第91話 C100夏 1日目 閉会のトラブル
『これにて、コミックマート100夏、1日目を終了いたします。お疲れ様でした!』
場内の拍手は、いつもの閉会に比べてやはり小さく感じてしまう。
普段ならこの時間まで残っている参加者も、帰りの交通機関が心もとないせいか早めに家路についたようだ。
それでも、無事に一日を終えた達成感と、翌日へと繋がる期待感が会場の中に漂っている。
スタッフ業務としてはまだ巡回が残っていて、気を抜くことはできない。
「椅子、上げないと……」
サークル参加者が帰ってしまった机に、立てかけられた椅子。このままでは倒れてしまう可能性があるため、机に載せなければならない。
「ふう……」
巫女装束はこういった作業にはあまり向かない格好だなと思いながら、ふたつめの椅子を持ち上げる。
「この島は大丈夫そう、かな」
あとはまだ残っているサークル参加者のところだが、そこは周りを見て机の上に載せてくれると信じよう。
ひと息ついてホールを見渡す。
会場を後にする人、明日の搬入に来た人、落とし物を探しに来たであろう人。いつもより少ないとはいえ、いろんな人の姿がある。
人の行き交うホールの中で見回していると、こちらに手を振る参加者が見えた。
「スタッフさーん」
「みまみまさん、お疲れ様でした」
「お疲れ様でしたー」
後ろ手に引くカートのダンボールには、ビニール袋がかぶせられている。雨対策だろう。
ビッグサイトから駅までも屋根はあるが、まだ風が収まっていないのでこういった対策は必須になる。
「今日はどうでしたか」
みまみまは少し困った表情を見せる。やはり今ひとつだったようだ。
「うーん、正直あんまり。この天気だし仕方ないですけどね」
「そうですね」
これは天神様のご加護なのだという。
そうすると、もしかしたら自分のせいかもしれないと責任を感じてしまう。
「そんな顔しないでよ。サークルはサークルで楽しんだから。何より百回目の記念回に参加できたのは嬉しいし」
「そう言ってもらえると」
「それに、スタッフさんにもまた会えたし」
ぱっと明るく笑うみまみま。
心当たりがなく、首をかしげるさとり。
「私、ですか」
「うんうん」
今日も巡回重視で、あまり話すこともできなかったのだが。
「今日も何回か歩いて見て回ってるのを見かけたけど、大変ですよねーって思ってて」
見られていたようだ。声をかけなかったことを申し訳なく思っていると、みまみまがすっと丁寧に頭を下げた。
「いつもありがとうございます」
ひと呼吸置いて顔を上げると、さっきと同じように笑っていた。
「って、感謝を直接伝えられるスタッフさんって中々いないから、代表して感謝を受け取ってくださいな」
「代表……」
参加者の対応をするとき、コミマを代表している。
拡大集会で何度か聞いたが、あまり意識したことはなかった。
だが、目の前でお礼を口にするみまみまを前に、その言葉をじんわりと実感する。
「うんうん。おっと、もう帰らないと。じゃあまた、冬に会えたら」
「はい。あの、お気をつけて」
言葉がまとまらないさとりだったが、何とか見送りの言葉を口にすることができた。
みまみまは軽く手を振ると、カートを引きながらアトリウムへと向かっていった。
その姿を見送っていると、隣に立つ玉が一点を凝視していることに気づいた。
「玉さん?」
その視線の先を追うと、見覚えのある黒い蛇が床を這っているのが見えた。
先ほど玉が蹴り転がした異形だろうか。
あのお爺さんが言っていた、一割の悪いままの異形、ということなのかもしれない。
「あれは、さっきの」
『サトよ、少し離れる』
「はい、あの、気を付けて」
玉は黒い蛇に狙いを定めると、ひたひたと足を進めていった。
玉にとってあの良くない異形はどうでもいい存在であると思うのだが、積極的に排除してくれるようだ。
それは彼女もまたコミマを守ろうとしてくれていることに他ならない。
頼もしく思いながら玉を見守っていると、急に声をかけられた。
「おい、ちょっと」
「はい?」
乱暴な語気の男だ。他に誰かいるのかと思ったが、どうやらさとりに声をかけたので間違いなさそうだ。
