第72話 C99冬 3日目 西2ホールの巡回
西1ホールに比べて西2ホールの見通しは悪い。
それはあくまでさとり視点のものではあるが、普通の人にも決して心地よい空気ではないと思う。
うっすらと漂う黄色い煙。
トラックヤードに出ても薄くなりこそすれ気配は残っており、すぐ隣の敷地外には海が煌めいているにも関わらず、どこか息苦しい閉塞的な雰囲気に包まれている。
「うーん……」
田尾手の言うままに訪れた西2。できることなら早く立ち去りたいと思うさとりだったが、そうはいかないようだった。
まだ混雑するホールの中を通り抜けた先の、西2ホールトラックヤード。構造は対称のはずだが、すぐ先は海で上へのスロープもないのでずいぶんと印象が違って見える。
ただ、壁面には何も投影されておらず、参加者が休憩しているだけ。何だかもったいないと思ってしまう。
「お前」
外の列の混雑は似たようなものだろうか。今日は西2にも人気サークルが多く配置されているようで、数本の列が見える。
「お前だ」
喧騒の中で何か聞こえたような気がしたが、気のせいではなかったようだ。
声のする方を見ると、目つきの悪い男性スタッフがさとりを睨みつけていた。
「……!」
そして、さとりは目を見開く。
黄色い煙が、目の前の男から立ち上っているのが『みえ』たのだ。
「なんだ?」
返事をしないさとりに、男の表情が険しさを増す。その視線には、明らかに敵意を含んでいた。
「よくもこの場に来れたものだな」
「えっと……」
「せっかくの面白い場を、よくも荒らしてくれたな」
田尾手と同じように、年齢はよくわからない。若そうにも見えるし、それなりの年のようにも見える。
スタッフの帽子と腕章、それにスタッフ証がある。だが、この敵意は何なのだろう。何より、
(黄色い、煙)
男の頭上にゆらゆらと立ち上るのは、紛れもなくあの黄色く濁った煙だった。
「あの、あなたは」
「……西2ホール補佐、知恩寺と名乗っている」
間違いなく、西2を包むこの煙はこの人が原因だ。もしかしたら最初の夏にさとりの目にした黄色い煙も、この人のものだったのかもしれない。
『名乗っている』ということは、ハンドルネームなのだろうか。
「お前はこの場に相応しくない。去れ」
知恩寺の敵意を含んだ気配が増す。自分に向けられるそれに、思わず一歩後ろに下がる。
しかし次の瞬間、隣でさらに強い気配がした。
「玉、さん……?」
『……』
そこにいたのは、大きく美しい狐であった。
さとりの身長を優に越え、並び立つようにして知恩寺を睨みつけている。
「ほう。地の利を得ているとはいえ、大したものよ。ここでやり合うつもりか」
知恩寺は言葉の端々に苛つきを滲ませている。そして、玉に対抗するかのように威圧感が増す。
さとりには何が起こっているのかわからないが、あたりから人の気配が消えていた。
異形たちですら近寄っては来ず、遠巻きにこちらを窺っているのがわかる。
対峙するふたつの気配は、目に見えないが押し合っているかのように感じる。
「殺す」
『……!』
ギラついた目を見開き、知恩寺が小さく口にした。ただならぬ気配に玉も身を低くし、最大限の警戒をする。
一触即発の緊迫した空気。息をするのも忘れ、恐怖を感じるのも通り越して一切の感覚が無くなったような気さえする。
何かのきっかけで暴発しかねないふたりであったが、
「まあ双方落ち着いて」
場にそぐわないのんびりした声が水を差した。
知恩寺は玉に向けていた敵意を、そのまま声の主に向ける。
「貴様……」
「直接顔を合わせるのは何年ぶりだろうね、知恩寺」
涼しい顔をした田尾手は、スタッフ証を見てから知恩寺の名を呼んだ。
ふたりは知り合いのようだが、スタッフ繋がりだろうか。それにしては同じ地区なのに何年ぶりというのも変な気がする。
「玉、収めよ。私が出る」
『……』
そう言われた玉は、大きな狐の姿のままだが半歩引いた。田尾手に譲るらしい。
警戒はしているようだが、逆立っていた毛並みは幾分落ち着いている。
「ここは我の領分ぞ……田尾手よ」
「違うねえ」
さらりと否定された知恩寺の眉がぴくりと動く。
「ここは人の世。人の領分だ、知恩寺。なのにお前はやりすぎた。正確にはお前の影響を受けた西2ホールの奴らだけどね」
「……何を言っている」
少し気配が揺らぐ。話を聞く気はあるようだ。
「やりすぎたんだよ。この場所の存続すら脅かすほどにね。ホール補佐なのに心当たりもないのかい?」
田尾手の不思議な声色が、じわじわと知恩寺の気勢を削いでいく。
さとりは自分がもはや蚊帳の外だとは思ったが、張り詰めた空気の中で急に逃げ出すというわけにもいかない。
「そもそも、どうしてこの場所を気に入ってるんだい? 際限なく欲が生まれ、飽きることのないこの場所は素晴らしいが、お前にとってはそうでもないだろう?」
何か難しい話をしているが、さとりにはよく理解できない。
「……ああ。ここは悪の種が尽きず、我欲を満たす者が絶えぬ、悪の生きる場所」
「少し違うんだよね……悪でも表現なら受け入れるけど、何でも良いってわけじゃない」
田尾手は静かに手をかざす。何か伝えたらしい。
