第52話 秋葉原管弦楽団編 アンコールの鈴
「やっぱないな」
「他に箱は? あのファイルは全部見たよな……」
「楽屋にあるかも知れないけど、可能性は低いと思う」
数人いるスタッフで少し探したが、見つかりそうにないようだ。
「出力してこなかったのか……今何曲目だ」
「あと二曲とアンコール。二十分てとこじゃないか」
「データは『あきかん』の共有サーバーに上がってたよな。コンビニプリントなら行けるかも」
「オーケー、じゃあちょっくら走ってくる。道の反対側にあったよな」
一気に話が進む。
まるでコミマのようだ。
それぞれが達成すべきことを認識して、そのための情報を出し、案を出す。
「車出すか?」
「あの、自転車あります」
さとりも手を挙げる。緋袴で自転車に乗ったことはないので自分が行くのは難しいが、貸すことぐらいはできる。
自分も役に立てないか考えた結果だったが、笑って首を横に振られてしまう。
「いや、車は逆に時間かかりそうだし、乗り慣れてない自転車は危ないから」
準備運動らしきものをしながら、男性スタッフが余裕を見せて笑う。
「まあ任せてよ。こう見えて陸上部だったし。んじゃ大塚さん、データ送っといて」
「了解、気をつけて」
「ういー」
最後まで笑みを崩さないまま、スーツ姿で駆け出していった。
「さて、残った俺たちは、終演後の導線の確認をしよう」
できることはやったと言うように、大塚がぱっと空気を変える。
机の移動とセッティングかと思っていると、大塚と目が合った。
「あっ、深川さんは……」
「はい」
「花束贈呈だから、もう舞台袖に待機でいいよ」
「えっ」
本当にやるんですか。
その言葉は口にすることができず、さとり抜きで始まった退場導線の打ち合わせの雰囲気に押され、いつの間にやら舞台袖へとたどり着いていた。
また流されてしまったとも思ったが、すぐ近くから聞こえる生演奏の音に、心が揺さぶられる。
最後のメドレーの、クライマックスに向かっての力をためている部分だ。
さとりの姿に気づいたステマネが、笑顔でさとりを手招きする。
「大塚さんから聞いてるよ。曲が終わって、拍手の間に指揮者に向かっていって、花束を渡してください。それだけだから」
「はい……」
「それまでは袖で聴いているといいよ。なかなかないでしょ」
言われてみればそうだ。
反響板の隙間から見える舞台には、打楽器奏者とたくさんのヴァイオリン奏者の背中、そして指揮者の姿。
ライトを浴びた舞台上と、暗いままの客席のコントラストは、いつかテレビ番組で見たそれよりも華やかに見えた。
しかし、舞台の光に照らされて、案外観客の顔が見える。なんだか緊張してきた。
「観客なんてかぼちゃかぼちゃ。リラックスリラックス。ふふ」
そうステマネは笑いかけるが、曲が盛り上がるにつれて緊張もしてくる。
音の圧力が強い。
それが最高潮を迎えた瞬間に、指揮者のいっそう大きな振りで、最後の音が鳴り終わった。
弓を振り上げたヴァイオリン奏者たち、その先にいる指揮者。
やがて手を下げると、舞台の緊張感がふっと緩んだ。
それを合図に、ホールに拍手が満ちあふれる。
指揮者が何人かの奏者を紹介するたび、場内の拍手が強くなる。
さとりは花束を持ったまま、ステマネの合図を待っていた。
場内にはずっと拍手が鳴り響いている。手が痛くならないのだろうか。
ちらりと指揮者がこちらを見た気がした。
「うん、よし。行っておいで」
ステマネの声に押され、舞台に歩み出る。
かなりの視線を感じるが、仕方ない。オーケストラの舞台に、巫女装束は浮いているに決まっている。
指揮者すら驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔になる。
さとりが花束を渡した瞬間、拍手が大きくなる。奏者側からも拍手が聞こえてきた。恥ずかしい。
指揮者が差し出した右手をそっと握る。
「えっと、お疲れ様です」
「ありがとう」
満場の拍手の中でも、会話できるものなのだと場違いなことを考えていたが、もう戻ってもいいのだろうか
「一度戻って、舞台袖で待ってて」
「? はい」
指揮者の言うように、舞台袖に引っ込んで待機する。ステマネは「お疲れ様」と笑ってくれているが、また少し胸が高鳴っている。
少しして、指揮者がさとりを追うように舞台袖にやってきた。
「せっかくだからさ、鳴らしてみない?」
