てが、今の「久遠灯」を形作っている。その傷跡一つひとつが、彼女が地獄を這いずり回って生きてきた証明だ。
「傷一つない人生なんざ、クソ食らえだ」
灯の瞳から、迷いが消える。真紅の瞳が、鏡の中の「幸せな自分」を睨みつけた。
「私は、泥にまみれて、間違えて、後悔して……それでも選んできたこの『傷だらけの私』が気に入ってんだよ!」
灯の咆哮が、物理的な衝撃波となって炸裂した。鏡の中の「人間・久遠灯」の顔にヒビが入る。完璧だった幻影が、ノイズ混じりのガラス細工のように砕け散っていく。
「ルシウス! チャーリー!」
灯は、未だ膝をついている二人の男に檄を飛ばした。
「テメェらの傷は、恥じるような安っぽいモンか!? ……その古傷が疼くのは、お前らが戦ってきた証拠だろうが!」
その言葉が、呪いを打ち破る楔となった。
「……否!」
ルシウス・クロウリーが、十字架を杖にして立ち上がった。彼の目の前には、一点の曇りもない「聖人ルシウス」がいる。 だが、ルシウスはその理想像を、汚れた手で拒絶した。
「私の迷いも、罪も……弱きを見捨てかけ、そして救おうと足掻いたあの瞬間も! 全てが私の信仰の証だ!」
聖人である必要はない。 泥にまみれ、悩み、それでも十字架を背負い続ける。 その「足掻き」こそが、人間としての信仰なのだ。 ルシウスの背後で、聖遺物が輝きを取り戻す。
「へっ……違いねぇな」
チャーリー・Sもまた、ニカっと笑って立ち上がった。 目の前の「全盛期の玄武」は、あまりに立派で、そして退屈そうに見えた。
「逃げたからこそ、見えた景色もある。……あのスラムで食った肉まんの味は、神殿の供物より美味かったぜ」
チャーリーの背中に、水流の鎧が戻る。逃げた過去も、風来坊として過ごした日々も、全てが今の彼を支える年輪だ。
三人の拒絶。それは、自己否定を強要する「嫉妬の王」に対する、強烈なカウンターだった。
『な、なぜだ……!?』
空間そのものが悲鳴を上げた。 無数の鏡から、『嫉妬の王:アヴァエンヴィル』の絶叫が響く。
『なぜ、汚れたままの自分を愛せる!? なぜ、欠落を誇れる!? ……理解できない! 羨ましい! 妬ましい!!』
水銀の沼が沸騰し、鏡の破片が嵐のように吹き荒れる。 アヴァエンヴィルは、三人の「理想の幻影」を融合させ、巨大な複合体となって襲いかかってきた。聖なる光と、神獣の力、そして吸血鬼の霧を纏った、完璧な怪物。
「羨ましがり屋のストーカー野郎に……」
灯は、M500をホルスターに収めた。 今は、銃ではない。 己の肉体と魂をぶつける時だ。
「くれてやる顔はねえッ!!」
三人は同時に地面を蹴った。 狙うのは、怪物の身体ではない。 その中心。 怪物が守るように抱え込んでいる、この世界の核――「巨大な真実の鏡」だ。
「喰らえ!」
灯の拳が、真紅の魔力を纏って突き出される。 ルシウスの聖銀の杭が、白銀の閃光となって射出される。チャーリーの水流が、漆黒のドリルとなって渦を巻く。
三位一体の一撃。 異なる種族、異なる信念を持つ三人の力が、一点で交錯した。
パリーン!!
世界が砕け散る音がした。 物理的な破壊音ではない。「嫉妬」という呪縛そのものが、粉々に粉砕された音。
『あぁぁぁ……! 嫌だ……! 見るな……!』
断末魔が響く。怪物の身体が、鏡の破片となって崩れ落ちていく。 だが、魔王は死ななかった。鏡の破片が集まり、水銀の渦となって、不定形の影を形成する。
『気持ち悪い……! お前たちの「自己愛」は、吐き気がする!』
アヴァエンヴィルは、激しく嘔吐するような音を立てた。 彼にとって、傷ついた自分を愛するという行為は、理解不能な「毒」だったのだ。 他者になりたいと願う彼にとって、ありのままの自分を肯定する灯たちの魂は、直視するだけで目が潰れるほどに眩しく、そして醜悪に映った。
『出て行け! ……私の庭から、消え失せろ!』
拒絶。 魔王は、灯たちを殺すことさえ放棄し、自らの領域から「吐き出す」ことを選んだ。 空間が歪み、巨大な穴が開く。それは出口への道だった。
「……へっ。随分と脆い魔王様だな」
灯は、鼻を鳴らした。
「自分を持たねえ奴に、負ける道理はねえよ」
水銀の湿原が遠ざかり、三人は荒野へと吐き出された。 気がつくと、背後にあったはずの嫉妬の領域は、蜃気楼のように揺らぎ、消え失せていた。
「……ふぅ。気疲れする相手だったな」
灯は、額の汗を拭った。精神的な消耗は激しいが、不思議と心は軽かった。自分の弱さと向き合い、それを肯定したことで、迷いが晴れた気がする。
目の前には、赤茶けた荒野へと続く一本道が現れていた。 その先からは、肌を焼くような熱気と、硫黄の臭いが漂ってくる。 先ほどまでとは異なる、暴力的な気配。
「……ヴィクトルも、ここを通ったのか?」
ルシウスが、遠くを見つめながら問う。
「さあな」
灯は、懐を探ったが、煙草の空き箱すらなかったことを思い出して苦笑した。
「あいつは『虚無』だ。……嫉妬されるような『個』すら持っていなかったのかもな」
あるいは。 「他者になりたい」と願う嫉妬の王にとって、最初から「何者でもない(虚無である)」ヴィクトルは、認識することさえできない対象だったのかもしれない。 彼は、王を一瞥することもなく、ただ通り過ぎたのだろう。
「行くぞ。……次はもっと熱そうだ」
灯は歩き出した。三人は傷だらけの身体を引きずり、先へ進む。
空気の色が変わる。 空が赤く染まり、遠くで何かが爆ぜる音が聞こえる。大地はひび割れ、その裂け目から赤い光が漏れ出している。
次に何が待ち受けているのかはわからない。 だが、止まるわけにはいかない。
魔界脱出の旅は、まだ続いていく。 その先に待つのが、希望か、それとも更なる絶望か。今はただ、ヴィクトルの足跡を追って、深淵の奥へと進むしかなかった。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




