第68話 C99冬 3日目 早朝の再会
大晦日。
新年を迎える準備のため、日中は人々が忙しなくしているが、さすがに始発の時間帯は静かである。
「天神様、今日もお見守りください」
暗い境内にひとり。
日課のご挨拶を済ませたさとりは、小さく頭を下げた。
いつもよりリュックが重い。
(許してもらえてよかった……)
今日は巫女装束に加えて、酒も入っている。
『ビッグサイトで、必要で……』
相対する父に何をどこまで話すべきなのかわからなかったが、どういうわけかそれだけで持ち出しの許可が出た。
決して安い酒ではない。しかも一升瓶。
奉納されていたものだが、持って行ってもいいらしい。
「ありがとう、ございます」
父にも伝えた言葉だが、改めて天神様にもお礼を言った。
今日は、長い一日になりそうな気がする。
バスの窓からまだ暗いビッグサイトの近くで開場を待つ多くの人が見えた。逆三角の下から夜間通用口を通ってアトリウムに入る。
先に着替えるからと小太郎と別れた。
この時間はまだ通常の更衣室であるレセプションホールが開いていないので、アトリウム二階の商談室で手早く着替え、再びアトリウムへと戻る。手に持ったリュックからはずっしりとした重みを感じる。
「おはよう」
階段を降り、田尾手を探し始めた瞬間、隣から声がした。
「おっ、おはよう、ございます」
気配を感じなかったこともあって、三歩ほど後ろに下がる。
「はは。そんなに怖がらなくても」
「あの……」
後ろに下がったのは驚いたからだけではない。田尾手の周囲の空気が重く、冷たいものに感じられたからだ。
そして、この時間にいる数少ない異形たちの様子もどこかおかしい。
今まで他者を気にするような素振りを見たことがなかったのだが、なぜかアトリウムの壁際に固まってこちらを窺っているようだ。
「一応呼んでおいたよ。気まぐれだから来てくれるかはわからないけど」
心当たりを当たってくれたようだが、あの牛へと繋がる心当たりとは一体……相変わらず得体が知れないが、貴重な協力者であることを思い出す。
「あ、私もあの後に取り次いでくれそうな方を見つけられて」
田尾手は特に気にした様子もなく、涼しい顔をしている。
「なんだ、そうだったのか。まあ、『無いより二冊』って言うし」
「無いより二冊……?」
急になんの話だろうか。
「あれ、知らないかな? 買ったかどうか自信がない本は、とりあえず買っておけと。結果的に二冊持つことになっても、無いよりは良いからね」
「な、なるほど……」
言いたいことは何となくわかった。
それぞれのアプローチは無駄ではないということだろう。
「今回もまあ、ふたりとも空振りに終わるよりは良かったよ」
「そうですね」
さとりの巫女装束と、それに少し似合わないリュックを順に見る。
「お酒は持ってきたかい」
「はい」
リュックを下ろして一升瓶を手に取る。ずっしり重いが、見本誌のバッグに比べればそうでもない……と、変な基準で考えていた。
言われるままに器も持ってきたが、抽象的すぎて適当なのかわからない。家に余っていた茶碗を持ってきたが大丈夫だろうか。
「おっと、僕がそれに触れるわけにはいかないんだ」
「そうなんですか?」
ひんやりと冷たいガラス瓶の感触。
これをどうすれば良いのだろうかと考えていると、それまで遠巻きにしていた異形たちが寄ってくる気配がした。
どうやら酒が気になるらしい。さとりはよくわからないが、お高そうな雰囲気がする。
その時、毛が逆立つような寒気がした。
「お前たちのものでは無い。控えよ」
隣に立つ田尾手が恐ろしい気配を発すると、異形の波がさっと引いた。
「えっ、言葉が通じてる……?」
気配に反応したのか言葉に反応したのかわからないが、ともかく異形は田尾手に従った。
本当に何者なのだろうとその横顔を見る。
「おや、気配がするね。お出ましだ」
不意に田尾手と目が合った。
先ほどの恐ろしさが消えていることに首を傾げていると、もっと強烈な気配がアトリウムに一気に満ちた。
『……』
そこに、巨牛が座っていた。
アトリウムの青玉に首をもたれかかり、こちらを見ている。
本当に来てもらえた喜びよりも、突然現れた驚きの方が勝っていた。
「お出でいただいたところ申し訳ないが、ここでは目立つゆえ、場所を変えたく存じます」
『うむ、良い』
呆然としているさとりをよそに、田尾手が西1ホールと西2ホールの間の通路を先導するように歩く。
さとりも慌てて追いかけると、そのまま西1と西2の間の多賀谷シャッターの間を通り、外へと出てしまった。
まだ夜明けを待つ暗いトラックヤード。
西1の壁沿いに、田尾手と歩く。後ろからは、どうも巨牛以外にもぞろぞろとついてくる気配がする。
やがて、見覚えのある場所へとたどり着く。
『ほう、ここはそこのに会うたところか。去年の夏か』
「左様に御座います」
もっとも、開場時間の明るさとは比べるべくもないが。
大晦日の明け方の空気は、巫女装束のさとりに冷たく刺さる。
こんなことなら防寒着を着ればよかったが、今からリュックを漁るのも気が引けた。
『して、何用か。小者らが怯えておったが』
「急を要すものでしたので。彼らには後で酒を振る舞います」
どうして普通に会話ができるのだろう。
見たことがないほどに慇懃な態度ではあるのだが。
明らかに巨牛を格上と認め、礼を尽くしている。
