第37話 C98夏 2日目 由布子と見本誌
「あつい……」
思わず声が漏れた。
早朝の東京ビッグサイト。
もう少し涼しいものかと思っていたのだが、アトリウムからホール内に入った瞬間に空気の温度が数段高くなった。
じんわりと肌が汗ばむのを感じながら、ホール本部で出席の受付を済ませていると、後ろから聞き慣れた声がした。
「さとりちゃん、おはようさん」
「あ、ユウさん。おはようございます」
「あっついなー。荷物置いたら飲み物飲んだらええで」
「あ、はい。ありがとうございます」
由布子は小さめの缶のエネルギー飲料を飲みながら明るく笑う。
「それ、美味しいですか?」
「あ、リアルゴールデン? 美味しいで。言うてコミマでしか飲まへんからコミマの味やな」
そう言って残りを飲み干した。
「まだ空調入ってへんし、多分ホールの中は今が一番暑いからな」
空調なしだとここまで暑いのかと妙に感心しながら、さとりは由布子と同じエネルギー飲料を冷蔵庫から取り出した。
「全員揃ってるかな。牛込さんが今日から参加で、早速朝の入口の借受に行ってもらってます。なので顔合わせは……明日か。最終日やん」
ひとりで話を進める由布子。
牛込は柳と同世代の女性だが、前回はあまり関わっていない。スタッフ経験はそれなりらしく、あちこちに派遣されているようだ。
「今日も暑くなる予報なので、水分は過剰なぐらいとるようにしてください。昨日もサークルさんで熱中症が出てもうたので、サークルさんの様子もよく見といてください。あ、本部で岩塩置いてるから、各自念の為ちょっと持っといてください。自分用でも他人用でも」
「「「はい」」」
ブロック員の返事に頷いて、手元の紙に目を落とす。
「えー、今日のブロック業務やけど、春日さんが本部に詰めて、私は……」
由布子が顔を上げ、さとりと目が合った。
「さとりちゃん、今日は『や』ブロックを私と回ろか」
「おはようございます! 館内担当です! 参加登録カードと見本誌の回収に参りました!」
関西なまりの元気の良い声が、サークル参加者の注意を引く。
「おー、いいですね。この見開きめっちゃ気合入ってますね! 見入ってしまいますわ」
「あ、ありがとうございます」
見本誌のページを開いて見せながら明るく笑う。
また別のサークルでは……
「あっ、遊び紙の色、ヒロインの髪と同じ色やないですか。これはなかなか粋ですねえ」
「わあ、気づいてもらえました? 嬉しい!」
中の漫画を確認する前から会話を始めている。
そしてまた別のサークルでは……
「奥付のフォントまで世界観を崩さない……よくぞ最後まで気を張ってここまで作られましたね」
「あっ、奥付は最初の方に作りました……」
「なるほど! いやいや。あれですね。発行日を書くことで自分の退路を断つ!」
「うふふ。結果的にはそうかもしれないです」
見事な切り返しでサークルの笑いを誘っている。
見本誌チェックのついでに会話しているというよりは、世間話のついでに見本誌を見ているような印象だ。
ひと段落ついたところで、見本誌を置きに本部へと戻る。
「ユウさんってサークルさんとお話しするの好きですか」
「んー、好きやなあ。コミュニケーションが上手くいったら、その後も話しかけやすくなるやん?」
その後に思い当たるところがなく、さとりはあいまいに頷く。
「なんか困ったことがあった時、気難しそうなスタッフよりアホそうなスタッフが……ちゃうな。気安く話しかけられそうなスタッフがおった方が、サークルにとってもええやろ?」
なるほど。それなら分かるとさとりが頷く。
「それにな。この場所では、思ったことはすぐに言うようにしてるんよ」
その声に、少し寂しさが混じった。
何となく話したそうな雰囲気を感じ、そのまま言葉を待つ。
「ここって基本的に一期一会やから、後にも先にも今日だけ。しかも、サークルさんもいつ帰りはるか分からんから、下手したら朝イチにしか会話がない」
さとりは頷く。
あまり考えたことはなかったが、確かにそうかもしれない。
「昔、見本誌チェックでめっちゃええ本があってんけどな、午後に買いに来たらもう帰ってはって。ほんで次のコミマでもその次のコミマでも探してみたけどサークル参加自体もうしてはらへんで、永遠のお別れになったことがあってなあ」
言われてみれば、今見本誌チェックをしたサークルさんたちが、自分の休憩時間までいてくれるとは限らない。
そもそも同人誌は商業のコミック一冊と同じくらいの値段がする。ページ数は比較にならないほど少ないにも関わらず。
高校生であるさとりに、すべてを買えるわけもない。確かに、見本誌チェックは一期一会だ。
