第94話 戦火を越えた帰郷、日傘の訪問者
第94話 戦火を越えた帰郷、日傘の訪問者
帝政歴347年10月2日、午前8時16分。
帝国中央軍管区、第三臨時歩兵集成隊帰還集結所。
秋の冷たい風が、兵舎の窓を揺らしていた。
帝国北東部のシュタイン湾から内地へ戻ったレイブン・S・クロウは、第三臨時歩兵集成隊の帰還集結所で、所属部隊の仲間たちとともに整列していた。
第一次世界大戦の終結が宣言されてから、二日が経過していた。
帝国各地では戦勝を祝う式典が準備され、首都の広場には帝国軍の旗が掲げられていた。しかし、帰還した兵士たちの表情は必ずしも明るいものばかりではなかった。
戦争で家族を失った者。
故郷そのものを失った者。
帰る場所はあっても、戦場で失った仲間のことを忘れられない者。
それぞれが異なる思いを抱えながら、長い戦争の終わりを迎えていた。
レイブンも、その一人だった。
黒い猫耳の先には小さな傷が残り、右頬には薄い切創の痕があった。軍服の下にも、銃弾の破片や瓦礫によって負った傷がいくつも残っている。
それでも、彼は生きて帰ってきた。
隣では、ガイル・ベッカーが眠そうに欠伸をしていた。
「……なあ、レイブン」
「何?」
「これ、いつまで並んでりゃいいんだ?」
「もうすぐ説明が始まると思う」
「昨日も説明、今日も説明。戦争が終わっても軍隊ってのは忙しいな」
レイブンは苦笑した。
「帰還後の手続きがあるからね」
「分かってるって。でも、そろそろまともな寝床で寝たいぜ」
その時、兵舎の正面扉が開いた。
エルンスト・フォーゲル少尉が姿を現し、兵士たちの前へ進み出た。
「全員、注目!」
兵士たちは姿勢を正した。
フォーゲルは手にした書類を確認すると、全員を見渡した。
「まずは、第一次世界大戦を生き抜いた諸君の帰還を歓迎する」
兵舎内が静まり返った。
「諸君の中には、長期間にわたり前線勤務を続けてきた者も多い。帝国軍最高司令部は、戦争終結に伴う特別措置として、帰還兵に対する戦勝記念休暇を承認した」
ガイルの耳が、ぴくりと動いた。
「……休暇?」
フォーゲルは続けた。
「期間は一か月。原則として本日から十月三十一日までとする」
兵士たちの間に、ざわめきが広がった。
「ただし、これは除隊ではない。各員は所属部隊の管理下にあり、緊急時の連絡手段を維持すること。負傷者については軍医の指示を優先する」
フォーゲルは、少しだけ表情を緩めた。
「そして、これは帝国軍から諸君への命令でもある」
彼は、はっきりと言った。
「家へ帰れ。家族がいる者は、その顔を見せてこい。休める者は十分に休め。戦場で果たした責務を、今度は自分自身のために果たせ」
しばらくの沈黙の後、兵士たちから歓声が上がった。
ガイルは思わず拳を握った。
「よっしゃあ! 一か月だぞ、レイブン!」
レイブンも笑った。
「うん。やっと帰れるね」
ガイルは肩を組もうとして、レイブンの右肩の傷に気づき、慌てて手を引っ込めた。
「……おっと、悪い」
「大丈夫だよ」
「大丈夫でも気をつける。帰った初日にお前を医務室送りにしたら、セレナさんに怒られそうだからな」
レイブンは思わず笑った。
フォーゲルは兵士たちが落ち着くのを待ち、再び口を開いた。
「各員、休暇証と帰還旅費の支給を受けた後、順次解散とする。なお、クロウ分隊については臨時編成を解除し、所属先への復帰手続きを進める」
レイブンは、隣の仲間たちを見た。
ユリウス、フェリックス、エミール、そしてガイル。
長い戦争をともに生き抜いた仲間たちだった。
レイブンが口を開くより早く、ユリウスが笑った。
「……そんな顔をするなよ。また会えるだろ」
フェリックスも頷いた。
「連絡先は変わってないから」
エミールは穏やかに微笑んだ。
「今度は戦場じゃなくて、普通に集まりたいね」
ガイルが大きく頷いた。
「それだ! 次は全員で飯でも食おうぜ!」
レイブンは笑った。
「……うん。約束」
午前10時42分。
帝国中央軍管区、軍用鉄道駅。
レイブンは、休暇証を軍服の内ポケットへ収めると、駅の通信窓口へ向かった。
久しぶりに、自宅へ連絡するためだった。
通信係の女性が端末を操作し、クロウ家への回線を接続した。
『……はい、クロウ家でございます』
聞き覚えのある声が返ってきた。
レイブンは、思わず微笑んだ。
「……ファニータ?」
『……え?』