『ふむ、それか』
「ええ、まずはお召し上がりください」
『ふむ』
田尾手に目で合図をされ、慌てて器を置いて酒を注ぐ。底が深い茶碗を持ってきて良かった。
無事に注げてほっとしていたが、まばたきの一瞬で酒が消えた。
『ああ、良いな。そうか、そこのが注いだか。良い』
「きょ、恐縮です」
どうやってかわからないが、今の一瞬で飲んだらしい。
ほのかな酒の匂いが、トラックヤードの一角に漂う。
「こちらの巫女が再びお目にかかりたいと」
『それを貴様が伝えるか。奇っ怪だの』
「否定はいたしませぬ」
やはり知り合いだったのだろうか。
得体が知れないといえばそうなのだが、少なくとも田尾手は普通の人間に見える。
『さて、巫女よ』
「は、はいっ!」
『美酒であった』
「それは、良かったです」
『申してみよ』
急な振りだったが、少し巨牛にも慣れてきた。
酒が気に入ってもらえたのか、どこか楽しんでいるような声色を感じる。
「あのっ、わ、私が、コミマを守るために、どうしたら良いかわかりません。夏に『見抜け』と言ってくださいました。何を、見抜けば良いのでしょう。あの、場所とかもわかれば……」
『ふむ……良い。良い酒である』
田尾手がこちらを見る。
さとりは言わんとすることに気付き、再び茶碗を酒で満たす。
「あっ、ど、どうぞ」
言っている間に酒は消え、流れる沈黙にはっとなってもう一献。
『うむ。良い』
巨牛は気持ち良さそうにまぶたを閉じ、おもむろに口を開いた。
『まずは、裏鬼門であるな』
さとりが「裏鬼門?」と小さく口にする。
田尾手はわかっているような顔をしているので、後で聞けば良いだろうか。
『それの向かいの間である。掃除をするのだろうが、不足である。巫女を用いて晦日のうちに埃を落とすべし』
「はっ」
飲み込めていないさとりに代わり、田尾手が返事をした。
(晦日……今日!?)
質問をさせてもらえる気配もなく、巨牛は続ける。
『来夏、鬼門に祓いを寄越すべし。ふむ、巫女よ』
「はいっ」
『神輿があろう。社より道を引き、鬼門を封じるべし』
「はいっ」
返事をしてから考える。鬼門? 北東に、神輿を? 例大祭の神輿のルートが、東地区の前の道路を通れば良いのだろうか。
奇しくもそれは、さとりがコミマに来るきっかけとなった去年の夏と同じ。
『夏初日は天神の加護があろう』
天神様? と首をかしげる間もなく牛が言葉を続ける。
『中日朝こそ悪意のつけ入る時なり、巫女は入口にて人に憑く悪意を見抜くべし』
さとりが熟考するも構わず、巨牛が続ける。
『中日昼こそ正面より入らざる埃あり。巫女は外を小者らと追うべし』
小者? 知らない単語が出てきた。聞く間もなく巨牛は続ける。
『楽日こそ妖しき時なり。午三つ時、巫女は小者と共に人を払い、坂の厄を独り除けるべし。良いな』
さとりが願った通り、ずいぶん具体的になった。しかしまた『小者』が登場した。
「はっ」
「わ、わかりました!」
田尾手は理解している様子なので、さとりも倣って慌てて返事をする。
「あの『小者』なんですが……」
心当たりのない単語を恐る恐る切り出すと、巨牛は薄っすら目を開ける。
『ふむ、小者を遣うに不便もあろう。貴様は付けぬのだろう?』
「恐れながら」
やはり巨牛と田尾手は知り合いのようだ。だが今はそれに気を取られている時ではない。
『ならば……玉はおるか』
その声に応えるように、何処からともなく見覚えのある異形が現れた。
「へ?」
二本の足で立つ狐。
これまで何度もその姿を見たし、昨日取り次ぎを頼んだのもこの狐だ。
『玉よ、巫女に添うてやれ』
『承知』
その声は滑らかで艶のある女性のものだった。
「おっ、女の子!?」
思わず声を上げたさとりの方をゆっくりと向く。言われてみればその仕草に女性的な雰囲気も感じるが……
『子と呼ばれるのは久しいが、左様。玉である』
「あ、わ、私はさと……」
「待った」
名乗ろうとしたさとりに、田尾手が割って入る。
「本当の名は告げない方が良いよ。玉よ、巫女の名はサトである」
『……ふむ、サト。承知した』
そういうものなのかと田尾手に心の中で感謝する。サトであれば、呼ばれ慣れているので違和感はない。
『玉よ。この晦日と次の夏、巫女に添うておれ』
『承知』
どうやら巨牛と狐の間で話が決まったらしい。
狐はさとりをじっと見ているが、牛の視線は一升瓶へ向いている。まだ呑むらしい。
「あ、ど、どうぞ……」
小気味よい音を立てて栓を抜くと、巨牛が笑ったような気がした。
『うむ。良い』
こぼさないよう盃に酒を満たす。するとまたしても音もなく酒が消えた。
二度ほど繰り返した後、満足そうに牛が目を閉じた。
『あとは小者に振る舞うがよい』
「は、はい!」
小者。巨大な牛からすればすべてが小者だとは思うが、周囲にたむろっていた異形がざわりと色めき立ったのがわかった。
小者とは他の異形たちのことで、彼らも同じように飲むということなのだろう。
「……あの、玉さんは」
『酒は不要なり。我は別の物がよい』
酒は飲まないらしい。
別の物とは何かと聞こうとしたが、昨日のことを思い出した。
「あっ、杏ですね」
「……」
返事はないまま、ふいと目をそらす。
表情はよくわからないが、どうやら図星で照れているらしい。
見た目は大きな狐にしか見えないのだが、どこか人間的な可愛さを感じるのだった。




