第五話「奈落の重力」2
第二章 灰の砂漠、七つの玉座
「……ッ、ぐぅ!」
衝撃は、予想を遥かに超えていた。峡谷の縁から奈落へと身を投げた浮遊感は一瞬で消え、代わりに内臓を雑巾絞りにされるような強烈なGが全身を襲った。 それは単なる落下の衝撃ではない。次元の境界を突破した際に生じる、世界の理そのものの拒絶反応だ。
ドスゥン……!!
鈍い音が響き、三つの影が大地に叩きつけられた。舞い上がるのは砂埃ではない。 死者の骨が風化してできたような、白く乾いた「灰」だ。
「……ぺっ。最悪な味だ」
久遠灯は、口の中に入り込んだ灰を吐き捨て、身を起こした。 全身が軋む。吸血鬼の再生能力を持ってしても、この空間の圧力には細胞が悲鳴を上げている。 彼女はM500を構え、周囲を警戒した。
そこは、色彩のない荒野だった。
空には太陽がない。星もない。 代わりに、ひび割れた紫色の月のような天体が三つ、不規則な軌道で浮かび、地上を薄暗く照らしている。 見渡す限りの灰色の砂漠。枯れ木のような奇岩が墓標のように点在し、風が吹くたびに、赤ん坊の泣き声に似た不気味な音が響く。
空気は氷のように冷たく、そして極端に乾燥していた。 湿度ゼロ。生命の気配ゼロ。 ここは、生物が生きていくために作られた場所ではない。死に損なった魂が、永遠に渇き続けるための牢獄。
魔界。 人間が決して踏み入れてはならない、禁断の領域。
「……おい、生きてるか?」
灯が声をかけると、灰の山から二つの影が立ち上がった。
「……なんとかな。俺の『水』のクッションがなけりゃ、ミンチになってたぜ」
チャーリー・Sが、漆黒の鎧(水流)を解きながら苦笑する。神獣である彼でさえ、肩で息をしている。
「ここはいけねえ。……魔素の濃度が高すぎる。普通の人間なら、呼吸した瞬間に肺が腐って死ぬぞ」
チャーリーの視線が、もう一人の男に向けられる。 人間である聖職者。本来なら、この環境に最も適応できないはずの存在。
だが。
「主よ、感謝します」
ルシウス・クロウリーは、無傷で立っていた。彼は巨大な十字架『ゴルゴダ』を杖のように突き立て、胸で十字を切った。
彼の周囲には、薄いガラスのような光の膜が張られていた。十字架の中央に埋め込まれた聖遺物が、微かなハム音を立てて振動し、周囲の瘴気を弾いているのだ。
「……なるほどな。その十字架が生命維持装置ってわけか」
灯が納得したように言う。
「聖域の展開機能だ。……この聖遺物の加護がある限り、私の周囲半径2メートルは『聖地』として定義される」
ルシウスは、顔色一つ変えずに答えた。 だが、その額には脂汗が滲んでいる。 結界の維持だけでも、相当な精神力を削られているはずだ。
三人は、頭上を見上げた。 そこには、空を裂くように巨大な亀裂――『次元の裂け目』が口を開けていた。 ドス黒い瘴気が、そこから現世へと逆流し続けている。 あそこが、唯一の出入り口であり、今から塞がねばならない傷口だ。
「……閉じるぞ」
灯は、躊躇なく自らの左手首を犬歯で噛み切った。鮮血が噴き出す。だが、それは地面に落ちる前に霧となり、赤黒い雲となって上空の亀裂へと吸い込まれていく。
「『血の晩餐』……封鎖術式」
吸血鬼の呪いは、「固定」と「停滞」の力を持つ。 霧が亀裂の縁に張り付き、傷口を塞ぐ瘡蓋のように凝固していく。
「援護する。……聖なる銀よ、楔となれ」
ルシウスが、懐から数本の聖銀の杭を取り出し、地面に正三角形を描くように打ち込んだ。杭から光の柱が立ち昇り、灯の血霧と融合する。 聖域結界による補強。
「仕上げだ! ……凍てつけ、時よ!」
チャーリーが両手を掲げる。 大気中のわずかな水分と、彼自身の神気を練り上げ、絶対零度の氷の膜を生成する。 それが亀裂を覆い、接着剤となって次元の穴を完全に塞ぎ込む。
ズズズ……ン。
重苦しい音がして、空の亀裂が閉じた。瘴気の噴出が止まる。頭上にあった「出口」が消え、完全な閉鎖空間が完成した。
「……これで、こっち側の瘴気が地上に漏れることはない」
灯は、傷ついた手首を舐めて塞ぎ、荒い息を吐いた。任務完了。 だが、それは同時に、残酷な事実を突きつけるものでもあった。
空を見上げる。 そこにはもう、帰るべき道はない。自分たちは、この無限の地獄に、生きたまま閉じ込められたのだ。
「さて……と」
灯は、足元の灰をブーツで踏みしめた。乾燥した音が、虚しく響く。
「一仕事終えたが……帰り道はどうするよ? 神父様」
