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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第95話 あなたに会うまでの五日間

第95話 あなたに会うまでの五日間


帝政歴347年10月1日、午前9時12分。

帝国北東部、シュタイン湾南側軍用港。

エリシア・L・ヴォルハラム少尉は、共和国軍の輸送艇へ続く桟橋の途中で、一度だけ足を止めた。

朝の海風が金色の髪を揺らし、背後からは撤収を進める兵士たちの声が聞こえていた。帝国軍の輸送車両が沿岸道路を走り、共和国軍の兵士たちは積み残した装備がないかを確認している。昨日まで異界軍との激戦が続いていた海岸は、ようやく軍港らしい落ち着きを取り戻しつつあった。

エリシアは振り返った。

遠くの道路には、帝国軍の車列が並んでいる。その中のどれかに、レイブン・S・クロウが乗っているはずだった。

もう一度、彼の姿を見られるだろうか。

そんなことを考えてしまい、エリシアは自分の頬が熱くなるのを感じた。

「……私ったら」

小さく呟いて、唇へ指先を当てる。

ほんの少し前、その唇でレイブンに口づけをした。

戦場では何度も死を覚悟し、敵の銃口を前にしても判断を失わないよう努めてきた。それなのに、彼へ想いを伝える瞬間だけは、胸が苦しくなるほど緊張していた。

断られるかもしれないと思っていた。

突然の口づけに困らせてしまったかもしれないとも思った。

それでも、何も伝えないまま別れることだけは、どうしても嫌だった。

そして彼は、自分の気持ちに応えてくれた。

『俺も、エリシアのことが好きだよ』

思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。

エリシアは、もう一度だけ帝国軍の車列を見た。

「……また会えるわよね」

彼と交わした約束を、確かめるように呟いた。

「少尉、出港準備が整いました」

背後から声を掛けられ、エリシアは振り返った。

セルゲイ・オルロフ軍曹が、彼女の旅行鞄を持って立っていた。

「ありがとう、軍曹。今行くわ」

エリシアは桟橋を歩き始めた。

共和国軍の輸送艇に乗り込むと、甲板の端へ向かい、帝国の海岸を見つめた。

やがて係留索が外され、輸送艇がゆっくりと動き出した。

シュタイン湾の海岸が、少しずつ遠ざかっていく。

あの場所には、長い戦争の記憶が残っていた。

負傷した兵士たちの叫び声も、砲撃で崩れた防波堤も、異界門から現れた巨大な敵も、簡単に忘れられるものではない。

けれど、今のエリシアが最も鮮明に思い出していたのは、戦場で再会した黒髪の青年の姿だった。

黒い猫耳と、金色と黒色のオッドアイ。

普段は穏やかに笑い、仲間が危険に晒されれば誰よりも早く動こうとする。

彼の判断に助けられたこともあれば、自分が彼を援護したこともあった。

その積み重ねが、いつの間にか恋心へ変わっていた。

「……レイブン」

名前を口にすると、自然に微笑んでしまう。

その様子を少し離れた場所から見ていたオルロフは、何かに気づいたようだった。

「少尉」

「何かしら?」

「帝国軍のクロウという兵士とは、以前からお知り合いで?」

エリシアは一瞬、言葉に詰まった。

「……ええ。以前から」

「なるほど」

オルロフは、それ以上踏み込まなかった。

だが、わずかに笑っている。

「何か言いたそうね、軍曹」

「いえ。少尉があんなに嬉しそうな顔をされるのは、久しぶりだと思いまして」

「……そんな顔をしていた?」

「はい」

エリシアは思わず視線を逸らした。

「……そう」

オルロフは姿勢を正した。

「失礼しました。私は部下の確認に戻ります」

「ええ、お願い」

軍曹が去った後、エリシアは海を見つめ直した。

自分では、いつも通りに振る舞っているつもりだった。

けれど、どうやらそうではないらしい。

彼のことを考えるだけで、表情が変わってしまう。

そんな自分が少し恥ずかしく、それ以上に嬉しかった。

午後6時43分。

連邦共和国西部、海軍輸送拠点。

輸送艇が共和国側の軍港へ到着した頃には、空が茜色に染まっていた。

