第7話 C97冬 1日目 見本誌
場内に人の姿が増えるにつれて、さとりの気持ちが落ち着かなくなってくる。
不安なさとりの心情を察したのだろう。由布子が安心させるように笑いかける。
「私が一緒についていくから大丈夫やで」
「はい……それであの、まずは何をすればいいんでしょうか」
「最初の大事な作業は、見本誌のチェックやな」
「チェック、ですか」
見本誌というのはサークルが用意するものらしい。
それをコミマ準備会に提出し、中身が問題ないことを確認した上でコミマの倉庫に永久保存されるのだという。
「この『コミマで頒布できますね』っていうのを……ああ、頒布っていうのはサークルさんが机の上に並べて『見てってくださいー』っちゅうやつな」
「あの、頒布って販売とは違うんですか」
「んー、販売やと商売っ気が強いからな。頒布やと、まあ……同志で印刷費を出し合ってるような建前っちゅうか……」
何となく歯切れが悪くなる由布子。
ひとまずは販売とほとんど同じ意味だと思っておけばいいかとうなずいておいた。
「それであの、ここで頒布してはいけないものがあるということですよね。確かアピールに書いてあった……」
「そう。まずは商業ルートに乗ってるもの。市販品やな。普通の本屋で買える本とかCDはあかん。ここはあくまでアマチュアが自主制作したもんが並ぶ場やから」
「なるほど」
逆を言えば、ここでやり取りされるのはすべて普通の流通には乗っていないもの。
ここだけでしか買えないものだからこそ、あれほど人が集まり熱気があるのだという。
「あとはまあ……えっちすぎる本やな」
「えっ!」
「『えっ』やないで。えっちすぎる本は違法になる……可能性があるんよ」
「可能性」
ここもまた歯切れが悪い。
事前にあった拡大集会でも似たようなことは言っていたが、あまり詳しくは触れられなかったように思う。
「そうや。えっちすぎる、つまり、わいせつ物にあたるかどうかの話やから、私らは『大丈夫』と言い切れるものに青信号を出す役目があって……あ、そういやさとりちゃんは小太郎と同い年やから成年向けはまだ無理やったな。自分で言うて忘れてた」
「はい」
「せやからまだ成年向けの見本誌チェックはでけへんねやな。んー、まあ今回はあんまり気にせんでええよ」
さっきの朝礼で自分から触れていたはずだが、本当に失念していたらしい。
いわく、十代のスタッフは数えるほどしかおらず、中でも十八歳に満たないスタッフはほぼいないらしい。
ほぼいないはずなのだが、『やゆよ』ブロックにはふたりもいる。
「成年向けの本は十八歳未満に見せたらあかんもんやから、当然スタッフといえども見られません。残念」
「残念でもないですが……」
見ないで済むならそれに越したことはない。
コンビニのそういう雑誌ですらも目を逸らしてしまうさとり。
そもそもさとりは同人誌を見に来たのではない。
濁った黄色い煙……良くないものが集まっているこの場所を、確認するのが目的だ。
ただ、今のところあの良くない気配のする煙のようなものは見当たらない。
「同人誌はだいたい表紙に成年向けである旨が表示されてるから、そういう本をチェックせなあかんときは誰か他の人に言うて。基本誰か一緒についてるはずやから大丈夫やと思うけど」
「分かりました」
由布子の説明ではっと我に返る。
ちゃんと集中しなければ。
「見るべきポイントは、見本誌に見本誌シールが貼られていること、その番号が参加登録カードと一致していること、あとは奥付というか連絡先があるかどうか、SNSのアカウントだけやと心もとないからメールアドレスが望ましいな。大らかな時代は住所載せてたらしいわ」
「それは、すごいですね……」
この個人情報が叫ばれる時代からはとても考えられない。
不特定多数に頒布する本に、自分の住所を載せていたなんて。
さすがに自主制作の同人誌とはいえ、いや、それだからこそ、奥付にしっかりと連絡先を明記して責任の所在を明らかにするらしい。
一見遊びにしか見えない趣味の世界だが、思ったよりしっかりしている。
それはコミマ準備会にしてもそうだ。
代表がいて、館内統括がいて、ホール長がいて、ブロック長がいてブロック員がいる。
上下の系統が明確になっていて、役割も明確になっている。まるで会社のような組織だ。
「あとはまあ、一緒に見て回りながら教えていくわ」
「分かりました」
整然と並べられた机。
まだ人がまばらなせいか、空気がひんやり感じられる。この間の夏コミの温度と全く違う。
『やゆよ』ブロックのサークルは机の数が『や』が44、『ゆ』が46、『よ』が46の136本。
一本の机にサークルはふたつ。272サークル。それを今日は八人で担当するらしい。改めて計算すると不安が込み上げる。
由布子はざっとブロックを見渡すと、数サークルで準備が始まったのを確認する。
その場で足踏みしているところを見ると、少し寒いのかもしれない。
由布子はさとりを誘ってホール本部に最も近い『や』ブロックのサークルへと向かう。
