第100話 C100夏 2日目 閉会
『これにて、コミックマート100夏、2日目を終了いたします。お疲れ様でした!』
商談室の壁にもたれかかったまま、その時を迎えてしまった。
「終わっちゃった……」
任されていた巡回が、できなかった。
怠けてしまったような気がして、罪悪感がある。でも、泣いたことで少しすっきりした気もする。
「玉さん、あれから大丈夫だったんでしょうか」
『問題ない』
どういう方法かはわからないが、ともかく玉は他の異形と意思の疎通が取れている。
何かあったら知らせてくれるだろう。エレンやふぶきの時のように。
『それに、鬼門に強力な祓いが来た』
「祓い……あっ」
例大祭の、神輿巡行。
確かゆりかもめの近くあたりまで来ていたはずだ。
「そっ、か……」
泣いて気持ちが落ち着いたためか、思考が巡り始める。
巨牛の言う通りにしたこともあって、平穏が保たれたらしい。
しかし、閉会を迎えてもスタッフは終わりではない。ここでずっと休んでいるわけにもいかないと立ち上がるが、体が重く感じる。
『行くのか』
「えっ、はい……」
玉から話すのは珍しいなと思いながら、弁当ごみを片付ける。
別の容器にあった杏はすっかりなくなっており、無事に玉が堪能できたようだ。
『あの若い男が来る』
「えっ」
控えめなノックの音がしてから、そっと商談室のドアが開いた。
「サト?」
「コタくん」
玉の方を見る。相変わらず寡黙だが、小太郎のことを教えてくれたのだろう。
「大丈夫か……いや、休めたか」
「えっと、うん……」
少し腫れた目を見て、言い直す。
泣いていたことがバレてしまったと思うが、小太郎は何も言わないでくれた。
「姉ちゃんが、今日はもう帰っていいってさ」
「えっ、でも」
「明日が一番大変なんだぞ」
「そう、だけど」
「今日は本当に大変だっただろう」
黙ってうなずいた。
閉会後作業もスタッフの大事な業務。
特に今日は、最終日を迎えるための前日の準備になる。
「ああ、閉会後作業なら気にしなくていいってさ。やっぱ夏コミだからか疲れて早く帰る人も多いみたいだぞ」
さとりの考えはお見通しだったのか、小太郎が付け加えた。
役に立てないのは心苦しいが、帰ってもいいだろうか。
なおも迷うさとりに、意外な声がかかる。
『夜は我らが守ろう』
「えっ……」
『杏には報いようぞ』
いつもの玉が、佇んでいた。そこから伝わってくる迫力と、目に宿る使命感。
彼女がそこまで言ってくれるのであれば、帰ってしまっても良いだろう。
「サト?」
「ううん、何でもない。大丈夫そうなら、早く帰らせてもらおうかな……あっ、でもその前に九条さんにお化粧落としてもらわないと」
ちょうどその時、商談室のドアが開く。
「お疲れさんどす」
「えっ、九条さん?」
タイミングが良すぎると思ったが、九条もどこか戸惑っているように見える。
そして、その足元で顔を出す異形。九条は半歩避けると、困惑したようにさとりに尋ねる。
「様子のおかしい『或れ』についてきてみたら……使役しとるんか?」
「いえ、協力してくれているだけ……だと思います」
ちらりと玉を見ると、小さくうなずいて返された。
九条は小さく息をつくと、さとりの方へと歩み寄る。
「ほなら化粧落としますえ」
そして小太郎を見ると、大きめのため息をついた。
「女子の支度は見るもんやおまへんよ」
「あっ、すみません!」
慌てて出ていく小太郎を見送りながら、道具の用意をする九条の手を見やる。
「あの、すみません。お手数おかけして」
「いや、わてがやらせてもろうたことやし」
その声はどこか優しい。
九条なら泣いた跡にも気付いているだろう。だが何も言わないでいてくれる。
目元に何かを染み込ませた布を当てられ、視界がなくなる。ひんやりとした感触が気持ち良い。
「今日はお疲れさんでしたな。暑ぅおましたし、余計に」
「そうですね。少し疲れました」
どれだけ歩き回ったのか、あまり覚えていない。そして、後半はほとんどこの商談室で休憩してしまったにも関わらず、かなり疲れが残っている。
「ああ、あのジジイのこと、堪忍しとくれやす」
「ジジイ……?」
「深川はんのことは詮索すな言うたのに」
「いえ……」
やはり止めてくれていたようだ。九条と彼らの力関係はわからないが、少なくともかなり年上の相手であろうに。
「罰として明日は一日西1番ゲートに貼り付かせるつもりどす」
「えっ、死んでしまいますよ!」
「殺しても死なへんわ」
「ダメですよ!」
巨牛ですらやられる暑さだ。御老体が耐えられるとはとても思えない。
