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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第97話 銀の約束、二十六日間の恋人日記

第97話 銀の約束、二十六日間の恋人日記


帝政歴347年10月30日、午後9時18分。

帝国中央部、クロウ家本邸、客室。

秋の夜風が、半分だけ開かれた窓から静かに入り込んでいた。庭園の木々はすっかり色づき、昼間には黄金色に輝いていた葉が、夜の闇の中でかすかに揺れている。遠くの街では終戦を祝う催しがまだ続いているらしく、時折、人々の笑い声が風に乗って聞こえてきた。

エリシア・L・ヴォルハラムは、客室の机に向かっていた。

淡い色の寝間着を身につけ、金色の髪を肩へ流した彼女の前には、一冊の小さな日記帳が置かれている。

共和国から持参した、濃紺の表紙を持つ日記帳だった。

軍務中にも簡単な記録をつける習慣はあったが、戦場で使用していたものとは別に、彼女は以前から私的な日記をつけていた。

ただし、この二十六日間に書き込まれた内容は、以前のものとは随分違っていた。

エリシアは、最初のページを開いた。

そこには、丁寧な筆跡で日付が記されていた。

『帝政歴347年10月6日。今日、レイブンの家を訪ねた。突然だったから驚かせてしまったけれど、彼は笑って迎えてくれた。ご家族も優しい方々ばかりで、共和国軍人だと明かした時には驚かれたものの、最後には歓迎してくださった。ルナには、もうお姉ちゃんと呼ばれている。少し恥ずかしいけれど、嬉しい』

そこまで読んだところで、エリシアは思わず微笑んだ。

「……もう、あれから二十六日も経つのね」

クロウ家を訪ねたのは、十月六日のことだった。

あの日、レイブンと恋人繋ぎをしたまま居間へ入った途端、彼の家族から盛大な歓迎を受けた。

特に父親のヴァルターが、レイブンへ向かって「よくやった!」と声を上げた時のことは、今でも鮮明に覚えている。

あまりにも突然の反応に、エリシア自身も驚いてしまった。

そして、ルナからは何度も質問を浴びせられた。

いつ出会ったのか。

どちらから告白したのか。

最初に手を繋いだのはいつなのか。

レイブンはそのたびに顔を赤くしていた。

エリシアは、その様子を思い出して小さく笑った。

「……本当に、可愛いんだから」

誰もいない客室で呟く。

戦場では冷静な判断を下し、敵の攻勢に対して一歩も引かなかった青年が、家族の前ではあれほど照れくさそうにする。

その違いを知ることができたのは、彼の家で過ごしたからこそだった。

エリシアは、次のページをめくった。

『10月8日。今日はレイブンと庭園を散歩した。彼が子供の頃によく遊んでいた場所を案内してくれた。庭の奥には古い木があり、幼い頃にルナと一緒に登ろうとして、母親に叱られたらしい。本人は少し恥ずかしそうだったけれど、私はもっと聞きたかった』

エリシアは、その日の光景を思い出した。

秋の庭園を歩くレイブンは、軍服ではなく、柔らかなシャツと濃色の長ズボンを着ていた。

黒い猫耳が時折風に揺れ、尻尾が自然に動いていた。

戦場では周囲の音に敏感に反応していた彼も、庭園では随分と穏やかな表情をしていた。

古い木の前へ来た時、レイブンは少しだけ笑った。

『ここ、昔よく登ってたんだ』

『高い木ね』

『うん。ルナが真似しようとして、母さんにすごく怒られた』

『あなたは怒られなかったの?』

『……俺も怒られた』

その時の彼の顔を思い出すと、今でも笑ってしまう。

エリシアは、日記帳の端を指先でなぞった。

次のページには、少しだけ文字が多く書かれていた。

『10月11日。レイブンの傷の手当てを手伝った。本人はもう大丈夫だと言っていたけれど、肩の古い傷がまだ完全には治っていなかった。戦場では何度も負傷していたことを知っていたつもりだった。でも、実際に傷跡を見ると胸が苦しくなった。これからは、できるだけ無茶をしてほしくない』

