第45話 C98夏 3日目 開場して混雑の渦
自分を見つめる四つの瞳。
その後ろのシャッターから参加者がぞろぞろと外に出てくるのが見えた。
反対側に何列か作られている。あまり人の勢いがないように見えるが、少人数ずつ外に出して落ち着いて列形成しているらしい。
出口近くでまとめて列を作り、落ち着いたあと移動させるという流れになっていた。
外周のスタッフがちらりとこちらを見た気がするが、借受の時間外とあってかそれ以上は何もなかった。
「……ほんで、深川はん」
口火を切ったのは九条である。先ほどの田尾手との会話が尾を引いているのか少々苛立たしげだ。
自身でも気がついたのか、気持ちを落ち着かせるように深く息を吐く。
「単刀直入に聞くわ。さっきまで何かここにおったやろ。何がおった?」
「えっと、大きな牛の……」
『異形』
そう言いかけて『異形』はさとりの中だけでの呼び方だと気がついた。九条はあれを……あれらを、何と呼んでいただろうか。
しかしさとりの言葉を待たず、九条が問う。
「ただの牛か?」
「えっと、大きさ以外は」
「ほんで、どこいったんや」
「わかりません。消えてしまいました」
言葉を話し、消えてしまう大きな牛。ただの牛であるはずがないのだが、見た目を評するなら、ただ大きな牛だった。
「それで、何か言ってたかい?」
「えっ、あの」
田尾手がいきなり核心を突いてきた。
言葉を整理する前に、またも九条が前に立つ。
「田尾手はん。知りはらへんと思うけど、深川はんはね、えらい目はよろしいんやけど、耳はそうでものうてな。あいつらの声なんか聞いたことないらしわ」
「……今回も?」
九条の肩越しの田尾手の視線。
口調こそ穏やかだが、逃がさないという意思を感じる。
「あの、いえ……今回、は……」
雰囲気に呑まれて、そう口にした。
「何か、聞いたんだね」
「はい……初めてです。声が、聞こえました」
田尾手は疑う様子もなく、うなずいて見せる。
九条は何も言わず、じっとさとりを見ていた。
じめじめとしたぬるい空気の中、さとりは額の汗が流れ落ちるのを感じた。
「で、何と?」
何となくさとりの顔色から察しているようだが、田尾手は踏み込んできた。
元々誰か……ブロック長の由布子かホール長の大塚か、誰かに相談しなければならない話だった。
このふたりに話すことになるとは思わなかったが。
さとりは深く息を吸って、声が震えないようにお腹に力を入れる。
「来年夏、人の悪意で、コミマに災いが起こる、と」
「来年の、夏……?」
「悪意……」
明確な悪い予言。
しかも、ちょうど一年後のここで起きるという。
ふたりはしばし言葉をなくす。
「……それだけ? 他には?」
他。
そうだ、続きがあった。
「私が、その、見抜けば、災いが退けられる、って……」
田尾手はしばし考え込み、九条は複雑な表情でさとりを見ている。
これは、異形の助言でさとりが動くようなものだ。見方によっては、異形の仲間と思われるような状況だろう。
「その牛、人の顔しとったか?」
「いえ、人の顔ではなかったです」
「予言や言うから『件』やと思たけど、ちゃうんか」
九条は口に手を当て、思案する。
あまりに突飛な話に、頭の中で情報を整理しているようだ。
「悪意。なるほどね……」
田尾手は何か掴んだようで、ゆっくりとうなずいた。
「……うん。ありがとう、深川さとりさん」
田尾手はそれだけ言うと、ホールの入り口へと体を向けた。
表情が見えなくなったが、どこか剣呑な気配がある。
「聞くだけ聞いて、さっさと帰りはるん」
「こちらはこちらで動こうと思ってね。不本意ながら忙しくなりそうだ」
九条の言葉をさらりと流し、ホールへと歩き出す。
最後にちらりとふたりを振り返り「またね」と軽く手を挙げて去っていった。
その足音が聞こえなくなるあたりで、隣からため息が聞こえた。
「気に入らんわ」
ホールの中にその姿が消えた後でも、九条はその方向を睨み続ける。
さとりもその出入り口シャッターに目をやると、ぽつぽつと外に出てくる参加者の姿があった。開場前列に並ぶ人たちだろう。
そろそろ列を所定の位置に移動させるはずだ。
さとりがスイッチを入れた投影も、列に並んでいる人と異形たちの注目を集め、静かな盛況を見せている。
「深川はん。また日を改めて、ゆっくりお話しさしてもろてよろしやろか」
「はい」
ここで油を売っていられる時間は過ぎてしまったのだろう。九条は参加者の動きに注意をはらいながら、さとりに言った。
「ほな、とりあえず最終日を何とかせな……お互い気張らんと」
「はい。頑張りましょう」
きっちりと切り替えたその後ろ姿は凛と美しく、スタッフとしての自信と矜持が見えるようだ。
(あ……)