補給が充実しているスタッフでさえ、まめに交代が出るのに。
「な、何かあったらスタッフが手を取られます」
「……それもそうや」
どこまで本気だったのかはわからないが、ともかく一日中の張り付きは回避されそうだ。
「あの、九条さん」
頬をむにむにと布で拭かれながら、九条に尋ねる。
「黄色い煙、見たことありますか」
「何ですのんそれ。『或れ』らの話です?」
「いえ、その……」
心当たりはないようだ。
どう説明すれば良いだろう。
「濁った黄色い煙を纏った人がいる、というか……その、いえ、やっぱりいいです」
九条は手を止めて考えていたが、やはり思い当たることはないようだ。
もしかしたら九条やその関係者であれば、正体がわかったり対処する方法を知っていたりするのではないかと思ったが。
化粧をすると、いつもよりよく見えた。
「あの、九条さん。明日も、お化粧していただけますか」
「もちろんや」
明日も、九条の助けが必要だと思う。
バス乗り場は帰宅する人たちでごった返していたが、目当てのバスの行列だけはそれほどでもない。
ほとんどの人が東京駅を目指すようだ。
「門仲行きは座れないってことはないから良いよな」
「そうだね」
ほどなく到着したバスに順に乗り込んでゆく。終点まで乗るので一番後ろを選ぶことが多いが、このバスでも運良く座る事ができた。
柔らかいバスのシートで、ようやく人心地つけた。
「疲れたな」
「うん」
席が埋まるか埋まらないかあたりで発車時刻を迎え、優しい加減速がゆりかごのように体を揺らす。
「……」
さとりは目を開けていられず、ただバスの振動と隣の小太郎の気配だけを感じていた。
「寝ちゃったか」
返事をしようとしたが、上手く口が動かなかった。
もしかしたら体は寝てしまっているのかもしれない。
耳は聞こえているし、頭でものを考えられてもいるのだが。
(やっぱり疲れてたんだ)
どこか他人事のように感じながら、ふわふわとした寝入り前のような感覚を味わっている。
バスはいくつかのバス停に止まっては発進し、何度か交差点を曲がるような慣性も感じていたが、次がどこの停留所なのかはよくわからなくなってきた。
どうせ終着まで乗るのだから気にしなくても大丈夫。
さとりがかすかに掴んでいた意識を手放そうとしたとき、
「悪いことしたな。スタッフに誘ったばっかりに」
そんな声が聞こえた。
真横からの声に反応したのか、ふわふわしていた全身の感覚があっという間に戻ってきた。
「こんなに辛そうなのに、俺は何もしてやれない」
自分を責めるような小太郎の声を聞いて、さとりはゆっくりと目を開けた。
「……そんなことないよ」
自然と口から出た言葉。
「起こしたか」
少し驚いた小太郎が控えめな声で問うたが、さとりは小さく首を振った。
「コタくんたちは、何もしていなくなんかない。私が頑張れるのは、ブロックやホールにたくさん仲間がいるから」
「サト……」
誰もがさとりを尊重し、気遣い、そして力になってくれる。ただの女子高生である自分に、社会に出ている立派な人たちが対等に接してくれる。
「私、本当に何もできなくて、ずっとダメだなって思ってて……でも、ここに来て、コミマでスタッフやってみて、私にもできることがあるんだってわかって、嬉しかった」
失敗は、叱られる。
でも、それ以上に次に繋がる期待をかけられて、上手くいけば褒められた。
シンプルにとても嬉しかった。
「見つけてくれたコタくんと、誘ってくれたユウさんのお陰」
小太郎の気遣いがなければ、スタッフに興味を持たなかった。
由布子が道を示してくれなければ、スタッフの登録をしなかった。
異形たちが楽しそうにしている様子を知らなかっただろうし、彼らと向き合うこともなかったかもしれない。
さとりにとってのコミマは、ただの催事以上の場所になっていた。
「私、コミマが好き。色んなことに気づかせてくれた場所だから。だから、守りたいなって、思う」
色んな人がいる。色んな異形もいる。
だが、それはこの場所以外でも同じことだ。むしろ、良い人や良い異形の比率は、会場の中の方が高いと思う。
それはきっと、連綿と続いてきたオタク文化、そしてこの国の善性の結果なのだと思う。
さとりは、そんな人たちのためなら力を尽くしたいと思った。
「きっと明日も、乗り越えられるから。一緒に頑張りたい」
力強く前向きな言葉。
小太郎は内心驚いていたが、はっきりと自分の意思を言葉にするさとりを、改めて尊敬の目で見る。
「ああ、そうだな。俺も頑張る」
夏のまだ明るい街を、バスが走り抜ける。
リアルC108設営日、参加された方はお疲れ様でした!