エリシアの笑みが、少しだけ静かなものへ変わった。

あの日、レイブンは軍医から渡された軟膏を使い、肩の傷を手当てしていた。

ファニータから頼まれ、エリシアも手伝うことになった。

シャツの襟元から見えた傷跡は、想像していたよりも多かった。

肩から背中へ伸びる古い切創。

銃弾の破片によって残った小さな傷。

爆風で飛ばされた瓦礫による痕。

どれも、彼が戦場で生き抜いてきた証だった。

けれど、エリシアにとっては、それらの傷が彼の命を奪っていたかもしれないという事実の方が重かった。

『……痛くない?』

『もう大丈夫だよ』

『本当に?』

『うん。少し引っ張られる感じはあるけど』

『……無理しないで』

そう言った時、レイブンは少しだけ困ったように笑った。

『エリシアも、同じこと言うんだね』

『誰と?』

『母さんとファニータ』

エリシアは、思わず笑ってしまった。

だが、その後に彼が続けた言葉は、今でも忘れられない。

『……心配してくれる人がいるって、嬉しいね』

その一言を聞いた時、エリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。

彼は、自分が思っている以上に、多くのものを背負ってきたのだろう。

それでも、こうして家族の元へ帰り、笑っている。

だからこそ、これから先もその笑顔を守りたいと思った。

エリシアは、さらにページをめくった。

『10月14日。ルナと一緒に買い物へ出かけた。彼女はとても明るく、街のことをたくさん教えてくれた。途中で、レイブンの子供の頃の話を聞いた。本人には内緒にしてほしいと言われたけれど、日記には書いておこうと思う』

エリシアは、思わず口元を押さえた。

「……ふふっ」

その日の買い物は、実に賑やかだった。

ルナは、兄の幼い頃の失敗談を次々と話してくれた。

初めて料理を手伝った時に小麦粉を床へこぼしたこと。

庭園で転んで服を汚し、ファニータに叱られたこと。

妹を庇おうとして、自分まで一緒に怒られたこと。

どれも、戦場のレイブンからは想像できない話ばかりだった。

エリシアは、その一つ一つを楽しそうに聞いていた。

そして、帰宅後にルナから念を押された。

『お兄ちゃんには言わないでね!』

『ええ、約束するわ』

その約束は、今も守っている。

ただし、日記帳にはしっかりと記録していた。

エリシアは、少しだけ悪戯っぽく笑った。

「……いつか本人に聞いてみようかしら」

次のページには、十月十八日の日付があった。

『今日はヴァルター様と少し長く話した。軍人としての責任と、家族としての責任について教えていただいた。共和国軍人である私を、クロウ家の客人として扱ってくださっていることが嬉しい。けれど、これから先のことを考えると、やはり簡単ではないのだと思う』

エリシアは、少しだけ真剣な表情になった。

ヴァルターとの会話は、彼女にとって印象深いものだった。

帝国軍の軍人であり、クロウ家の家督後継者でもあるヴァルターは、国家への忠誠と家族への愛情を決して同じものとして扱わなかった。

『君が共和国軍人であることを、私は忘れていない』

彼はそう言った。

『だが、だからといって、息子が君を大切に思う気持ちまで否定するつもりはない』

エリシアは、その言葉に深く頭を下げた。

『ありがとうございます』

『ただし、これから先も簡単な道ではないだろう。軍務が再開すれば、互いの所属によって会えない時期もある』

『……承知しています』

『ならば、焦る必要はない。まずは互いを知ることだ』

ヴァルターは、そう言って微笑んだ。

その言葉は、エリシアの胸に残っていた。

戦争が終わったからといって、すべての問題が消えたわけではない。

帝国と共和国の間には、まだ政治的な対立も残っている。

両国の軍人が恋人同士であることも、決して一般的なことではなかった。

それでも、彼女はレイブンを好きになったことを後悔していなかった。

むしろ、これから先の困難も一緒に乗り越えていきたいと思っていた。

エリシアは、次のページをめくった。

『10月22日。今日はセレナ様と一緒に料理をした。レイブンの好きな料理を教えていただいた。彼は何でも美味しそうに食べるけれど、母親の料理には特別な思い入れがあるらしい。いつか私も、彼に料理を作ってあげたい』

