第106話 C100夏 3日目 陽炎のスロープ
人混みの中に見える歩きやすそうな経路。素直に足を運ぶうち、ホールの外、トラックヤードへとたどり着いた。
「ここは……」
西1ホールの外、すぐ目の前には大きなスロープがある。幅が広く、暑さに目を瞑れば企業ブースへの最短経路といえる。
企業ブースのある西3へと繋がる大きなスロープを見上げると、わずかに空気が揺らいでいるのが見えた。
(ここ、だよね……)
牛の予言を思い出す。
『楽日こそ妖しき時なり。午三つ時、巫女は小者と共に人を払い、坂の厄を独り除けるべし』
坂。
さとりは深く息を吸って吐いた。
周囲の混雑は相変わらずだが、何人かの敏感な参加者が、何か気になるのかスロープを少し見上げていた。そして、首を傾げてまた自分の目的地へと向かう。
スロープの下までたどり着き、強烈な日差しに照らされながら目を凝らす。
不自然にまばらになった人通りの中で、微動だにしない影。
ちょうど中ほどに立つ男。
強烈な気配は、その男から発せられていた。ゆらゆらと陽炎のように、周囲の空気が揺らいでいる。
「知恩寺、さん……」
「やはりお前か」
さとりを見下ろす男、元西2ホール補佐の知恩寺は、殺気のこもった視線でさとりを射抜く。
「ん? あの忌々しい狐はおらんのか」
「……いますよ」
この会場で、アトリウムで、玉は自身のすべきことをもってさとりを支えてくれている。
「……?」
知恩寺が怪訝な表情を見せるが、さとりはどこか自分の中に、かすかに玉の気配を感じていた。
(ひとりじゃない……)
異様な雰囲気がスロープの上下に波及したためか、やがてスロープの人通りが途切れた。
広く長いスロープの真ん中に、影がふたつ。
「あの、できればまた出て行ってもらいたいんです」
「なぜお前の指図を受けなければならぬ」
知恩寺はさとりの言葉を一笑に付す。
「ああ、スタッフだからか。コミマスタッフは傲慢だものな」
「いえ。お願いです」
冷静に返すさとりを見て、一瞬知恩寺の表情が消える。
「嫌だと言ったら」
「実力行使、でしょうか」
「ほう」
さとりの答えににやりと笑う。
さらに強烈な気配をまき散らす知恩寺は、近寄りがたい。
スロープには人が寄り付かず、自然と別のルートを使う。
「やはり田尾手もいないようだな。ふふ、貴様ひとりで何ができる」
また邪悪な気配が強くなる。
黄色く濁った煙はスロープの上へ上へと立ちのぼり、いつかの西2ホールのようにうっすらと視界を阻んでゆく。
そしてその中心。発生源となっている知恩寺の周囲は禍々しく、呼吸するだけで身体に異変を来たしそうに感じる。
「ひとりじゃ、ないです」
さとりは己を奮い立たせるように、目を逸らさず声を出した。
企業ブースへと向かおうとしていたその一般参加者が足を止めたのは、ただ周囲が立ち止まっているからだった。
周りと同じようにスロープの中ほどを見ながら、何が起こっているのかと目を細める。
「何あれ。催し?」
「さあ。でも通らない方が良さそうな感じじゃない?」
近くのふたり組の会話が聞こえてくる。
会場内において、オタクのそういった感覚は鋭い。自らの目的地への最速経路ではないと肌で感じた瞬間に、進路を変えた。
「なんだ?」
また別の一般参加者は、特に急ぐつもりはなかったため、何が起こっているのかとスロープを見上げた。
巫女装束のスタッフらしき姿は見えるが、それ以外はよくわからない。
「なんかヤバそうな雰囲気だな」
その独り言に、見ず知らずの参加者が答える。
「や、でも巫女さんはスタッフですよね。何かのショーですかね?」
「そんな告知ありましたっけ?」
初対面ながら、何となく知り合いのように意見を交わす。
コミマにうっすらと漂う連帯感のお陰だろうか。
目的地に急ぐ参加者はその場を離れるが、そうでない数人が立ち止まっていると、何だなんだとまた人が集まり始める。これはコミマとしては良くない状況であった。
「すみません、立ち止まらないで!」
スタッフである小太郎が声を上げ、立ち止まっていた人の足を再び動かす。
「ここで立ち止まらないでくださーい!」
少し遅れて春日もやって来た。
もちろん『やゆよ』ブロックの受け持ちエリアではなく外周の混雑対応に駆り出された借受なのだが、列整理どころではない。
小太郎と春日の声に押され、集まった群衆が少しずつその場を離れてゆく。
しかし、どうにも人が集まる方が早い。
焦りが生まれそうになったとき、知らない声が聞こえた。
「ここで立ち止まらないで!」
「スロープは今行けないってよ!」
一般参加者が、小太郎たちに倣って誘導を手伝ってくれている。
お陰でかなり群衆を散らすことができた。
「あの、ありがとうございます」
