第四話「純白の箱庭」3
第三章 サヨナラをもう一度
鉄鏡花がエンターキーを叩いた瞬間、世界が悲鳴を上げた。
ザザッ……ザザザッ……!!
視界を埋め尽くしていた完璧な「白」に、どす黒いノイズが走る。静寂だった空間に、雨音が混じり始める。 湿った、冷たい、廃工場の雨の音。
ドクン。
心臓の音が響いた。それは、この無菌室の空調音ではない。 もっと生々しく、不規則で、熱を帯びた生命の鼓動。
祈の脳裏に、封印していた記憶が奔流となって押し寄せる。『青い涙』によって暴走し、異形と化した透を、自らの手で止めた夜の記憶。
『……ありがとう、しふぁちゃん』
耳元で囁かれた、最期の言葉。 命が、自分の手の中で急速に冷えていく、取り返しのつかない喪失感。
「……あ……」
天羽祈は、自分の手を見つめた。 震える両手。 さっきまで真っ白なリンゴを持っていたその手には、今、べっとりと赤い血が付着していた。 幻覚ではない。 これこそが、彼女が背負ってきた「現実」の触感。
「……あぁ……」
祈の喉から、嗚咽が漏れる。 痛い。熱い。苦しい。この箱庭が与えてくれた麻酔が切れ、現実の激痛が魂を焼き尽くす。
「嘘だ……嘘だ……」
祈は、目の前の怪物を見上げた。 透の姿を模した『守護天使』。 彼は、祈の記憶の再生に合わせて、その輪郭を激しく揺らめかせていた。
「透さんは……生きてる……。ここにいる……」
『そうだよ、しふぁちゃん』
怪物が、優しく、しかし歪んだ声で囁く。
『僕はここにいる。君が望む限り、永遠に。……外の世界なんて見なくていい。あそこには痛みしかない』
怪物の翼が広がり、再び祈を白い繭の中に閉じ込めようとする。甘い毒。思考停止への誘い。
だが、その白い壁を、極彩色の光が切り裂いた。
「いい加減になさいッ!!」
融合人格『クリス』が、祈の肩を掴んだ。その爪が食い込むほどの強さで、祈を揺さぶる。
「痛いでしょう? 苦しいでしょう? ……それが生きているってことよ!」
クリスの瞳――右の金と左の赤が、燃え上がるように輝く。彼女の中の三つの人格が、祈への想いを叫んでいる。
白雪美流愛の憤り。「自分の人生を、なかったことにするんじゃないわよ!」
亞莉愛の献身。「貴女の傷も、罪も、全てがお姉様(美流愛)が認めた『天羽祈』の一部です!」
華琉愛の渇望。「逃げるな! 戦え! 私たちと一緒に!」
「辛いことも、悲しいことも、汚いことも……全部ひっくるめて、アンタの人生でしょうが!」
クリスの頬を、涙が伝う。 それは、祈のために流す涙であり、かつて自分自身を肯定するために流した涙と同じ温度を持っていた。
「偽物の楽園で、人形みたいに笑ってるアンタなんて……私は見たくない!」
クリスは、祈の血に濡れた手を、自分の手で包み込んだ。泥だらけで、傷だらけの手。
「泥だらけで、傷だらけで、それでも泣きながら生きてるアンタが……私の大好きな、私たちの家族の『天羽祈』なのよ!!」
「……ッ!!」
その言葉が、祈の凍りついた心臓を貫いた。家族。 不味いコーヒー。騒がしい事務所。 あの日々こそが、私が選び取った「現実」だった。
祈の瞳から、色素の薄い灰色の色が消えていく。代わりに宿ったのは、鮮烈なオッドアイの輝き。右の青、左の赤。 矛盾を抱えたまま生きる、人間の色。
「……ごめんなさい」
祈は、震える足で立ち上がった。 そして、怪物の前に進み出る。
透の怪物が、動きを止めた。祈の拒絶を、そして覚悟を悟ったからだ。 振り上げられていた刃のような翼が、力なく垂れ下がる。
『……どうして? ここにいれば、幸せなのに』
「……はい。ここは、とても幸せでした」
祈は、怪物の頬に――人間だった頃の透の面影が残る、無機質な仮面に、そっと触れた。 その手は、もう震えていない。
「でも……私は、貴方を殺しました」
祈は、自分の罪を口にした。それは、自分自身への告解。
「私が貴方を救えなかったから。……私が弱かったから。貴方の命を奪って、私だけが生き残った」
血のついた手が、怪物の頬を汚す。
「その罪を……私は忘れません。背負って、苦しんで、それでも生きていきます」
祈の目から、大粒の涙が溢れ出す。 それは、逃避のための涙ではない。 愛する人を二度殺す、決別の涙。
「だから……もう一度、さよならを言わせて」
祈は、怪物の首に腕を回し、抱きしめた。
「……しふぁちゃん」
怪物の輪郭が崩れた。 グロテスクな装甲が光の粒子となって剥がれ落ち、中から現れたのは、あの日のままの、作業着姿の青年だった。透。彼は、悲しげに、けれどどこか誇らしげに、祈を見つめていた。 その瞳には、狂気も執着もない。 ただ、愛する少女の成長を喜ぶ、穏やかな光だけがあった。
「……強くなったね」
透の手が、祈の頭を撫でた。幻影だと分かっていても、その温もりは本物だった。
「行って。……君は、まだ生きるんだ」
「……うん。……さようなら、透さん。……大好きなお兄ちゃん」
祈は、指先に力を込めた。 自らの意志で、幻影を霧散させるために。
パリンッ……!
世界が砕ける音がした。 透の体が、光の粒子となって弾け飛ぶ。同時に、純白の病室に亀裂が走り、天井が崩落する。完全だった箱庭の崩壊。 それは、祈が自らの足で現実へと帰還するための、力強い産声だった。
「急げ! ログアウトするぞ!」
崩れゆく世界の中で、鏡花が叫ぶ。彼女は空間の裂け目をこじ開け、現実世界へのゲートを固定していた。だが、崩壊の速度が速い。 出口となる光の穴が、瓦礫に埋もれそうになっている。
「行くわよ、祈!」
クリスが、祈の手を掴んだ。 その手は力強く、そして温かかった。
「……はい!」
祈もまた、クリスの手を握り返す。 二人は頷き合い、同時に地面を蹴った。
「帰りましょう! ……私たちの、汚くて、不味くて、愛おしい日常へ!」
二人の体が、重力を振り切って上昇する。 崩れ落ちる白い世界を置き去りにして、光の渦の中へと飛び込んでいく。
現実世界。 神宿の事務所。
カプセルの中で、祈が大きく息を吸い込んで目を開けた。
「……はぁッ!」
「祈!」
ダイブから戻った鏡花が、ヘッドギアを外して祈のバイタルを確認する。 そして、隣のカプセルから出てきた美流愛が、祈を抱きしめた。
「……バカ! 心配させやがって!」
美流愛は泣いていた。その後ろから、双子のアリアとカルアも飛びついてくる。
「祈さん! よかったですぅ!」
「お帰りなさいませ!」
祈は、汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら、仲間たちの体温を感じていた。 天井の雨漏りのシミ。散らかったデスク。外から聞こえるパトカーのサイレン。 どこまでも汚くて、騒がしい現実。
「……ただいま、戻りました」
祈は、天井を見上げて微笑んだ。 そこには、透も両親もいない。けれど、血の通った仲間たちがいる。 彼女は自分の手を見つめた。 そこには、生きている血が、確かに脈打っていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