その日の夕食では、エリシアが手伝った料理をレイブンが嬉しそうに食べてくれた。

『……これ、エリシアが作ったの?』

『ええ。セレナ様に教えていただいたの』

『美味しいよ』

その一言だけで、エリシアは十分だった。

セレナは隣で微笑み、ルナは兄の反応を見て楽しそうに笑っていた。

ファニータも、料理を運びながら穏やかな表情をしていた。

エリシアは、その食卓が好きだった。

誰かの帰りを待ち、同じ料理を囲み、今日あった出来事を話す。

戦場では当たり前ではなかった時間。

その中に、自分も加わることができた。

彼女は、そっと日記帳を閉じかけた。

しかし、最後のページが目に入った。

そこには、今日の日付が記されていた。

『10月30日。明日でレイブンの休暇が終わる。私の休暇も、もうすぐ終わる。二十六日間、クロウ家で過ごした。最初は緊張していたけれど、今ではこの家の廊下を歩くことにも慣れてしまった。ルナは毎日のように話しかけてくれるし、セレナ様は私の体調まで気遣ってくださる。ヴァルター様は時々、レイブンをからかって笑っている。ファニータも、私の好みを覚えてくれた』

エリシアは、ゆっくりと続きを読む。

『そして、レイブン。あなたは、私が思っていた以上に優しくて、少し不器用で、時々驚くほど大胆なことをする。戦場ではあんなに冷静なのに、私が手を繋ぐだけで顔を赤くする。でも、私が不安そうにしていると、必ず気づいてくれる。あなたと過ごした二十六日間は、私にとって何よりも大切な時間になった』

