第44話 C98夏 3日目 予言と分かれ道
狐の異形が足を止めたのは、思ったよりも近い場所だった。大きなスロープの真下。
ホールで一番近いのは、ポエの担当する『むめも』ブロックだろうか。
そしてそこにいたのは、昨日見た大牛だった。いや、昨日より大きくなっているように見える。
「大きい……」
大牛……いや、巨牛は寝転がっているのだが、それでも近づいたさとりにとっては見上げるような巨体である。
狐の異形はいつの間にか姿を消していた。
この巨牛に引き合わせたかったのだろうか。
その時、
『……か』
「……え?」
何か聞こえた気がしてあたりを見回すが、誰もいない。西1ホールのトラックヤードは静かなままだ。
「……」
となると、空耳だったのだろうか。
そう思っていると、目の前の巨牛がうっすら目を開けているのに気がついた。
『来たか。良い』
「ひっ」
今度は低い声がはっきり聞こえた。
いや今のは、耳から聞こえたのではない。なのに低い声として認識できる。初めての感覚に頭が混乱していた。
「えっ、えっ……?」
牛が首をもたげてさとりを見ていた。
となると、彼(?)が話しかけてきたのだろう。
さとりと目が合うと、牛の尻尾がゆらりと揺れた。
『まずは礼を言う。昨日の水と塩でずいぶん楽になった。良い』
「あ……」
やはり昨日の牛だったのか。
水と塩で楽になったということは、熱中症だったのだろうか。
異形でも熱中症になるのか。
頭がうまく回らない。
『聞こえておるのか』
「あっ、は、はい」
『なら良い。良い』
満足そうに尻尾がぱたぱたと揺れる。
もちろん異形に話しかけられたのは初めてだ。そもそも声を出さないものと思っていた。いや、声ではなさそうなのだが……
『良く聞け。昨日の水と塩はまだあるか』
「は、はい。あります……」
参加者用に携帯していた塩飴と、自分用に持ってきた新品のペットボトルの水を差し出す。
自分の分はまた後で取りに戻ればいい。
『ほう、準備が良い。良い』
不思議な語尾の巨牛。
水と塩飴が欲しいのだろうと思い、ペットボトルのふたを開け、塩飴の包装を開ける。人間なら塩飴はひとつで十分だろうが、この巨体には三つぐらいだろうか。
『察しが良いな。良い』
どこか楽しそうな声が聞こえ、一陣の風が吹く。
さとりが髪を押さえた一瞬の間に、水と塩飴がなくなっていた。
『うむ、良い』
どうやら食べたらしい。
塩飴は消え、ペットボトルは空になっている。
「あの、どうして声が聞こえるんでしょうか……」
『礼を伝えるのに、声が聞こえた方が都合良かろう』
「そ、そうですね」
道理である。
さとりとしては原理的なところを聞きたかったのだが……
『そなたの今日の徳に報いるため、予言を授ける。来年夏のこの祭りは災いに見舞われよう』
「えっ」
急なことに反応が遅れる。
聞き捨てならない言葉が聞こえたが……
『其は人の業なり。其は悪意の為すものなり。そなたにも視えよう』
「み、え……?」
戸惑うさとりを、牛は一顧だにしない。
徐々に目の前の巨牛の気配が強くなってくる。
「えっ、あのっ」
禍々しさなど欠片もない、感じたことのない強い気配。
しかし、よく知っているようにも思える。清浄、神聖の気。家の神社の拝殿によく似た……
『視よ、視よ。そなたが見抜けば災いも退けられよう』
「きゃっ」
瞬間、爆発するかのように気配が強くなり、光はないのに突き刺さるような眩しさを感じて思わず目を閉じる。
『そうそう。小者らも存外役立つものぞ。良い』
徐々に収まり消えゆく気配の中で、最後に牛の声が聞こえた。
『声を上げよ。さすれば小者らも意を汲まん。良い』
もう大丈夫だろうかと目を開ける。そこにはもう誰もおらず、たださとりだけがぼんやりとトラックヤードの端に立っていた。
「あれは……」
今起こったことを、うまく受け止められていない。
異形の声が聞こえて。
どうやら水と塩飴が気に入ったようで。
来年の夏コミに災いが起こり。
それは人為的なもので。
見抜くことができれば退けられて。
声を上げれば異形が意を汲む……?
