第96話 C100夏 2日目 協力依頼
ふぶきと別れてから、ぱったりと怪しそうな人の気配がなくなった。
「いないですね……」
「作戦変更したかもしれないね」
「作戦変更、ですか」
ここからの入場を諦めた、ということなのだろうか。
サークル入口を通り抜ける人の姿も次第に減っていき、受付も順次数が絞られてゆく。
ただ時間だけが過ぎる。
不審者が現れないのは良いことなのだが、同時に焦りを感じる。
不安を抱えたまま、やがてサークル入場の締め切り時間となった。
一般入場を迎えるために、サークル入口となっていた机があっという間に撤収され、代わりにいくつかコーンとコーンバーが置かれる。
一般入場まで、少しの間がある。
田尾手は一度地区に戻り、さとりは商談室への階段から誰もいないアトリウムを眺めていた。
「玉さん」
『……』
ずっと側に控えていた玉は、久しぶりに名を呼ばれ、耳をぴくりと動かした。
さとりは小さく深呼吸をして、心を決める。
「皆さんに、集まっていただきたいんです」
『ふむ。承知した』
それだけで察してくれる玉のことは、本当にありがたい。
『集え!』
至極単純な合図。
だが同時に玉の気配が強くなり、アトリウム内外の誰もがその声に耳を向ける。
『集え!』
聞き惚れてしまいそうな、艶のある凛とした声。
隣に立つ狐の姿は、どこか厳かに見えた。
『……』
ほどなくして集まった大小異形の姿を見て、玉は一歩後ろに下がった。
玉に目で促され、代わりにさとりが前に出る。
(たくさん……)
アトリウムの一角に集まったその数は、今まで見たことがないほど。
壁面の投影に集まっていた数よりふた回りは多い。
「あの、おはようございます」
人が誰もいないアトリウムに、さとりの声だけが響く。
「今日は、皆さんにお願いがあります」
異形たちは微動だにしない。
ちらりと玉を見ると、小さくうなずくのが見えた。大丈夫と思ってよさそうだ。
「えっと、これから、コミマが始まります。入ってくる中に……その、皆さんとは違った悪いものがいると思うのですが、えっと、わかったら教えてもらいたいんです」
反応はない。
座り込みの注意で無視されたことを思い出し、胸が苦しくなる。
「牛さんから、皆さんと協力するよう言われました」
反応はない。
だが、集めてくれた玉のためにも、伝えるべきことはここで伝えなくてはならない。
「あの、皆さんもこの場所が嫌いではないと思うので、だから、えっと継続するために、協力してもらいたくて、あの……」
つい、言葉が尻すぼみになる。
恐らく異形たちはこちらを見てはいるのだが、あまりにも動きがない。
視線にだけさらされて、自分のしていることに自信が持てない。
『……そう恐れずとも通じておる』
玉が半歩さとりに寄った。
『礼もあるのじゃろう?』
そうだった。
苦労して持って来た一升瓶は、このためだ。
この間の冬コミで振る舞った異形もいるはずだ。であれば、きっと喜んでもらえる。
「あの、上手くいったときに振る舞うお酒も持ってきました。無事に今日を終えられたら、ぜひ飲んでください」
さざ波のように、わずかな動きが広がった。
初めて言葉に反応があり、ようやくほっと胸をなでおろす。
玉が再び前に出た。ちらりとさとりを見やり、後は任せろと示す。
『ここにおらぬ者にもまた、巫女の言葉を伝えよ』
高らかな玉の声。
威厳を込め、異形たちを見渡すと、また気配が強くなった。
ここまでしてくれる玉に、しっかりと杏で報いなければと思う。
『巫女を守る者は残り、悪しきものを探す者は行くがよい。巫女に何か伝えるのであれば我を通せ』
その声に、アトリウムにいたほとんどの異形が散っていった。そして、数体の異形が残り、さとりの足元へと集う。
『サトよ、これで良いか』
「ありがとうございます」
彼らがどんな成果を上げてくれるかはわからない。もしかしたら全く成果がないかもしれない。
(ありがとうございます)
だが、協力してくれているというその事実は、間違いなくさとりの力になる。
メインエントランスへと繋がるコンコースがにわかにざわめき始めると、いよいよ一般入場の先頭が近づいてきたのだとわかる。
アトリウムに緊張感が漂い始めた頃、聞き慣れた声がした。
「さとりちゃん、お疲れー」
「ユウさん。九条さんも」
西1ホールから由布子と九条が歩いてきた。
九条は眉間にしわを寄せ、さとりの足元を見た。
「ど、どうしたんですか?」
「一般入場の引き入れ担当で来てん」
「あれ『やゆよ』はユウさんでしたっけ……?」
朝礼で言っていたのかもしれないが、あまり覚えていない。
「あー、ちょっと代わってもろてん」
やはり当初は違っていたようだ。借受業務にブロック長は出てこないだろう。
とはいえ、アトリウムで知った顔を見られて少し安心したのは確かだ。
「まあ、せっかくやしさとりちゃんの様子も見よかなて思てな」
「そうだったんですか。九条さんは……」
足元を見ていた九条が顔を上げる。
口を開こうとする前に、由布子が割り込んだ。
「どっちかっちゅうと、九条が希望したんよ」
「えっ」
思わず九条を見る。
眉間に寄っていたしわがますます深くなる。
「いらんこと言わんでよろし」
ぶっきらぼうに言う九条だが、心配してくれていたのだと思うと嬉しい。
感謝の気持ちで視線を送ると、九条は静かに近づき、声をひそめた。
「深川はん、その足元のは」
足元?