そこまで読んだところで、エリシアは日記帳を胸へ抱きしめた。

「……もう」

頬が熱い。

誰にも見せるつもりのない日記なのに、自分で読み返して恥ずかしくなってしまう。

けれど、笑みが止まらなかった。

「……好きすぎるのかしら、私」

小さく呟いて、また笑った。

その時、客室の扉が軽く叩かれた。

「……エリシア?」

レイブンの声だった。

エリシアは、慌てて日記帳を閉じた。

「は、はい!」

「……まだ起きてる?」

「ええ。どうしたの?」

「少し話せるかな」

エリシアは、日記帳を机の引き出しへ収めた。

「……いいわよ」

扉が開き、レイブンが顔を覗かせた。

彼も寝間着姿で、黒い猫耳が少しだけ寝癖のついた髪の間から覗いている。

「……ごめん。もう寝るところだった?」

「いいえ。日記を読んでいただけよ」

「日記?」

レイブンが首を傾げた。

エリシアは、少しだけ慌てた。

「……な、何でもないわ」

「……そう?」

「ええ」

レイブンは、少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

そして、静かに言った。

「……明日で、休暇が終わるね」

エリシアは、少しだけ表情を曇らせた。

「……そうね」

レイブンは、窓の外を見た。

「……早かったな」

「ええ」

エリシアは、彼の隣へ歩み寄った。

「……でも、楽しかったわ」

レイブンは微笑んだ。

「俺も」

しばらくの間、二人は窓の外を眺めていた。

秋の夜空には、星が輝いている。

エリシアは、そっとレイブンの手へ触れた。

彼は自然に指を絡め、恋人繋ぎをした。

「……明日、何か予定があるの?」

エリシアが尋ねると、レイブンは少しだけ考えた。

「……うん。最後に、少しだけ一緒に歩きたいなって」

エリシアは微笑んだ。

「……いいわね」

レイブンは頷いた。

「じゃあ、明日の午後に」

「ええ」

二人は、しばらく手を繋いだまま立っていた。

やがて、レイブンは静かに手を離した。

「……おやすみ、エリシア」

「おやすみ、レイブン」

扉が閉じられると、エリシアはしばらくその場に立っていた。

そして、もう一度日記帳を取り出した。

最後のページへ、小さく一行を書き加える。

『明日は、どんな一日になるのかしら』

エリシアは、微笑んだ。

帝政歴347年10月31日、午後3時24分。

帝国中央部、クロウ家本邸、庭園。

秋の午後の日差しが、庭園を柔らかく照らしていた。

レイブンとエリシアは、並んで石畳の小道を歩いていた。

木々の葉は赤や黄金色に染まり、時折吹く風に乗って静かに舞い落ちている。

エリシアは、淡い色の外出着を着ていた。

金色の髪が肩へ流れ、片手には薄い色の日傘を持っている。

レイブンは、白いシャツに濃色の上着を羽織っていた。

軍服ではない二人の姿は、どこにでもいる若い恋人同士のようだった。

「……綺麗ね」

エリシアが呟いた。

レイブンは頷いた。

「うん。秋になると、この辺りはいつもこんな感じなんだ」

「共和国にも紅葉の綺麗な場所はあるけれど、ここも素敵ね」

レイブンは、少しだけ笑った。

「また来年も見られるといいね」

エリシアは、彼を見た。

「……来年も?」

「うん」

レイブンは、少しだけ頬を赤くした。

「……エリシアと一緒に」

エリシアは、思わず足を止めた。

そして、嬉しそうに微笑んだ。

「……ええ。約束よ」

レイブンも頷いた。

二人は、庭園の奥へ歩き始めた。

そこには、古い大きな木が立っていた。

エリシアが初めて庭園を案内された時、レイブンが子供の頃によく登っていたと話してくれた木だった。

その下には、小さな木製の長椅子が置かれている。

レイブンは、そこへエリシアを案内した。

「……少し座ろうか」

「ええ」

二人は、並んで腰を下ろした。

しばらくの間、何も話さずに庭園を眺めていた。

遠くから、ルナの笑い声が聞こえてくる。

屋敷の中では、セレナとファニータが夕食の準備を進めているのだろう。

ヴァルターは、書斎で何かの書類を読んでいるはずだった。

そんな穏やかな日常の中で、レイブンは少しだけ緊張した表情をしていた。

エリシアは、それに気づいた。

「……レイブン?」

「……何?」

「……どうしたの?」

レイブンは、少しだけ視線を逸らした。

「……いや、その」

エリシアは、首を傾げた。

「……何かあるの?」

レイブンは、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと上着の内ポケットへ手を伸ばした。

そこから取り出したのは、小さな布袋だった。