「よし、ほならよう見ときな。後でひとりでやってもらうつもりやし」
「わ、分かりました」
「ほなまずは挨拶からな」
心の準備はできていないさとりだったが、待ってくれない由布子は自然とサークルの前に立つ。
さとりは慌てて隣に立つと、由布子に倣って小さく頭を下げた。
「おはようございます! 館内担当です。参加登録カードと見本誌の回収に参りました」
「お、おはようございます」
少し声を張る由布子に比べて、聞こえにくかっただろうか。
サークルの女性は緊張するさとりにちらりと目をやると、心得たと言わんばかりに明るく笑う。
「はい。おはようございます。こちらでお願いします」
「ありがとうございます」
机の上に並べられた同人誌。
さらにその上には一冊の同人誌と、それに挟まれたカードが見えた。
由布子は丁寧に持ち上げてサークルの女性にお礼を言った。
「……こんな感じで、慣れてはる方は準備してくれてはるわけ。準備できてへんときは……まあ後で説明するわ」
「な、なるほど」
「あ、ほんなら登録カード持ってもらえる? 確認するのは署名と印鑑な。印鑑なかったら名字に丸でええ。もし受付番号が書かれてへんかったら、封筒を持ってきてはるかを確認して……」
解説する間、受付は止まってしまっているのだが、サークルの女性は温かい目で見守っている。
慣れたサークルにとっても、新人スタッフというのは見守る対象なのだろう。
「ほんで、確認……ふんふん、大丈夫やな。ほしたらここに冊数を記入して……はい、問題ありませんでした。これで受付完了です!」
「ありがとうございます」
「今日も寒くなるかもしれませんので、防寒はしっかりなさってくださいね。それでは今日一日よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
ふうっとお互いに小さく息をつく。
意味するところが通じたサークルと由布子は、目で笑い合った。
少しサークルの前から離れる。
さて、と由布子はさとりに向き合うと、続きを始める。
「それで、ちょっとサークルさんから離れたらアルバムに参加登録カードをしもて、アルバムの前のページにあるチェックリストにチェック入れて、見本誌をかばんに入れて完了や……あー、いっぺんに言うても覚えられへんな。まあ慣れたらそのうち体が覚えるわ」
「は、はい……」
言う通り半分ぐらいしか覚えられていない。
大まかには本と参加登録カードのチェックをして、本をかばんに、参加登録カードをアルバムに入れることが目的で、それを達成するまでに色々チェックがあるという理解で良いようだ。
「ほなら次、もういっぺんやって見せるから、その次はさとりちゃんがやってな」
「ええっ、は、はい」
早くも実践の機会が来るらしい。
コミマスタッフはなかなか厳しい。
とはいえ、まだ時間は早い。
準備が終わっているサークルどころか、そもそも入場しているサークルの数が少ない。
「まあ朝一番はこんなもんや。そんな緊張せんでええよ」
と言われても、緊張しないわけがない。
何もかもが初めての中、知らない人に話しかける。相当に勇気が必要だ。
そして、再び由布子がサークル受付の手本を見せる。
二回目のためか、少し冷静に確認することができた。
参加登録カード、見本誌シール、内容確認……
「よし、登録完了です。それでは今日もよろしくお願いします。おおっ、この表紙の加工キラキラしてますね! めっちゃ素敵や」
「わあ、ありがとうございます」
表紙の角度を変えながらホログラム加工を観察する由布子。
「表紙のイラストも可愛いし、めちゃめちゃ華やかですね。いやー、これやからコミマはやめられへんのですよ」
「そんなに言っていただけるなんて」
由布子がサークルの女性と親しげに笑い合っている。
「あの、ユウさん、お知合いですか?」
「え、初対面やで。ねえ?」
「ですね。でもこんなにしゃべるスタッフさんは初めてです」
「んふふ、そら照れますわ」
「初対面……」
見本誌業務を何となく理解できていた気になっていたのに、急に自信がなくなった。
さとりには、こんな風に知らない人と会話できない。
何だかわからないうちに由布子は受付を終え、サークルと親しげに締めの挨拶を交わしていた。
「あの、私、自信なくなってきました……」
「あー、大丈夫大丈夫! 今は時間あるからサークルさんとのコミュニケーションに時間取ってるけど、別に無理してやらんでええから」
「そうなんですか?」
「当たり前やん。こんなん私が好きでやってるだけやで。でもまあ、余裕ができたらやってみてもええんちゃう。感想もらったサークルさんは喜びはるし、ちょっとでも仲良うなってたら、会期中も話しかけやすいやろ?」
そういうものなのか。
ほんの少しだけ気が楽になる。
深呼吸をして、あたりを見る。
人が増えてきた。
いつの間にかざわざわとした音であふれている。
「よし、ほならあそこのサークルさんいこか」
「あ、はい」
そして、さとりの初受付が始まる。




