第四話「純白の箱庭」1
第四話「純白の箱庭」
第一章 透き通る病室
光の扉をくぐり抜けた先に広がっていたのは、暴力的なまでの「白」だった。
そこには、上も下もなかった。 空も、大地も、地平線さえもない。 視界の全てを埋め尽くすのは、発光する乳白色の霧と、影すら落とさない均質な光だけ。 先ほどの階層で鼻をついていた焦げ臭さも、その前の階層で漂っていた甘ったるい腐臭も、ここにはない。無臭。無音。無菌。 それは、母親の胎内のような絶対的な安らぎであり、同時に、ホルマリン漬けにされた標本瓶の中のような、永遠の「停滞」の空間だった。
「……気持ち悪いほど、綺麗ね」
融合人格『クリス』が、ヒールの音を立てずに歩を進める。 彼女が踏みしめる床は、磨き上げられたセラミックのように冷たく、硬質だった。 この漂白された世界において、彼女の持つ金と赤のオッドアイ、そして銀のメッシュが入った黒髪だけが、唯一の色彩であり、許されざる「異物」のように浮き上がっていた。
「環境データ、オールフラット。……気温、湿度、気圧、全てが一定値で固定されている」
鉄鏡花が、戦慄を込めて呟く。彼女の義眼が、この空間の異常性を数値として弾き出していた。 データの変動がない。 時間の経過を示すパラメーターが、完全に凍結している。
「エントロピーの増大が停止している。……ここは、物理法則が死んだ世界だ」
変化がないということは、死んでいることと同義だ。 細胞は分裂せず、物質は朽ちず、感情は波立たない。ここは、天羽祈が、傷つき疲れ果てた魂の最奥に築き上げた「何も起きない世界」。傷つくことも、失うこともない、永遠の聖域。
その空間の中央。 何もない虚空に、ぽつんと置かれた一脚のベッドがあった。病院の個室を模したような、簡素で清潔なパイプベッド。
そこに、一人の少女が座っていた。
天羽 祈。
彼女は、拘束衣を連想させる、装飾の一切ない白いワンピースを着ていた。 その肌は透けるように白く、髪は色素が抜けたように淡い。 彼女は穏やかに微笑んでいた。 だが、その笑顔には生気がない。 かつて私たちに向けられていた、あの弱気で、優しくて、めまぐるしく変わる表情の豊かさは消え失せている。そして何より、彼女の瞳。 右の青、左の赤。あの鮮烈なオッドアイの輝きは失われ、両方とも、曇りガラスのような透き通る灰色をしていた。
彼女の隣には、丸椅子に腰掛けた一人の青年がいた。薄汚れた作業着。 整えられていない髪。だが、その表情は聖人のように穏やかだ。
透。
祈がコンカフェ『しゅがーぽいずん』で出会い、淡い恋心を抱き、そして「安楽死」という救済に囚われた彼を、自らの手で葬った悲しき殺人鬼。 彼が、生前と変わらぬ姿で、そこにいた。
手には果物ナイフと、真っ赤なリンゴ。 シュルシュルと、皮を剥く音が、静寂の中に唯一の「音」として響いている。
「あ、クリスちゃんに鏡花さん。いらっしゃい」
祈は、顔を上げた。 まるで、休日の午後に友人を部屋に招くような、屈託のない声。そこには、ここが精神世界の最深部であるという自覚も、自分たちが昏睡状態にあるという危機感も、何もない。
「見てください。透さんが、リンゴを剥いてくれたんです。……ウサギさんですよ」
祈が差し出したリンゴは、不気味なほどに真っ白だった。空気に触れても酸化せず、茶色くなることさえ許されない、永遠に綺麗な果実。 時が止まったこの世界では、リンゴさえも腐ることができないのだ。
「……祈」
クリスが、一歩近づく。 彼女の脳内で、三つの人格がざわめいた。美流愛の困惑。亜莉愛の憤り。華琉愛の警戒。
「貴女、ここで何を……」
「何をって、暮らしているんですよ」
祈は、幸せそうに透の肩に頭を預けた。透は、ナイフを止め、祈の頭を優しく撫でる。 その光景は、あまりに完成された「幸福」の絵画のようで、入り込む隙間がない。
