第104話 C100夏 3日目 必要とされて
慌ただしい時間はすぐに過ぎ去り、アトリウムにいくらかの静寂が満ちた。
とはいえ、西1西2の各ホールからのざわめきは、出入り口を通して十分に漏れ聞こえてくる。
受付の机もすっかり片付けられ、がらんとしたアトリウムには異形の影すらない。
彼らも妙なところで律義である。
よくよく見れば、なるべくコミマのルールを守ろうとしながら動いてくれている。
玉を通してではあるが『道理』を伝えればそれに沿うようだ。
やがて、昨日と同じように、メインエントランス方面から黒い人の流れがゆっくりと移動してきた。先行入場者だろう。
そしてアトリウムに満ちる臭いもまた、昨日と同じかそれ以上。
地区本部のスタッフを見ると、苦笑いをして「夏コミだからね」と肩をすくめてみせた。
神社の夏の祭りを手伝うことはあったが、これほどの臭いを感じた覚えはない。
屋内であることと、参加している層の関係だろうか。
そんなことを考えていると、ついに場内のチャイムが鳴った。
『ただいまより、コミックマート100夏、3日目を開催いたします!』
同時に巻き起こる拍手。
声を上げるスタッフ。
動き出す列。
夏コミ最終日の、開場時間を迎えたのだ。
ここを通る入場列の参加者は、全員手荷物確認を受けているはずで、危険物は持っていないことになっている。
数百人にひとり程度、異形をくっつけて入場する参加者はいるが、玉をはじめとする比較的力のある異形によって排除されていた。
基本的に蹴りをもって排除しているのだが、何か決まりでもあるのだろうか。
『サトよ。来る者の確認は、思いのほか上手くいっておる』
「そうなんですか」
改めて玉から報告を受けるが、やはり順調であるらしい。
というより、しばらくさとりの出番が来ていない。
『うむ。小者どもはようやく酒が飲めるとあってよく働いておる。この二日間は酒を振る舞えんかったが、却って良かったのかもしれぬのう』
「そ、そうなんですか」
彼らに酒を振る舞えなかったのはさとりの都合もあったので、どこか悪いような気がしてしまって素直に喜べない。
また視界の端で異形が放物線を描くのが見えた。
『ここは我らに任せよ』
「はい」
頼もしい。
きりっとした表情に見えるが、きっと今日もまた杏を楽しみにしているに違いない。
ホールの巡回、いや、スロープの監視に行った方が良いだろう。
「じゃああの、私はホールの巡回に入ります」
「了解。お疲れ様です」
「はい。ありがとうございました」
「こちらこそ。助かりました」
「巡回よろしくね」
地区本部のスタッフが丁寧に礼を言い、田尾手も小さく笑う。
彼らはまだここで不審者の監視を継続するらしい。
それはとても大変な業務のように思えた。
『サトよ』
「はい」
玉に呼ばれて振り返る。
どこか神妙な表情に見える玉が、さとりに一歩近寄った。
『我はこの入口で小者らを指揮する』
その小さくも力強い声に、さとりは「えっ」と小さく声が漏れた。
「……あの、じゃあ巡回は私ひとり、ですか」
『できるか』
問われて、少し考える。
この場所には、玉の協力が不可欠だ。
異形たちを指揮し、必要あれば田尾手に伝える。そんなことができるのは玉しかいない。
そして、送り出してくれるということは、さとりならできると思ってくれているということだろう。
「……やります」
『うむ』
さとりの返事に満足そうにうなずく。
最近のコミマでは常に玉が寄り添ってくれていた。
かなり心細さは感じるのだが、みんながギリギリのところで戦っている。ここでわがままを言うわけにはいかない。
「じゃああの、後はよろしくお願いします」
『うむ』
「ああ」
やり取りを見守っていた田尾手も笑顔で答えた。
「よろしくね、玉」
『……』
相変わらず田尾手にはそっけない対応だが、必要な時は協力してくれるだろう。
多分。
少々後ろ髪を引かれるような気がしたが、さとりは自分のやるべきことをしないといけない。
最後に会釈をして去ろうとすると、玉の声が聞こえた。
『サト』
立ち止まって振り返る。
両足で立つ美しい狐が、さとりのことをじっと見ていた。
『案じずとも、サトの声は届いておる』
玉を通さなくても、ということを暗に伝えてくれているのだろうか。
幾度か心当たりはあったが、改めて言葉にされるとちゃんと自信が持てる。