「えっ」
何のことかわからず、思わず聞き返す。
「最後にそっちに合図を出すから。心の中でゆっくり『いち、に、さん、し』って数えて、『いち』のときに鳴らす。最初は思いっきり鳴らして良いよ。それからシャン、シャン、シャン、シャン……って合計五回。少しずつ音を小さくしていって、フェードアウトする」
聞いていくうちに、アンコールの曲の、ラストのことだとわかってくる。
「むっ、無理です」
「大丈夫、指揮も何もない。速さを間違ったって、誰も何も言わないよ。それに多分、お客さんもあなたを待ってる」
「そ、そんな……」
拍手が続く。
何かを期待するような。
お約束を待つような。
一向に小さくならない拍手。
「じゃ、行こう」
「えっ、えええ……」
流されるように、舞台上へと戻される。
また登場した巫女の姿に、場内の一部がざわめいた。
指揮者は打楽器奏者を呼ぶと、楽しそうに笑う。
「ラストをリアル四季子に」
「マジっすか」
その言葉はごもっともだ。正気とは思えない。
指示を受けた奏者が持ってきたのは、神楽鈴。ご丁寧に五色布までついている。
「えっ、ええ……」
舞台上でのやりとりが見えたのか、客席からも温かい笑い声が聞こえてくる。拍手はまだ続いている。
受け取った瞬間、しゃらりと音が鳴る。
良い音だ。
その音が、背中を押してくれた気がした。
「曲の間はどうすれば」
「しっかり前を向いていて。合図はちゃんと出すからね」
客席からの、そして背中にも奏者からの強い視線を感じる。
やはり場違いだとは思うのだが、なぜかその視線には好意的だ。
やがて拍手が収まる。
無音。
数秒前までと同じ場所とは思えないほどの静けさ。
さとりは指揮者の横に佇んだまま、神楽鈴を鳴らさないよう細心の注意を払う。
指揮者が両手を上げ、舞台上の奏者が応えるように構える。
空気でわかった。ここからもう始まっている。
緊張感と期待感。さとりはコミマの開場時間に似ていると思いながら前を向き、気持ち背筋を伸ばす。
次の瞬間、空気が爆発した。
さとりも聴いた覚えのある曲だ。練習を見学しに行ったときに、徹底して練習していた曲。
背中で受ける音は、あの時よりもさらに強い。
ホールのせいだろうか。それとも、本番の本気なのだろうか。
背中で感じる音に圧倒されていたが、次第に落ちついてきた。
練習で何度も繰り返した部分。
ちゃんと指示の通り高い音が柔らかくなっている。
打楽器の歯切れも良くて、音の出し方も指示通り。
練習を聞きに行ったからこそ、曲が終わりに近づいていることがわかる。
最後は何と呼ばれていただろう……そうだ、コーダ。音楽の授業で習ったような気もする。
フルートと、コントラバス。それらが奏でる純和風のハーモニーに、会場中が耳を澄ます。
練習の休憩時間に何度もおさらいしていた部分。すごく自然に音が混ざり合い、いとも簡単に演奏しているように聴こえる。
(もう、最後だ)
やがて、自然と体が動いた。
やや頭を下げ、掲げるように両手を前に出す。
鈴を鳴らさないように、ゆっくり、ゆっくり。
右手に感じる神楽鈴の重みと、左手に感じる真新しい五色布の感触が、さとりを落ち着かせる。
そっと目を閉じる。
『どうぞ』
背中に感じる音が消え、指揮者の小さな合図があった。
その声を遠くに聞きながら、さとりは半眼を開く。
今、自分がどこにいるか少しあやふやで、どこか頭もふわふわしている。右手に神楽鈴が、ふっと軽くなった気がした。
シャンッ
その音は、ホールを一瞬で塗り替えた。
さとりを中心とした球形に、一気に音が走り抜ける。
客席も奏者も、思ってもみなかった澄んだ音に、息を呑む。
シャン
誰もが目を見開き、舞台の上の小さな巫女に目を奪われる。
この音を邪魔してはいけないと、身じろぎひとつせず、自分の息すら止める。全員が。
シャン
遠のいていくかのように、音が小さくなっていた。
それは演奏が終わりに向かっていることを雄弁に物語る。
ホールの誰もが名残惜しさを感じながら、今の時間が続いてほしいと願う。
シャン
心地良い鈴の音が、また遠ざかる。
だが、どこか清々しい気持ちで終わりを受け入れる。
満ち足りた時間の終わりを理解し、やがて自覚する。
シャン……
最後の音は、まるで幻のように。
ほんのわずかに空気を震わせた、儚い音。
ふわりと優しくホールをめぐり、やがて空気に溶けていった。