エリシアは下船後、帰還兵の受付と装備の確認を済ませ、部隊の集合場所へ向かった。

軍港には各地から戻ってきた兵士たちが集まっていた。

家族への手紙を書いている者。

仲間と再会を喜ぶ者。

帰還できなかった戦友の遺品を抱え、静かに座っている者。

終戦という言葉は、誰にとっても同じ意味ではなかった。

エリシアは、救護所の前を通り過ぎたところで足を止めた。

そこには、シュタイン湾で負傷した共和国軍兵士の姿があった。

彼は杖をつきながら歩いており、付き添いの衛生兵に支えられていた。

「あっ、ヴォルハラム少尉!」

兵士が気づいて敬礼しようとしたため、エリシアはすぐに手で制した。

「無理をしないで。脚は大丈夫?」

「はい。しばらく療養すれば歩けるそうです」

「よかったわ」

「少尉のおかげです。それと、あの帝国軍の衛生兵にも助けられました」

エリシアは、エミール・シュナイダーの顔を思い出した。

「……そうね。彼にも伝えておきたいわ」

兵士は少し笑った。

「帝国軍の人間に礼を言う日が来るなんて、思いませんでした」

「私もよ」

エリシアは穏やかに答えた。

戦争は、国境の向こう側にいる人間を敵として扱わせる。

けれど、負傷者を助ける時に、その兵士が帝国軍か共和国軍かを気にする必要はなかった。

少なくとも、シュタイン湾ではそうだった。

エリシアは兵士の回復を願い、その場を後にした。

宿舎へ向かう途中、彼女はふと考えた。

レイブンは、今頃どこにいるのだろう。

まだ列車の中だろうか。

それとも、すでに帝国の内地へ到着したのだろうか。

彼の家族は、無事な帰還を喜んでいるに違いない。

そんな光景を想像すると、胸が温かくなった。

同時に、少しだけ寂しくもなった。

彼の帰る場所を、自分はまだ知らない。

彼の家族にも会ったことがない。

戦場ではあれほど近くにいたのに、平和な日常の中にいる彼については、知らないことがたくさんあった。

そのことが、エリシアには不思議に思えた。

帝政歴347年10月2日、午前10時18分。

連邦共和国西部方面軍、帰還兵管理本部。

エリシアは所属部隊の将校たちとともに、帰還後の人事説明を受けていた。

第一次世界大戦の終結に伴い、共和国軍でも大規模な部隊再編と休暇措置が進められていた。

負傷者の療養、戦死者の記録整理、装備の返納、部隊の再配置。

終戦によって前線の戦闘が止まっても、軍の仕事がなくなるわけではなかった。

説明を終えた後、エリシアは上官であるヴィクトル・ドラグノフ中佐の執務室へ呼ばれた。

「ヴォルハラム少尉、入れ」

「失礼します」

エリシアは敬礼した。

ドラグノフは書類から顔を上げた。

「シュタイン湾での勤務報告を読んだ」

「はい」

「負傷者の搬送、帝国軍との共同警戒、沿岸防衛線の維持。よくやった」

「ありがとうございます」

中佐は書類を閉じた。

「君の降格処分については、軍法上の記録が残っている。私の判断だけで取り消すことはできん」

「承知しております」

「だが、今回の勤務実績は正式に報告する。処分の再審査が行われるなら、判断材料にはなるだろう」

エリシアは姿勢を正した。

「ありがとうございます」

ドラグノフは頷いた。

「それと、帰還兵に対する特別休暇が認められた。君も一か月間の休暇を取得できる」

エリシアは目を丸くした。

「……一か月、ですか?」

「ああ。連絡先の届け出と必要な手続きを済ませれば、明日から休暇に入って構わん」

「了解しました」

ドラグノフは、わずかに笑った。

「長く戦ったんだ。今度は自分のために時間を使え」

その言葉を聞いた瞬間、エリシアの頭に浮かんだのはレイブンだった。

休暇。

一か月。

その間なら、彼に会いに行けるかもしれない。

だが、すぐに別の考えが浮かんだ。

彼は帝国軍の兵士で、自分は共和国軍の将校だ。

共同戦線協定が結ばれたとはいえ、両国の国境管理や軍人の渡航手続きがすべて自由になったわけではない。

それに、彼の休暇予定も知らない。

突然訪ねて、迷惑にならないだろうか。

「……少尉?」

ドラグノフの声に、エリシアは我に返った。

「申し訳ありません」

