第93話 C100夏 2日目 九条の協力
まだ風は少し残っているが、雨はすっかり上がっている。
見上げた空は少し明るく、早く流れる雲が見えた。
「天神様」
日課となる拝殿前。
手を合わせたさとりが髪を揺らす。
「昨日は、ありがとうございました。お陰様で、何事も起こりませんでした」
あれは天神様のご加護であったことは疑いようもないだろう。あの牛が言ったのだから。
コミマには何も起こらなかったことは確かなので、お礼を伝えるのを忘れてはいけない。
「でもあの、なるべく人の手でやり遂げたいと、あ、でも、本当にどうにもならなかったら、助けていただきたいかもしれないです」
そう言って、自分で笑ってしまう。
ひゅうと風が吹いた。
「ふふ、わがままですね。申し訳ありません」
さとりにとって、神様とは願いを聞き入れてくれる都合の良い存在ではない。
ただ、見守ってもらうだけ。
自分の成し遂げたいことを口に出し、それを為す様を見守っていただく。
そういう存在だ。
「私は……深川さとりは、コミマを守りたいと思っています」
深く礼をして、いつもの言葉を口にした。
「今日もまた、お見守りください」
深川天満宮、例大祭神輿巡行当日。
そしてコミックマート、C100夏の2日目。
ずっしりと重さを感じる背中の荷物を下ろし、バスの座席に座る。
「サト、おはよう」
「コタくん、おはよう」
毎回のコミマで顔を合わせるようになった幼馴染。
自然とその隣の席に座り、発車を待つ。
ふと隣からの視線を感じ、小太郎の方を見る。
きっと昨日のことを気にしてくれているのだろう。
「大丈夫、だよ」
「無理はするなよ」
昨日は会場でのことをなるべく思い出さないようにしながら、早めに床に就いた。
少し長めに睡眠時間が取れたこともあってか、体の調子は良い。
「でも、コミマってみんな無理してない?」
「ま、まあそれはそうかもな」
まだ心配そうな視線を向けている。
少し強がっているのが伝わってしまっているのかもしれない。
「もう、私は大丈夫」
小太郎だけでなく自分にも言い聞かせるつもりで笑ってみせる。
「心配かけて、ごめんね。でも、私、大丈夫。一緒にコミマを守るよ」
バスの扉が閉まる。
小太郎が前を向いて、小さくつぶやいた。
「サトは格好良いな」
何度か言われた実感のない言葉。
「……コタくんも」
小さくつぶやいた言葉だったが、発進し始めるバスのエンジン音に覆い隠された。
お盆の早朝の道で渋滞するようなこともなく、バスは予定時間よりも早くビッグサイトへと到着した。
小太郎と同じホテルリングスに宿泊していたスタッフたちは、それぞれの担当部署へとのんびり向かう。
さとりと小太郎も同じく、夜間通用口からアトリウムに入った。
「着替えには行かないのか」
「九条さんが、用があるって」
「ああ、そうだったな」
控室を経由して西1ホールへと入る。
まだ早い時間帯だったが、ふたりのブロック長は待ってくれていたようだ。
「さとりちゃん」
いつもの明るい笑顔ではなく、真剣な表情でさとりを見る由布子。
九条はいつも通りにも見えるが、それでも視線にどこか落ち着きがないように見えた。
「おはようございます」
「あ、ああ。おはようさん」
「おはよう」
昨日のことを気にしているのだろう。様子をうかがうようなブロック長ふたりに、さとりは頑張って笑顔を見せる。
「今日も、頑張ります」
「さとりちゃん、ほんまに大丈夫なんか」
「はい」
さとりとしてはいつものように笑ってほしいのだが、なかなか由布子の中ではそう割り切ることはできないらしい。
心配してもらうことに感じる、ありがたさと申し訳なさ。それに一緒に業務できない寂しさも混ざる。
「深川はん」
いつもと違う由布子に構うことなく、九条が一歩前に出た。
「九条さん、今日はよろしくお願いします」
「……ほな、言うてた通り時間いただきますえ」
九条が、力になってくれる。
まだ何をするのかわかっていないが、この人のことは信じられる。
「ほな着替え行きまひょか。歌島はん、ちょっと朝礼に遅れるかもしれんけど」
「かまへん」
「おおきに」
アトリウム二階の更衣室に向かうとのこと。さとりは後ろからついて来る九条の気配を感じながら、牛の言葉を思い出していた。
『中日朝こそ悪意のつけ入る時なり、巫女は入口にて人に憑く悪意を見抜くべし』
これはサークル入場と、一般入場のことで間違いないだろう。昨日と同じように、何か悪い気配のある人や異形を排除するのが役目。
そして、
『昼こそ正面より入らざる埃あり。巫女は外を小者らと追うべし』
これは急に範囲が広くなる。外というのがビッグサイトの敷地外ということだろうか。
そして明らかに、小者……異形たちと共に巡回することを示唆している。
更衣室代わりの商談室の扉を開けて衝立の横を抜けると、
「わ」
「おっ……」
そこに美しい狐の姿があった。
誰もいると思っていなかったさとりは思わず声を上げ、九条もまた小さく声が漏れた。
「おはようございます、玉さん」
『……うむ』
