第82話 幕間 さとりのお願い
すっかり夜の時間帯。
さとりにしてはずいぶん遅くなってしまったが、門前仲町の街はまだまだ賑やかだ。
しかし神社の鳥居をくぐると、その喧騒は急に遠のいていく。
参道沿いの自宅のドアを開けると、寝間着を手に持った弟とばったり出くわした。これから入浴のようだ。
「あ、悠紀。ただいま」
「おかえり、姉ちゃん。珍しく遅かったじゃん」
「今日で期末テストが終わったから、クラスの友達と遊んでて」
遊ぶと言っても、クラスメイトと学校近くのファミレスで話していただけ。
テストの感想、進路の話、部活のこと、クラスの雰囲気や他のクラスの出来事まで。
もちろん刀心都市の感想も求められながら。
クラスの仲良し三人組に加えてもらったような感じだったが、さとりにとっては初めての体験で新鮮であった。
「へえ、珍しい。あっ、だからご飯作り置きだったのか」
話したと思うが、ちゃんと聞いていなかったのだろう。
「温めて食べたの?」
「食べた。まだ残ってるけど食べたほうが良かった?」
「それは私の分」
「なあんだ」
学生のさとりたちにとっては、ファミレスでは軽食とドリンクバーが精一杯。夕食がいらなくなるくらいまで食べると財布に厳しい。
弟に食い尽くされなくて良かったと安心する。
「……お父さんいる?」
「いるよ。多分リビング」
「ありがとう」
ご飯は後でも良いし、お風呂は弟が今入る。話をするにはちょうど良い時間だった。
リビングで見るともなしにテレビをつけていた父は、さとりに気づくと顔を向けた。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
お互いに硬い声。自然と緊張してしまう。
会話をしてこなかったわけでもない。コミマスタッフに登録するための保護者の同意書も書いてもらったし、この間の冬コミでは日本酒が欲しいという我儘も聞いてもらった。
(でも)
会話がぎこちない。親子なのに距離を測りかねているような、そんな不自然さ。
「お父さん。あの、お話があって」
「……私の部屋に行ったほうが良いか?」
「いえ、ここで」
「座りなさい」
「はい」
父に対して敬語であるのは、中学に上がってからだ。神社に入ることも多かったさとりが、同時に上司でもある父に対して家族のような口のきき方では周囲に示しがつかない。
結果、そのまま定着してしまった。
「えっと、進路の話、です」
「希望の大学が決まったのか」
「はい」
はっきりした返事に、ぴくりと父の眉が動く。
無言で促されたさとりは、静かに息を吸った。
「家のことは悠紀が継ぐ方針だって、わかっています。でも」
この二年で色んな人と触れ合って、色んな世界を覗いた気がする。その上で、自分が勉強したいと、もっと知りたいと思うのは……
「でも私、ちゃんと神道のことを勉強したいと思う」
「そうか」
もっと就職に役立つ学科にしなさいと言われるだろうか。
その先のことも考えろと言われるだろうか。
膝に置いた手でスカートの裾を無意識に握りしめる。
だが決して目を逸らさず、さとりはじっと父の言葉を待った。
重苦しい空気の中、先に目を逸らしたのは父の方だった。
テーブルに置いたコップを手に取り、麦茶を飲む。今朝さとりが沸かしたものだ。
「私から言うことはない。さとりが自分で決めたことだ」
「ありがとうございます」
どこか突き放すような物言いに寂しさを感じながらも、許可をもらえたものと思って小さく安堵する。
だが、まだ話しておかなければならないことがある。
「あの」
「さとり」
声が重なった。
「はい」
久しく父から話しかけられた覚えがないさとりは、驚きつつも返事をすることができた。
何がまずいことがあっただろうかと考えるが、思い当たることがない。
すると父から少し意外な言葉が出てきた。
「コミマは楽しいか」
「えっ」
