第92話 C100夏 1日目 静かな控室
「さとりちゃん!」
「深川さん!」
ふたりに支えられるようにして本部に戻ったさとりを見て、由布子をはじめ何人かのスタッフが飛び出してきた。
しかしそのスタッフたちを、柳が手で制した。
ただならぬ様子を感じ取り、スタッフ全員が立ち尽くす。
「すみません、ちょっと落ち着かせたいので、控室に行かせてください」
「あ、ああ……」
何かを抑えるように言う小太郎に押され、道を開ける。
思いつめた表情の柳と小太郎、そして顔色の悪いさとり。
本部にいたスタッフは何があったのかを聞くわけにもいかず、ただ心配そうに見送るのだった。
控室で休んでいたスタッフも、気を利かせて外してくれたらしい。
ホール長に顛末を説明してくるという柳が出て行くと、控室にはさとりと小太郎、そしてどこか厳しい表情の玉だけになった。
「何か飲んだ方が良い。ミルクティーで良いか?」
気遣う小太郎に、さとりは黙ってうなずいた。
回転の速いペットボトル飲料は決してキンキンに冷えているわけではなかったが、今はむしろその方がさとりには良かった。
小太郎はミルクティーのキャップを開き、さとりに手渡してくる。
「……」
ひと口飲むと、優しい甘さが広がった。
閉会後のコミマであるがまだまだ人は多く、ドアひとつ挟んで人々の喧騒が漏れ聞こえてくる。
もうひと口。体にじわりと水分が行きわたる感覚がある。水分が足りていなかったのかもしれない。
「……」
ようやく深く息をつき、何か考えられるようになってきた。
小太郎はただ黙って隣に座ってくれている。
ペットボトルが空になるまで、そう時間はかからなかった。
幾分顔色の戻ったさとりに、小太郎が声をかける。
「少し、落ち着いたか」
どこか恐る恐る聞いてくるその様子がどこかおかしくて、さとりの頬が緩む。
「うん。ありがとう」
正直なところまだ整理はついてはいないのだが、何とか話せる程度には回復してきたと思う。
玉が静かに近づき、そして心配した目でさとりを見上げる。
「さっきのことはもう気にするな。多分、春日さんたちが上手くやってくれていると思う」
「うん……」
小太郎にはそう言われたが、どうしても、自分が受け答えを間違ったのだろうかと考えてしまう。
自分がもっと上手く言えていれば、波風を立たせずに済んだだろうか。
いや、そもそも窓口を案内してそちらに問い合わせてもらうべきだっただろうか。
もし、今日の天気が……自分が天神様に願わなければ、今日もっと人が来たのだろうか。
「痛むところはないか」
「えっ、あ、体は大丈夫だと思う」
「そうか」
本当はまだおしりが痛むが、何となく恥ずかしくて口にはしなかった。
ただお陰で、自分を責める思考を中断することができた。
ドア越しの喧騒も、少し落ち着いたような気がする。
「飲み物、飲むか?」
「あっ、うん……」
空になったペットボトルを見て、小太郎が新しいミルクティーを持ってきてくれた。
また口に含んでいると、控えめなノックがして、静かにドアが開く。
ここはスタッフの控室。本来ならノックなど必要のない部屋なのだが、気を使ってくれているのだろう。
そっと隙間から覗き込んできたのは、柳だった。報告しただけにしては長くかかったように思う。
「さとりちゃんの様子は、どう?」
「柳さん。あの、大丈夫です」
そう答えるさとりを見た柳が、少し安心したようにうなずいた。
そして、外の誰かに声をかける。
「……どうぞ」
そうして控室に入ってきたのは、
「深川はん」
和服姿の美女、九条であった。
九条はしずしずとさとりに歩み寄ると、そっと膝をついてさとりと目線を合わせる。
意志の強い瞳が、いつもと違う色を湛えている。
真っすぐに自分を心配してくれているのが伝わってくる。
「九条さ……んっ!?」
さとりが小さく名を呼ぶと、黙って抱きしめてきた。
思ったより強いその力に、さとりの方が驚いてしまった。
「あ、あの、九条さん?」
「……堪忍。ほんまに堪忍しとくれやす」
ぎゅっと力を込める。
どうして謝られているのかわからないさとりは、戸惑うばかり。
「あの、どうしたんですか、九条さん。私、謝られるようなことは、何も」
「深川はんにばっかり背負わして。わてにもっとええ目があったら……『或れ』がちゃんと見えとったら!」
「そんな」
不甲斐なさに奥歯を噛む九条。
