第98話 交わる軍旗、新たなる部隊の胎動
第98話 交わる軍旗、新たなる部隊の胎動
帝政歴347年11月1日、午前7時42分。
連邦共和国西部、帝国・共和国国境連絡駅。
秋の冷たい風が、駅舎の屋根を抜けてホームへ吹き込んでいた。共和国方面へ向かう国際連絡列車の前では、帰国する旅行者や復員兵たちが荷物を抱え、乗車の順番を待っている。かつて両国の軍用列車が互いの前線へ兵員と弾薬を送り続けていた鉄路は、今では少しずつ平時の役割を取り戻そうとしていた。
エリシア・L・ヴォルハラム少尉は、窓際の座席に腰を下ろし、膝の上に置いた旅行鞄へ視線を落としていた。
つい昨日まで、彼女はクロウ家の屋敷で過ごしていた。
セレナが用意してくれた朝食も、ルナの賑やかな声も、ファニータが丁寧に淹れてくれた紅茶の香りも、まだ鮮明に思い出せる。
そして何より、レイブンの顔が頭から離れなかった。
エリシアは、そっと胸元へ手を伸ばした。
外出着の襟の内側には、二枚の認識票が下がっている。
一枚は共和国軍から支給された正規の軍用認識票。氏名、軍籍番号、必要な識別情報が刻まれた、軍人としての身元を証明するものだった。
もう一枚は、昨日レイブンから贈られた銀色の認識票だった。
彼女は後者を指先で取り出し、掌に載せた。
裏面には二人の名前と、互いの想いを確かめ合った日付が刻まれている。
RAVEN S. CROW
ELYSIA L. VOLHARAM
347.10.01
軍用の認識票と、婚約の証。
その二つを並べて眺めていると、エリシアは自然に微笑んでしまった。
「……本当に、もう」
昨夜、レイブンは何度も照れくさそうにしていた。
婚約の証として認識票を渡したことを家族に知られ、父親から肩を叩かれ、妹には結婚式の予定まで質問されていた。
それでも、夜に別れの挨拶をした時、彼はエリシアの手を握って言った。
『今度会う時まで、ちゃんと大切にするから』
エリシアは、その言葉を何度も思い返していた。
正式な婚約には、両家への報告や軍務上の確認が必要になる。互いの所属国が異なる以上、簡単に済ませられる話ではない。
だが、それでも彼は、自分との未来を選んでくれた。
エリシアは認識票を胸元へ戻し、窓の外を見つめた。
列車が発車すると、帝国側の駅舎がゆっくりと遠ざかっていった。
「……次は、いつ会えるのかしら」
その問いに答える者はいなかった。
ただ、彼女の胸元では二枚の金属板が小さく触れ合い、かすかな音を立てていた。
帝政歴347年11月2日、午前8時16分。
連邦共和国西部方面軍、第十九独立歩兵大隊駐屯基地。
帰還したエリシアを迎えたのは、見慣れた兵舎と、休暇明けの膨大な事務作業だった。
第一次世界大戦の終結に伴い、共和国軍では各部隊の再編成が進められていた。戦死者と行方不明者の最終確認、装備の返納、負傷兵の後送、軍需物資の棚卸し、そして共同戦線協定に基づく帝国軍との連絡手順の整備。
前線での戦闘が終わったからといって、軍人たちが暇になったわけではなかった。
むしろ、長い戦争によって積み重なった仕事を処理するため、司令部の廊下には朝から書類を抱えた兵士が行き交っていた。
エリシアも自分の執務机へ戻り、部隊の人員報告書に目を通していた。
だが、なかなか仕事が進まない。
報告書の一行を読んだところで、胸元の認識票が気になってしまう。
少し触れると、昨日の庭園が思い浮かぶ。
レイブンの照れた顔。
銀色の認識票を手渡された時の驚き。
彼の手の温かさ。
そして、正式な指輪を待ってほしいという言葉。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。
「少尉」
「……はい?」
顔を上げると、セルゲイ・オルロフ軍曹が書類を抱えて立っていた。
「こちら、昨日付の補充人員報告書です。確認をお願いします」
「ええ、ありがとう」
エリシアは書類を受け取った。
オルロフは一度敬礼し、立ち去ろうとしたが、ふと足を止めた。
「少尉」
「何かしら?」
「……何か、いいことでもありましたか?」
エリシアの指が止まった。
「……どうして?」
「いえ。休暇から戻られて以来、随分と機嫌がよろしいようなので」
「そ、そう?」
「はい。昨日も今朝も、書類をご覧になりながら笑っておられました」
エリシアは、慌てて表情を引き締めた。
