第107話 C100夏 3日目 最後の対決
元コミマスタッフである知恩寺が、違和感に眉をひそめた。
参加者がこのスロープに立ち入ってこない。
サークルのエリアと企業ブースを繋ぐ重要な経路。常に多くの人が行き交ってしかるべきだが、誰ひとり通らない。
「何だこれは……」
まるで目の前の巫女装束の少女との対決がお膳立てされているような状況だ。
「なぜ貴様なんぞに協力する」
この昼の時間帯、このスロープは人でごった返すはずだ。
知恩寺の気に当てられた人間たちがバタバタと倒れ、慌てふためくスタッフ連中を眺めることができたはずなのに。
「ここにいる人たちは、みんなコミマの参加者ですから」
お題目かもしれない。綺麗事かもしれない。
だが現に、今この場所に踏み込まないでくれている。
「……貴様、なぜ動ける」
悪意と殺意を撒き散らしながら、知恩寺がさとりを睨みつける。
見る限り限界に近いはずだ。巫女装束の華奢な体は、いつ折れてもおかしくない。
「だって」
後ずさりしそうな心を奮い立たせ、さとりは足に力を入れる。
それどころか、知恩寺の方へと一歩踏み出した。
「あなたが、コミマを壊そうとするから」
暴力的ともいえる悪意の奔流の中、さとりは何とか目を逸らさずに歯を食いしばる。
「この場所は、私たちが守る」
コミマスタッフとして。
氏子地域を守る神社の娘として。
やらなければならない。
「くくく、勘違いしておるようだの」
その声は、今までと少し違う響きに思えた。
心の片隅で、聞いてはいけないと感じながらも、意識が持っていかれる。
明らかに変だ。
知恩寺の言葉がぐるぐる回る。
あれだけ濃厚だった悪意が、和らいでいる。
「こやつらの本質は悪ぞ。自分勝手に振る舞い、規則を都合良く解釈し、自分の欲を満たす。敵わなければ他者に責を求め、当たり散らす。貴様も心当たりがあろう」
「あ……」
座り込みを注意しても、無視する参加者もいた。
暴言を吐かれたこともあった。
サークルの男に突き飛ばされたこともあった。
参加者のほんの一部とはわかっていても、知恩寺の言葉を肯定したくなる。
「理不尽な目に遭ったろう。なぜそんな奴らを助ける必要がある」
自分は何も悪くなかったのに。
ルールに沿っただけなのに。
どうして傷つかなければならなかったんだろう。
「嫌なこともたくさんあったであろう? 特に若い女である貴様など、下に見られそうだからな」
下?
対等であるはずのコミマで。
下に見られ、無視をしても暴言を吐いても良いと思われていた?
「奴らに仕返ししたいと思わないのか? 直接やりたくないなら、俺が代わりにやってやろう」
どういうわけか、魅力的な提案に思えてくる。
「自分を嫌な目に遭わせた奴らなど、もっと嫌な目に遭わせたいだろう」
嫌な目。
自分だけが。
こちらが正しいのに。
「それが人間だからな」
そんな人間のために、汗をかいて涙を流して、どうしてここに立っているんだろう。
さとりを支えていた使命感が、折れようとしていた。
「去るが良い。この場所は貴様が守る価値もない」
知恩寺は一転穏やかな声色となり、さとりを揺さぶる。
「そんな、ことは……」
否定の言葉が出てこなかった。
知恩寺の言葉はするすると耳に入り、心と体を絡め取ってゆく。
「見放せば良い。そこまで付き合う義理もなかろう。楽にせよ」
「私、は……」
甘言に乗ってはいけないことは頭ではわかっている。
しかし、夏コミで酷使した体と疲弊した心は、さとりの頭をゆっくりと下げていく。
「ふ……」
知恩寺の嘲笑。
だがもう、気持ちが続かない。
「サトッ!」
声がした。
さとりを呼ぶ声が。
朦朧とした頭でただ声のする方に目をやる。
「頑張れー!」
片手を振り上げ、叫ばんばかりに声を上げる小太郎がいた。
「あっ、私……」
急に全身から汗が噴き出すような感覚。
思い出したように浅く呼吸をし、自分の置かれている状況を再認識する。
意識が飛んでいた?
夢を見ていた?