言われてみると、半歩分の距離を開けて円陣を組むように異形が取り巻いている。
正直少し歩きにくいのだが、足が当たりそうになると上手く避ける。
「えっと、守ってくれるそうで……」
「はあ……」
呆れたように息をつくが、異形を見るその目に厳しさはない。
「また突飛なことを」
「すみません」
さとりも少し笑って応える。
味方になってくれる異形もいる。
それを九条がすっかり受け入れてくれていることが嬉しかった。
「何かおるん?」
「気にせんでよろし」
「ええー、気になるやん。いけずやなあ」
口をとがらせる由布子だが、その目は笑っている。
しかし、静かに居住まいを正すと、さとりの方を見た。
「まあ、否定せえへんっちゅうことはおるんやろ。どうぞ一日、よろしくお願いします」
異形たちに頭を下げる由布子。そしてその方向は、偶然にも玉が立つ方を向いていた。
これもまた由布子の『勘』なのだろうか。
玉はまるで変わった人間を観察するかのように、目を細めて由布子をじっと見ていた。
「先行入場下ろしまーす!」
「はーい!」
「ういー!」
「おおー!」
開場時間が近づき、ほぼ無人だったアトリウムが一気に活気づく。
呼びかけの声からそう間を置かずして、その集団が見えた。
「おっ、来た来た」
メインエントランス方面から、ゆっくりと流れる黒い川。
「エスカレーター下ろしなんやな」
最初に入場してやろうと意気込む一般参加者は気がはやっている。
そして、先頭集団は文字通り『夜を越えて』ここにいるらしく、お世辞にも清潔とはいいがたい者も多かった。
隣に立つブロック長ふたりも、同じような感想を抱いたらしい。
「見とるだけで臭いそうどすな」
「何ちゅうこと言うねん、九条。そういうことは口に出さんで心にしまっとくんやで」
否定はしない。
そしてどういうわけか、彼らの周りに異形たちの姿もある。
そういえば以前の一般入場でも、先頭の人たちに混じっていくつもの異形の姿があった。
「ずいぶん混じってますよね」
「憑いてるんか思てたけど」
「いえ、あれはあれで楽しんでいるみたいで……」
直接尋ねたわけではないのだが。
彼らはここを楽しんでいる。人と同じように。
「……えらい禍々しい」
「それは見えとる悪いもんの話か?」
由布子が問う。その言葉に茶化す気配はない。
九条はちらりとさとりの足元に目をやると、すぐに一般入場の先頭を見据えた。
「徹夜組に決まってますやろ」
「そら確かに禍々しいわ」
一般入場の先頭は、西1方面と西2方面に分かれる。
ここからホールの担当に引き継ぐようだ。
「ほな、ぼちぼち行きまひょか」
「ああ、せやな」
「おふたりとも、頑張ってください」
「深川はんも」
「西1のことは任しとき」
「はい!」
そのうちの西1方面を受け持つため、ふたりのブロック長はさとりと別れて行ってしまった。
入れ替わるように現れたのは、地区本部の田尾手である。
「深川さとりさん、玉、お疲れ様」
「お疲れ様です」
『……』
相変わらず玉は一瞥するだけである。
田尾手はさして気にした風もなく、アトリウムに詰め込まれた一般入場者を見渡している。
「あの中にはいないようだね」
「そうですね。見える範囲では」
田尾手の言葉にうなずくさとり。
悪い気配のする異形の姿を、不自然なほど見かけない。
「それにしても……」
「ああ、夏コミだね」
軽く言う田尾手だが、さとりはつい苦い顔になる。
とにかく、臭いがすごい。
先ほどの九条の言う『見てるだけで臭いそう』な空気が、ここまで満ちてきたようだ。
「あまり、長くいたくはないですが」
「残念ながら、しばらくここで見ておいてもらわないと」
「そうですよね……」
異形たちは臭いを感じないのだろうか。
それとも、これもまた一興と楽しんでいるのだろうか。
『ただいまより、コミックマート100夏、2日目を開催いたします!』
ともかく、2日目が開場する。
拍手と共に、列の移動が始まった。