「……ふぅ」
ルシウスは、十字架を地面に置き、近くの岩に腰掛けた。聖遺物の光が、周囲の闇を僅かに払っている。彼は懐を探り、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
「手はある。……可能性は低いがな」
彼が広げたのは、ボロボロになった地図だった。 不気味な文字と、歪な地形が描かれている。 インクではなく、何者かの血で描かれたような生々しさがある。
「なんだそりゃ? 宝の地図か?」
「ヴァルチアンのH.L.O.H.本部の禁書庫から持ち出した、魔界の古地図だ。……数千年前、偶然魔界に迷い込み、奇跡的に生還した聖人が記したものとされている」
ルシウスは、地図の中央を指差した。
「伝承によれば……この魔界にはかつて、『七つの大罪』を司る七人の王がいたとされる」
「七人の王……?」
「暴食、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、怠惰、そして傲慢。……彼らはそれぞれの領土を持ち、互いに争い、覇権を競っていた」
ルシウスの指が、地図上の七つのエリアをなぞる。 それぞれに、おぞましい怪物の絵が描かれている。巨大なハエ、黄金の獣、多頭の蛇。
「だが数千年前、その均衡が崩れた。……七人の王のうち、最強と謳われた『傲慢の王』が、突如として魔界を捨て、地上へと出奔したからだ」
「出奔? ……魔王が家出かよ」
チャーリーが呆れたように笑う。
「ああ。理由は不明だが……彼はこの地獄の争いに飽き、新たな刺激を求めて次元の壁を越えたと言われている」
ルシウスは、灯をじっと見つめた。 その視線は、探るようであり、同時に確信に満ちていた。
「その『傲慢の王』の名は……アヴァトル」
「……ッ!?」
灯の眉がピクリと動く。 その名前に、聞き覚えがあったわけではない。だが、その響きに含まれる「傲慢」という性質と、数千年前という符合が、彼女の記憶にある「ある男」と重なったのだ。
「アヴァトル……。まさか」
灯の声が震える。
「そうだ」
ルシウスは頷いた。
「それが、吸血鬼の真祖……ヴィクトル・ノスフェラトゥの、魔界での名だ」
戦慄が走る。ノクタルニアで戦い、眠りにつかせたあの男。 彼はただの吸血鬼ではなかった。 元々、この魔界の頂点に君臨していた「魔王」そのものだったのだ。彼が纏っていた「虚無」のオーラ。それは、この魔界の荒涼とした景色そのものだ。 彼が地上で求めていた「静寂」とは、この魔界の騒がしさからの逃避だったのかもしれない。
「なんてこった……。私の親父は、元魔王様だったってわけか」
灯は、乾いた笑いを漏らした。レオンハルトの強さも、ヴィクトルのデタラメな力も、全て合点がいく。彼らは、この世界の理で作られた存在ではなかったのだ。外来種。 この星にとっての、侵略者。
「ヴィクトルは、かつてこの地獄に飽き、地上へと脱出した。……その時に使った『王の道』が、どこかに残されているはずだ」
ルシウスは、地図の端に描かれた、微かな線を指差した。それは、七つの領土を貫き、天へと続く螺旋の道。
「ヴィクトルの足跡を追えば、地上へ帰れる。……理論上はな」
希望の光。だが、それは同時に、絶望的な試練の始まりでもあった。 地図を見る限り、「王の道」へ辿り着くためには、残る六人の魔王たちの領土を突破しなければならない。
「……つまり、だ」
チャーリーが、ボキボキと首を鳴らして立ち上がった。
「ここから帰るには、あと6回、世界滅亡クラスのボス戦をやらなきゃならねぇってことか?」
「簡単に言えばそうなる」
ルシウスは、地図を畳んで立ち上がった。 その顔には、聖職者としての使命感と、戦士としての闘志が宿っていた。聖遺物の光が、彼の覚悟を照らし出す。
「行くぞ。……立ち止まっていれば、ここの空気に魂を腐らされるだけだ」
「へっ。……上等じゃねえか」
灯は、M500を肩に担ぎ直した。退路はない。 前進あるのみ。
「地獄の底だろうが何だろうが……。私たちが歩けば、そこが帰り道だ」
三人の異邦人は、灰色の砂漠へと足を踏み出した。目指すは、かつて傲慢の王が座していた玉座。 そして、その先にある地上への階段。
魔界脱出。 命を懸けた、長い長い家路が始まった。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