明らかに不機嫌な男は、さとりを睨みつけるようにしている。
「今日のこれさ、金返してもらえる?」
「えっと」
急に金の話をされ、ついていけない。
一般参加は基本無料のはずなので、サークル参加者だとは思うのだが。
「何のことですか?」
「今日のコミマ。全然人来なかったじゃん。話が違うだろ」
さとりに言われてもどうしようもないのだが、ともかく男の矛先はさとりに向けられていた。
どうすればいいだろうか。急に逃げるわけにもいかない。
「少なかったですけど、全然ではないですよね?」
「俺の本が売れ残るわけねーんだよ。おかしいだろ。SNSのフォロワーは一万いるんだぞ」
サークルの島の中。
在庫と思われる箱が数箱積まれているのを指さし、男は語気を荒げる。
「そ、そう言われても……」
何もかも理不尽なのだが、男に間近で敵意を向けられているさとりは、上手く考えることができない。
「どうしてくれんだよ。どうやって持って帰ればいいんだよ」
「えっと、あちらに宅配搬出が……」
「じゃああんたが送料払えよ!」
「そ、そんなことできませんよ」
ちらりと黒い影が見えた。
男の背中に、何かがいる。
だが、さとりには祓うこともできない。
いつものようにゆっくりと背中に手をやることなどできないだろう。
誰か。
「スタッフなんだから責任取れよ!」
「ひっ」
急に大きな声を出され、さとりが身をすくめた。
さすがに異常を感じたのか、周囲がざわめき始める。
その反応に焦ったのか、ついに男が実力行使に出た。
「クソが!」
さとりの視界に自分に伸びて来る腕と、遠くから駆け寄ってくる玉が同時に見えた。
助けに来てくれたのだ。
だが同時に、間に合わないことも悟っていた。
目を閉じ体を硬くするが、軽いさとりの体は、いとも簡単にバランスを失う。
「きゃっ!」
気付いた時には尻もちをついていた。
周囲の空気が凍りつく。
『……!』
そんな中、四足で駆け寄ってきた玉が体当たりするようにして男の背の異形を突き飛ばし、飛んでいく黒い異形をさらに追う。
「ちょっと、何やってるんですか!」
男はしまったという顔を見せるが、駆け付けたスタッフに対しまだ威嚇するように睨みつけている。
そのスタッフは男とさとりの間に割り込むと、伸びた男の腕をがっしりと掴んだ。
「暴力行為ですね。警察呼びますので」
その声に、はっとした。
怒りを抑えながら、努めて冷静に話すその声。
歌島小太郎。
「な、何でだよ。そっちが悪いんだろうが!」
男が腕を振り払おうとするが、小太郎は体全体を使って離さない。
「お話はゆっくり聞きますよ。結果的に突き飛ばしたことには変わらないですけど」
「何だと!? どけ!」
「どきません」
振り回されながらも、毅然と言い放つ。
「何だよ! 離せよ! おいっ……」
声を上げる男だったが、次第にその勢いが削がれていった。
いつの間にか自分が取り囲まれていることに気づいたらしい。
「お話は我々がお伺いしますよ」
一歩前に出てきたのは『やゆよ』副ブロック長の春日。後ろに備えるように大門が控えているが『むめも』ブロックから駆け付けてくれたのだろうか。
反対側には『らりる』の田橋も男を睨みつけ、三人の男性スタッフに囲まれた男はついに観念したようだ。
そっと肩に置かれた手に振り返ると、心配そうな表情の柳がいた。
近くには牛込と九条の姿もある。
「さとりちゃん、大丈夫? いったん離れましょう」
柳の手を借りて立ち上がろうとするが、上手く立てない。
「サト」
そっと手を貸してくれたのは、男から離れた小太郎だった。
「ゆっくりでいい」
「……うん」
ふたりに支えられながら、何とか立ち上がる。
後ろで男がわめいているが、怖くてそちらを見ることができない。
「……あの人は春日さんたちに任せて、本部に行きましょう」
「はい」
柳の言葉に小太郎がうなずく。
さとりに合わせてゆっくりと足を踏み出す。
『……すまぬ、サトよ』
玉の声が聞こえたが、さとりは何も返すことができなかった。
まだ何か言う男の声から逃げるようにして、さとりはその場を後にした。




