第36話 C98夏 1日目 終わり間際に
「柳さん……」
小さく震えるその声に、呼ばれた柳は内心ぎょっとしていた。
柳としてはただ暑そうだったから扇子であおいだだけだったのだが、目の前のさとりの目が潤んでいる。今にも泣き出してしまいそうだ。
「何かあった? 話してみたら楽になるかもしれないわ」
焦りを隠しながら、落ち着いて声をかける。精一杯の虚勢ではあったのだが、さとりにとっては頼れる大人の女性に見えた。
「柳さん……」
また、柳の名を口にする。
こんな素敵な女性が自分のことを気にかけてくれることなんて、同じスタッフの同じブロックにならなければ無かっただろう。
『深川さんがどうしてスタッフしているのか、不思議です』
エレンの言葉を思い出す。
どう答えれば良かったのだろうか。
「……あの、柳さんはどうしてスタッフに」
「へっ?」
問われた柳は一瞬混乱したようだ。
何かあったか尋ねたのに、逆に質問が返ってきたのだから。
「あ、あー……うーん、どう言えばいいかな」
口元は笑った形を浮かべているのだが、その目は明らかに困っている。
質問を取り消そうとするのと同時に、柳が口を開いた。
「スタッフは形が残らなくて良いかな、って思ったから」
その答えは曖昧で、どこか後ろ向きな色を帯びていた。
「どうしてそんなことを?」
「あ、いえ……」
柳は心配してくれている。
でもそれで答えにくい質問をしてしまった。申し訳ない気持ちがお腹のあたりを重くする。
「少し、気になって」
さとりは視線を外して答えた。
柳はまださとりが話せる状態ではないと判断した。
困ったように笑いかけると、半歩下がる。
「そう……また何かあったら相談して。スタッフは同期だけど、人生としては先輩だから」
そう笑うと、柳は「先に戻るわね」とホールに入っていった。
柳と言葉を交わしたおかげか、それとも時間の問題か、いくぶん気持ちが落ち着いてきた。
ホールに戻ると、ほんのり冷やされた空気が頬に触れる。
空調の効きは今ひとつとはいえ、外よりも多少は涼しい。今日の人混みがそれほどでもないこともあるのだろう。閉会時間が近づき、人通りも減ってきている。
自分の担当になっている『やゆよ』ブロックを見渡していると、ふと何かの視線を感じる。
気にしないふりをしながら『よ』ブロックに目をやる。すると、ひとり気になる参加者がいた。
サークルスペースで眠っているようだが……
「サト、お疲れ様」
「あ、お疲れ様」
ひとりで巡回していたのか、小太郎とばったり会った。
さとりの表情から何かを察したのか、少し緊張感のある表情になる。
「どうかしたか」
「あ、うん。ちょっとあのサークルさんが気になって」
指をさすわけにもいかないので、小声でスペースナンバーを伝える。
ふたりサークルでひとりが起きて売り子をしているが、後ろにある横向きの椅子に座る男性は、帽子を顔に乗せて体を傾けている。そして、傍らに人影……異形というより幽霊と呼んだほうが良いかもしれない。
目を合わせないようにしているが、恐らく感じる視線はこの幽霊からだろう。かなりおぼろげで性別や年齢は分からないのだが。
「眠っているだけかもしれないけど、声はかけておこう」
「うん」
さとりと小太郎は目を合わせると、互いに小さくうなずいた。
スタッフがふたり立つと驚かせるかもしれないと、小太郎が前に出てさとりは斜め後ろから見守る。
あまり幽霊の前に出たくないさとりにはありがたかった。
「あの、後ろの方、体調大丈夫ですか」
「え? あー、すみません。寝てるだけです」
振り返った売り子の男性は苦笑い。
「ちょっと無理しちゃって。この間このアニメの一挙放送があったんですけど、それ見て徹夜でコピー本作り始めて、出来上がったのが昨日だったんですよ……もう若くないのに」
「それはすごい情熱ですね……」
「ほんと、コミマ前に一挙放送はやめてほしいですねえ」
売り子の男性はそう言って笑うが、後ろで帽子を顔に乗せている人は動きがない。
ふと見れば、幽霊が明らかにこちらを見ている。輪郭すら明確ではないぼんやりした気配だが、視線だけははっきりと感じた。
「お陰様で完売したんですけど、気が抜けちゃったみたいで……そんなわけで大丈夫ですよ」
「そうなんですか。えっと、おめでとうございます。でも体調がやばかったら救護室も使ってください」
「ありがとうございます」
会話が終わる。
振り返った小太郎の視線も感じたが、それよりも幽霊の視線のほうが強い。むしろ、何かを訴えかけるような……
「あの、やっぱりちょっと」
「え?」
「サト?」
一歩前に踏み出したさとりに、売り子の男性が不思議そうな目を向ける。
強い確信ではなかった。
幽霊が見えて良いことなど今までなかった。
でも、
『今まで大丈夫だったから、今回も大丈夫なわけやない』
由布子の言葉を思い出して、さとりは言葉にした。
