第33話 C98夏 1日目 さとりの目
「はあ……」
「疲れたかしら」
「あ、いえ」
柳と回ったサークル受付は、終盤に差し掛かっている。
通路にはそこそこ人の姿もあり、それに比例するかのように異形の姿も見られるようになってくる。
気疲れする。
悪さをするような雰囲気は無さそうだが、やはり視界にあると落ち着かないし、小さいものは踏みそうになる。
もっとも、その足もすり抜けるのだが。
「大丈夫?」
心配そうにさとりをのぞき込む柳に、頑張って笑顔を向ける。
お願い通りに敬語をやめてくれたので、少し嬉しい。
「受付の時にサークルさんと話し込んでしまって、ダメだったなと思って」
「そんなことないわよ」
柳が笑う。
「でも……」
知っている漫画ジャンルということが大きかったのだろう。さとりはいくつかのサークルで作品について話し込むことがあった。
もっとも、見本誌を確認し、少しの感想と共に原作の思い出に触れたさとりへ、サークル側から喜びのマシンガントークが展開されるパターンがほとんどなのだが。
柳は「確かにちょっと時間は使っちゃったけど」と前置きして話し始めた。
「サークルからするとね、自分の作品って……まあもちろん少しは自信もって出してるつもりだけど、やっぱり自信ない場合がほとんどなのよ。いつも『こんなの誰が読むんだろう』って思いながら」
少し声の温度が変わったのを感じて柳を見る。その表情はどこか寂しそうに見えた。
「特に終わっちゃった作品だと、もしかしたらまだこの作品のことを好きなのは……ううん、覚えてるのは自分だけなんじゃないかって思っちゃったり」
「そんなに」
「下手すると午前中誰も来なかったりね。そんな状況でリュックの中でひしゃげたおにぎりをモソモソと食べるの。もう本当にすさむのよ」
おや? とさとりは思う。
急に生々しい内容になったが、これは一般論ではなく柳の……
「柳さん」
「だからね」
視線をさとりに戻すと、ふっと笑った。
「そんな中で、最初に読む他人のスタッフさんが共感してくれたってことは、とても安心したと思うわ。だから、ダメなんかじゃないよ。ほら」
柳の指す方を見ると、最初に話し込んだサークルの女性が小さく手を振っていた。さとりが小さく会釈すると、嬉しそうに会釈を返してくれた。
「まあ、本当に孤独なことなんてほとんどなくて、誰かしら同じ作品を好きな人がいてくれるんだけどね。ここは、そういう場所だから」
言葉とは裏腹に、柳はまたどこか寂しそうな表情でサークルの島を見ていた。
今日の少女漫画ジャンルは、やはりサークル参加者は女性比率が高い。
そして夏コミということもあって、比較的薄着の女性が多かった。
さとりの目が、とあるサークルに止まる。正確には、その前の通路にいる男性に。もっと言えばその首元から顔をのぞかせる黒い蛇に。
こんなところに蛇がいるはずもない。
あの黒い蛇は、異形の一種だ。
「残っているサークルは声掛け終わったから……深川さん?」
柳の声に答えられない。目が離せない。
あの蛇は、悪いものだと思う。
そして、それに憑かれている……あるいは連れているあの男性は。
「……あの、柳さん」
「うん?」
「あの人、男の人、ちょっと……」
「ん……?」
薄着のサークルの女性が机のクロスを調整しようと前かがみになる。
それを狙ったかのように、男が動いた。
「あっ」
さとりと柳、どちらともなく小さく声を漏らす。
「写真……」
「ですよね」
無防備な女性の胸元に向けられた携帯。
何かを調べているように偽装していたが、間違いなく写真撮影だ。
サークルの女性は気づいておらず、そのまま机の整理を続け、男は満足したようにそこから離れようとする。
「……ちょっと追いかけようか。私がマークしておくから、誰か応援呼んできてもらえる?」
「あっ、はい」
柳が男から目を離さないように、尾行を開始する。
(連絡……)
電話……いや、近くに誰かがいるはずだ。
スタッフの帽子はよく目立つ。島をひとつ挟んだ向こうに、長崎の姿を見つけた。
走らないよう気をつけながら、ふたりの元へと急ぐ。
「長崎さん、エレンさん」
同じブロックの仲間。
特に経験豊かな長崎がいることは心強い。
「お疲れー、深川さん」
「お疲れ様です」
あいさつもそこそこに、先ほどの盗撮の件を話す。
当然、ふたりの表情が険しくなる。
「……もうちょい男手がいた方がいいか。エレンさん、春日さん分かる? 副ブロック長の。いたら呼んでもらえる? もしいなかったら電話で呼びつけて」
「分かりました」
