第26話 幕間 学校の深川さとり
予鈴が鳴る少し前に、教室へと入る。
多くのクラスメイトは予鈴が聞こえてから席に着けば良いと思っているらしく、教室内で、あるいは廊下で雑談に興じている。
「あ、おはよ」
「うん、おはよう」
不意に目が合った隣の席の女子生徒が挨拶してきた。普段はそんなことはないのだが、今日に限っては理由があった。
「ああ、ごめんごめん、席どくね」
さとりの席には彼女の友達が座り、雑談に興じていたからだ。
友人は彼女の合図で席を立ち、自分の席へと戻って行った。
もうその目にさとりは映っておらず、隣の席のクラスメイトも授業の準備のために教科書を机の上に取り出していた。
この教室の中で、深川さとりは特別な存在感があるわけではない。目立たない生徒だ。
強く興味を持たれるでもなく、かといっていじめの対象になっているわけでもない。
ほとんど無関心。
それが深川さとりのこの教室での立ち位置だった。
しかしさとり自身はそれで良いと思っている。
その日の他人との会話は、朝一番のこの挨拶だけだった。
学校という場所は、案外異形の姿が多い。
多くの人が集まる場所で、そこそこ歴史があることが関係しているかもしれない。
さとりの通っていた中学校はこの高校よりさらに古い歴史があった。当然のように建物も古い。そして、それに引き付けられるようにして異形の姿も多く見られた。
その中学生活は、さとりにとっての暗闇の三年間だった。
小学校からそのまま上がってきた同級生がかなり多くいる中、さとりの悪い噂はあっという間に学年に満ちた。
きっかけは移動教室中の廊下だった。
「ひっ」
「えっ、何どうしたの」
突然目の前に降ってきた異形に驚き、声を上げてしまった。
周囲のクラスメイトが注目する。
何でもないというにはあまりに驚きすぎた。
その翌日から、クラスメイトたちはさとりから距離をとった。
「あいつ中二病らしいぜ」
「家が神社らしいしそういうキャラ付けしてるんじゃないの」
「嘘つき」
「構ってちゃん」
同じ小学校の出身者が中心となって広められた噂は、一気にさとりへの視線の種類を変えてしまった。
思春期という不安定な時期。目の前に現れた「異物」に遠慮はなく、まるでさとりを除いたクラスの結束を固めるための生贄のように、さとりが標的になった。
教科書への落書き、持ち物を隠される、椅子に水をかけられる。ひそひそとさとりを見ながら小声で話す。
幼稚な中学生の娯楽ではあるが、当事者であるさとりの心には毎日傷がついていった。
変わらず父とはぎくしゃくしている中で、家族を頼ることもできない。
そして、二学期が始まって少し。
登校時間の廊下の先で、禍々しい気配があった。
あまり人の通らない校舎の隅の階段。異形の姿はない。だが、湿り気を纏った灰色の空気が廊下の一角にまで染み出している。さとりにとっても初めて見るものだった。
そして、そちらへと引き寄せられるように、ふざけながら歩いていく男子ふたり。
あれはまずい。
「あの、そっち行かない方が」
「はあ? 何だお前」
「こいつあれだろ。不思議ちゃん」
遊んでいるところに水を差されたからだろうか。
それとも、さとりに声をかけられたからだろうか。
「犯すぞゴラァ!」
「呪われるっつーの! ギャハハ!」
ふたりは止まるどころかさらにエスカレートし、そしてまるで階段が見えていないかのように自然に足を踏み出した。
さとりの目には、ふたりが灰色の空気に飲み込まれたように『みえ』た。
一瞬で音が消える。
遅れて聞こえる誰かの叫び声。
何が起こったのか確認する勇気はなく、さとりは顔を伏せて走って逃げた。
男子ふたりに命に別状はなかったが、骨を折る大けがをしたらしい。
近くにいたさとりが声をかけたことは何人かが目撃していたことだ。
また自分のせいにされるのだろうかと諦めていたさとりだったが、男子ふたりが学校に復帰したあたりから扱いは異なる方向へと一変した。
徹底した無視。しかしそこに見下しや嘲りはない。
恐怖。