エリシアは、目を丸くした。

「……それは?」

レイブンは、少しだけ息を吸った。

「……エリシアに、渡したいものがあるんだ」

彼は、布袋を開いた。

中から現れたのは、銀色の金属板だった。

軍用の認識票。

いわゆる、ドッグタグだった。

ただし、通常の軍用認識票とは違い、角が丁寧に磨かれ、表面には小さな装飾が施されていた。

細い鎖が通され、首から下げられるようになっている。

エリシアは、息を呑んだ。

「……ドッグタグ?」

レイブンは頷いた。

「うん」

そして、少しだけ照れくさそうに笑った。

「……正式な軍用のものじゃないんだけどね」

彼は、金属板をエリシアの手へそっと載せた。

銀色の表面には、二人の名前が刻まれていた。

表面には、小さく交差する二本の線と、クロウ家を象徴する意匠が刻まれている。

エリシアは、ゆっくりと金属板を裏返した。

そこには、丁寧な文字で二人の名前が刻まれていた。

RAVEN S. CROW

ELYSIA L. VOLHARAM

そして、その下には、小さく日付が刻まれていた。

347.10.01

エリシアは、しばらく何も言えなかった。

十月一日。

シュタイン湾で、二人が互いへの想いを確かめ合った日だった。

レイブンは、少しだけ頬を赤くしながら言った。

「……お互いの名前、裏面に彫ったから」

エリシアは、ゆっくりと顔を上げた。

レイブンは、少しだけ視線を逸らした。

「……正式な指輪は、もう少しだけ待って」

その言葉を聞いた瞬間、エリシアの頬が一気に赤くなった。

「……え?」

レイブンは、少しだけ困ったように笑った。

「……その、まだちゃんとしたものを用意できなくて」

エリシアは、金属板を握りしめた。

心臓が、早く鼓動していた。

正式な指輪。

その言葉が意味するものを、彼女は理解していた。

ただの贈り物ではない。

恋人としての記念品でもない。

これは、二人の未来を約束するためのものだった。

「……レイブン」

エリシアは、ようやく声を出した。

「……それって」

レイブンは、ゆっくりと彼女を見た。

金色と黒色の瞳が、真っ直ぐにエリシアを見つめている。

「……うん」

彼は、少しだけ緊張した表情で頷いた。

「……婚約のつもりで、渡してる」

エリシアは、息を呑んだ。

秋の風が、二人の間を通り抜けた。

木々の葉が舞い、銀色のドッグタグが柔らかな光を反射する。

レイブンは、静かに続けた。

「……俺たち、まだ軍人だし、これから先も何があるか分からない」

エリシアは、彼を見つめていた。

「……帝国と共和国の関係も、まだ完全に落ち着いたわけじゃない」

レイブンは、少しだけ息を吸った。

「でも」

彼は、エリシアの手をそっと握った。

「……俺は、これからもエリシアと一緒にいたい」

エリシアの瞳が、少しだけ潤んだ。

レイブンは、照れくさそうに笑った。

「……だから、今はこれで許してほしい」

エリシアは、しばらく何も言えなかった。

そして、ゆっくりと首を横に振った。

「……許すも何も」

彼女は、少しだけ笑った。

その頬には、涙が一筋流れていた。

「……嬉しいに決まってるじゃない」

レイブンは、目を丸くした。

「……本当?」

エリシアは頷いた。

「……ええ」

そして、ドッグタグを胸へ抱きしめた。

「……こんなの、嬉しすぎるわ」

レイブンは、少しだけ安心したように息を吐いた。

「……よかった」

エリシアは、彼を見つめた。

「……でも、一つだけ聞いてもいい?」

「……何?」

彼女は、少しだけ微笑んだ。

「……どうして、ドッグタグなの?」

レイブンは、少し考えた。

「……俺たち、軍人として出会ったから」

エリシアは、静かに聞いていた。

「戦場では、いつも認識票を身につけてた。もし何かあった時、自分が誰なのか分かるように」

レイブンは、エリシアの手の中にある銀色の金属板を見た。

「……でも、これは違う」

彼は、少しだけ微笑んだ。

「……生きて帰って、また会うためのものにしたかった」

エリシアは、息を呑んだ。

「……だから、二人の名前を入れたんだ」

レイブンは、少しだけ照れくさそうに笑った。

「……俺たちが、どこにいても忘れないように」

エリシアは、ゆっくりと頷いた。

「……そう」

そして、彼の手を強く握った。

「……ありがとう、レイブン」

レイブンは微笑んだ。

「……うん」

エリシアは、少しだけ考えた。

そして、静かに言った。

「……ねえ」

「何?」

「……つけてくれる?」

レイブンは、少しだけ目を丸くした。

「……いいの?」

エリシアは、微笑んだ。