玉のお墨付き。
異形たちへの対応で、これほど心強いことも無い。
「はい!」
いつもより元気に返事をして、身を翻す。
背筋を伸ばして、少し歩幅を取って。
巫女装束のスタッフは、使命を胸にアトリウムを後にした。
開放されている多賀谷シャッター。
おかげで西1と西2の行き来はフリーなのだが、行き交う人々よりも列が目に付いた。
厳密に言えばホールではなく通路なのだが、やむを得ないとしてグレーな運用をしているのだろう。
どうやら西1からの列ではなく西2の混雑しているサークルの列らしい。
そして、そこを管理しているのは数少ない知り合いのスタッフだった。
「おっ、深川さん」
「蔵前さん。お疲れ様です」
元西1『やゆよ』副ブロック長、蔵前。今回はこの西2で『つてとな』のブロック長をやっているようだ。
西2の責任者が多く抜けてしまったとばっちりなのだろう。
「深川さん、色々聞いてるけど、大変みたいだね」
「いえ、蔵前さんこそ……というより、西2が大変みたいで」
急に知っている人の少ないホールでブロック長をやるなど、さとりには想像もできない。
少なくとも西1の各ブロックはそれぞれ半数が顔見知りのような雰囲気であった。
そのホールで長くやっている人が責任者をやるのが通常のようであり、蔵前のような経歴はあまりいない。とはいえ、この緊急事態に際し、西1からブロック長と副ブロック長がひとりずつ引き抜かれているそうだが。
「うーん、いや。どっちかっていうととばっちりを受けた西1の方が大変じゃない?」
蔵前はそのことを言っているのだろう。
「いえ、でも西2で色々わかってる人がいなくなって大変だって……」
だが、本部系のスタッフも何割か入れ替わっている西2の苦労は計り知れない。
そこまで言い合ったところで、蔵前が噴き出した。
「はは、キリがないね」
「ふふっ、そうですね」
ひとしきり笑って、ふうっと息を整える。
「ああ、ところで秋に青砥でまた演奏会やるから手伝ってほしいなって思ってるんだけど、予定はどうかな?」
「えっと、ミーシャさんにも誘われたんですけど、一応受験なので」
「あっ! そうか!」
思い出したように驚く蔵前。
「ごめんごめん。そうだよね。大事な時期だ。今日はなんだか大人っぽく見えたから、すっかり頭から抜け落ちてた」
そういうものだろうか。
九条の化粧で確かに大人っぽくはあると思うが。
「うーん、そうかあ。受験かあ」
「あの、でも一日ぐらいなら大丈夫だと思うんです。青砥ならそんなに遠くないですし」
ミーシャにも言ったことを蔵前にも伝える。
行ったことはないが、それほど遠くはないはずだ。
「無理しなくていいからね。いや、女子連中が深川さんのこと気に入っちゃって、この間はあまり話もできなかったからって」
「え、そうなんですか?」
楽屋で一緒だった女性たちを思い出す。
確かにあまり話はできなかったが、気に入られたというのがよくわからない。巫女装束のことだろうか。
「そうだよ。深川さん、打ち上げにもいなかったでしょ。最後の神楽鈴、すごい良かったってみんな言っててさ、直接感想を伝えたかったって。なんでか俺が責められてさあ」
「そ、そうなんですか。すみません……」
「あ、いやいや。深川さんが悪いんじゃないよ」
なぜ蔵前が責められるのかはわからなかったが、何となく楽団ではそういうキャラなのかもしれない。
副団長だったと思うが、そういう愛され方なのだろう。
「まあ、都合付けばでいいから……すみません、そこ座り込まないでくださーい!」
「蔵前さーん、次お願いしまーす!」
「あいよー!」
あまり暇ではなさそうだ。
業務の邪魔をしてしまうのも悪いと思い、さとりはもう巡回に戻ることを伝える。
蔵前は「またね」と余裕の笑顔を見せる。
「あ、演奏会は余裕あればでいいから!」
背中に聞こえた言葉に、振り返って会釈をする。
なんだか不思議な感じだ。
コミマに来るまで……スタッフをするまで、こんなに期待されたことはなかったかもしれない。
自分のことを必要だと言ってもらったことが、なかったかもしれない。
嬉しさと恥ずかしさのような、言い表せない感情がお腹のあたりをぐるぐるしている。
「よしっ」
小さく気合を入れるさとり。
どこかうずうずする体が、いつもより大きな歩幅を刻んだ。