「疲れているのか?」

「……少し、考え事をしていました」

「ならば、なおさら休め」

中佐は苦笑した。

「以上だ。下がってよろしい」

「失礼します」

執務室を出たエリシアは、廊下の窓から空を見上げた。

秋晴れだった。

戦場で見る空とは違い、砲煙も爆発の閃光もない。

彼女は、そっと胸元に手を当てた。

「……会いに行っても、いいのかしら」

声に出してみると、その願いが急に現実味を帯びた。

帝政歴347年10月3日、午後2時26分。

連邦共和国西部、ヴォルハラム家の居宅。

エリシアは、久しぶりに自分の部屋へ戻っていた。

軍服を脱ぎ、浴室で長い時間をかけて身体を洗った後、柔らかな私服へ着替える。

鏡の前に立つと、そこには戦場とは少し違う自分がいた。

金色の髪。

淡い色の上着。

軍用ベルトも防弾装備も身につけていない姿。

それだけで、どこか落ち着かない。

エリシアは鏡の中の自分を見つめた。

「……変じゃないわよね」

誰に聞かせるでもなく呟く。

軍服なら、何を着ればいいか迷うことはなかった。

任務に応じた装備を選び、規定に従って整えればいい。

しかし、私服となると話は別だった。

まして、好きな人に会うための服となれば、なおさらだった。

エリシアは衣装棚を開き、何着かの服を取り出した。

落ち着いた紺色のワンピース。

白いブラウスと濃色のスカート。

薄いクリーム色の外出着。

それぞれを鏡の前で合わせてみる。

だが、どれも決め手に欠けた。

「……こんなに迷うものだったかしら」

エリシアは小さく笑った。

戦場では敵の位置を確認し、負傷者の搬送経路を判断し、限られた弾薬で防御線を維持するための決断を下してきた。

それなのに、今は服を一着選ぶことすら難しい。

机の上には、軍の休暇証と渡航手続きの案内書が置かれていた。

共和国軍の窓口で確認したところ、帝国への私的訪問には事前申請が必要だった。

共同戦線協定の成立によって、両国間の限定的な民間渡航は再開されていたが、現役軍人であるエリシアには追加の確認が求められた。

彼女は必要書類を揃え、翌朝に提出するつもりだった。

その時、机の引き出しに入れていた小さな手帳が目に入った。

開くと、シュタイン湾での任務中に書いた短い記録が残っていた。

そこには、部隊の行動記録に混じって、レイブンの名前が何度も記されていた。

負傷者の共同搬送。

沿岸砲台への退避誘導。

夜間警戒。

そして、最後の異界門崩壊。

エリシアは、ゆっくりとページをめくった。

記録を読み返すうちに、戦場での彼の声が蘇ってくる。

『エリシア、無理しないで』

『こちらから支援します』

『必ず帰ってくる』

彼はいつも、誰かのために動こうとしていた。

その姿を見ているうちに、いつしか自分も彼の力になりたいと思うようになった。

単に優しいから好きになったわけではない。

彼は迷うこともあったし、傷つくこともあった。

戦友の死を聞いて沈んだ表情を見せたこともある。

それでも、次に守るべき人のために立ち上がっていた。

エリシアは、そんな彼を好きになったのだと思った。

「……レイブン」

名前を呼ぶと、胸の奥が少しだけ痛んだ。

会いたい。

声を聞きたい。

できることなら、もう一度あの手を握りたい。

戦争が終わった今、彼と一緒に過ごす時間が欲しかった。

エリシアは手帳を閉じた。

そして、静かに決めた。

「……行きましょう」

迷っていても、何も変わらない。

彼に会いたいのなら、自分から会いに行けばいい。

あの日、シュタイン湾で告白した時と同じように。

帝政歴347年10月4日、午前9時38分。

連邦共和国西部、軍人渡航管理窓口。

エリシアは申請書類を提出し、担当官の確認を受けていた。

渡航目的の欄には、私的訪問と記していた。

担当官は書類を読み、顔を上げた。

「帝国中央部への訪問ですか」

「はい」

「現役軍人による渡航となりますので、指定された経路を利用していただきます。軍事施設への立ち入りや、所属部隊の機密情報に関する接触は禁止です」

「承知しています」

「訪問先はクロウ家……帝国の公爵家ですね」

「はい」