「私、もう帰りません」
祈が、夢見るような声で告げた。
「外の世界は、痛いことばかりです。……天使だとか、悪魔だとか。救世主だとか、鍵だとか。……もう、疲れちゃいました」
彼女は、自分の手を見つめる。そこには、かつて透を殺した時の血の跡も、リストカットの傷痕もない。ツルツルの、綺麗な肌。
「ここは痛くないし、怖くない。……透さんも生きてる。誰も私を責めないし、私も誰も傷つけなくていい」
祈は、透の手を握りしめた。
「ここが、私の本当の居場所なんです」
「……久しぶりだね」
透が、ナイフをサイドテーブルに置いて立ち上がった。 その笑顔は、かつて祈を救い、そして狂わせた、あの優しい笑顔そのものだった。 だが、鏡花のセンサーは警告を発していた。この男からは、生体反応が感じられない。 これは人間ではない。祈の記憶と願望が作り出した、高度なシミュレーションだ。
「彼女を迎えに来たのかい? リコリス・バロックの皆さん」
透の声は柔らかく、しかし拒絶の響きを含んでいた。
「でも、無駄だよ。……しふぁちゃんは、僕が守るから」
「ふざけないで!」
クリスが激昂する。 彼女の中で、白雪美流愛の理性が吹き飛び、亜莉愛の狂信と、華琉愛の殺意が同時に沸騰する。
「アンタは偽物よ! ……祈の記憶が作り出した、都合のいい幻影! データ上の残骸! 本物はもう死んだのよ!」
クリスの叫びが、白い空間に反響する。だが、透は動じない。 彼は悲しげに眉を寄せ、諭すように言った。
「死んでないよ」
「はぁ!?」
「彼女が望む限り、僕はここにいる。彼女が『生きていてほしい』と願う限り、僕は何度でも蘇る」
透は、祈の肩を抱いた。 祈は、その温もりにすがりつくように身を寄せる。
「外の世界こそが、彼女にとっては地獄だった。……そうだろう?」
透の瞳が、冷ややかにクリスたちを射抜く。
「天使からも悪魔からも疎まれ、人間からも『化け物』と後ろ指を指される。……利用され、戦わされ、傷つくことしか許されない運命」
透の言葉は、祈が抱え続けてきた恐怖そのものだった。これまでの戦いで「家族」を見つけたとはいえ、彼女の根底にある「自分は世界にとって異物である」という疎外感は、そう簡単に消えるものではない。
「君たちは、彼女をまたあの泥沼に連れ戻して……戦わせるつもりかい? また血まみれになって、泣き叫ぶ日々に戻れと言うのかい?」
「……ッ」
クリスが言葉に詰まる。 否定しきれない。 現実世界に戻れば、待っているのは新たな戦いと、過酷な運命だ。 ここなら、少なくとも傷つくことはない。
だが、鏡花は前に出た。 彼女は義手の指先を祈に向け、冷徹に告げた。
「非論理的だ。……停滞は死と同義。ここに留まれば、お前の精神は遠からず摩耗し、自我が崩壊する。それは幸福ではない。緩やかな自殺だ」
「……それでもいいです」
祈が、顔を上げた。 その瞳は、凍てつくように冷たかった。いつもの弱気な祈ではない。 自分の殻に閉じこもり、世界を拒絶することを決めた、頑なな少女の目。
「帰ってください」
祈は、クリスたちを睨みつけた。
「私は、ここで透さんと永遠に暮らします。……誰も傷つけず、誰にも傷つけられず。……邪魔をするなら」
祈の言葉に合わせて、空間が軋み始めた。白い壁に亀裂が走り、そこから黒いノイズが滲み出してくる。平穏だった空気が、粘着質な殺意へと変質していく。
「友達でも……許しません」
祈の拒絶。 その瞬間、白い箱庭が牙を剥いた。平和な病室の風景が歪み、おぞましい怪物の胎内へと変貌しようとしていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