「……仕事に集中するわ」
「それがよろしいかと」
オルロフは真面目な顔で答えたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
エリシアは、彼が部屋を出ていくのを見届けてから、小さく息を吐いた。
「……そんなに顔に出ているのかしら」
彼女は胸元の認識票を指先で押さえた。
恋をしている自覚はあった。
だが、ここまで自分の感情が仕事に影響するとは思っていなかった。
軍人として、それは褒められたことではない。
エリシアは背筋を伸ばし、改めて報告書を読み始めた。
しかし、しばらくすると、またレイブンの顔が浮かんでくるのだった。
帝政歴347年11月4日、午後2時38分。
連邦共和国西部方面軍、第十九独立歩兵大隊駐屯基地。
エリシアは訓練場で、部下たちの射撃姿勢を確認していた。
終戦後も、軍の基礎訓練がなくなるわけではない。兵士たちは定められた射撃課程と装備点検を続け、部隊としての練度を維持する必要があった。
エリシアは訓練記録を確認しながら、射手たちの動きを見ていた。
「次の組、準備」
号令に従い、兵士たちが射撃位置へ進む。
その時、遠くの訓練区画から散弾銃の発射音が聞こえた。
エリシアは、思わずそちらへ顔を向けた。
レイブンが愛用していたSG-44。
独特の発射音。
戦場で何度も聞いた、あの音。
彼が隣にいるような気がして、エリシアは一瞬だけ動きを止めた。
「……少尉?」
オルロフが声を掛けた。
エリシアは我に返った。
「……ごめんなさい。続けて」
オルロフは、少しだけ眉を上げた。
「……帝国軍のクロウさんですか?」
「……え?」
「いえ。何となく」
エリシアは、しばらく軍曹を見つめていた。
そして、観念したように小さく笑った。
「……そんなに分かりやすい?」
「少なくとも、私には」
オルロフは穏やかに答えた。
エリシアは、少しだけ頬を赤くした。
「……困ったわね」
「恋人ができたことは、別に悪いことではありません」
「……ええ」
「ですが、訓練中は訓練に集中していただけると助かります」
その言葉に、エリシアは思わず笑った。
「……その通りね」
彼女は訓練記録を持ち直した。
「ありがとう、軍曹」
「いえ」
オルロフは敬礼し、射撃位置へ戻っていった。
エリシアは深く息を吸った。
今は共和国軍の少尉として、目の前の仕事を果たさなければならない。
それが、レイブンと同じ軍人である自分の責任でもあった。
しかし、そう決意した直後だった。
基地の伝令兵が訓練場へ駆け込んできた。
「ヴォルハラム少尉!」
「何かしら?」
「基地司令より、至急出頭せよとの命令です」
エリシアは眉を寄せた。
「……基地司令から?」
「はい。司令官執務室へ、直ちにとのことです」
オルロフが近づいてきた。
「少尉、訓練はこちらで引き継ぎます」
「お願い」
エリシアは記録簿を渡し、伝令兵とともに司令部へ向かった。
基地司令から直接呼び出されることは、決して多くない。
何か重大な人事異動でもあったのだろうか。
それとも、休暇中の帝国訪問について確認が入ったのだろうか。
胸元の認識票が、歩くたびに小さく触れ合っていた。
午後2時51分。
共和国軍基地司令部、司令官執務室。
エリシアは扉を叩き、入室の許可を得た。
「ヴォルハラム少尉、入ります」
室内には基地司令のほか、二名の参謀将校がいた。
机の上には、共和国軍の公印が押された命令書と、帝国軍の紋章が入った別の文書が並べられている。
エリシアは、その光景を見て少しだけ表情を引き締めた。
「ヴォルハラム少尉」
「はい」
「君に、新たな任務を命じる」
基地司令は書類を手に取った。
「共和国軍中央司令部より、帝国軍との共同軍事交流に関する特別命令が発令された」
エリシアは、静かに聞いていた。
「共同軍事交流……ですか?」
「ああ。第一次世界大戦の終結と、異界軍に対する共同戦線の実績を踏まえ、両国の軍事的信頼関係を構築するための試験的な部隊が設置されることになった」
司令官は、書類を机へ置いた。
「君には、その部隊へ共和国軍代表要員として参加してもらう」
エリシアは、少しだけ目を丸くした。
「……私が、ですか?」
「そうだ」
司令官は続けた。
「君はシュタイン湾で帝国軍との共同戦闘を経験している。実戦における連携能力も確認されている」
「……はい」