「本買えるのが一番やけど、そうでないなら……読ませてもろたんやし、せめて感想は伝えたいなて思うてるんよ」
いつもの笑顔でにっと笑う。
「そうだったんですか」
「ま、準備会の中ではあんまりええ顔せん人もおるんやけどな」
さとりが小さく「え」とつぶやくと、由布子は肩をすくめる。
「まあ、みんながみんな上手いことコミュニケーション取れるわけでもないし、人の言葉やから違う受け取り方されてトラブルになる可能性がないわけでもないんよ」
その言葉で理解する。
人を見て、空気を見て、言葉を選ぶことのできる由布子のサークル受付は、スタッフの中でも例外なのだ。
そして往々にして例外というものは疎まれやすい。さとりにも思い当たるところがある。
「……難しいですね」
「ま、何言われても私は感想言うけどな!」
「わ、私も」
思わず声に出た。
由布子の感想を聞いたサークル参加者の表情を見て、これが疎まれるのはおかしいと感じたし、何より由布子自身も楽しそうに見えた。
そして、自分を貫く由布子の姿に、小さな憧れを抱いた。
その由布子はさとりの言葉を馬鹿にせず、否定もせず、嬉しそうに笑う。
「そらサークルさんもきっと嬉しいわ。よっしゃ、ほな次はさとりちゃんメインで受付やってみよか」
「はい!」
見本誌を置いてすっかり身軽になったふたりは、すぐに『や』ブロックへと舞い戻る。本部から近い配置で助かると由布子が笑う。
ブロックの出席率もまずまず。このペースで行けば余裕を持って受付できそうだ。
由布子がスッと後ろに下がると、さとりは意を決して前に出た。
「おはようございます。えっと……参加登録カードと、見本誌の回収に伺いました」
「あっ、はい!」
声を上げたサークルの女性は、今日見た中で一番若そうだ。まだあどけなさが残る、女の子と言っていい。さとりと同じか少し上程度だろう。地味なメガネの奥に、自信なさげな瞳が見える。
「参加、登録……」
準備ができていなかったのか、サークルの女性は封筒をごそごそと探り、参加登録カードとシールを取り出した。
「あの、このシールの場所がよく分からなくて」
「表3……えっと、裏表紙をめくって、奥付の向かいぐらいに……そう、そこです」
さとりがサークルに教えている様子を、由布子が満足そうに頷いて見ている。
「じゃあ、これで、お願いします」
差し出された本は、これまで見た同人誌と少し雰囲気が違って見えた。表紙の色の塗り方にムラがある。
中の漫画もそうだ。セリフこそ丁寧に写植されているが、コマのはみ出しやトーンの貼り方に手描き感がある。
コマ割りは少し単調で、どこか慣れていない感がある。キャラの動きも何となく硬い部分が見られる。
全体的に見れば拙い本と言えるかもしれない。しかし、どこか愛おしさを感じる温かさがあった。
そんな見本誌の最後、あとがきにある文字を見て、小さく声が漏れた。
「初めての本なんですね」
「は、はい! そうなんです」
今日の頒布物はこの本だけ。薄いピンクのテーブルクロスの敷かれた机の真ん中に置かれている。
『ウニスケ』というペンネームの作者が、目の前にいるこの女性なのだろう。
同年代であろう彼女がコミマに申し込み、この話を考え、本を作り上げ、この場所に参加する……しかも見たところひとりだ。自分には到底できない。
「な、何かおかしなところがありましたか?」
目の前の不安そうな女の子、ウニスケにさとりは尊敬の目を向ける。
「いえ。あの、一生懸命、描かれたんだなって」
「あ、ありがとうございます」
安心したような表情を見せるウニスケにつられて、さとりもほっと息をつく。
「受付受付」
「あ」
後ろから小さな声が聞こえてきた。
思わず声が漏れてしまったが、改めて参加登録カードと見本誌シールを確認しなおす。問題ない。
「それでは受付完了です。今日はしっかりと水分を取ってください」
「はい、ありがとうございます」
サークルの机からいったん離れると、由布子はさとりの手を握って明るく笑った。
「ひとりでできたやん! いやー、もう大丈夫や。完璧や」
「そ、そうでしょうか」
「大丈夫大丈夫! 自信持ちや!」
由布子はぱっと手を離すと、今度は自分の顎に手を当て、真面目な表情で通路に目をやる。
「今日はコンシューマゲームのジャンルで見た通り女性も多い。成年向けの本もない。受付未完了のサークルさんも多いけど何とかなりそうや」
「はい」
受付が早く終われそう、ということだろうか。
「だからさとりちゃんひとりでも大丈夫やな! ここからは手分けして受付しよ!」
「えっ」
C98夏2日目の開場まで、あと少し。