通信の向こうで、少しだけ沈黙があった。
『……レイブン様?』
「うん。俺だよ」
『レイブン様!』
ファニータの声が、急に明るくなった。
『ご無事だったのですね!』
「うん。昨日、内地に戻ってきた」
『よかった……本当に、よかったです』
その声には、明らかな安堵が滲んでいた。
レイブンは、少しだけ目を伏せた。
「……心配かけてごめん」
『いいえ。謝らないでください』
ファニータは、すぐに答えた。
『こうしてお声を聞けただけで、十分です』
レイブンは小さく笑った。
「それで、お願いがあるんだけど」
『何でしょうか?』
「今日、家に帰ることになったんだ。一か月の休暇をもらえたから」
『……本当ですか?』
「うん。午後の列車で帰る予定なんだけど、駅まで迎えに来てもらえる?」
『もちろんです!』
返事は、ほとんど即答だった。
『到着予定時刻を教えてください。必ずお迎えに上がります』
「午後三時過ぎになると思う」
『承知しました。お待ちしております』
レイブンは、少しだけ笑った。
「ありがとう、ファニータ」
『……レイブン様』
「何?」
『どうか、お気をつけてお帰りください』
「うん」
通信を終えると、レイブンはしばらく端末を見つめていた。
家に帰る。
それだけのことが、今は何よりも嬉しかった。
午後3時17分。
帝国中央部、クロウ家最寄り駅。
列車が、ゆっくりとホームへ滑り込んだ。
蒸気ではなく、電気式駆動装置を搭載した帝国鉄道の旅客列車だった。
停車と同時に扉が開き、帰還兵や一般乗客が次々と降りてくる。
レイブンも、軍用鞄を肩に掛けてホームへ降り立った。
駅舎の外には、秋の日差しが広がっていた。
久しぶりに見る故郷の景色。
見慣れた建物。
駅前の街路樹。
そして、戦場では聞くことのなかった人々の穏やかな会話。
レイブンは、静かに息を吸った。
「……帰ってきたんだ」
その時だった。
「……レイブン様!」
駅舎の出口から、女性の声が響いた。
振り返ると、ファニータが立っていた。
整えられた服装に、腰まで届く髪。
彼女はレイブンの姿を見つけると、足早に近づいてきた。
そして、目の前で立ち止まった。
「……お帰りなさいませ」
ファニータは、深く頭を下げた。
「レイブン様」
その言葉を聞いた瞬間、レイブンの胸に温かいものが広がった。
何度も聞いたはずの言葉だった。
しかし、今は違って聞こえた。
「……ただいま、ファニータ」
レイブンが微笑むと、ファニータは顔を上げた。
その表情には、嬉しさと安堵が浮かんでいた。
だが、次の瞬間。
彼女の視線が、レイブンの頬へ向かった。
「……レイブン様」
「何?」
「……その傷は?」
レイブンは、少しだけ頬へ手を当てた。
「ああ、これ?」
ファニータは、さらに彼の腕や首元へ視線を向けた。
「……こちらにも傷が」
「戦場で、ちょっとね」
「ちょっと、ではありません!」
ファニータの声が、思わず強くなった。
レイブンは目を丸くした。
「……え?」
ファニータは、すぐに口元を押さえた。
「……失礼しました」
しかし、彼女の表情は真剣だった。
「レイブン様。お身体の具合は、本当に大丈夫なのですか?」
「うん。軍医にも診てもらったし、休暇の許可も出てる」
「……本当に?」
「本当だよ」
ファニータは、しばらくレイブンを見つめた。
そして、静かに息を吐いた。
「……分かりました」
彼女は、レイブンの軍用鞄へ手を伸ばした。
「お荷物をお持ちします」
「大丈夫。自分で持てるよ」
「いいえ」
ファニータは、きっぱりと言った。
「今日は、私にお任せください」
レイブンは、少しだけ困ったように笑った。
「……じゃあ、お願いしようかな」
「はい」
ファニータは嬉しそうに頷いた。
駅前には、クロウ家の車両が停められていた。
ファニータは後部座席の扉を開き、レイブンを案内した。
「どうぞ、レイブン様」
「ありがとう」
レイブンが乗り込むと、ファニータは荷物を積み込み、運転席へ向かった。
車両が走り出すと、窓の外に故郷の街並みが流れ始めた。
戦争の影響で修復中の建物もあったが、街には少しずつ日常が戻っていた。
レイブンは、その景色を静かに見つめていた。
午後4時02分。
クロウ家本邸。
車両が屋敷の前へ到着すると、レイブンはゆっくりと降り立った。
目の前には、見慣れたクロウ家の屋敷があった。
石造りの外壁。