「それに、帝国軍側からも、共同戦線で行動した共和国軍将校の派遣を希望する意見が出ている」
エリシアは、胸の奥が少しだけ高鳴るのを感じた。
まさか。
そんな考えが浮かんだ。
しかし、すぐに自分を落ち着かせた。
帝国軍には多くの基地がある。
派遣先がレイブンの所属する部隊とは限らない。
司令官は、彼女へ命令書を差し出した。
「至急、帝国軍の指定基地へ出頭せよ。移動手続きは司令部が行う」
エリシアは書類を受け取った。
「……帝国軍基地へ、ですか?」
「ああ」
彼女は命令書へ目を落とした。
そこには、派遣先として帝国軍中央部の特別編成基地が記されていた。
そして、共同部隊の設立準備という文字があった。
「……部隊の指揮官は?」
エリシアが尋ねると、司令官は少しだけ考えた。
「帝国軍側で選任される予定だ。現時点では、正式な人員一覧はまだこちらへ届いていない」
「……承知しました」
エリシアは敬礼した。
「命令を受領いたします」
司令官は頷いた。
「準備が整い次第、出発せよ。共和国軍の代表として、節度ある行動を期待する」
「了解しました」
執務室を出たエリシアは、廊下で足を止めた。
手元の命令書を、もう一度確認する。
帝国軍基地。
共同部隊。
共和国軍代表。
彼女は、そっと胸元の認識票へ触れた。
「……まさか、ね」
そう呟いたものの、期待を抑えることは難しかった。
もし、レイブンと同じ基地だったら。
もし、また彼と一緒に任務へ就くことができたら。
その可能性を考えるだけで、胸が温かくなる。
しかし、彼女はまだ知らなかった。
同じ頃、帝国側でも、ある若い兵士の運命を大きく変える命令が下されようとしていた。
帝政歴347年11月4日、午後2時51分。
帝国中央部、帝国軍特別編成基地、第二兵舎。
レイブン・S・クロウは、机に向かっていた。
目の前には、部隊の装備管理記録と訓練計画書が置かれている。
休暇を終えて軍務へ復帰してから、まだ数日しか経っていなかった。
だが、彼の仕事は驚くほど進んでいなかった。
書類の内容を確認しようとすると、ふとエリシアの顔が浮かんでくる。
クロウ家の庭園。
銀色のドッグタグ。
彼女の赤くなった頬。
そして、婚約の約束。
レイブンは、思わず小さく笑った。
「……元気にしてるかな」
そう呟いた直後、背後から声が響いた。
「おーい、レイブン!」
ガイル・ベッカーだった。
レイブンは振り返った。
「……ガイル?」
ガイルは、部屋の入口で腕を組んでいた。
その後ろには、見慣れない軍人たちが立っている。
帝国軍の制服を着た男女が数名。
その中には、陸軍の歩兵科章をつけた者もいれば、通信科や工兵科の識別章をつけた者もいた。
レイブンは、少しだけ首を傾げた。
「……どうしたの?」
ガイルは、にやりと笑った。
「お前、随分と幸せそうな顔してるな」
「……え?」
「いや、休暇明けからずっとだろ。書類見ながら笑ってるし」
レイブンは、慌てて表情を引き締めた。
「……そんなことないよ」
「嘘つけ」
ガイルは笑った。
「エリシア少尉のこと考えてたんだろ?」
レイブンは、思わず顔を赤くした。
「……ガイル!」
ガイルは大きく笑った。
「はははっ! 図星か!」
その様子を見ていた見知らぬ軍人たちは、少しだけ困惑していた。
やがて、その中の一人が前へ出た。
短く整えた茶髪を持つ、帝国陸軍の中尉だった。
「……失礼。クロウ軍曹で間違いないか?」
レイブンは、すぐに姿勢を正した。
「はい。レイブン・S・クロウ軍曹です」
中尉は敬礼した。
「私は帝国陸軍、アルノルト・ヴァイス中尉。基地司令部より、貴官への命令を伝達するために来た」
レイブンも敬礼を返した。
「……命令、ですか?」
「ああ」
ヴァイスは、封筒を差し出した。
帝国軍司令部の紋章が押された正式な命令書だった。
「基地司令より、貴官を新設部隊の指揮官に任命するとの命令が出ている」
レイブンは、思わず目を丸くした。
「……俺が?」
ガイルは、楽しそうに笑っていた。
「驚いたか?」
「……いや、驚くに決まってるだろ」
レイブンは封筒を受け取り、命令書を開いた。
そこには、帝国軍中央司令部の承認印とともに、新たな部隊編成に関する指示が記されていた。
ヴァイスは、落ち着いた声で説明を始めた。
「第一次世界大戦の終結を受け、帝国軍と連邦共和国軍は、平和的友好関係を構築するための共同軍事部隊を設立することになった」
