第109話 C100夏 3日目 そして閉会へ
「玉さん、お疲れ様です」
アトリウムの商談室。
いつもお弁当を食べる小部屋の扉を開け、さとりは狐の異形に挨拶をした。
『……驚かぬのだな』
「えっと、ここに居るのがなんとなくわかったので」
『……』
相変わらずこの商談室には誰もいない。
何人かがお昼ご飯を食べていた形跡はあるが、ここで休憩するスタッフはあまりいないようだ。
さとりとしては玉との会話が気兼ねなくできて助かる。
『……サトよ、頑張ったな』
「えっ」
思わず聞き返してしまった。
まさか玉に頑張りを褒めてもらえるとは思わなかった。
「あの、ありがとう、ございます」
じんと胸の奥が熱くなる。
玉もまた、自分のことを見守ってくれていた。
さとりは、この機会に気になっていたことを聞いてみたいと思った。
今の優しい雰囲気の玉であれば答えてくれそうな気がしたからだ。
「それであの、知恩寺さんは、一体」
『あれは我でも困難であった』
ため息交じりに言う。
異形たちの様子を見るに、玉は彼らよりも上位にいる。
その玉をもってして『困難』とは、一体。
『幾人か死人が出てもやむ無しと思うておったが、サトがすべて防いだのう』
「死人!?」
大きな声が出た。
さとりはあわてて辺りを見回すが、幸い商談室には誰もいない。
「あの、知恩寺さんって……」
『あれは悪神じゃな』
改めて口にされるが、どこか納得感があった。
ただならぬ雰囲気と、乱暴な言動。
「人じゃなかったんですね」
恐らくは、玉や田尾手の……異形の側の存在。
『……』
玉は否定も肯定もなかったが、何となくこの話題はここまでにしてもらいたそうだ。
さとりは雰囲気を敏感に察し、この話はここまでと言うように努めて明るい声を出した。
「今日もたくさん杏をもらいましたよ」
またプラスチックの容器に取り分けられた杏の山。
スタッフたちにはすべてさとりが食べると思われているのが少々複雑だが、目の前で目を輝かせる玉を見るとまあいいかと思う。
『これは……良いのか?』
「玉さんも功労者ですからね」
『おお、おおお……』
初めてホールで見かけた時は、これほど表情が豊かだとは思わなかった。
いや、今でもあまり感情は見せないのだが、唯一杏を前にした時だけ冷静さを失う。
『サトよ、その……』
「はい」
そして、どうも食べるところを見られるのだけは嫌なようで、最後の理性でさとりを見る。
その上目遣いもまた、この場所でしか見られない特別な光景であった。
「後ろを向いて食べますね」
どうして恥ずかしがるのかはわからなかったが、乙女の秘密に踏み入ることもない。
さとりは自分の割りばしをぱちんと割ると「いただきます」と手を合わせた。
「玉さん。本当に、ありがとうございます」
後ろを向いたまま、お礼を言う。
『うむ』
短い返事。
だがそれで十分伝わったのだった。
会期中彼女が奔走してくれたこと、そして知恩寺と対峙していた時の声を思い出す。
「そういえば、私の右足……」
『天祐である』
心のどこかで「やっぱり」と思う。
いつからそうなっていたのかわからないが、玉が夢枕に立った時だろうか。
「助かりました。えっと、でも、このまま、ですか?」
実のところ、まだ右足がむずむずするような感覚がある。
歩いていると気にならないのだが、こうして座っていたり立ち止まったりすると、少し違和感がある。
異形に触れる……いや、蹴ってしまう力だと思うのだが、いつまで継続するのだろう。
『……すぐに慣れる』
「……」
思わず玉の方を見たが、彼女は明後日の方向を見て知らないふりをしていた。
ぴんと立った狐の耳が小さく動いている。緊張だろうか。
「……今日から、本当に踏まないようにしないといけないですね」
百回記念のコミマだからか、閉会まで残ろうとする参加者がいつもより多いようだ。
閉会後の交通機関が混雑しそうではあるが、それも含めてコミマともいえる。
玉もどこかに行ってしまったが、きっともう脅威は過ぎ去ったということなのだろう。
でも気を抜くことはできない。
参加者の問い合わせ対応は、閉会した後もまだ続く。
スタッフが本当の終わりを迎えるのは、この会場を出て家にたどり着くまでだ。
閉会まであと少し。
昼のスロープでの対決などなかったかのように、コミマが閉会に向かってゆく。
きっと、これで良いのだろう。
スタッフがいくら苦労しても、小さなトラブルがたくさんあったとしても。
閉会までたどり着くことが……次回の開催に繋げられることが、スタッフを含めた参加者全員の目的なのだから。
「じゃあ、行くか」
「うん」