広い庭園。
そして、幼い頃から何度も通った玄関。
レイブンは、しばらくその建物を見つめていた。
「……本当に、帰ってきたんだな」
ファニータが隣で微笑んだ。
「はい。皆様、お待ちになっています」
レイブンは頷いた。
そして、玄関の扉を開いた。
屋敷の中には、懐かしい木の香りが漂っていた。
磨かれた床。
壁に飾られた家族の肖像画。
そして、静かな廊下。
レイブンは、ゆっくりと靴を脱ぎ、屋敷の中へ入った。
「……ただいま」
その声は、思っていたよりも小さかった。
ファニータが微笑んだ。
「お帰りなさいませ」
レイブンは、まず自室へ向かった。
長い廊下を進み、見慣れた扉の前で足を止める。
そして、ゆっくりと扉を開いた。
部屋は、出征前とほとんど変わっていなかった。
机。
本棚。
窓際の椅子。
そして、丁寧に整えられた寝具。
レイブンは、しばらく部屋を見渡していた。
戦場では、何度も帰ることを考えた。
しかし、実際に戻ってみると、何をすればいいのか分からなくなるほどだった。
「……とりあえず、着替えよう」
レイブンは軍服を脱ぎ、傷の残る身体を確認した。
肩。
腕。
胸元。
そして、背中。
それぞれの傷には、戦場での記憶が残っていた。
レイブンは、しばらく鏡の前に立っていた。
そして、静かに息を吐いた。
「……生きて帰ってきた」
その言葉を、もう一度心の中で繰り返した。
着替えを終えると、レイブンは居間へ向かった。
午後4時28分。
クロウ家本邸、居間。
扉を開けた瞬間、レイブンは足を止めた。
「……え?」
居間には、家族が集まっていた。
父、ヴァルター・A・クロウ。
母、セレナ・S・クロウ。
そして、妹のルナ・V・クロウ。
三人とも、レイブンの姿を見つめていた。
最初に動いたのは、ルナだった。
「……お兄ちゃん!」
ルナは勢いよく駆け寄ってきた。
レイブンが反応するよりも早く、彼女は抱きついた。
「……お帰り!」
レイブンは、少しだけよろめいた。
「……ルナ!」
ルナは、彼の胸元へ顔を埋めた。
「……遅いよ」
その声は、少し震えていた。
「……ずっと待ってたんだから」
レイブンは、ゆっくりと妹の背中へ手を回した。
「……ごめん」
ルナは首を横に振った。
「……謝らなくていい」
そして、顔を上げた。
「……帰ってきてくれたから」
レイブンは、少しだけ微笑んだ。
「……ただいま、ルナ」
ルナは笑った。
「……お帰り、お兄ちゃん」
その時、母のセレナが近づいてきた。
「……レイブン」
レイブンは顔を上げた。
「……母さん」
セレナは、しばらく息子の顔を見つめていた。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「……お帰りなさい」
レイブンは、静かに頷いた。
「……ただいま」
セレナは、ゆっくりと彼を抱きしめた。
「……よく帰ってきてくれたわ」
レイブンは、母の温もりを感じながら、目を閉じた。
戦場では、何度も死を覚悟した。
それでも、今はこうして母に抱きしめられている。
その事実が、胸の奥へ静かに染み込んでいった。
しばらくして、セレナが身体を離した。
その後ろには、父のヴァルターが立っていた。
レイブンは、姿勢を正した。
「……父さん」
ヴァルターは、静かに息子を見つめた。
右腕には、強化義肢が装着されている。
その姿は、出征前と変わらなかった。
しかし、表情には、わずかな安堵が浮かんでいた。
「……レイブン」
「はい」
ヴァルターは、ゆっくりと近づいた。
そして、息子の肩へ手を置いた。
「……よく戻った」
レイブンは、少しだけ目を伏せた。
「……はい」
ヴァルターは続けた。
「戦場で何を経験したか、今すぐ話す必要はない」
レイブンは顔を上げた。
「……父さん」
「まずは休め。ここは、お前の家だ」
レイブンは、静かに頷いた。
「……ありがとう」
ヴァルターは、少しだけ微笑んだ。
その時、ファニータが居間へ入ってきた。
彼女の手には、飲み物を載せた盆があった。
「皆様、準備が整いました」
居間の中央には、小さな祝宴の席が用意されていた。
焼きたての料理。
温かなスープ。
そして、家族のために用意された飲み物。
ヴァルターは、グラスを手に取った。
「……では」
家族全員が、それぞれのグラスを持った。
ヴァルターは、レイブンを見た。