レイブンは、静かに聞いていた。
「目的は、異界軍への対処能力を維持しながら、両国の軍事的信頼関係を実務面から確立することだ」
ヴァイスは続けた。
「その第一段階として、少数精鋭の試験部隊を編成する」
レイブンは命令書へ目を落とした。
部隊の正式名称は、まだ決定していなかった。
しかし、編成方針は明確だった。
帝国軍と共和国軍から、実戦経験を持つ優秀な兵士を選抜する。
歩兵、偵察、通信、工兵、衛生、情報など、異なる専門能力を持つ人員を組み合わせる。
通常の歩兵分隊よりも柔軟な任務遂行能力を持たせ、将来的な共同特殊任務部隊の基礎とする。
そして、指揮官として指定されている名前は。
レイブン・S・クロウ。
レイブンは、しばらくその文字を見つめていた。
「……どうして、俺なんですか?」
ヴァイスは、静かに答えた。
「シュタイン湾での共同戦闘記録が評価されたためだ」
レイブンは顔を上げた。
「貴官は、帝国軍と共和国軍の混成部隊による戦闘を経験している。さらに、異界軍に対する偵察、救護支援、沿岸防衛、部隊間連絡において、優れた判断を示したと報告されている」
ヴァイスは、命令書の別紙を示した。
「また、貴官が率いた臨時分隊は、少人数での行動能力と、他部隊との連携能力が高く評価されている」
ガイルは、少しだけ誇らしそうに笑った。
「ほらな。俺たち、ちゃんと見られてたんだよ」
レイブンは、ガイルを見た。
「……ガイルも?」
「ああ」
ガイルは頷いた。
「俺も編成要員に入ってる」
ヴァイスは続けた。
「ただし、今回の部隊は従来のクロウ分隊をそのまま拡大するものではない。各兵科から選抜された人員を組み合わせ、新たな指揮系統を構築する」
レイブンは頷いた。
「……了解しました」
ヴァイスは、後ろに控えていた軍人たちへ視線を向けた。
「紹介しよう。彼らが、帝国軍側の初期編成要員だ」
最初に前へ出たのは、通信科章をつけた青年だった。
「帝国陸軍通信科、ユリウス・ヴェーバー伍長です」
レイブンは、思わず笑った。
「……ユリウス!」
ユリウスも微笑んだ。
「久しぶりだな、レイブン」
ガイルが笑った。
「お前、相変わらず真面目そうな顔してるな」
「ガイル、お前は相変わらずうるさいな」
そのやり取りに、レイブンは思わず笑ってしまった。
続いて前へ出たのは、偵察装備を身につけた青年だった。
「帝国陸軍偵察科、フェリックス・ブラント伍長」
レイブンは頷いた。
「フェリックスも来たんだ」
「ああ。配置転換命令が出た」
フェリックスは落ち着いた口調で答えた。
「また一緒に動くことになりそうだな」
さらに、衛生科の識別章をつけた青年が前へ出た。
「帝国陸軍衛生科、エミール・シュナイダー伍長です」
レイブンは、嬉しそうに笑った。
「エミール!」
「久しぶり、レイブン」
エミールは穏やかに微笑んだ。
「今度は、できれば負傷者の少ない任務がいいね」
ガイルが笑った。
「それ、俺たちに言うか?」
「特に君に言ってるんだよ、ガイル」
部屋に笑い声が広がった。
しかし、ヴァイスはすぐに説明を続けた。
「彼ら以外にも、工兵、情報、後方支援などから選抜された要員が加わる予定だ」
レイブンは、改めて見知らぬ軍人たちを見た。
その中には、工兵科の女性軍曹と、情報科の男性伍長がいた。
彼らは、それぞれ簡潔に自己紹介した。
「帝国陸軍工兵科、ヘルガ・ノイマン軍曹です」
「帝国陸軍情報科、ディートリヒ・ケラー伍長です」
レイブンは、全員へ敬礼した。
「レイブン・S・クロウです。よろしくお願いします」
ヘルガは、落ち着いた表情で頷いた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ディートリヒも敬礼を返した。
「任務内容については、後ほど詳細な説明を受ける予定です」
ヴァイスは、レイブンへ向き直った。
「今回の部隊は、帝国軍側の要員だけで完成するものではない」
レイブンは、少しだけ首を傾げた。
「……というと?」
「数日後、連邦共和国軍から派遣される人員が合流する」
その言葉に、レイブンの表情が変わった。
「……共和国軍から?」
「ああ」
ヴァイスは頷いた。
「彼らも正式な編成要員として受け入れ、共同任務に従事させること」
レイブンは、命令書へ目を落とした。
