第62話 C99冬 2日目 由布子の決断
東京ビッグサイト、会議棟、レセプションホール。
毎回ではないのだが、コミマではここが西南地区の女子更衣室として使われることが多い。
サークル入場が始まったあたりからかなりの混雑を見せるのだが、それよりも前……スタッフの朝礼すら始まっていない時間帯は誰もいないに等しかった。
特に焦る必要もないのだが、深川さとりは手慣れた仕草で巫女装束に袖を通す。
秋葉原管弦楽団スタッフ以来の巫女装束。
さすがに羽織ると動きが制限されるため、今日は千早は持ってきていない。
「……うん」
姿見を確認する。髪が長かった頃の自分よりも、一年と少し成長している。肩口で切りそろえた髪がまだ落ち着かないのだが、いつか髪を伸ばしていた頃の自分よりもしっかりして見えた。
早朝の西1ホールの空気は昨日の喧騒が嘘のように音が少なく、空気が冷たい。異形の気配もまだなく、机だけが整然と並ぶ光景だけがあった。
耳に届くのは、自分の足音と、少しの話し声。このホールで唯一の人の気配がある場所。ホール本部だ。
「おはようございます」
「おはようさーん……おおっ」
さとりを最初に迎えたのは、聞き慣れたブロック長の声だった。
「ええやんええやん、さとりちゃん。何かお祭りって感じやな!」
「えっと……はい」
そういえば、演奏会スタッフだった大塚と蔵前以外、スタッフでこの格好を見た人はいないのだった。
「それ自前やんな。触ってもええ?」
「えっ……はい、どうぞ」
思わぬ申し出に面食らったが、由布子は嬉しそうに緋袴を触っている。
新品のような艶はないが、着込まれた独特の風合いが珍しいらしい。
ひとしきり観察し、触り終えた由布子は、満足げに息をついた。
「ふう、おおきに。おっとそうや、出席受付しといてな」
そうだ。忘れていた。
ホール本部のスタッフに声をかけ、出席の処理をしてもらう。
無事に終わって振り向くと、小太郎の姿があった。
「おはよう。サトのその姿、初めて見たな」
「おはよう。そうだっけ」
言われてみれば、小太郎が引っ越していったのは小学生までだ。この服を着て神社の手伝いを始めたのは中学に上がってからだった。
「それ、寒くないのか?」
「一応、中には着込んでるよ」
インナーも着ているしタイツも履いている。それに、今日は足袋ではないので足元の冷たさがないのがありがたい。
神社であるなら足袋に雪駄だが、スタッフ業務をする以上、足の安全も確保しなければならない。しかし、厚手の靴下にスニーカーはぽかぽか温かくありがたかった。
「ちょっと寒そうに見える」
「この時期だし、多分どんな格好してても寒いと思うよ」
「それもそうか……ああ、温かい紅茶飲むか? ホットレモンがいいか」
「えっと、ホットレモン」
「おう」
本部を離れ、自分たちの担当する『や』ブロックのあたりで飲み物を口にする。
昨日の夜から温められた飲み物は、会期中とは違ってとても温かい。肌を刺す冷たい朝の空気と対照的に、体の中に温かさを感じる。
「おや。ええモン着てはるなあ」
「九条さん、おはようございます」
飲みかけのホットレモンのキャップを閉じると、九条に挨拶をした。
短く「おはようさん」と返した九条は、さとりの姿を見て目を細める。
「何や凛々しう見えるわあ」
そうなりたいと思っていたのもあって、褒め言葉として素直に受け取る。
「九条さんを見習いました」
「おやまあ……」
それもまた本当だ。
和服姿の九条は楽しそうにくくと笑っている。あまり見ない表情だと思っていると、ふっと笑顔が消えた。
まっすぐさとりを見るその視線は、
「……お気張りやす。わてらもおりますえ」
「はい」
言葉の通り、支える仲間のものだ。
心強さを感じていると、由布子がやってきた。
「さとりちゃん。九条も聞いていき」
「何ですのん」
「昨日のブロック長会議でも言われたんやけど、今日うちの『やゆよ』ブロックからひとり外周借受に出すことになっとる」
九条が頷く。
さとりは今日の借受をまだ聞いていなかったことを思い出した。その話だろうか。
「それには長崎さんを出す。さとりちゃんは、外周『れ』の混雑対応の借受には出さん」
「あんさん」
「待ち!」
由布子が九条を制する。
「最後まで聞け」
その落ち着いた声に、九条も半歩後ろに下がる。ギュッと口をつぐみ、由布子を射殺すような視線を向けている。
「さとりちゃんは、外周に限らず、ホール全体の広域巡回に出す。公式に外周『れ』ブロックに貸し出すと、拘束時間が長なる可能性が高い。せやから、あくまで『やゆよ』が自主的に追加で人を出したっちゅう形式にする。出す時間も下げる時間もどこからも文句言われる筋合いない」
「……」
深川さとりが会期中自由に動ける。
これは九条もさとりも望んだこれ以上ない結果だった。
ただ『やゆよ』ブロックの人数が減るだけだ。ホール全体に貢献できるが、ブロックとして感謝はされにくい。
ただでさえ限られている人員から、ひとりを出す。残ったブロック員の負担も相応に増える。
「そもそも何か探すんやろ。一カ所に張り付いて混雑対応するんよりウロウロできる方がええやろ」
さとりと九条が顔を見合わせる。
「アイコンタクトすな! あーもう、何か九条にさとりちゃんを取られた気分や!」