「……もちろん」

彼女は、金色の髪を片側へ寄せた。

レイブンは、少しだけ緊張しながら立ち上がった。

そして、エリシアの後ろへ回った。

細い鎖を持ち上げ、彼女の首元へそっと通す。

指先が、金色の髪に触れた。

エリシアは、少しだけ肩を震わせた。

「……冷たい?」

レイブンが尋ねた。

エリシアは首を横に振った。

「……大丈夫」

レイブンは、慎重に留め具を閉じた。

銀色のドッグタグが、エリシアの胸元へ静かに下がった。

彼女は、そっと金属板へ触れた。

冷たかったはずの金属が、少しずつ体温を帯びていく。

レイブンは、彼女の前へ戻った。

「……似合ってる」

エリシアは、頬を赤くした。

「……ありがとう」

そして、彼の手を取った。

「……レイブン」

「……うん」

エリシアは、真っ直ぐに彼を見つめた。

「……私も、あなたと一緒にいたい」

レイブンは、静かに頷いた。

「……うん」

「帝国と共和国、まだ色々あると思う」

「……そうだね」

「でも、私はもう決めたの」

エリシアは、少しだけ微笑んだ。

「……あなたの隣にいたいって」

レイブンは、彼女の手を強く握った。

「……ありがとう」

エリシアは、ゆっくりと首を横に振った。

「……こちらこそ」

そして、少しだけ身体を寄せた。

レイブンも、自然に彼女を抱きしめた。

秋の庭園に、静かな時間が流れた。

エリシアは、レイブンの胸元へ顔を寄せた。

彼の心臓の鼓動が、近くで聞こえる。

戦場では、何度も命の危険に晒されてきた。

けれど、今は違う。

こうして、好きな人の温もりを感じることができる。

それだけで、十分だった。

しばらくして、エリシアは顔を上げた。

「……レイブン」

「……何?」

「……私、あなたのお嫁さんになるのね」

その言葉に、レイブンは一瞬固まった。

そして、顔を真っ赤にした。

「……そ、そうなる、かな」

エリシアは、嬉しそうに笑った。

「……ふふっ」

レイブンは、少しだけ困ったように笑った。

「……まだ、正式な手続きとかもあるけど」

「分かってるわ」

エリシアは頷いた。

「……でも、嬉しい」

レイブンは、静かに微笑んだ。

「……俺も」

二人は、もう一度抱きしめ合った。

その時、遠くから声が響いた。

「……お兄ちゃーん!」

ルナだった。

レイブンは、思わず顔を上げた。

「……ルナ?」

庭園の小道から、ルナが走ってきた。

「お母さんが、お茶の準備できたって!」

そして、二人の姿を見て足を止めた。

「……あれ?」

ルナの視線が、エリシアの胸元へ向かった。

銀色のドッグタグが、秋の日差しを反射していた。

「……それ、何?」

エリシアは、少しだけ頬を赤くした。

「……レイブンから、もらったの」

ルナは、目を輝かせた。

「……お兄ちゃんから?」

レイブンは、少しだけ照れくさそうに頷いた。

「……うん」

ルナは、ドッグタグをじっと見つめた。

そして、刻まれた名前に気づいた。

「……えっ?」

彼女は、レイブンとエリシアを交互に見た。

「……これって」

レイブンは、静かに頷いた。

「……婚約のつもりで渡したんだ」

ルナは、一瞬だけ固まった。

そして。

「……えええええっ!?」

庭園に、大きな声が響いた。

「お兄ちゃん! 婚約したの!?」

レイブンは、思わず肩をすくめた。

「……ルナ、声が大きい!」

「だって! だって!」

ルナは、嬉しそうに飛び跳ねた。

「エリシアお姉ちゃんが、本当にお姉ちゃんになるの!?」

エリシアは、頬を赤くしながら微笑んだ。

「……そうなると、いいわね」

ルナは、嬉しそうに笑った。

「やったー!」

そして、屋敷の方へ走り出した。

「お母さーん! お父さーん!」

レイブンは、慌てて声を上げた。

「……ルナ! ちょっと待って!」

しかし、ルナは止まらなかった。

「お兄ちゃんが婚約したー!」

その声が、屋敷の方まで響いていく。

レイブンは、思わず額へ手を当てた。

「……ああ、もう」

エリシアは、声を上げて笑った。

「……ふふっ」

レイブンは、少しだけ困ったように彼女を見た。

「……ごめん」

エリシアは首を横に振った。

「……いいの」

そして、彼の手を取った。

「……嬉しいから」

レイブンは、静かに微笑んだ。

午後4時12分。

クロウ家本邸、居間。

ルナの報告によって、クロウ家の居間は再び賑やかになっていた。

ヴァルターは、レイブンから事情を聞くと、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと立ち上がった。