担当官は少しだけ意外そうな表情を浮かべた。

「ご親族ですか?」

「……いいえ」

エリシアは一瞬、言葉を選んだ。

「大切な知人がいるんです」

その答えに、担当官は頷いた。

「分かりました。必要な確認を進めます」

しばらくして、渡航許可が発行された。

エリシアは書類を受け取り、深く礼をした。

「ありがとうございます」

窓口を出ると、彼女は思わず息を吐いた。

これで、帝国へ向かうことができる。

あとは、列車と国境連絡便を乗り継ぎ、クロウ家へ向かうだけだった。

しかし、許可証を見つめているうちに、別の不安が浮かんできた。

レイブンは、自分が訪ねてくることを知らない。

家族にも何も伝えていない。

突然、共和国軍の将校だった女性が公爵家を訪ねたら、驚かれるに違いない。

まして、その女性が息子の恋人だと知ったら。

「……恋人」

エリシアは、思わず足を止めた。

自分で口にした言葉なのに、ひどく照れくさかった。

確かに、互いに好きだと伝え合った。

だが、恋人として何をすればいいのか、エリシアにはまだよく分からなかった。

戦場では互いの命を預け合っていた。

それなのに、平和な場所で二人きりになった時、何を話せばいいのだろう。

考えるほど、心臓が落ち着かなくなる。

彼女は許可証を鞄へ収めた。

「……会ってから考えましょう」

そう呟いて歩き出したが、頬の熱はしばらく引かなかった。

午後3時14分。

共和国西部、商業地区。

エリシアは、駅へ向かう途中で一軒の雑貨店へ立ち寄った。

店内には旅行用品や衣類、小さな装飾品が並んでいた。

彼女が探していたのは、日傘だった。

以前から使っていたものは、戦争中の移動で壊れてしまっていた。今回の旅では長時間屋外を歩くことになるため、新しいものを用意しておきたかった。

店員に案内され、何本かの日傘を見比べる。

濃紺のもの。

白いレースをあしらったもの。

淡いクリーム色のもの。

エリシアは、最後の一本を手に取った。

軽く、持ち手の形も気に入った。

「こちらをお願いします」

店員が微笑んだ。

「ありがとうございます。ご旅行ですか?」

「ええ」

「遠くまで?」

エリシアは、少しだけ考えた。

「……大切な人に会いに行くんです」

店員は嬉しそうに笑った。

「それなら、素敵な旅になりますように」

エリシアは、思わず微笑んだ。

「……ありがとうございます」

店を出ると、彼女は日傘を開いてみた。

淡い色の布地が、午後の日差しを柔らかく遮る。

その下に立ちながら、エリシアはレイブンの顔を思い浮かべた。

彼は、この姿を見て何と言うだろう。

似合っていると言ってくれるだろうか。

それとも、突然の訪問に驚いて言葉を失うだろうか。

想像すると、思わず笑みがこぼれた。

帝政歴347年10月5日、午前7時21分。

連邦共和国西部、中央鉄道駅。

エリシアは旅行鞄を手に、帝国方面へ向かう国際連絡列車のホームに立っていた。

服装は、淡いクリーム色の外出着に落ち着いた色のスカート。

金色の髪は丁寧に整え、片手には昨日購入した日傘を持っていた。

旅行鞄には数日分の着替えと日用品、クロウ家への手土産を収めている。

手土産を選ぶ時も、随分と迷った。

結局、共和国西部で親しまれている焼き菓子と紅茶を選んだ。

レイブンの家族の好みは分からない。

けれど、何も持たずに訪ねるよりはいいだろうと思った。

列車が到着すると、エリシアは指定された車両へ乗り込んだ。

座席へ荷物を置き、窓際に腰を下ろす。

やがて、列車がゆっくりと動き出した。

共和国の街並みが、窓の外を流れていく。

エリシアは、しばらく景色を眺めていた。

かつて帝国へ向かう時は、軍用輸送車両や輸送艇に乗っていた。

目的は戦闘や救護であり、到着先には常に危険が待っていた。

だが、今回は違う。

軍務ではなく、自分の意思で帝国へ向かっている。

武器を持たず、戦闘装備も身につけず、ただ好きな人に会うために。

その事実が、エリシアにはどこか信じられなかった。

午前11時48分。

帝国・連邦共和国国境連絡駅。

列車は国境駅へ到着し、乗客たちは渡航許可証と身分証明書の確認を受けていた。