ホールの出入り口の前に異形が立っている。そのままでは九条の足の餌食になるのではないかと緊張が走る。
だが九条は静かに横によけ、振り返ることなくホールへと戻っていった。
『ただいまより、コミックマート98夏、3日目を開催いたします!』
そのアナウンスからひと呼吸遅れて、さとりたちの担当エリアはごった返す。
開場前から作られていたいくつかの列は凄まじい勢いで並ぶ人が増え、また新たなサークルの列も発生している。
ホールの中はどうなっているのだろうと思う暇もなく、待機列を案内していく。
「走らないでください!」
小太郎の声も聞こえるが、どこにいるのかはわからない。
スロープでは企業ブースに行く人と、企業ブースから降りて来た人が入り乱れ、混雑が渦を巻く。
「企業へはスロープを上ってください! なるべく左側通行で!」
ずっと声を張り上げている小太郎。真夏のビッグサイトはすでに猛暑の片鱗を感じさせ、熱せられたアスファルトが体力を奪う。
「東に行く人はゲートの前で待機してください! 準備でき次第ご案内します!」
東へのおすすめルート。ビッグサイトの敷地外を通るため、館内以外との調整も必要になる。いつも開場から少し後に解禁されている。
徐々に東への列に並ぶ人が増えている。そして、西1ホールのサークルの列も伸びている。
すなわち、スペースがどんどん狭くなっているということ。
「もう少しちゃんと、行き先で流れが分かれていればいいのに……」
異形たちが見上げているのに気がついた。
さとりはタオルで額の汗を拭い、小さくつぶやいた。
「みなさんも、気をつけてくださいね」
異形たちは相変わらず聞こえているのかいないのか、すぐに雑踏に混じって消えていく。
異形たちを見送っている場合ではない。企業ブースへと向かう流れが少しおかしい。
見れば、西1の大手サークルの列が伸び、スロープ出口近くで企業ブースからの導線を邪魔しているようだ。
急いでその列を見ていた外周『れ』ブロックのスタッフを捕まえる。
「すみません、列がスロープにかかりそうです」
「あー、了解ありがとう。えっと……」
汗まみれの男性スタッフは、さとりのスタッフ証を確認し、楽しそうにうなずいた。
「よし、じゃあ深川さん圧縮手伝って!」
「えっ」
「真似してくれればいいから! こっち!」
言われるままに列の前の方に連れてこられ、反対側へと立たされる。
「身ぶり手ぶりを交えてね。それじゃあいくよ。はい! では、少し前にお詰めください!」
よく通る声で、列に並ぶ参加者にアナウンスする。
「えっと、少し前にお詰めください」
さとりも真似をして声を出す。大きさは控えめになってしまったが、列に並ぶ人が少しだけ前に進むのが見えた。
「順に前にお願いします」
「前にお詰めください」
じわりじわりと前に進む。
音楽を聴いていたり地図を見たりして意識が向いていない人も、自分の前が動いて声をかけられれば少し前に詰める動きを見せた。
やがてスロープの近くまでさしかかる。
「ああ、よし、折るか。深川さん、ここのガードよろしく」
「ガード?」
よく理解していないが、言われるまま指された場所に立つ。
「はいっ、ここでいったん切ります! 列の方向を変えますね! 後ろの人はまず右にずれてください! そうです! ではついてきてください!」
『れ』ブロック員の呼びかけで、列の続きの三十人ほどがぞろぞろと歩き始める。
今来た方へ少し歩くと、やがて反転し今切った列の隣へと到着した。
あっという間に列の最後尾が反対方向を向いた。これでいくら列が伸びてもスロープにかかることはない。
『れ』ブロック員は俯瞰するように列を確認すると、満足そうに大きく頷いた。
「よし、ひとまずはこれで。深川さんごめん、ここの人送るの、深川さんに任せていい?」
人を送るというのは、パケットというあれのことだろう。横入りに気をつけながら、何人かずつを後ろの列から前の列に送る作業だ。
「は、はい。大丈夫です」
「よし、しばらくお願い」
そう言い残して『れ』ブロック員は急ぎ足でどこかへ向かっていった。
「あ、じゃあ前の四人の方こっちにどうぞ」
さとりの誘導に、四人が移動する。
列の続きの参加者も勝手がわかっているのか、空いた分だけを前に詰め、大人しく待っている。
やってほしいことを汲んでくれている。やりやすい。
「では、四人の方、前へどうぞ!」
頒布の速度はそう速くはない。この人たちは何分並ぶことになるだろうと考えながら、さっきまで自分のいたスロープ下のエリアに目をやる。
この列が引っかからなくなったせいか、人の流れが良くなっている。それに東へのおすすめルートも開放されたようだ。
明らかに人口密度が下がっていて、さとりは一瞬安心して気を抜きかけたのだが、
(……あれ?)
人の流れに、どこか違和感があった。