「起こしてもらっても、いいですか……?」
「え、ええ……」
声こそ恐る恐るだが真剣な表情のさとりに、サークルの男性は気圧されたように頷く。
そして寝ている男性の肩を軽く揺すると、異変に気がついたようだ。
「あれ? おい、お前ちょっと」
強く揺すっても反応がない。
帽子を取ってみると、赤くなった顔に浮かぶ汗の量が明らかに多い。
目は開いているようだが、呼びかけへの反応がはっきりしない。
「うっ、何か気持ち悪……あ……?」
「サト、本部から車椅子!」
「うん」
さとりは小太郎の声に短く返事をする。
そしてちらりと傍らに立つ幽霊を見た。
「何か飲み物は口にできますか」
「あ、あい……」
幽霊の視線はやりとりする小太郎の方を向いていて、もうこちらを見てはいなかった。
声をかけた判断は間違っていなかったと思う。今は次にやるべきことを。
さとりは本部へと急いだ。
『よ』ブロックでそんなことになっているとは当然知らない西1本部。
由布子は他のブロック長と共に、机に座って欠席サークルの青紙処理をしていた。
なぜか机の上には青紙に加えて煮干しの袋がある。
「ん? さとりちゃんお疲れさん。どないしたん?」
由布子は煮干しをかじりながら、急ぎ足で戻ってきたさとりを不思議そうに見た。
「あ、えっと……」
「あ、煮干し? 程よく塩分があってタンパク質もあってミネラルも含まれてるから熱中症予防にええんやで。食べる?」
「あ、違っ……」
差し出された煮干しの袋。
断るよりも、もらったほうが話が早いと考え、ひとつだけつまんで口にした。
じんわりとした塩味が口に広がる。
「食うとき食うとき。ほんで、何かあったん?」
「あ、あの、えっと、体調の悪い人が。『よ』ブロックで……」
「あっ!?」
それを聞いた由布子が、血相を変える。
「はよ言わんかいな! 煮干し食うてる場合やないがな!」
そこからの行動は早かった。
由布子は残った青紙の処理を隣の九条に押し付けると、あっという間に車椅子を準備、さとりに場所を確認すると、本部のスタッフを連れて出動していった。
当のさとりは急に機敏になった由布子の動きを呆然と見送っていた。数秒遅れて我に返り、本部から由布子の後を追う。
少し遅れて『よ』ブロックのサークルスペースにたどり着いた頃には、車椅子に乗せられた男性が運ばれていくところだった。
搬送は本部スタッフに任せたのか、小太郎と由布子はブロックに残って周囲のサークルに声をかけていた。
「ご協力ありがとうございました。皆さんも、水分しっかり取ってくださいね!」
搬送を目の当たりにしたためか、周囲のサークルは呼びかけに反応して飲み物を口にしていた。
「あ、ファインプレーのさとりちゃんやん」
「サト、お疲れ様。ありがとうな」
まっすぐに感謝を向けられて、何かがこみ上げてきた。
あの異形……幽霊が目で知らせてくれたおかげなのだが、言い出すことはできない。
その幽霊は傷病者に付き添ったのか、サークルスペースから姿を消していた。
「あの、私……外で休憩してきます」
「おう、分かった」
「ゆっくりしてきてええよ!」
外の空気は相変わらずぬるく、だがホールから出た瞬間に感じる風がほんの少し体を冷やす。
海に面したこの会場は、時折風が吹き、休憩している参加者に癒やしを与えている。地面に腰を下ろしている人が多いが、皆揃って壁面に目をやっていた。
異形も同じように、大人しく腰を下ろして見ているようだ。何とも不思議な光景だった。
ぼんやりとその様子を見ていると、ふわりと良い匂いがした。
「気ぃ抜けてますな」
「九条さん……」
隣の『らりる』ブロックのブロック長である九条は、涼し気な色合いの和服姿でさとりの隣に立つ。
そして壁面を見て目を細め、口に手を当てる。
「あれ、深川はんのアイデアらしいですなあ」
「あ、はい……」
「……えらい注目されよる」
「そう、ですね」
参加者にも異形にも。
九条の口ぶりはどちらともとれそうだが、振る舞いからして彼女にも異形が見えていることは間違いないだろう。
「こない集めるつもりでしたん?」
「……はい」
異形も楽しめるように。
そこから始まった思いつきだったので正直にうなずいた。
「ふうん」
さとりを見定めるかのような視線を感じ、思わず顔を下に向ける。
逃げ出したくなる気持ちを抑え、次に何を言われるのかと内心で身構える。
「ほうでっか」
感情の薄い声に顔を上げると、もう九条はさとりに背を向けて歩き出していた。
戸惑いながらその背中を見送っていると、九条は自然な動作で半歩横にずれ、勢いをつけて足元の小さな異形を蹴り飛ばした。
「あっ」
思わず声が漏れる。だが周囲の誰もそれに気づくことはなかった。
そして九条は、さとりの方を振り返ることなくホールに消えていった。
「九条さん……」
さとりのつぶやきは、閉会のアナウンスと拍手に飲まれていった。




