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第38話 C98夏 2日目 九条と異形

 ホール本部の机に、岩塩の欠片と塩飴の小袋がたんまりと箱に入れられている。スタッフは自由に持っていっていいらしい。

 いくらなんでも多すぎると思ったが、ホールのスタッフが百人規模であると考えると、ひとりあたりの個数は大したものではないかもしれない。


「いくつ持っていこう?」

「そんなに大量にはいらないと思うけどな」

「うん」


 小太郎はふたつ持っていくようだ。

 さとりも倣って、ポケットにふたつ。



 

 開場少し前、スタッフの業務がひと段落し、高揚感に包まれた会場にいながら手持ち無沙汰になる不思議な時間。


 さとりは視界の端に、放物線を描く異形の姿を見た。

 元々浮かんでいるものもいるが、そうではない。飛んできた方を見ると、凛とした和服美人がたたずんでいた。


「九条さん……」


 おそらくはあの『らりる』ブロック長が、また蹴るか投げるかしたのだろう。

 少し前なら何も思わなかったかもしれないが、昨日見た彼ら……投影された動く漫画の試し読みを一心不乱に見つめる姿を思い出すと、可哀想に思えてくる。

 ここにいる彼らも広い意味では参加者であり、理不尽な暴力を振るって良い対象ではないはずだ。


「……あの、九条さん」

「うん? どないかしはったん?」


 たおやかに微笑む九条。だがその目は油断なくさとりのことを見ている。

 恐怖心を抑えながら、言うなら今しかない、と自分を奮い立たせる。

 

「九条さんあの、あの人たち……じゃない。えっと、その……蹴ったりするのを、やめてもらいたくて」


 要領を得ない言葉だったが、九条は一瞬笑みを消して目を細めた。どうやら通じたらしい。

 

「……変わったこと言わはるなあ。ちょっと向こうで話しよか」



 

 九条に連れられるままに、ホールの外に出る。開場前だがトラックヤードにはシャッターサークルのものであろう列ができていて、参加者は静かに並んでいる。

 壁面の投影はもう始まっており、列に並んでいる何人かはぼんやりとそれを見ている。

 異形は近くに人間がいないのを幸いと言わんばかりに、投影された漫画に張り付くように見ていた。

 

「ほんで」


 声を抑えた九条に、笑みはない。

 

「もっぺん言うてもろてよろし?」

「あ、えっと、あの……九条さん、時々、蹴ってますよね」

「蹴るて」

 

 手近な異形を鷲掴みにすると、さとりの前に突き出した。

 布のような異形がゆらゆらとたなびく。


「これを……でっしゃろか?」


 逃れようとしているのだろうか。上へ下へ、左右へと身をよじるかのように布が暴れる。


「どうして、そんなことをするんですか」

「どうしてて。邪魔やし、元々ええもんとちゃいますやろ」


 九条は布の異形をぽいと離す。

 解放された異形は、一瞬こちらを振り返るが、動く漫画が気になるのかまっすぐ投影を目指して行ってしまった。

 

「でも、そんな、悪いものでも……」


 九条は「あらまあ」と小さく笑った。

 こてんと首を傾げ、口元に指を寄せる。

 

「前回の朝、足取られてはったのに。悪いもんやないやなんて、変わったこと言わはるわ」

「でも今だって、ただあの投影を見に行こうとしてただけで……」

「はあ?」


 軽く嘲りの混じった笑みを見せ、京美人がさとりを睨みつける。

 

「そんなん分かりませんやろ。あれが何で集まってるんか分かりやしまへんけど。大方、光っとる壁に引きつけられとるだけやおまへんか」


 そんなことはない。彼らの視線を見ればすぐに分かる。


「いえあの、壁の投影を見てます……よね」

「おかしなことを。目でもついてる言わはりますのん?」

「えっ?」


 まるで『目などない』かのような九条の言葉に、さとりの声が小さくもれた。

 改めて投影に集まる異形たちを見る。

 

「……目、ありますよね。全員じゃないですけど」

「はあ?」


 どうやって視覚情報を得ているのか分からないものも若干数いるが、多くは目があるしそのすべてが動く漫画に釘付けになっている。

 彼らが『見て』いるのは間違いない。

 

「……」


 口元から手を離し、口の中で何かを唱えながら印を結ぶ。

 組んだ指の間から異形を見ているようだが、その表情は硬い。

 

「えっと、九条、さん……?」


 指を解いた九条は、自分を落ち着かせるようにゆっくり息をつく。

 

「ほな、これは」


 一番近くにいる異形たちを指差す。

 それは並んで座っている、少し大きな犬系の動物のような異形と、膝ぐらいの大きさの木の板に似た異形だった。

 

「片方は見てますよね。もう片方は頭みたいなのをじっと向けてますし、見てるんだと思い……ます、けど」


 九条はじっと睨みつけるようにさとりを見ていたが、やがて視線を外して少し長めに息をついた。

 

「……これは、うちには、ただの黒いモヤモヤにしか見えてへん」

「えっ?」

「表情どころか、体のつくりの違いも分からん。もっと言うたら今指した方も、ふたつおるなんて分かりもしまへん」


 淡々と言葉を続けるが、わずかにイラつきが混じる。


「……」

 