エリシアも列に並び、係官へ書類を差し出した。

帝国側の係官は、彼女の軍人身分を確認すると、少しだけ表情を引き締めた。

「共和国軍の現役将校ですか」

「はい。現在は特別休暇中です」

「渡航目的は?」

「私的訪問です」

係官は書類を確認した。

共和国軍の承認印。

共同戦線協定に基づく渡航許可。

訪問先の所在地。

必要な記載は揃っていた。

「……問題ありません。帝国領内での滞在条件はこちらになります」

係官は案内書を差し出した。

「ありがとうございます」

エリシアは礼をして、改札を通過した。

帝国側の連絡列車へ乗り換えると、車窓の景色が少しずつ変わっていった。

建物の意匠。

道路標識。

駅員の制服。

共和国とは異なる街並みが広がっている。

エリシアは、その一つ一つを興味深く眺めた。

戦場では帝国の街をゆっくり見る余裕などなかった。

だが、今は違う。

駅前の市場には買い物客が集まり、広場では子供たちが遊んでいた。

修復中の建物もあったが、人々は確かに日常を取り戻そうとしていた。

その景色を見ながら、エリシアは思った。

レイブンは、こういう国で育ったのだ。

彼が子供の頃に歩いた道。

家族と過ごした街。

学校へ通った日々。

自分がまだ知らない彼の人生が、この国にはある。

それを少しでも知りたいと思った。

午後6時32分。

帝国中央部、宿泊施設。

エリシアは、その日の移動を終え、駅近くの宿泊施設へ入った。

翌朝には、クロウ家のある地域へ向かう予定だった。

部屋へ入ると、旅行鞄を置き、窓を開けた。

夕暮れの街には、帰宅する人々の姿があった。

エリシアは、机の上に手土産の包みを並べ、破損がないかを確認した。

それから、明日着る服を椅子へ掛けた。

何度も準備を確認している自分に気づき、思わず苦笑する。

「……落ち着かないわね」

鏡の前へ立ち、髪を整える。

明日、レイブンに会う。

そのことを考えると、胸が高鳴った。

同時に、彼の家族にどう挨拶すればいいのかという不安もあった。

クロウ家は帝国の公爵家だ。

名誉称号を受け継ぐ家門であり、軍人の家系でもある。

そこへ、共和国軍の少尉が突然訪問する。

礼儀を欠くわけにはいかない。

エリシアは、鏡の前で小さく頭を下げた。

「……初めまして。エリシア・L・ヴォルハラムと申します」

少し考えて、首を横に振る。

「……堅すぎるかしら」

もう一度。

「レイブンさんには、戦場で大変お世話になりまして……」

言いかけて、止まった。

間違ってはいない。

しかし、それだけではない。

彼は自分にとって、ただの戦友ではなくなっていた。

エリシアは、鏡の中の自分を見つめた。

「……恋人、なのよね」

その言葉を口にした瞬間、頬が赤くなった。

彼の家族に、どこまで話せばいいのだろう。

あの日、港で口づけをしたことまで知られたら。

そう考えた途端、エリシアは両手で顔を覆った。

「……もう」

しばらくして、彼女は小さく笑った。

戦場で命令を下すよりも、明日の挨拶の方が難しく感じる。

けれど、不思議と嫌ではなかった。

むしろ、そんなことで悩める時間が嬉しかった。

エリシアは灯りを落とし、寝台へ横になった。

明日、彼に会える。

そう思いながら目を閉じたが、なかなか眠れなかった。

帝政歴347年10月6日、午前7時14分。

帝国中央部、宿泊施設。

エリシアは、予定よりも早く目を覚ました。

窓の外には、澄んだ秋空が広がっていた。

身支度を整え、朝食を済ませる。

旅行鞄の中身を確認し、手土産を丁寧に包み直した。

そして、鏡の前へ立った。

金色の髪は柔らかく肩へ流し、淡いクリーム色の外出着を着ている。

日傘も、鞄も、準備は整っていた。

エリシアは深く息を吸った。

「……大丈夫」

自分に言い聞かせるように呟く。

戦場では、彼の隣に立つことができた。

それなら、今度は彼の家の玄関に立つことくらい、できるはずだった。

午前9時36分。

帝国中央部、クロウ家最寄り駅。

列車がホームへ到着した。

エリシアは旅行鞄を手に、ゆっくりと降り立った。

駅前には、穏やかな街並みが広がっていた。

