第七話「水銀と嫉妬の鏡像 」1
第一章 誰でもない森
強欲の王アヴァグラドゥスの宮殿を後にし、私たちは地下深くへと続く長い螺旋階段を下り続けていた。背後で閉ざされた鉄扉の向こうからは、未だに魔王の絶叫と、崩れ落ちる財宝の音が微かに響いてくる。だが、追っ手の気配はない。 あの強欲な王は、私たちへの復讐よりも、傷ついたコレクションの修復を選んだのだ。
「……ふぅ。とんだ茶番だったな」
チャーリー・Sが、階段の踊り場に腰を下ろし、大きく息を吐いた。 彼はアロハシャツの襟を寛げ、汗を拭う。 神獣としての体力を持ってしても、魔界の瘴気と連戦の疲労は隠せない。
「全くだ。……命よりも金貨を拾うとは、悪魔というのはどこまで行っても救い難い」
ルシウス・クロウリーもまた、巨大な十字架『ゴルゴダ』を床に置き、肩を回した。その白銀の法衣は煤と埃で汚れ、聖職者というよりは歴戦の傭兵のような風格を漂わせている。
久遠灯は、壁に背を預け、空っぽになった「わかば」の箱を指先で弄んでいた。 最後の一本は、あの魔王への手切れ金としてくれてやった。 口寂しさを紛らわすように、エア喫煙の真似事をする。
「まあ、おかげで命拾いしたさ。……まともにやり合ってたら、今頃あの黄金像の一部にされてたところだ」
灯が自嘲気味に笑うと、チャーリーもニカっと歯を見せた。
「全くだぜ。……しっかし、濃い旅だな。怠惰の山脈で生き埋めになりかけ、強欲の宮殿で値踏みされ……。地獄めぐりツアーにしちゃあ、刺激が強すぎる」
「不満か? ……案内人は私ではないぞ」
ルシウスが淡々と返す。
「へっ。文句じゃねえよ。……退屈しなくていいって言ってるんだ」
チャーリーは、薄暗い階段の先を見つめた。 この魔界に降り立ってから、時間の感覚が曖昧になっている。数時間なのか、数日なのか。あるいは、地上ではもう数年が経過しているのかもしれない。そんな不安を振り払うように、三人は軽口を叩き合っていた。 本来なら殺し合うはずの、吸血鬼、聖職者、神獣。 異色のトリオは、死線を越えるたびに、奇妙な連帯感で結ばれつつあった。
「……なぁ、神父様」
灯が、ふと真面目な顔で尋ねた。
「ヴィクトルの通った道……『王の道』ってのは、あとどれくらい先なんだ?」
「わからん」
ルシウスは首を横に振った。
「古地図によれば、この階層を下りきった先に、かつてヴィクトルが支配していた『傲慢』の領域があるはずだ。……そこが出口に繋がっている可能性が高い」
「なるほどな。……最短ルートで行きたいところだが」
灯は、天井――遥か頭上にあるはずの地上の空を思った。そこには、今も仲間たちが待っているはずだ。 意識を失い、眠り続ける祈。 彼女を救うために戦う鏡花や美流愛たち。そして、行方不明の親友を探して走る響。
(……待ってろよ。必ず帰る)
「七つの大罪……。怠惰と強欲とは遭遇したが、他の連中もまた、どこかで俺たちを待ち構えているかもしれねえな」
チャーリーが顎をさする。 かつて地上に現れた暴食も、この魔界のどこかで力を蓄え、虎視眈々と復讐の機会を窺っているかもしれない。他の魔王たちも、いつ牙を剥くかわからない。 全てを倒す必要はないが、降りかかる火の粉は払わなければ進めない。
「行くぞ。……立ち止まってる暇はねえ」
灯が歩き出すと、二人の男も無言で従った。階段の空気が変わる。黄金の熱気と腐臭が消え、代わりに肌を刺すような冷気と、湿った静寂が漂い始めていた。
階段を降りきった先。 そこに広がっていたのは、これまでとは全く異なる、静謐で不気味な世界だった。
「……なんだ、ここは」
灯が、眉をひそめる。 そこは、一面が銀色の水で覆われた、広大な湿原だった。空には月もなく、光源が見当たらないにも関わらず、世界全体が薄ぼんやりと青白く発光している。足元の水面は、水というよりは水銀のように重く、粘り気があり、波紋一つ立たない。
「……気味が悪いな」
灯が呟き、水面をブーツで踏み荒らす。 重い飛沫が上がるが、すぐに元通りに平滑化し、鏡のような表面を取り戻す。 そこには、三人の姿が鮮明に映り込んでいた。