 さとりはその感情が誰に向いているのか分からないまま言葉を待つ。

 九条はさとりから視線を外したまま、わずかな衣擦れの音を立てて異形の後ろに立った。

 

「……こいつが」

「あっ……」


 むんずと掴んだそれは、木の板に似た異形だった。九条は手に掴んだそれと残った異形と交互に見やる。


「ほんまにふたつおった……」


 小さくつぶやくと、木の板を横に持って左右に引っぱり始めた。

 

「これが分かれるわけでもない……」

 

 九条にいいようにされている異形は嫌そうに身をよじる。

 そんなに柔らかかったのかと別のところで感心していたが、明らかに逃れようとする動作で我に返った。


「あ、や、やめてあげてください。とても嫌がっています」

「……」

 

 さとりの声には返さず、ただ異形をぽいと捨てる。

 ふわりと着地した異形は何か言いたげにこちらを見上げていたが、漫画の投影が気になるようでやがて戻って行った。

 そこまで見届けたさとりが、九条に話しかけた。


「……あの、私は、触れません。すり抜けます」

「……」

 

 九条は難しい顔をしたまま、自分の手に目をやった。さとりも同じように九条の手を見る。

 すらりとした色白の手。女性らしさを感じる細い指。さっきまで異形に危害を加えようとしていたとは思えない。

 

「つまり深川はんは、私と同じものでも、もっとはっきり姿形が見えとって、でも触られへん……ちゅうことでええんやろか」

「た、多分……」


 話を聞く限り、そして九条のこれまでの行動を見る限りはそういうことなのだろう。

 九条はまだ納得できていない様子だったが、ひとまずうなずいて言葉を続ける。

 

「……まず、あれが人にくっついとったら、悪いことが起こるやろ」

「それは、そうですね。悪いことをやったり、これからやろうとしてたりする人にも憑いてます」

「ああ、そうやな。分かってるんやったら、なんであれを排除しようと思わんの」

「排除……」


 さとりも異形を手で払うことはある。弱く体についているだけでも体に不調が出るものだし、手で払うだけでも簡単に離れる。

 どいてくれるように念じながら異形に自分の手を重ねるだけなので、実力行使とは言い難い。


「あんまり触りたくはないですし……あ、触れないんですけど、体に重なると、何となく気持ち悪い感じというか。それに、無視していたらいなくなりますし……」

「おらんようになってへんやん」

「は、はい」

 

 九条の声に少しイラつきが見える。

 

「でもあの、悪いことをしなさそうだったら、いいんじゃないかなって……」

「それで見逃して誰かに被害を与えてもか」

「追い払っても消えるわけじゃないですよね。だったら」


 わざわざ危害を加えなくてもいいんじゃ……と続けようとしたさとりを遮るようにして九条が言い切った。

 

「消せるで」

「えっ」

「やろうと思えばあそこに集まってるやつらぐらいなら消せる」

「冗談、ですよね……?」

「それがうちの仕事やからな」


 さとりを射貫くような九条の目は、それが本当であることを雄弁に語っていた。

 怖いのに、目が離せない。

 九条の黒い瞳に吸い込まれそうになる錯覚。

 うまく息が吸えずに固まるさとりだったが、

 

「あ、ちょっと九条」

 

 唐突な声がその呪縛を解いた。


「うちのさとりちゃんを持って行くんやめてもらえるか」

「……」

「……」


 お互いに、何とも言えない表情をしていたように思う。

『やゆよ』のブロック長である歌島由布子が、ブロック員を連れ出してしまった『らりる』ブロック長の九条に苦言を呈するのは正論である。

 何となくもの扱いされたように聞こえたが、どこか安心したという気持ちのほうが大きい。

 九条は大げさにため息をついて、肩をすくめた。

 

「……まあええわ。とりあえず様子見しときますわ。せやけど何かやらかしよったらその時は……」

「……はい」


 さとりがうなずくことで、この場は一旦まとまったように見える。

 しかし、歌島由布子から見て、九条がさとりを責めているように見えてしまうのは仕方のないことだった。


「ちょい九条、何を穏やかやないこと言うとんねん」

「はあ……えらいタイミングで邪魔が入ったわ」

「誰が邪魔やねん。おい」

 

 なおも由布子を無視する。

 さとりの方を一瞥すると、口元に指をあてて妖しく笑った。

 

「また改めてゆっくりお話ししまひょ」

「あ、えっと、はい……あの、できれば蹴るのは」

「分かっとります」


 面倒そうにそう返事をすると、九条はホールへと戻ろうとする。

 

「九条、あんた何やねん! 感じ悪いな!」


 その背中を追って由布子もまたホールへと戻ろうとする。


「あ、さとりちゃん、ぼちぼち開場やからよろしくな」

「あっ、わ、分かりました」

 

 自分の役割を果たすべく、さとりもふたりを追ってホールへと戻る。

 その後ろ姿を、一部の異形がじっと見送っていた。

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