お礼を言われた参加者は、誇らしげに手首の赤い紐を見せる。
「コミマにお客様はいない。平等に参加者、だろ?」
「はい!」
「はーい、今はスロープ使えないからー!」
参加者は声を上げながら、歩いていった。少し離れて誘導してくれるらしい。これでここの密度も少し下がるだろうか。
「もう少し頑張ろうか」
「はい」
春日に励まされ、小太郎は誘導を再開する。
今はスロープに誰も近寄らせるべきではない。
「サト……」
小太郎は心配そうに、戦いの渦中にある幼馴染の名前を口にした。
スロープの上。
企業ブースのエリアから西1ホールへと見下ろす場所に、その老人はいた。
「やれやれ……何やこれは」
今回も宗家のお嬢様が大げさなことを言っているだけだと思っていた。
手練を三人も東京、それも真夏の催事に駆り出すなどどうかしている。
そう思っていたのだが……
「おっと、ここは入られへんよ。別の方へ回ってや」
スロープに足を踏み入れようとする若者を手で制す。
スタッフでもない老人に遮られた若者は不快感を露わにし、掴みかからんばかりに顔を近づける。
「何だよ爺さん。スタッフでもねえのに何が……うっ」
眉間に指。そして、気を発する。
生身の人間には滅多にやらないが、まあ自衛と思えば良いだろう。
今は若者の感覚はぐちゃぐちゃに混ぜられているはずだ。顔色が悪くなるのを確認し、指を離した。
「お手伝いや。わかったか」
手首の赤い紐は準スタッフの目印だったはずだが、全員が知っているわけでもないらしい。
「あ……あ……」
口を開けて正体を無くしている若者を見上げ、老人が西3ホールを指さす。
「気分悪そうやな。日陰で休みはったらどうや」
「……」
言われるがまま、ふらふらとどこかへ歩いてゆく。その背中を見送りながら、ふうとため息をついた。
スロープの上、老人ひとりに任せるものではない。
そう思っていたのだが……
「お前らももっと踏ん張らんかいな」
『……』
周囲の黒いモヤモヤたちにそう声をかける。
どういう理由かわからないが、どうも彼らはスロープに参加者を近づけまいと頑張っている。
目的が同じである以上、図らずも協働することになるのだが……
「野良の『或れ』と共闘やと? アホちゃうか」
これはきっと、暑さにやられた幻覚だろう。
こんなこと、あるはずがない。
「ほんまに、どうなっとるんや、これは」
スロープの中ほどの異常な気配。あれはもはや天災だ。ひとりでどうにかできるとは到底思えない。
なのに、巫女装束の少女がひとり立つ。
「……幻覚なら良かったんやが」
老人のぼやきが、熱気に溶ける。
「何やの、あれ……」
九条静女は、スロープを見上げながら、誰に向けるともなく呻くように言う。
身体中が危険を察知し、暑さではない汗が噴き出し、首筋を伝う。
硬直する九条のすぐ近くで、大きく呼びかける声がした。
「立ち止まらないでくださーい! 現在スロープは使えませーん!」
真っ先に目に入るスタッフ帽子。そして、日差しを浴びて輝く赤毛。
同じ『らりる』ブロックのエレン・リードだった。
「リードはん……」
はっと正気に返った九条に、エレンが精一杯の笑顔を向ける。
「ですよね、九条さん?」
辛うじてうなずいた九条は、小さく呼吸を整えて心を落ち着かせようとする。
「で、これ一体何なんです? 今通れる時間帯ですよね……っても、近づきたくない雰囲気ですけど」
「わからん……」
エレンもまた、暑さではない得体のしれない汗に顔を濡らしている。
発生源はスロープであることは間違いないのだが、本能的にそちらを直視することができない。
「あれ……深川さん?」
エレンの言葉に、先ほど自分が見た光景が見間違いでなかったことを確信する。
見間違いなら、どれほど良かっただろう。
「……あの、深川さんは何を?」
「守ってくれようと、しとるんや。コミマを、うちらを」
カラカラに渇く喉。
血の気の引いた顔。
普通ではない九条の様子を見て、エレンもまた声を震わせる。
「助けに、行け……ないです、よね」
「……」
九条をもってして、人知を超えている。あんなものは知らない。
悪意の煮凝りのようなあの中心地で、正気を保てるイメージが湧かない。
そもそもなぜ深川さとりが『或れ』に立ち向かえているのかもわからない。
「たっ、立ち止まらないで! 企業に行きたい人は、アトリウムのエスカレーターに回ってください!」
隣のエレンが声を上げる。
そうだ……とにかく今はあそこに参加者を近づけないようにしなければ。
「大丈夫、ですよね?」
不安そうなエレン。
九条はその答えを持たず、ただ手を広げてスロープへの侵入を止める。
「深川はん……」
背に感じる強烈な気配。
今はただ、深川さとりを信じることしかできない。