通りには商店が並び、秋の陽光が石畳を照らしている。

彼女は案内板を確認し、クロウ家の屋敷へ向かう車両を手配した。

移動中、窓の外には広い庭園や古い建物が見えた。

街の中心部を離れるにつれて、周囲は静かな住宅地へ変わっていく。

エリシアは、膝の上に置いた手を見つめた。

指先が、少しだけ落ち着かない。

彼は今、何をしているのだろう。

読書だろうか。

家族と朝食を取っているのだろうか。

それとも、休暇中なのに軍務の書類を読んでいるのだろうか。

想像すると、自然に微笑んでしまう。

そして、もう一つ。

彼の傷は、きちんと治っているだろうか。

シュタイン湾で見た彼の身体には、いくつもの傷が残っていた。

彼は大丈夫だと言っていたが、本当に無理をしていないだろうか。

戦場で何度も負傷しながら、それでも仲間のために動き続けた青年。

今度こそ、ゆっくり休んでほしかった。

エリシアは、そっと目を閉じた。

彼に会えたら、まず何と言おう。

久しぶり、と言うには、まだ五日しか経っていない。

会いたかった、と言えば、きっと恥ずかしくなる。

でも、それが本当の気持ちだった。

午前10時18分。

帝国中央部、クロウ家本邸前。

車両が、屋敷へ続く道の前で停止した。

エリシアは料金を支払い、旅行鞄を手に降り立った。

目の前には、広い庭園に囲まれたクロウ家の屋敷があった。

石造りの外壁。

整えられた植え込み。

落ち着いた意匠の玄関。

その佇まいには、長い歴史を持つ家門らしい風格があった。

エリシアは、しばらく屋敷を見つめていた。

「……ここが、レイブンの家」

思っていた以上に立派な屋敷だった。

公爵家だと聞いてはいたが、実際に目の前にすると、少し緊張してしまう。

彼女は日傘を開き、玄関へ向かって歩き始めた。

石畳を踏む靴音が、静かな庭園に響く。

一歩進むたびに、心臓の鼓動が速くなっていく。

玄関の前へ到着すると、エリシアは足を止めた。

ここまで来た。

あとは呼び鈴を押すだけだった。

しかし、その最後の一歩が、なかなか踏み出せない。

もし、彼が迷惑だと思ったら。

もし、家族に歓迎されなかったら。

もし、あの日の告白を彼が後悔していたら。

考えたくないことが、次々と頭をよぎった。

エリシアは、ゆっくりと息を吐いた。

そして、シュタイン湾での彼の言葉を思い出した。

『俺も、エリシアのことが好きだよ』

あの時の彼は、確かに自分を見つめていた。

照れくさそうに笑いながらも、はっきりと想いを伝えてくれた。

その言葉を、疑いたくなかった。

「……そうよね」

エリシアは、小さく微笑んだ。

「……私が、会いたいんだもの」

彼女は、日傘を持ち直した。

そして、玄関の呼び鈴を押した。

屋敷の奥から、柔らかな呼び鈴の音が響く。

しばらくして、扉の向こうから足音が聞こえてきた。

エリシアは姿勢を正した。

扉が開く。

そこには、整えられた服装の若い女性が立っていた。

「……はい、どちら様でしょうか」

エリシアは、丁寧に頭を下げた。

「突然の訪問、失礼します」

女性は、静かに彼女を見つめていた。

エリシアは、少しだけ緊張しながら名乗った。

「エリシア・L・ヴォルハラムと申します」

女性の表情が、わずかに変わった。

「……ヴォルハラム様?」

「はい」

エリシアは、そっと微笑んだ。

「……レイブンに、会いに来ました」

女性は丁寧に頭を下げた。

「少々お待ちくださいませ」

そして、屋敷の奥へ向かっていった。

エリシアは、玄関の前で待った。

手にした旅行鞄が、少しだけ重く感じる。

日傘を持つ指先にも、自然と力が入っていた。

屋敷の奥から、足音が聞こえてきた。

最初は遠く。

そして、少しずつ近づいてくる。

エリシアの胸が、高鳴った。

この足音を知っている。

戦場で何度も聞いた、彼の歩き方だった。

やがて、玄関の扉が開いた。

そこには、軍服ではなく私服を着たレイブンが立っていた。

黒い猫耳。

金色と黒色のオッドアイ。

そして、見慣れた優しい表情。

「……エリシア?」

彼は、驚いたように目を丸くしていた。

その顔を見た瞬間、エリシアの胸に溜まっていた不安が、少しずつ消えていった。