「第一次世界大戦の終結と、我が息子の無事な帰還を祝して」
セレナが微笑んだ。
「お帰りなさい、レイブン」
ルナも笑った。
「お兄ちゃん、お帰り!」
ファニータは、静かに頭を下げた。
「ご帰還、おめでとうございます」
レイブンは、家族を見渡した。
そして、微笑んだ。
「……ただいま」
グラスが、静かに触れ合った。
祝杯が交わされ、居間には温かな笑い声が広がった。
戦争が終わった。
そして、レイブンは家へ帰ってきた。
その夜、クロウ家には久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
帝政歴347年10月6日、午前10時24分。
クロウ家本邸。
帰還から数日が経過していた。
レイブンは、久しぶりの休暇を静かに過ごしていた。
朝は庭園を散歩し、昼は読書をし、時には父のヴァルターと軍務について話す。
ルナは、兄が帰ってきたことが嬉しいらしく、何かと理由をつけて彼の部屋へ顔を出していた。
セレナは、レイブンの食事と休養に気を配り、ファニータも彼の身体を心配していた。
そんなある日のことだった。
屋敷の玄関で、呼び鈴が鳴った。
ファニータが玄関へ向かい、扉を開いた。
「……はい、どちら様でしょうか」
そこに立っていたのは、一人の若い女性だった。
金色の髪。
整えられた私服。
片手には小さな旅行鞄と包み。
そして、もう片方の手には、淡い色の日傘が握られていた。
女性は、ファニータへ微笑んだ。
「……突然の訪問、失礼します」
ファニータは、少しだけ首を傾げた。
「……どちら様でしょうか?」
女性は、静かに名乗った。
「エリシア・L・ヴォルハラムと申します」
ファニータは、目を丸くした。
「……ヴォルハラム様?」
「はい」
エリシアは、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……レイブンに、会いに来ました」
ファニータは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、すぐに表情を整えた。
「……少々お待ちくださいませ」
エリシアは頷いた。
「ありがとうございます」
ファニータは、屋敷の奥へ向かった。
その頃、レイブンは居間で本を読んでいた。
そこへ、ファニータが近づいてきた。
「……レイブン様」
「何?」
「お客様がお見えです」
レイブンは顔を上げた。
「……お客様?」
「はい」
ファニータは、少しだけ微笑んだ。
「……エリシア・L・ヴォルハラム様とおっしゃる方です」
レイブンは、思わず本を閉じた。
「……え?」
ファニータは頷いた。
「玄関で、お待ちになっています」
レイブンは、すぐに立ち上がった。
「……エリシアが?」
「はい」
レイブンは、少しだけ驚いた表情のまま玄関へ向かった。
廊下を進み、玄関の扉を開く。
そこには、エリシアが立っていた。
金色の髪が、秋の日差しに照らされている。
淡い色の日傘を肩に掛け、小さな鞄を持った彼女は、レイブンの姿を見ると微笑んだ。
「……こんにちは、レイブン」
レイブンは、しばらく彼女を見つめていた。
「……エリシア?」
エリシアは、少しだけ首を傾げた。
「……驚いた?」
レイブンは頷いた。
「……うん。すごく」
エリシアは、小さく笑った。
「……そうでしょうね」
そして、少しだけ頬を赤くした。
「……会いたくなっちゃったから」
レイブンは、思わず目を丸くした。
エリシアは、微笑んだ。
「……来ちゃった」
レイブンは、しばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そっか」
エリシアは頷いた。
「……うん」
秋の風が、二人の間を通り抜けた。
第一次世界大戦が終わり、ようやく訪れた平穏な日々。
その中で、レイブンとエリシアは、再び顔を合わせた。
今度は、戦場ではなかった。
銃声も、砲声も、異界軍の姿もない。
ただ、穏やかな日差しの下で、二人は互いを見つめていた。
そして、レイブンは微笑んだ。
「……いらっしゃい、エリシア」
エリシアも、嬉しそうに笑った。
「……お邪魔します」
こうして、クロウ家の穏やかな日常に、一人の訪問者が加わった。
その訪問が、やがてクロウ家の未来を大きく変えることになるとは、この時の家族はまだ知らなかった。




