閑話 田尾手の声
人のいなくなったアトリウムは、あっという間に気温が下がる。
無人のアトリウムの真ん中で、田尾手はひとり立っていた。
館内ではコミ印チェックも終わり、前日作業はひと段落したはずだ。
数時間前、あれほど人であふれていたアトリウムも、今は埃が転がる寂しい広場だ。
「ふう……」
とっくに閉まった西1西2両ホールのシャッターを見て、息をつく。
何だかんだコミマは疲れる。
朝から晩まで動きっぱなしなのだから当然ではあるが。
しかし、奴らはどうなのだろうか。
「寒いな」
夜間通用口を出ると、思わず口をついて出る。
「お疲れ様です」
「お先に失礼します」
夜通し番をしてくれる警備員に挨拶をする。少し奇異の目を向けられたような気もするが、この時間帯ならば仕方ないだろう。
田尾手の視線に気づいたのか、警備員が笑みを見せる。
「遅くまで大変ですね」
「いえ、警備員さんこそ。寒い中お疲れ様です」
そんな挨拶を軽く交わし、バスターミナルへと向かう。
最後のスタッフ向けのバスが出てしまった時間帯に、当然都バスもない。この時間になるとタクシーを呼ぶスタッフもいない。
夜間作業に就く多くのスタッフは、会場目の前のホテルか、またはりんかい線の大崎近くにホテルを取っているはずだ。このバスターミナルに用はない。
徹夜の一般参加者にとっても、ここは雨は凌げるだろうが、海風の通りは良く、体感温度は低い。ここにまで来る理由がほぼなかった。
そんな人影のない場所だが、人ではない気配は多く存在していた。
『姿を見せよ』
空気を震わせることなく、彼らに届く『声』を発する。決して大きなものではなかったが、有無を言わせぬ迫力と、無条件に従わせるほどの殺気がこもっていた。
そこかしこで何かが動く気配がする。一見、変わらぬ光景のようにも思えたが、よくよく見れば暗い影のすき間にその姿があった。
「寄れ」
今度は声に出す。
低い天井に反射するためか、よく響く。
それはこの周囲にいる者たちの耳には充分届いており、あたりをうかがう気配を見せながらも、次々と田尾手の前へと姿を見せる。
表情の薄い彼らだったが、田尾手に対する畏怖と不安がありありと伝わってくる。
田尾手としては、スタッフのように親しみと信頼を軸に話しても良かったが、それは自身の役割ではないと思っている。
「一度しか言わぬ。心して聞け」
相応の威厳と尊大さで声を上げる。
見込み通り彼らの間に緊張感が張り詰め、風の音すらしない静寂で田尾手の言葉を待つ。
「其方ら『大きな牛』に心当たりがあろう。明日の朝、あの場所に来るよう言付けよ」
田尾手が指さすのは、アトリウムへの入口。
集まった彼らからの目立った反応はないが、もう少し脅しておいたほうが良いだろうか。
「そちら側と相対するつもりは毛頭ないが、こちらの『願い』を聞かぬ場合は、貴様らの安寧は無くなると心得よ」
さすがにざわりと反応がある。
彼らの中から勇気ある者が、集団から前へと歩み出る。
それは大きな蛙であったが、大きいとは言っても田尾手の膝下にも及ばない。
相当なプレッシャーだろうに、しっかりと足を踏ん張って田尾手を見上げる。
何か言いたげにしているが、田尾手は意に介さない。
「牛を見つけ、言付ける。これが其方らのただひとつの取れる道だ」
ここで歩み寄る甘さは見せない。彼らには相応の危機感をもって当たってもらわなければならない。
このコミマのためにも。
「お前たちの総力をもって伝えよ。直接言付けられずとも、各々の繋がりある全ての者に伝えよ。良いな」
最初に比べればいくらか反応があった。
「以上だ。明日の夜明け前にあちらで待つ」
強く言い残し、田尾手はバスターミナルから会場外の道路へと歩み出る。
「ふう……」
彼らが追ってくる気配はない。それどころか、早速方々へ散っているようだ。
「感心感心」
とはいえ、あそこに集まっていた程度の数で何とかなるだろうか。こればかりは運次第だ。
「さあ、上手くいくかな……もし来なかったらこっちから行かなきゃいけないけど、それはそれで向こうの負担だろうからなあ」
田尾手の言葉は、白い息とともに溶ける。
ゆりかもめを横目に、夜の道を歩く。
すぐ近くに海が見えるところで、徹夜組と思しき参加者が数人でたむろしている。
迷惑な連中だとは思うが、直接手を出すことはない。今のところは。
彼らに構わず、ビッグサイトの建物に目をやる。
それはちょうど、問題の西2ホールの側面。
「西2か……裏鬼門から入り込んでそのままのが多いんだなあ」
南地区が増設され、西2ホールが直接裏鬼門にさらされる状況ではなくなっている。
しかし、長らく何も対策しなかった東京ビッグサイトの裏鬼門は、あまり良い状態とはいえない。
今となっては早々に排除しておけば良かったのかもしれないが、それも含めてコミマが、オタクたちがどう対処するのかを見てみたかった。
「西ホール補佐ねえ」
田尾手はふっと笑う。
「偉くなったものだ。あいつが登録したのはいつだったか……」
昔から何となく反りが合わないところはあった男。お互いに準備会内で認識はしていただろうが、これまで顔を合わせなかった。
何となくお互いに避けていたのだと思う。それが……
「深川さとり……」
数十年来の均衡も、ひとつのきっかけで瓦解するものだと改めて思う。
何と興味深く愉快なことか。
「まあいい。明日は大晦日。慣習では大掃除をやる日だそうだが、コミマ参加者はどうしているんだろうなあ」
答えるものはおらず、代わりに前から徹夜組と思しきグループが騒ぎながらやって来る。
周囲を顧みない連中かと思えば、ひとり分の通路を空けるように道の片方に寄る。
田尾手は軽く手を上げて謝意を示す。
すれ違うときも少し声のトーンを下げていたようだが、しばらくすると再び賑やかになる。
その声を背中に聞きながら、田尾手が口角を上げる。
「こういうところで善性を見せるのに、徹夜はするんだなあ」
そのちぐはぐな感じが実に人間らしい。
本当にコミマという場所は興味深く、どこまでも楽しませてくれる。
「明日も楽しみだ」
声だけ残して闇に溶けた。
ふと振り返った徹夜組のひとりが、先ほどすれ違った男の姿がないことに首を傾げる。
だがすぐに仲間の笑い声に誘われて、前を向き直す。
そしてすれ違った男のことは、忘却の彼方に溶けていくのだった。