隣に立つ小太郎に、うなずいて返事をする。
最後の一斉点検の時間だ。
隣の通路には由布子と牛込の姿もあり、反対側には長崎が周囲を油断なく見回している。
『これより、一斉点検放送を行います……』
さとりは小さく息を吐く。この一斉点検を終えると、もうすぐ閉会となる。
場内アナウンスの終わりに合わせて、歩き出す。
「一斉点検ご協力お願いしまーす!」
「身の回りの確認をお願いしまーす!」
改めて、男性向けのジャンルの通路は何も知らなければ目を覆いたくなるような光景ではある。
だが、大門のお陰もあって、サークルの人々は気のいい人たちが多いことを知っている。
よく見れば女性のサークル参加者もちらほらいる。
閉会前の時間。
あまり活発に本の頒布があるわけでもないが、知った顔と楽しそうに話したり、のんびりしたりしている。
「不審物ありましたら、スタッフまでお知らせくださーい!」
小太郎の声に、何人かが反応する。
談笑していたグループが笑いながらお互いを指さす。
「不審者ならいまーす」
「それはキリがないので大丈夫ですー!」
さらりと受ける小太郎の声に、グループにまた笑い声が上がる。
小太郎もスタッフ五回目とあって、すっかり慣れてきたのだろう。
肌色の多いポスターに囲まれた、平和なコミマ。
さとりがこの景色に慣れるのはまだもう少しかかりそうだ。
アナウンスしながら歩き、ブロックの端に到着した。
道中のサークル参加者は周囲の確認に協力してくれたように思う。
振り返ると、何事もなかったかのように談笑を再開している。
「無事に終われそうだね」
「ああ、そうだな」
小太郎と並んで、その景色を眺める。
まだ少し早いが、何とも言えない達成感がある。
ふたりはそのまま周囲の巡回に入る。
『やゆよ』から『ほまみ』、『むめも』、『らりる』と自分の担当ではないブロックも見て回る。
「このジャンル、広いね……」
「ああ、そうだな……」
今日の西1は、どこまでいってもこの光景……つまりは男性向けジャンル一色。
微妙な気まずさを感じながら、小太郎と共に巡回していく。
「お疲れ様でした」
「あ、お疲れ様でした」
カートを引く帰宅者に声をかけながら、終わりの時間が近づいてくるのを感じていた。
大きめの通路で、どちらからともなくふと立ち止まる。
「色々大変だったな」
「うん、でも、楽しかったよ」
さとりがそう言うと、小太郎が意外そうな表情を見せた。
「あれだけ大変だったのに、楽しかったのか」
「うん。コミマってそういうものじゃない?」
スタッフは当日に苦労して、疲れて、汗とほこりにまみれ、声を枯らし、歩き回り。
最後の最後まで頭と体を酷使して、このイベントを最後まで守り抜く。
きっとサークルにはサークルの、一般参加には一般参加の苦労があって。
その上で、精一杯に「好き」を分かち合う。
それがスタッフ四回目で感じた、さとりなりの答えだ。
「まあ、そうだな」
なぜかほっとした様子を見せる小太郎。きっと心配してくれていたのだろう。
思えば、いつも心配をかけていた気がする。
小太郎は色んな所に連れ出してくれた。
コミマスタッフも、小太郎がいなければ踏み入れなかった世界だと思う。
そして、今日も。
「コタくんの応援、聞こえたよ」
スロープで知恩寺に負けそうになった時、耳に届いた小太郎の声。
コミマスタッフで鍛えられた、よく通る声の出し方で、精一杯の声で。
背中を守ってもらえたような気がして、向き合うことができたと思う。
「ありがとう」
「あ、ああ……」
小太郎は照れたように目を逸らし、首の後ろに手をやる。
ちゃんと伝えたいときに伝えたい言葉を口にする。それもまた、このコミマで学んだことだ。
改めて、ここに立つ自分が少し信じられない。
二年前、実家の手伝いから外されて消沈していた自分が、偶然足を踏み入れたイベント。
あの時は混乱して周囲を見る余裕はなかったが、きっとあの時も今日と同じように参加者はみな楽しそうにしていたのだろう。
実家のお祭りもまた、楽しいが集まる場所だ。
だが、決定的に違うのは、その中心にあるもの。
「好きが集まる場所って、いいなあ」
「好き、か」
小さくつぶやく声が聞こえた。
「サト、俺……」
「うん?」
見たことのない真剣な表情を見せる小太郎。気のせいか顔が赤い。
言葉を待つさとりも、小太郎の緊張が伝わってきて、どうしてだか心拍が上がる。
じっと見つめ合うふたり。
長かった夏コミの最終日。
記念すべき日の、閉会時間。
『これにて、コミックマート100夏、3日目を終了いたします。お疲れ様でした!』
会場内に、盛大な拍手が巻き起こった。