「……レイブン」

「……はい」

ヴァルターは、息子の肩へ手を置いた。

「……よくやった!」

レイブンは、思わず笑った。

「……父さん、またそれ?」

ヴァルターは大きく笑った。

「何度でも言うさ!」

セレナは、エリシアの胸元にあるドッグタグを見て、目を潤ませていた。

「……素敵ね」

エリシアは、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。

「……ありがとうございます」

セレナは、彼女の手をそっと握った。

「……これからも、よろしくね」

エリシアは、静かに頷いた。

「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」

ルナは、嬉しそうに二人の周りを歩いていた。

「ねえねえ! 結婚式はいつ!?」

レイブンは、少しだけ困ったように笑った。

「……まだ決めてないよ」

「じゃあ、指輪は!?」

「……それも、これから」

「じゃあ、私も準備手伝う!」

エリシアは、思わず笑った。

「……ありがとう、ルナ」

ファニータは、静かに紅茶を運びながら微笑んでいた。

「レイブン様、エリシア様。ご婚約、おめでとうございます」

レイブンは頷いた。

「ありがとう、ファニータ」

エリシアも、丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございます」

ヴァルターは、少しだけ表情を引き締めた。

「……ただし」

レイブンとエリシアは、同時に顔を上げた。

「婚約を正式に進めるには、両家の確認と、軍務上の手続きも必要になる」

エリシアは頷いた。

「……承知しています」

ヴァルターは、穏やかに微笑んだ。

「焦る必要はない。二人でよく話し合いなさい」

レイブンは頷いた。

「……うん」

エリシアも、静かに答えた。

「……はい」

セレナは、二人を見つめながら微笑んだ。

「でも、今日はお祝いしましょう」

ルナが嬉しそうに声を上げた。

「賛成!」

ヴァルターも笑った。

「そうだな」

こうして、クロウ家では小さな婚約祝いが開かれることになった。

帝政歴347年10月31日、午後10時06分。

クロウ家本邸、客室。

エリシアは、再び机に向かっていた。

胸元には、レイブンから贈られた銀色のドッグタグが下がっている。

彼女は、そっとそれを手に取った。

裏面には、二人の名前が刻まれていた。

RAVEN S. CROW

ELYSIA L. VOLHARAM

347.10.01

エリシアは、しばらくその文字を見つめていた。

そして、日記帳を開いた。

最後のページへ、ゆっくりと文字を書き込んでいく。

『10月31日。今日は、私の人生で忘れられない日になった。レイブンが、婚約の証としてドッグタグをくれた。正式な指輪はもう少し待ってほしいと言っていたけれど、私はこれだけでも十分嬉しい。二人の名前と、あの日の日付が刻まれている。彼は、これを生きて帰ってまた会うためのものにしたかったと言っていた』

エリシアは、少しだけ筆を止めた。

そして、続きを書いた。

『私は、彼のお嫁さんになる。まだ正式な手続きも、これからのことも決まっていない。でも、彼と一緒に生きていきたいという気持ちは、もう変わらない』

そこまで書くと、エリシアは日記帳を閉じた。

そして、ドッグタグを胸へ抱きしめた。

「……レイブン」

彼女は、小さく微笑んだ。

「……ありがとう」

窓の外には、秋の夜空が広がっていた。

明日から、二人は再びそれぞれの軍務へ戻る。

帝国軍と共和国軍。

所属する国家は違う。

これから先、どんな困難が待っているのかも分からない。

それでも、エリシアの胸元には、確かな約束があった。

銀色の小さな認識票。

そこに刻まれた二人の名前は、戦場で出会った若い軍人たちが、これから先もともに生きていくことを願った証だった。

エリシアは、そっと目を閉じた。

そして、静かに眠りについた。

帝政歴347年10月31日。

第一次世界大戦の終結から、一か月。

レイブン・S・クロウとエリシア・L・ヴォルハラムは、婚約の約束を交わした。

それは、まだ正式な婚約指輪を伴わない、小さな約束だった。

しかし、二人にとっては、どんな宝石よりも大切なものだった。

そして、その約束は、やがてクロウ家の歴史を大きく変えることになる。

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