「深川さん、案内してもらえるかな」
「はい」
男を尾行していた柳は、それほど遠くには行っていなかった。まだこのあたりで獲物を物色しているらしい。
「長崎さん、お疲れ様です」
「話は聞いたよ。どいつ?」
「今携帯触ってる……黒縁メガネの、紺のリュック」
「ああ、なるほど」
言われてみれば、携帯を持っているのに画面を見ず、サークルをちらちら見ている。
それだけなら決め手に欠けるが……
「携帯の画面が、動画か写真になってるな」
「見えたんですか」
「目はいいんでね」
柳の言葉に自慢げな長崎。
そしてさとりも見た。
あの黒い蛇が再びその首を伸ばし、サークルの女性へと狙いを定める様子を。
そして、
「あっ」
「やったな」
長崎と柳は顔を見合わせ、距離をつめる。
目的を果たした男は、再びその場所を離れようとする。
「春日さん待ちだったが仕方ない、捕まえよう。ふたりとも少し離れてて」
長崎に声をかけられた男は、落ち着きなく周囲を伺う様子を見せた。しかし、いつの間にか動いた柳が退路を断つ位置を取っているのが見え、逃げられないことを悟ったのだろう。
男は力なくうなだれた。
遅れてエレンと春日も駆けつけ、五人のスタッフに囲まれた男は観念したようだ。
「地区本部に連れて行くか……いや、ホール本部が近いし一度本部かな。地区へは俺と長崎さんが連れて行くから、女性陣は被害者の方にお話してもらって良いかな」
「分かりました」
副ブロック長である春日の指揮で役割が決められ、さとりは『ゆ』ブロックと『よ』ブロックの受付未完了サークルのフォロー担当になった。
事件から離れることになったが、特に不満はない。それどころか盗撮の被害にあったサークルに対して、何を言えば良いのか分からない。
(ふう……)
心の中でため息をつく。
この場にそぐわない黒い蛇。見つけられたから良かったものの、見逃していたらどうなっていただろう。
当たり前かもしれないが、ああいう異形も紛れ込む。無害なものばかりではない。
少し近づかなければ悪い気配に気づけないのが心苦しい。
サークルの状況を確認したさとりは、本部へと戻った。
確認できている被害者へのフォローが終わったのか、柳とエレンもほとんど同じタイミングで戻ってきていたようだ。
「おー、柳さん聞いたで。お手柄やったな!」
「いえ。最初に見つけたのは深川さんでしたので」
クールにそう返す柳。
それを聞いたホール長の大塚が「ほう」と感心したように声を上げた。
「深川さんは前回も窃盗犯を見つけていたね。すごいな。コミマのためにありがとう」
大塚から褒められるようなことは、何もしていない。柳が察して動いてくれた部分が大きい。
「あ、わ、柳さんがいたから」
「いえいえ。深川さんの功績ですよ」
「私だけだったら、何も、できなかったと思います……」
紛れもない本心だったのだが。
「やーん、さとりちゃーん!」
横から由布子が勢いよく飛びついてきた。
「ほんまええ子やなあ。でもそんな謙遜せんでもええんやで。でかい顔して『ほなら大塚さんのエナドリもらいますね!』ぐらい図々しくてええんやから」
「ゆ、ユウさん……」
本音を言うと少し暑い。
「何だ、エナドリが欲しかったのか?」
「いえ、いらないです……」
大塚が冷蔵庫に向かうのを止めたところで、ようやく由布子の体が離れた。
由布子は由布子でうちわをあおぐ。さすがに少々暑かったらしい。
「盗撮犯なんか女子の敵やで。ほんま何しに来とんねんっちゅう話や」
ふんすと鼻息で不快感をあらわにした後、スイッチが入ったようにニカッと笑う。
「ありがとうな。さとりちゃんがおって、ほんまに良かったわ」
「いえ、そんな……」
捕まえられたのは柳のお陰なのだと思っているさとりは困って視線をさまよわせる。
その柳はいつの間にか控室に引っ込んでしまっている。
落ち着かないさとりは本部から出て『やゆよ』ブロックに戻ろうかと考える。
すると、大塚が低い声でさとりに話しかけた。
「ああ、そうだ。言い忘れていたんだが、深川さん発案のお試し上映、今日から外周で試験的にやるから」
「えっ?」
言われたことに思い当たらなかったが、そういえば前回そんなことを話したような気もする。
あれから八ヵ月。すっかり忘れてしまっていた。
「あくまでお試しだからまだ大々的にお知らせはしてないけどね。もうすぐ開場だ。混雑が落ち着いた頃合いを見て覗きに行ってくるといい。閉会までやる予定だし」
「あ……はい、行ってみます」
C98夏、1日目がまもなく開場する。