自分の力が及ばず、さとりを傷つけてしまったことを悔いている。決して九条は悪くないのに。
さとりはそっと九条の腕に手を添える。
「九条さんもいるから、私、頑張れるんですよ」
人に言えなかった秘密を共有できた、年上の同性。
いつも凛として強く、美しい先輩スタッフ。
「私、同じものを『みて』くれる、九条さんがいて、心強くて。ありがとう、ございます」
こんな形ではあったが、お礼を伝えることができたのは嬉しい。
上手く伝わったかどうか自信がなかったが、すっと腕を解いて離れた九条の目は、わずかに潤んでいた。
「明日の朝、ちょっと時間もろてええやろか」
そう言うときゅっと口を結び、真剣な表情でさとりを見つめる。
朝。コミマスタッフの言う朝は、どの時間だろう。
でもきっと、大事なことなのだと思う。
「言葉以外でも、手助けさしてもらいたいんや」
そう言うと九条は、静かに玉の方に視線を向ける。
さとりに寄り添う玉にもまた、理解を求めるかのように。
『……』
玉は目を細め、ゆっくりとうなずいたように見えた。
何か関係があるのだろうかと考えたが、どちらにしろ受け入れるつもりだった。
「……わかりました。お願いします」
「おおきに」
さとりから静かに離れ、膝のあたりを払う。
それを見届けたかのように、もうひとり近づいてくる女性。
「……歌島はん」
先ほどから控室の入り口にいたのだが、さとりと向き合っていた九条には見えていなかった。
ブロック長である歌島由布子もまた、悲痛な表情を押し隠し歯を食いしばっていた。
「九条、別にあんたのせいだけやない」
「あんた、聞いとったんか」
目を吊り上げて由布子に突っかかりそうになるが、由布子の表情を見て静かに収めた。
いつものからかうような雰囲気は欠片もなかった。
「今回の件は、巡回が甘かったせいでもある。だから、私も含めてこのホールの全員の責任でもある」
「ユウさん、あの、私そんな」
否定しようとしたさとりを、由布子が目で制した。
見たことのない真剣な目。こんな表情を見せることもあるのかと驚く一方、こんな表情をさせてしまったという申し訳なさも感じる。
ここは、コミマは好きが集まる楽しい場所なのに。
「さとりちゃん」
「……はい」
由布子は、静かに、そして深く頭を下げた。
ショートボブの髪がさらりと揺れ、由布子の表情を隠す。
「ほんまに、ごめん。これは許す許さんやのうて、私らのけじめやと思ってほしい」
「……わかりました。でもあの、本当に誰のせいでもないです」
強いて言うなら、悪いのは……
「わかった。でも、さとりちゃんのせいでもないからな」
至って真剣な口調で、由布子が言った。
またさとりが自身に責任を感じそうになっていたのを、見透かされているような気がした。
無言でうなずくさとりを見て、ようやく由布子は優しい笑みを見せる。
「コタ。今日はもうええから、さとりちゃん送っていけるか」
「わかった」
「頼むわ」
館内担当のスタッフが帰るにはまだ少し早い時間。
門前仲町行きのバスは混雑する路線ではないが、それでも人は多いだろう。
小太郎も付き添ってくれるなら、安心できる。
「さとりちゃん」
いつもより優しく名前を呼ぶと、そっと跪いて耳元に口を寄せる。
「もし、ほんまに明日無理やったら、こっそり知らせてな。残りは私らで何とかするから」
「ユウさん……」
それだけ言うと体を離し、また立ち上がる。
見上げるその顔には、安心させようとする笑顔。
「そらコミマも大事やけど、皆さとりちゃんの方が大事に思うてるから。今日ははよお風呂に入って、ゆっくりして」
閉会後作業に戻った由布子たちを見送ると、また控室には小太郎とふたりだけになった。玉はいつの間にか姿を消しているが、また明日の朝に会えるだろう。
このスタッフ控室には荷物も置かれている。さすがに全く出入りがないのはおかしい。きっとホール全体に気を遣わせてしまっている。
(今日は帰った方が良いよね)
立ち上がろうとするさとりに、そっと手が差し出された。
「サト」
「うん……」
そっと手に取る。
お互い汗ばんだ手が、夏コミであることを思い出させる。
あと二日。
災いを退けるために、ここにいるのだと思い出す。
でも、今は。
「ありがとう」
「ああ……」
少し恥ずかしがっている小太郎の好意に、甘えたいと思うのだった。