だが、おかしい。水面の「影」は、本体が動いても直立不動のままなのだ。 灯が手を振っても、影は動かない。ただ、じっとこちらを見つめ返している。 その視線には、底知れない羨望と、ねっとりとした悪意が宿っていた。
「……見られている」
チャーリーが、背中の毛を逆立てるように身構えた。敵の気配はない。 だが、無数の視線が肌にまとわりつく感覚がある。
空気は冷たく、硝子を擦り合わせたような甲高い音が、遠くから絶えず響いている。キィィィン……という、神経を逆撫でする音。それは、誰かの悲鳴のようでもあり、忍び笑いのようでもあった。
「ここは……『嫉妬の王』の領域だ」
ルシウスが、十字架を構えながら告げた。
「他者の幸福、才能、存在そのものを妬み、その全てを模倣し、奪い取ろうとする影の王。……ここでは、自分自身でいることさえ許されない」
「自分自身でいることが許されない……?」
「ああ。……心の隙間に入り込み、最も見たくないもの、あるいは最も見たいものを見せる」
霧が出てきた。 乳白色の霧が、足元から這い上がり、視界を遮っていく。 方向感覚が失われる。自分たちが進んでいるのか、戻っているのかさえ曖昧になる。世界が、個の輪郭を溶かそうとしている。
「……はぐれるなよ」
灯が声をかけるが、返事がない。 振り返ると、そこには誰もいなかった。 ルシウスも、チャーリーもいない。 ただ、濃密な霧が渦巻いているだけだ。
「チッ……分断されたか」
灯は舌打ちし、警戒を強めて歩を進める。その時、前方の霧が揺らぎ、一つの人影が現れた。
「……ルシウスか? それともチャーリーか?」
灯が声をかける。だが、現れたのはそのどちらでもなかった。
それは、灯自身だった。
だが、今のボロボロのコートを着た吸血鬼の姿ではない。純白の着物を着て、穏やかな日差しの中で微笑む、美しい女性。 その隣には、一人の男が寄り添っている。優しげな瞳。左目の下の泣き黒子。周だ。
「……あ」
灯の足が止まる。幻影の中の灯は、吸血鬼の呪いを受けていなかった。人間として歳を重ね、愛する人と共に生き、そして幸せな生涯を閉じようとしている、理想の未来。1000年前に、灯が何よりも望み、そして永遠に失われた「あり得たかもしれない可能性」。
『辛いでしょう?』
幻影の灯が、優しく語りかけてきた。
『戦いも、痛みも、孤独も……もう終わりにしましょう。……こっちへいらっしゃい。ここには、貴女が望んだ全てがあるわ』
彼女が手を差し伸べる。 その手は、泥にも血にもまみれていない、綺麗な手だった。
一方、別の場所でも。
ルシウスの前には、白銀の法衣を完璧に着こなし、後光を背負った「聖人ルシウス」が立っていた。 その瞳には迷いも曇りもなく、絶対的な正義の輝きがある。かつて彼が目指し、そして組織の腐敗によって挫折した、理想の聖職者の姿。
『私は迷わない。私は誰も見捨てない。……私こそが、お前がなりたかった理想の姿だ』
聖人ルシウスが、侮蔑するように今のルシウスを見下ろす。
『汚れた手で十字架を握るな。……お前は、信仰を捨てた裏切り者だ』
そして、チャーリーの前には。四神の威厳を完全に保ち、大陸を統べる「全盛期の玄武」が立ちはだかる。 その背中には、逃げ傷など一つもない。圧倒的な力と自信に満ち溢れた、最強の神獣。
『逃げ出した腰抜けめ。……俺が代わってやろうか? お前には荷が重すぎるだろう』
『玄武』が、嘲笑う。
『仲間を見捨て、一人でのうのうと生き延びた臆病者。……お前に、世界を守る資格などない』
幻影たちが、彼らを追い詰める。 甘い誘惑と、鋭い自己否定。それは、彼らが心の奥底で抱えている「弱さ」そのものだった。
「……クソッ」
灯は、震える手でM500を握りしめた。引き金を引けば、この幸せな幻影は消える。 だが、それは同時に、自分自身の「夢」を殺すことでもある。
「……悪趣味な真似しやがって」
嫉妬の王は、姿を見せない。 ただ、彼ら自身の心を鏡に映し出し、自滅させようとしているのだ。三人の足が、思わず止まる。 霧の奥から、あざけるような笑い声が響いていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