高校生であるさとりは、スタッフ登録をする際に保護者の同意書に署名してもらっている。なのでもちろんコミマスタッフをやっていることは知っているが。
(興味がないと思ってた)
そんな父からコミマが楽しいかと問われるとは思っていなかった。
「楽しいだけじゃないけど、楽しい、です」
変な言い方になってしまったが、それほど的外れではない。父は小さく「そうか」と頷いた。
そうだ。コミマは手放しで楽しめる訳でもなく、どうしても人間相手である以上、うまくいかなかったり不快に思うこともある。
でも、それ以上に。
「去年……いや、二年前の年末か。コミマに行ってから、成長したように見える。良い経験をさせてもらっているのだろう」
「それは、そう思います」
それ以上に、あの場所だからこそ積める経験がある。あの好きが集まって実を結ぶ前向きな場所だからこそ。
コミマが、スタッフ仲間が受け入れてくれたお陰で、自分自身でもまた、受け入れることができている。
「あの」
肯定的な返事をしてくれた今なら、父も受け入れてくれるかもしれない。
さとりは次に伝えたかったことをそのまま口にした。
「だから、その、また家の仕事を、手伝わせてもらいたくて」
「……」
今なら異形ともうまく付き合える気がする。
コミマで見かけるものたちと街にいるものたち、少し違うかもしれないが本質的には同じはずだ。
程度の差はあれど、ただ危害を加えようとするものはわずかで、ほとんどはただ『ある』だけ。もしくは興味を惹かれてこちらを見るだけ。
それがわかった今、前のような失敗を繰り返したりはしないと思えた。
だが、父の表情は厳しい。
「前にも言った通り、高校生の間は家の仕事は手伝わなくて良い」
「……はい」
取り付く島もない。
はっきり言い切られてしまったさとりは、うなだれ言葉をなくす。
失敗ばかりしていた頃のイメージが強いのだろう。ある意味では仕方のないことだったが、それでも悲しくなる。
さとりは、このまま最後のお願いをして良いのか、日を改めたほうが良いかと逡巡する。
後者に傾きかけた時、父が付け加えた。
「大学に進学して、それでもやりたいと思うなら、アルバイトとして入りなさい」
「えっ」
思わず聞き返した。
普段アルバイトの人はいないが、年末年始の繁忙期は人を雇っている。
低学年の頃から家の手伝いという認識だったさとりは当然無給だが、そうでなくアルバイトとして。
「それはあの、年末年始じゃなくて、ですか」
「そうだ。家から通える大学に受かったなら、だが」
進学できたら、希望を叶えてくれる。
思わぬ歩み寄りだが、どちらかというと困惑を感じてしまう。
「お金を受け取る責任を持って、手を動かしなさいと言っている」
「でも」
お小遣いは貰っている。その上で神社の手伝いでお金を貰うのは気が引けてしまう。
「さとり」
静かに、自分の名を呼ぶ。
それだけで、父が考えを曲げないことが伝わる。
「……わかりました」
まだ先のことはわからない。
でも、高校生になってからできなかった神社の手伝いを、条件付きで許可されたのは大きな前進に思える。
それにきっと、大学生になると自由に使えるお金はあったほうが良い。
「話とはそのことだったか」
「いえ、まだ」
話そうと思っていたことのひとつであることは当たっているが、最後のお願い……いや、そんな可愛いものではない。牛の助言に従わなくては、コミマが危ぶまれる。
「あの、大事なお願いがあって」
ここからは、家族の間の話ではなくなる。
深川天満宮という組織を動かすための話だ。最高責任者は父であるが、だからこそ本来は情だけで動くわけにはいかない。
しかし理由も明かせない。
さとりが『みえる』ことは、はるか昔に明かして、そして、拒絶されている。
(天神様、お見守りください)
方角的には、本殿が背だろうか。
振り返って礼をするわけにもいかないが、天神様が見守ってくれていると信じよう。
そうすることでまた、強くなれる気がした。