今はどこ。東京ビッグサイト。
何をしている。コミマスタッフ。
私は誰。深川さとり。
「はぁ……」
知恩寺の前にあって、目を閉じて息を整える。
術が破られたことを察した知恩寺が、忌々しげにさとりを睨みつける。
知恩寺が望むものは、悪意の勝利だ。
正しい者が膝をつき、許しを請う。
その姿を見るのは、何物にも代えがたい悦びである。
反対に、諦めない者をそのまま食らっても、いつまでも屈服させられなかった敗北感がつきまとう。
「小癪な」
目の前の小娘の心を折ろうと、悪意の気配が強くなる。
先ほど見せた張りぼての優しさは霧散し、完全に敵対するように威圧をかける。
「うっ……」
鳥肌が立ち、ぐらりと目眩に似た感覚を覚える。
明確に向けられた殺気。
明るい屋外のはずが、ネガポジ反転したかのように視界がおかしくなる。
また現実感が遠ざかり、目眩と耳鳴りがさとりを襲う。
凄まじい殺気に再び足元がおぼつかなくなり、膝が折れかける。
「深川はん!」
「頑張って!」
違う声が聞こえた。九条と……エレンだろうか。
エレンは昨日のことがあってもまだ、声をかけてくれることを不思議に感じる。
九条は……
『あとは、深川はんに託す』
そうだ。託されたのだった。
この化粧と共に。
「スタッフさん、頑張って!」
今度は知らない人。
どうして、応援してくれるのだろう。
「頑張れー!!」
また別の人も。
スタッフだから……いや、コミマだからかもしれない。
だとすると、
「私も……」
コミマスタッフであらねば。
すっと背筋が伸び、衣擦れの音が耳をくすぐる。
『今日は全力だぞっていう自己暗示』
ミーシャが教えてくれた、自信を持つおまじない。
『スタッフやったら、一歩踏み出す勇気が持てるんや』
由布子が言っていた勇気。
『好きな人たちがいる、このコミマを全力で守りたいの』
ポエが口にした思い。
『頑張れー!』
そして、さっきの小太郎の言葉。
すべてが、さとりに力をくれる。
「負けたく、ない……」
自分でも信じられないぐらいに気持ちが強くなり、歯を食いしばって圧力に耐える。
『チッ、しぶとい』
小さな体でなお屈しない少女を睨みつけ、知恩寺が忌々しげに吐き捨てる。
そして、
「……!」
知恩寺が姿を変えた。
前回の冬コミで見た、有翼の虎。
凶相とも言うべき怒りの表情をさとりに向け、鋭い牙を見せつけるようにして大きく吠える。
『大人しく食われろ!!』
「っ!」
思わず目を閉じ、体を硬くする。
獰猛な獣を目の前にした、人間の本能と言って良かった。
(怖い)
知恩寺が諦めない限り、この場を無事にやり過ごせない。
(このままじゃ……)
耐える以外にさとりの取れる手段がない。
目を閉じる力が強くなりかけたその時、
『サト!』
どこからか、玉の声がした。
『サトにもできる!』
不思議と、何のことかわかった。
勇気を出して目を開け、ゆっくり顔を上げる。
そして気づく、いつもと違う熱の感覚。
『チッ』
さとりの様子に異常を察したのか、知恩寺が四足それぞれで一歩距離を取った。
明確な後退。
それはこの場で初めての、知恩寺の行動だった。
『サトならばできる!』
玉の声に煽られるように、体の熱がさとりの全身を駆け回る。
どうやらこの力は、右足から湧き出ているようだ。
このような状況にあって、冷静に分析する自分が不思議だった。だが、
「頑張れ!」
「負けるな!」
また誰かの声が届いた。
知ってる人も、知らない人も、応援してくれている。
ただならぬ気配を察した知恩寺が、さらに下がった。
『……来るな』
「いえ」
知恩寺が引けば、さとりが詰める。
(私にも、できる)
それは自分だけの力ではない。
今ここにいられるのは、仲間の助けがあったから。
立っていられるのは、みんなの応援があったから。
「私たちは、あなたに負けない」
『貴様……!』
芯を持ったさとりの声に、知恩寺が目を見開く。
しかしなぜか余裕がない。どこか焦りを誤魔化すように、大きく口を開けた。
来る。
間近に迫る恐ろしい獣の顔。だがさとりは、最後まで目を逸らさなかった。
「『好き』は、私たちが……守る!」
緋袴を摘み、腰を落とす。
ぎゅっと左足を踏み込んで、
「やあっ!!」
裂帛の気合いと共に、右足を振り抜いた。