会えた。

たった五日間。

けれど、彼に会うまでの時間は、思っていたよりもずっと長く感じられた。

エリシアは、自然に微笑んだ。

「……こんにちは、レイブン」

彼は、まだ少し驚いているようだった。

「……どうしたの?」

エリシアは、日傘を少し傾けた。

金色の髪が、秋の日差しに照らされる。

「……驚いた?」

レイブンは頷いた。

「……うん。すごく」

その素直な反応が、たまらなく愛おしかった。

エリシアは、少しだけ頬を赤くした。

「……そうでしょうね」

そして、彼の目を見つめた。

戦場で何度も見つめた瞳。

あの日、自分の告白を受け止めてくれた瞳。

その瞳が、今は穏やかな光を宿している。

エリシアは、胸の奥にあった本当の気持ちを、そのまま言葉にした。

「……会いたくなっちゃったから」

レイブンは、また少しだけ驚いた。

エリシアは、嬉しそうに微笑んだ。

「……来ちゃった」

レイブンは、しばらく彼女を見つめていた。

そして、ゆっくりと笑った。

「……そっか」

エリシアは頷いた。

「……うん」

秋の風が、二人の間を通り抜けた。

戦場では、次に会える保証などなかった。

いつ誰が負傷し、いつ別の戦線へ送られるかも分からなかった。

それでも、二人は何度も再会してきた。

そして今、銃声のない場所で向かい合っている。

レイブンは、玄関の扉を大きく開いた。

「……いらっしゃい、エリシア」

その言葉を聞いた瞬間、エリシアの胸が温かくなった。

彼の家。

彼が帰る場所。

その中へ、自分を迎え入れてくれる。

エリシアは、心から嬉しかった。

「……お邪魔します」

彼女は、丁寧に頭を下げた。

そして、レイブンの隣を通って屋敷の中へ入った。

玄関には、穏やかな木の香りが漂っていた。

戦場の硝煙とも、軍の宿舎の匂いとも違う。

誰かが暮らしている家の、温かな香りだった。

レイブンが、彼女の旅行鞄へ手を伸ばした。

「荷物、持とうか?」

エリシアは少し笑った。

「……ありがとう」

鞄を渡す時、二人の指先が触れた。

ほんの一瞬だった。

それだけなのに、エリシアはまた頬が熱くなるのを感じた。

レイブンも、少しだけ照れくさそうに笑っていた。

その顔を見て、エリシアは思った。

自分は、彼のことをまだ何も知らないのかもしれない。

戦場での強さも、仲間を思う優しさも知っている。

けれど、家族の前でどんな顔をするのか。

好きな料理は何なのか。

休日には何をして過ごすのか。

眠る前には、どんなことを考えるのか。

知りたいことが、たくさんあった。

そして、それを知るための時間が、これから始まるのだと思った。

エリシアは、そっとレイブンを見た。

「……ねえ、レイブン」

「何?」

「……これから、いろんなことを教えてね」

レイブンは、少しだけ首を傾げた。

「……いろんなこと?」

「ええ」

エリシアは微笑んだ。

「あなたのこと。あなたの家族のこと。それから……」

少しだけ言葉を止める。

「……戦争が終わった後の、私たちのことも」

レイブンは、しばらく彼女を見つめていた。

そして、穏やかに頷いた。

「……うん」

エリシアは、嬉しそうに笑った。

こうして、共和国軍の若い将校は、帝国の公爵家へ足を踏み入れた。

戦場で出会い、互いの命を預け合い、長い戦争の果てに想いを確かめ合った二人。

エリシアにとって、この五日間は、ただ彼に会うための旅ではなかった。

軍人としてではなく、一人の女性として、レイブンの隣に立つための小さな決意の旅でもあった。

そして、その決意は、クロウ家の玄関で彼が見せた笑顔によって、確かな喜びへと変わっていた。

もう、戦場で彼の無事を祈るだけの日々ではない。

これからは、彼と同じ時間を過ごし、笑い合い、互いを知っていくことができる。

エリシアは、そう信じたかった。

秋の日差しが、玄関の窓から差し込んでいた。

その柔らかな光の中で、エリシア・L・ヴォルハラムは、初めて訪れたクロウ家の温もりを感じていた。

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