そこには、追加指示が記されていた。
共和国軍派遣要員の受け入れ。
共同指揮手順の整備。
通信規格の統一。
装備と弾薬の互換性確認。
両国の軍規と交戦規定の調整。
そして、各国の軍籍を維持したまま、共同部隊として行動するための制度設計。
レイブンは、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
ヴァイスは、少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、これは簡単な任務ではない」
「……はい」
「帝国軍と共和国軍は、つい先日まで互いに戦争をしていた。軍人同士の感情的な対立も残っている」
レイブンは、静かに聞いていた。
「装備も、訓練体系も、指揮手順も違う。何より、互いの国家に対する忠誠を維持したまま、一つの部隊として行動しなければならない」
ヴァイスは、レイブンを真っ直ぐに見た。
「それでも、君に任せたいというのが司令部の判断だ」
レイブンは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと命令書を閉じた。
「……了解しました」
彼は姿勢を正した。
「命令を受領します」
ヴァイスは頷いた。
「よろしい」
レイブンは、続けて尋ねた。
「……一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「部隊の正式名称と、俺の指揮権限についてです」
ヴァイスは、少しだけ感心したように頷いた。
「いい質問だ」
彼は別紙を取り出した。
「現時点では、部隊は仮称として《帝国・共和国共同特別任務分遣隊》と呼称される」
レイブンは、静かに聞いていた。
「正式名称は、今後の両国協議によって決定される予定だ」
ヴァイスは続けた。
「君には、現地部隊長としての指揮権限が与えられる。ただし、共和国軍派遣要員の軍籍と人事権は共和国側に残る。重大な規律違反や国家機密に関わる問題については、双方の連絡将校を通じて処理する」
レイブンは頷いた。
「……了解しました」
「また、階級上の問題を避けるため、共同部隊内では任務上の役職を優先する。君が部隊長であることは、両国の司令部が承認している」
レイブンは、少しだけ息を吐いた。
軍曹という階級のまま、複数の兵科と両国の軍人を指揮する。
通常の部隊編成では、考えにくい配置だった。
しかし、今回は試験的な共同部隊である。
従来の制度だけでは対応できない事情があるのだろう。
ヴァイスは、最後に言った。
「なお、今回の任務に伴い、貴官には新たな作戦用識別名が与えられる」
レイブンは、少しだけ目を丸くした。
「……識別名?」
「ああ」
ヴァイスは、書類の一部を指で示した。
そこには、短い文字が記されていた。
NoX
レイブンは、その文字を見つめた。
「……ノックス」
ガイルが、にやりと笑った。
「似合ってるじゃねえか」
レイブンは、少しだけ困ったように笑った。
「……そうかな」
「おう。お前らしい」
ヴァイスは説明した。
「これは個人の作戦用識別名であり、正式な階級や氏名に代わるものではない。通信上の識別や共同任務における指揮官呼称として使用する」
レイブンは、静かに頷いた。
「……了解しました」
ヴァイスは敬礼した。
「それでは、明朝より編成準備を開始する。各員、必要な装備と人員資料を確認しておくように」
「了解!」
軍人たちが一斉に敬礼した。
ヴァイスが退室すると、部屋にはレイブンと新たな仲間たちが残された。
ガイルは、レイブンの肩へ腕を回した。
「いやあ、まさかお前が部隊長になるとはな!」
レイブンは苦笑した。
「……俺も驚いてるよ」
「でも、悪くないだろ?」
「……そうだね」
レイブンは、命令書を見つめた。
帝国軍と共和国軍。
かつて敵同士だった二つの軍隊が、一つの部隊を作ろうとしている。
それは、戦場で何度も助け合った自分たちだからこそ、実現できることなのかもしれなかった。
ユリウスが、静かに口を開いた。
「レイブン」
「何?」
「共和国軍から来る要員の名簿は、まだ届いていないらしい」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「ただ、シュタイン湾で共同戦闘を経験した兵士が優先されるそうだ」