何も話していないのに、最大限の配慮がされている。由布子のブロック運営にとっては、ほぼメリットがないのに。
感謝の気持ちを込めて、由布子に頷いてみせた。恐らくは九条も同じなのだろう。
由布子は照れ隠しのようにひとつ咳払い。
「……というわけで、今日はさとりちゃんはずっと広域巡回や。一応ミッションとしては、混雑対応の一時的な手伝い、サークルさんのテーブルクロスが床についてないか確認、ポスターの高さが高すぎひんか確認、赤枠周りと、あとは……寝てる人がおったら叩き起こす。よろしく!」
早口に言って、最後は冗談で締める。冗談とはいえ、寝ている人を起こすのは必要なのだが。
朝礼の後のブロック別でも、さとりが一日ブロックに縛られない動きをすることが伝えられる。
特に反応は無かったが、そういうものなのだろうか。
慣れてきたサークル受付をこなしていると、あっという間に開場時間を迎える。
『ただいまより、コミックマート99冬、2日目を開催いたします!』
そのアナウンスを本部前の『や』ブロックで迎えたさとりは、由布子に声をかける。
「ではあの、いってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
事務作業をしていた由布子は手を止め、さとりを笑顔で送り出してくれた。
だんだんと活気づく開場直後の西1ホール。一般入場と、それに混じって入ってくる異形を横目に外周に出ると、人気サークルの長い列がいくつかあった。
「前に進みまーす」
「しっかり手を挙げて!」
そんなスタッフの声もよく聞こえる。
西1ホールのトラックヤードは上のホールの外に屋根があり、声が跳ね返ってよく聞こえるようだ。
「列動きまーす! 前の人は手を挙げてくださーい! 動きますよー!」
なぜ手を挙げるかわからなかったが、全員が手を挙げている光景は目を引く。
(あなたは違いますよ)
紛れて手らしきものを挙げている異形に心の中で伝えてみる。もちろん聞こえはしないので異形は列に紛れたままだが、恐らくあれが面白いのだろう。
「お、深川さん」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、同じ『やゆよ』ブロックの長崎だった。
「今日は島を離れて巡回だっけ」
「はい。外の様子を見に来ました」
「そっか。せっかくだし、列の切り貼り練習してみる? やったことないんじゃない?」
「島中ではありますが、こんなに大勢の人は」
「そうだよね。まあやることは同じだよ」
トラックヤードの一番外側に置いた列から、シャッター前のサークルへと動かすようだ。
シャッター側にいるスタッフが、合図を出している。
「了解ー! ……じゃあ一度実演するから、その後にやってみてね」
長崎はそう言うと、列を切る。前は……何と二十人ほど。ホールの中では考えられない人数だ。
「それではここで一旦切りますね。前の人が動きますが、待っていてください」
並ぶ参加者が小さく頷くのを確認すると、長崎も頷いた。そして列の前に移動し、声を上げる。
「では前の人、手を挙げてー! 進みまーす!」
長崎も手を挙げて、ゆっくり進む。
「列が通ります! 道を空けてください!」
特に横切るような人通りもないのだが、高らかに声を上げる。
そしてシャッター側で待つスタッフに列を預けると、止めていた後続を前に進ませる。白いガムテープがあるので止まる位置がわかりやすい。
「……という感じ。次に合図が来たら、深川さんやってみようか。パケは……あ、送る人は20人ぐらいね」
ほどなくして合図が来る。スペースに余裕があることもあって、焦らず落ち着いて動くことができる。
「それでは、ここで一旦切ります。後ろの人は、そのまま待っていてください」
小さく頷くような反応があると、聞こえていたのだとほっとする。
「ここから前の人たちは動きますので、手を挙げてください」
ひとり手が挙がってない。携帯に目を落とし、耳にはイヤホンが装着されている。聞こえていないようだ。
「手をあげてください!」
さとりが声を張り、隣の人が肩を叩いてようやく手が挙がった。
これで全員送り届けられそうだ。
「それでは動きます!」
前に回り、列の途中札があるところに向かってゆっくり進む。大勢の人が自分の後ろをついてくる気配がある。あまり慣れない変な気分だった。
「列が通ります!」
相変わらず横切る人通りもないのだが、長崎に倣って声を上げた。
シャッター側のスタッフに列を渡し、また長崎のところへ戻ってきた。
「おおー、いいねいいね」
ホールの中とはまた違う、ダイナミックさが要求されるようだ。
ふと、前回ここで張り切っていたスタッフ仲間のことを思い出す。
「エレンさんは、これがやりたかったんですね」
「エレンさん? んー、これだけじゃないと思うけど、前回楽しそうだったね。こういうの好きな人は好きだからなあ」
「何となくわかる気がします」
広い場所でのびのびと声を上げ、大勢の人を動かす。何だか現実感が伴っていないが、そのスケールの大きさに惹かれるスタッフも多いだうろな、とさとりは思う。
この冬コミのエレンの担当を確認したわけではなかったが、今回も楽しめているといいなと思う。