さとりにはあの時廊下の端で男子ふたりが何を見たのか知る由もないが、あの濃い灰色に巻き込まれて何かあったのだということだけは分かる。
そして、それが自分と結びつけられたであろうことも。
だが、それでも構わなかった。
持ち物や自分への危害がなくなっただけ、マシなのだから。
グループを作る時こそ困りもしたが、一時的なものとお互い我慢することができたと思う。
クラスから距離をとられ、目を背けられ続けた。表立った問題がすっかり消えたように見えるクラスに学校側ができることもなく、消極的な現状維持が続いた。
そんな暗闇の三年間。さとりは周囲と同じように目を背け、じっと我慢することでやり過ごした。
朝、教室へと入る。
さとりの席がまた使われていた。
だが、裏を返せば自分のことを極端に忌避していない証拠でもある。
「ああ、ごめんごめん」
「あっ、うん……」
目線を合わせず、声だけで言葉を交わす。
高校のクラスメイトは、この程度の会話でも嫌がらずに自然体で接してくれている。
まだ慣れないさとりだったが、染みついた習慣はなかなか消えるものではない。
当然、友人などできるはずもなかった。
椅子を引き、席に座る。
教室にいた異形が廊下へと出ていく様子が視界に入った。
特に関心を見せることなく、授業の準備をする。それだけだ。
ただ勉強をするためだけにここにいる。
この学校を志望した理由は、通いやすさと自分の学力がちょうど釣り合ったからだ。
区内の高校に通っている以上、同じ中学校の人はいる。入学直後はちらほらと噂が流れたようで奇異の目を感じることもあったが、それもやがてなくなった。
高校生になって大人になったのか、他に興味の対象があったからかは分からない。
さとりは特に関心を向けることなく、淡々と毎日を過ごした。
二年に進級しクラス替えがあった。
特に仲が良い友達がいるわけでもないため、自分がどこのクラスになり誰とクラスメイトになろうとそれほど興味はなかった。
新しいクラスであっても、去年のクラスメイトや部活の繋がりでグループが作られている。そこにさとりが入っていける余地はないし、入って行こうとも思わない。
冬コミでスタッフを経験したが、かといって急に学校での対人関係に変化があるわけがなかった。
終業と同時に学校を後にする。
どういうわけか、学校は街中よりも異形が多い。
彼らの好む要因があるのかもしれないが、さとりにとっては迷惑なだけだ。ただ、その異形の数も中学校の方が多かったように思える。
さとりは彼らに関心を持たないよう目を合わさない。そして同時にクラスメイトに対しても関心を持たないよう振る舞った。
いつ何がきっかけで周囲の目が変わるか分からない。
「天神様、ただいま戻りました」
家に帰る前に神社へ立ち寄り、息災に過ごせたことを感謝する。
平日ということもあってか、社務所はもう閉まっている。
以前であれば何か手伝わせてもらうことも多かったが、高校生になってから一切禁止されている。
(私がいなくても大丈夫なのは当たり前)
改めて思い知るとつらい。
さとりは小さく息をつくと、家へと足を向けた。
習慣のように鍵を持ちながら、郵便ポストを覗く。
広告と郵便物。
その一番上に、青い封筒が見えた。
『C98夏拡大集会のお知らせ』
印字されたその文字を見て、小さく声が漏れる。
青い封筒を丁寧に手に取る。
ほとんどない、自分あての郵便物。
凪いでいた心がざわりと騒ぎ、あの寒かった年末を思い出す。
また、コミマがある。
あっという間に過ぎ去ったあの時間は、さとりにとって奇妙で、不可思議で、何もかも初めてで、何よりも楽しさに満ちていた。
同時に、やらなければならないことも思い出す。
昔中学校で見た灰色の空気。あれは去年の夏にビッグサイトで見た黄色い煙と同じ種類のものだと直感的に思う。
でも、逃げるわけにはいかない。
あの場所にいる人たちを危険にさらしたくない。
青い封筒を手にしたさとりの瞳に力が宿る。
小さな少女の自身ですら気づかない変化が、コミマにとって大きな転機となる。