こちらの質問も待たずに消えてしまったが、とにかく情報量が多い。
「……来年」
あの牛は間違いなく「災い」と言った。
声に出すと呼び寄せてしまいそうな気がして、口には出さずに考える。
「わからない……」
考えを整理しようもない。誰かに相談するとしても……誰にどう伝えれば良いというのか。
そんな時、ホールから和服の女が飛び出してきた。一瞬異形かと身構えるが、異形はスタッフの腕章も帽子もしない。『らりる』ブロックの九条だった。
九条はトラックヤードにひとり立つさとりを見て目を見開くと、つかつかと早足で歩み寄ってきた。
「……深川はん」
「く、九条さん……」
掴みかからんばかりの勢いで、顔を寄せる。
少し顔色が悪いその額には、暑さのせいではなさそうな汗が浮かんでいた。
「何が、おった」
「えっ、と……」
振り返ってみても、影もない。
ただ空のペットボトルだけが転がっていた。
「深川はん、ここに、何が……おったんや」
「九条さん、あの」
九条に相談するのが良いのかもしれない。それよりも先に質問に答えるべきか。いや、まずは落ち着いてもらうところからだろうか。
「おや。深川さとりさん」
「あ、田尾手さん」
「田尾手?」
どうやら九条は田尾手と面識がないようで、警戒した表情を見せる。
「何だか面白そうなことがあったと思うんだけど。話を聞」
「どちらの方でっしゃろ」
言葉を遮って、さとりをかばうように前に出た。
田尾手は不思議そうに首を傾げると、首からかけたスタッフ証を顔の横で掲げてみせた。
「ん? 担当は地区本部だけど……ああ、拝み屋さんか、なるほど」
かすかに舌打ちが聞こえた。さとりにだけ聞こえるほどの小さな音だが、九条は不快感を隠さない。
じめじめとした不快な空気の中、ふたりの間に緊張感が生まれ始める。
「その呼ばれ方、あまり好きやないんどす」
「へえ。じゃあ何なのかな?」
田尾手は余裕そうに笑うが、それがいっそう九条を苛立たせている。
「うちらのことは『祓い師』言うてもらえます?」
「なるほど、ブロック長ではないんだ」
「チッ」
今度は誰の耳にも届くほど大きな舌打ちが聞こえた。
あまりにもいたたまれない空気の中、さとりが九条の隣に並んだ。
「あの……」
その声はあまりにも小さく、ちょうど外の道路を走るトラックの音にかき消されたかも知れない。
案の定、ふたりはさとりの声を聞いていないかのように、目線をぶつけあっている。
「ああ、僕は深川さとりさんに用があるんだ」
「あら奇遇やわ。わてもどす。せやけど、お忙しい地区のお方がこんなところで油売っててよろしの?」
「僕らが多忙な時は緊急事態だからね。暇なぐらいが良いんだよ。それよりブロック長さんこそ、暇を持て余す時間でもないと思うけど?」
「うちのブロックはみな優秀やさかいに」
一触即発。バチバチと音が鳴りそうな睨み合いの渦中にさとりは立っていた。
「えっと……」
もしかしたら、この夏コミの期間中で、最も困った事態かもしれなかった。
硬直した事態を打開したのは、全く別の声だった。
「そろそろ初動を外に出すから準備お願いしまーす!」
外周『れ』ブロック員の声。
はっと我に返ったさとりは大きめの声で「はい!」と返事をした。
まだ一般入場ではない。今から外に出てくるのは、サークル通行証で入ってきている人たちだ。
まださとりの借受の時間ではない。列の初動はこちらで作らないので問題はないのだが、ここに三人集まって顔を突き合わせているのは、何かあったかと思われてしまうかもしれない。
改めてふたりに向き合うと、四つの瞳がこちらを見ている。
「……あの、そろそろ業務が始まるので、少し移動してもらえますか」
さとりは遠慮がちに、だがはっきりとその言葉を口にした。
九条は特に意に介した様子もなく、うなずいて返す。
「ほなら歩きながら話しまひょ。列形成はせえへんのやろ?」
「はい、列は向こうで『れ』ブロックのスタッフが作るそうなので」
「ふうん。ほなまあ、そのまま話しとっても大丈夫ですやろ」
「そうだね」
歩き始めた九条を追いかけるようにさとりが歩き始めると、当然のように田尾手がうなずいて歩を合わせる。
「あんさんも残りはるん? そないに地区本部空けてよろしの」
きつい横目で田尾手を刺しながら言う。
だが田尾手はどこ吹く風である。
「多分、九条静女さんと聞きたいことは同じだからね。深川さとりさんが二度話す手間をかけるというのも心苦しい」
凄い顔で睨んでいる九条の横顔を見ながら、知り合って一年が経つというのに『しずめ』という下の名を初めて知った……と関係のないことを考えていた。
一年。あっという間だった気がする。
そして、あの牛が言う次の夏コミもまた、あと一年。
のれんに腕押しし続けるのに疲れたのか、九条がため息をついた。
「はあ、まあ、よろしわ。今はこんなことでやいやい言うとる場合やなさそうやし」
やがて三人は、さとりが担当するエリアに着いた。
まだ早いせいか、小太郎は外に出てきていない。
「ではあの、ここで」
自分の声が、やけに大きく聞こえた。
東と企業に繋がる交通の要所になる外周トラックヤードの一角。
開場時間中の参加者にとっては、他の地区へと向かう重要な分かれ道。
だが今のさとりには、コミマそのものの分かれ道のように思えた。