「お前にとっては心地良い場所になっているだろうが、ここは人の世だ。人の理に従わなくてはね。お前はもう少し影響の少ない立ち位置にすべきだった。今はホール補佐だったか。それは人の世に影響を与えすぎる。その結果は、滅びだよ。お前は心血を注いで仕組みを作り、悪人を集めたが、人の愚かさは想像以上だった」
「滅び、だと?」
「本当に気付いていないのかい?」
愉快そうに田尾手は笑うが、煽っているようにも見える。
案の定、知恩寺はどんどん表情を険しくする。
「通行証をばら撒いているようだけど、ずいぶんとおかしなルートにも流れているようだよ。それこそ……コミマを潰したい人間までにもね」
「何だと」
唸るように言う知恩寺に、田尾手が続ける。
「彼らはそこまでわかっていないだろうが、滅びをもたらすものを引き入れてしまった。結果的にね」
「……」
知恩寺は考え込みながらも、なおも田尾手を睨みつける。
「知恩寺、この場所にお前は向かない。人間を理解しきれていないお前に、人間を使うことは向かないよ。そして、悪こそ極端だが、善良な人間も多い。お前の好む場所とは少し方向が違う」
そう言って田尾手がさとりを見る。知恩寺のギラついた視線も追ってきた。
足元が大きく揺らぎ、冬なのに汗がにじむ。強い殺気を向けられたさとりは、立っているのがやっとだった。
「お前はその子を食えないよ」
「何だと?」
田尾手の力強い声。
「彼女を害すならば、無事には済まんよ。それこそ、お前が滅ぶ」
田尾手の言葉を合図にしたかのように、玉の気が大きくなった。
しかもそれだけではない。
「えっ?」
いつの間にか、遠巻きにしていた異形の中から少なくない数が前に歩み出て、知恩寺との距離を詰めている。
ひとつ目、手長、髪の長い女、妙に胴長のイタチ、紐のような者までいる。
大小さまざまな異形たちが、まるで玉に加勢するかのように。
「……チッ」
目を細めた知恩寺が、スッと気配を収めた。
「嘘ではなさそうだな……ああ、夏の忌々しいあれはこ奴の仕業か。しかも神酒を振る舞っておるな」
「えっ?」
また射抜くような視線を受ける。
何のことを言われているのかわからないが、田尾手を見ると口に人差し指をやっている。
黙っていろということだろうか。
「そういうことだ。お前もあれらと事を構える気はないだろう? さすがに無事には済むまい」
「……ああ、腹が立つ」
「去れ」
最後のひと言。それだけはいつもの田尾手と雰囲気が違う。
重く、強い声。
返答によっては衝突も辞さないことを匂わせながら。
「今であれば、後のことは私が処理しておく」
「……」
知恩寺は忌々しげな表情を隠そうともしない。やがて目を閉じて集中し始めた。
そして、溶けるようにして人の姿が崩れると、大きな虎のような動物が姿を見せた。
ただ虎と違うのは、その背に大きな翼がある。
「ひっ」
ひと目見ただけでわかる。格上の異形。
対抗するように玉の気配が強くなり、周囲の異形たちも密に集まる。
『田尾手……我は諦めぬぞ』
「この子がいる限りは難しいんじゃないか」
『チッ』
大きく舌打ちをした知恩寺が、さとりに目をやる。敵意を向けられるが、間に玉が立ちはだかった。
『弱き獣風情が。食い殺される覚悟あってのことか』
『面白い。できると思うてか』
恨みのこもった声と対照的に、挑発するように玉が言う。
玉の影から少しだけ見える恐ろしい獣の姿。おおよそ現実味を感じない。足元の冷たさも、血が回っていないのかトラックヤードの冷気なのかわからない。
『ふん、薄汚い狐など食わぬわ』
『反対に我が貴様を食ってやることもできるぞ。いや、せっかくの杏を前に口を汚すのはやめておこう。どう見ても不味そうだ』
『抜かせ!』
目の前の有翼の虎は目を見開いた後、爆発させるかのように気配を強める。
玉の背に守られていなければ、さとりもどうなったかわからない。
対抗するように玉が毛を逆立て、ひとまわり大きな姿へと変貌する。
化け物となった知恩寺の姿は完全に見えなくなったが、それでも強烈な気配を発しているのを感じる。
ふたつの気配のぶつかりが限界を迎えそうなところで、
「その辺にしておくんだ。ふたりとも」
田尾手の声が聞こえてきた。
「知恩寺。ただで済まないことはわかっただろう。ここは引くんだ」
『……』
「言っておくが、私も『こちら側』だぞ」
その言葉が決め手となったのか、急速に気配が収まってゆく。
玉はまだ警戒しているのか、さとりを守るように巨獣となった姿を解かない。
『忌々しい』
その声を合図に、完全に気配が収まった。
玉もいつもの大きさまで戻り、獣の姿のまま背を向けた知恩寺が少し見えた。
どうやらここから去るらしい。
『田尾手、貴様は満足しておるのか。見ているだけで』
「まあね。ここはそういう楽しみ方もできる。というより、そうやって楽しんだ方がいい」
田尾手が余裕を感じさせる声でそう言った。
『……ふん』
面白くなさそうに鼻を鳴らすと、有翼の虎はお台場の空へと飛び立った。
お台場にいる大勢の人間の中で、数えるほどの幾人かがその気配に気づいたが、冬の空に目をやったところで何も見えはしないのだった。