その言葉に、レイブンの胸が少しだけ高鳴った。
ガイルは、すぐに気づいた。
「……お?」
レイブンは、慌てて顔を上げた。
「……何?」
ガイルは、にやりと笑った。
「お前、今ちょっと期待しただろ」
「……別に」
「嘘つけ」
ユリウスは、少しだけ呆れたように笑った。
「ガイル、からかうのはその辺にしておけ」
ガイルは肩をすくめた。
「へいへい」
しかし、レイブンの胸には、確かな期待が生まれていた。
もし、共和国軍から派遣される要員の中に、エリシアがいたら。
もし、再び同じ部隊で任務に就くことができたら。
そう考えるだけで、自然に笑みがこぼれそうになる。
レイブンは、慌てて命令書へ視線を戻した。
今は、部隊長としての責任を果たさなければならない。
そのことを、自分へ言い聞かせた。
帝政歴347年11月4日、午後6時17分。
帝国軍特別編成基地、第二兵舎。
夕方になり、レイブンは一人で机に向かっていた。
目の前には、新設部隊の編成資料が並んでいる。
各兵科の役割。
必要な装備。
通信手順。
共同任務における指揮系統。
そして、共和国軍派遣要員の受け入れ計画。
どれも、簡単に決められるものではなかった。
レイブンは、しばらく資料を見つめていた。
その時、胸元の軍用認識票が小さく揺れた。
彼は、ふとエリシアのことを思い出した。
昨日まで、彼女はクロウ家にいた。
そして、今は共和国軍の基地へ戻っている。
彼女の胸元には、自分が渡した婚約の認識票があるはずだった。
レイブンは、少しだけ微笑んだ。
「……元気にしてるかな」
その時、扉が軽く叩かれた。
「……レイブン、いるか?」
ガイルの声だった。
「いるよ」
扉が開き、ガイルが顔を覗かせた。
「……まだ仕事してたのか?」
「うん。明日から編成準備が始まるから」
ガイルは、机の上の資料を見た。
「……真面目だなあ」
「部隊長になったんだから、ちゃんとやらないと」
ガイルは、少しだけ笑った。
「……そうだな」
そして、椅子へ腰を下ろした。
「なあ、レイブン」
「何?」
「……俺たち、随分遠くまで来たな」
レイブンは、顔を上げた。
ガイルは、窓の外を見つめていた。
「志願兵学校にいた頃は、こんなことになるなんて思ってなかった」
レイブンは、静かに頷いた。
「……うん」
「戦争が始まって、仲間が死んで、何度も危ない目に遭って」
ガイルは、少しだけ表情を曇らせた。
「……それでも、生き残った」
レイブンは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……そうだね」
ガイルは、再び笑った。
「だからさ」
彼は、レイブンを見た。
「今度は、ちゃんと未来のために戦おうぜ」
レイブンは、少しだけ目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん」
ガイルは立ち上がった。
「じゃあ、明日からよろしくな。部隊長殿」
レイブンは、少しだけ笑った。
「……よろしく、ガイル」
ガイルは敬礼し、部屋を出ていった。
レイブンは、しばらくその背中を見送っていた。
そして、机の上に置かれた命令書へ視線を戻した。
《帝国・共和国共同特別任務分遣隊》
仮称のままの部隊名。
まだ揃っていない人員。
異なる軍事制度。
解決すべき問題は、数え切れないほどあった。
それでも、レイブンは不思議と不安を感じていなかった。
これまでの戦場で、帝国軍と共和国軍の兵士たちが互いを助け合う姿を見てきたからだった。
国が違っても、守りたいものは同じだった。
家族。
仲間。
故郷。
そして、平和な日常。
レイブンは、静かに命令書を閉じた。
「……やってみよう」
彼は、小さく呟いた。
その頃、共和国側でも、エリシアが派遣準備を進めていた。
彼女はまだ、帝国軍側の指揮官が誰なのか知らなかった。
レイブンもまた、共和国軍から誰が来るのかを知らなかった。
だが、二人の運命は、すでに同じ場所へ向かって動き始めていた。
かつて敵同士だった二つの国家。
その軍人たちが、一つの部隊として肩を並べる日が近づいていた。
それは、長い戦争の終結を示す象徴であると同時に、新たな時代の始まりでもあった。
そして、この小さな共同部隊が、後に世界各国の軍人たちを結びつける巨大な組織へ発展していくことを、この時のレイブンはまだ知らなかった。