短くも返事があったことに内心驚きながら、ここに来た目的を思い出す。
「こちらは、お知り合いはんやねえ」
「はい。玉さんです」
「……」
九条にどう見えているのかが気になったが、今は少し急いだ方が良い。
「ほな、着替え終わったら言うて」
「わかりました」
待たせるのも悪いと思い、手早く巫女装束に袖を通す。玉は見るとも見ないともなく横に立っているが、女の子で良かったと思う。
静かな更衣室には、衣擦れの音だけ。
この二年はコミマでしか着ていないなと思いながら、姿見でおかしなところがないか確認する。
壁際に置かれた机と椅子に、九条が座って待っていた。
「さて。座らはって」
九条の前の机に広げられているのは、
「えっと、はい。あの、お化粧、ですか」
「そうどす」
取っ手のついた木製の化粧箱。
ぱっと見ただけで、年季の入った大事なものだとわかる。
「化粧には、まあ色々と意味はあるんやけど、気負わせるだけやと思うから黙っとく」
特に返事を待つ気はないのか、さとりの前髪を簡単に留めて道具を手に取ると、早速作業に移ってゆく。
「ん……」
あまり化粧の経験のないさとりは、軽く目を閉じて九条の術に身を任せる。
慣れない感覚が顔中に広がっている。しっとりするような、くすぐったいような。
目を閉じている分、敏感になっているのかもしれない。
「深川はん」
「……」
顔に何か感触があって、返事ができない。
「こんな形でしか力にならんで、堪忍な」
昨日と同じようなことを言う。だが昨日と違って、その声には少し力があったように思えた。
目尻、口元に何かが触れた感覚がある。
『ほう』
玉の声だろうか。珍しい。
もし自分の顔を見た声なのだとしたら、どうなっているのだろう。気になって仕方がない。
「……ふう」
かたんと道具を置く音とともに、九条が息をつく。緊張していた空気が弛緩したのがわかった。
「これで、よろしわ」
恐る恐る目を開ける。
当たり前だがそこには九条の姿があった。
「わてができるのは、ここまでや」
丁寧に道具を片付けながら、九条がそう言った。
改めて見るその横顔は、やはり美人だ。しっかりと化粧も施されている。もしかして九条と同じ顔、そうでなくても近いものになっているのかもしれないと期待してしまう。
「あとは、深川はんに託す」
「……はい」
ぱたんと箱を閉じ、九条がさとりを見た。
「ああ、鏡で見てみたらよろしわ」
「はい」
九条が差し出した手鏡を受け取り、少し息を整えてから覗き込む。
「わ……」
思ったよりは自分の顔である。
だが、強調された陰影と色の鮮やかさは、明らかにいつもの自分と違って見えた。
「……」
こちらをじっと見る九条に気づく。何か言ったほうが良いだろうか。
「な、何だか大人ですね」
「何ですのん、それ」
手鏡を受け取りながら、九条が苦笑いを見せる。
「少し、いつもと感覚が変わるかしらへん。やりにくいようやったらすぐ落とすよってまた言うて」
「わかりました」
とは言うものの、あまり良くわかっていない。感覚が変わるとはどういうことだろうか。
「あと、閉会した後はわてが落とさなあきませんなあ」
「あ、そうですね。お願いします」
ふたりがホール本部に戻ってくると、ちょうど全体朝礼が終わったところだった。
九条は自分の『らりる』ブロックへと足早に向かい、さとりも『やゆよ』の場所へと向かう。
いつもの場所に集まる『やゆよ』の面々を見て、どこか安心する。
「おー、さとりちゃん。ちょうど今からブロック別……う!?」
ぱちっと目の合った由布子が、大きく目を見開いた。
そう間を置かず、ブロックの全員の注目が集まった。何人かが「おっ」と声を漏らす。
「あ、お、おはようございます」
さとりが挨拶をすると、由布子ははっと我に返った。
「おっ、おお……おー、良かった。中身はいつものさとりちゃんや」
「ど、どういうことですか?」
由布子が大げさに言っているだけだとは思うのだが、他のブロック員は誰も否定せず、それどころかうなずいて肯定している。
「めちゃくちゃ別嬪さんやがな! 一瞬誰か思うたわ」
「へー、九条さんのメイク? すごいすごい!」
「化けるなあ……あ、いや良い意味で」
「さとりちゃん、もっとよく見せて!」
その勢いに押されて、半歩後ろに下がる。
するとその横に、幼馴染の姿があった。
少し近い距離に、なぜか照れてしまう。
「ど、どうかな、コタくん」
「や、あ……い、いいんじゃないか」
目は泳いでいるが、そう褒めてくれた。
さとりは何となくくすぐったいような、胸が震えるような。そんな不思議な気持ちになった。
「コタァ、女子のおめかしやぞ。もっとちゃんと褒めんかいな! モテへんぞ!」
「う、うるさいな!」
姉の冷やかしに押されるように、さとりの方を向く。
いつの間にかブロック員は静かに見守っていた。
「あ、えっと、綺麗、だと思う」
「うん、ありがとう」
嬉しい。
今日は大変な一日になると思うが、しっかり頑張れるような気がする。
何やら温かい視線を感じながら、さとりはそう思うのだった。




