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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第92話 停戦の海に残る影

第92話 停戦の海に残る影


帝政歴345年6月30日、午前5時42分。

帝国北東部、シュタイン湾共同防衛地区。

夜明け前の海は、奇妙なほど静かだった。

数日前まで絶え間なく響いていた砲声は途絶え、海岸線には波が防波堤を叩く音と、巡回する装甲車のエンジン音だけが残っていた。帝国軍の工兵たちは破壊された沿岸道路の復旧を進め、共和国軍の衛生兵は共同救護所で負傷者の治療を続けていた。

帝国と連邦共和国が《帝国・連邦共和国対異界共同戦線協定》を締結してから、一夜が明けていた。

昨日まで暫定的な取り決めによって協力していた両軍は、正式な共同戦線の下で活動を始めていた。しかし、長年の対立が協定書一枚で消えるはずもなかった。

「共和国軍の輸送車両は、東側道路を使ってくれ。西側は帝国軍の補給車列で埋まっている」

「こちらの負傷者搬送を優先してほしい。救護所への到着が遅れている」

「優先順位は共同指揮所で決めたはずだろう」

「その共同指揮所の指示が、まだ届いていないんだ」

道路の交差点では、帝国軍と共和国軍の下士官が互いに地図を指しながら言い合っていた。

少し離れた場所で、その様子を見ていたガイル・ベッカーが呆れたように息を吐いた。

「……昨日はあんなに仲良く握手してたのにな」

隣にいたレイブン・S・クロウは、苦笑した。

「昨日握手したのは政府の代表だからね」

「現場はそう簡単にいかねえってか」

「うん。使っている無線機も、車両も、補給の方法も違うから」

レイブンはSG-44の負い紐を直しながら、共同防衛地区の中央へ視線を向けた。

帝国軍の赤い識別旗と共和国軍の青い識別旗が、同じ指揮所の屋上で風に揺れている。

見慣れない光景だった。

「それに、昨日まで敵だった相手を急に信用しろって言われても、難しいと思う」

「……まあ、そうだよな」

ガイルは頷いた。

「俺だって、共和国軍の戦車がこっちに砲塔向けたら身構えるぜ」

「今は向けてないよ」

「例え話だって!」

レイブンは小さく笑った。

その時、背後から聞き覚えのある声がした。

「朝から何を騒いでいるの?」

振り返ると、エリシア・L・ヴォルハラム少尉が歩いてきた。

金色の髪を後ろでまとめ、共和国軍の軍服の上から軽量の防弾装備を着用している。肩にはHARが掛けられ、腰には拳銃が収まっていた。

その後ろにはセルゲイ・オルロフ軍曹もいた。

「おはよう、エリシア」

レイブンが声を掛けると、エリシアは微笑んだ。

「おはよう、レイブン。ガイルも」

「おう、おはよう!」

ガイルは彼女の肩章を見た。

「……そういや、少尉になった理由、まだ聞いてなかったな」

エリシアの表情が、わずかに曇った。

レイブンはガイルへ視線を向けた。

「ガイル」

「……あ」

ガイルは頭を掻いた。

「悪い。聞かれたくないことなら、別にいい」

エリシアは首を横に振った。

「いいの。隠すつもりはないわ」

彼女は少しだけ海へ視線を向けた。

「《メデューサー》の投下に反対したの」

レイブンの表情が変わった。

「……共和国軍の核融合爆薬?」

「ええ。避難が終わっていない地域だったから、延期を求めた。でも、命令は変わらなかった」

ガイルは黙って聞いていた。

「それでも反対を撤回しなかったから、軍命令への反抗として降格されたの」

レイブンは、しばらく何も言わなかった。

エリシアは小さく笑った。

「軍人としては、問題のある行動だったのかもしれないわね」

「……後悔してる?」

レイブンが尋ねた。

エリシアは首を横に振った。

「いいえ」

その答えには、迷いがなかった。

「処分を受けたことは悔しい。でも、あの時の判断を間違っていたとは思わない」

レイブンは静かに頷いた。

「……そうなんだ」

エリシアは彼を見た。

「あなたは、どう思う?」

レイブンは少し考えた。

「……俺は、その場にいなかったから、全部が分かるわけじゃない」

そして、続けた。

「でも、避難している人たちを守ろうとしたんだよね」

「……ええ」

「だったら、少なくとも、その理由は忘れちゃいけないと思う」

エリシアは、しばらく彼を見つめていた。

やがて、微笑んだ。

「……ありがとう」

ガイルは二人の間に流れる空気を感じ取り、わざとらしく咳払いした。

「……で、今日は何するんだ?」

エリシアは小さく笑い、手にしていた書類を示した。

「共同指揮所からの命令よ。私たち、同じ任務に就くことになったみたい」

レイブンは顔を上げた。

「……同じ任務?」

「ええ。シュタイン湾の異界門を調査するための先行警戒任務」

ガイルは、海の方を見た。

「……あの門か」

沖合には、青白い光の輪がまだ浮かんでいた。

以前よりも小さく見えるものの、完全に閉じたわけではない。

レイブンは頷いた。

「……分かった。準備しよう」

午前7時16分。

シュタイン湾、共同臨時作戦指揮所。

指揮所の内部には、帝国軍と共和国軍の将校たちが集まっていた。

中央の大型地図には、シュタイン湾の海岸線と異界門の位置が表示されている。

帝国軍の沿岸防衛司令官、ハインツ・フォン・ヴェルナー大佐が説明を始めた。

「今回の任務は、異界門周辺の状況確認と、海岸防衛線の安全確保だ」

共和国軍側の連絡将校、アレクセイ・モロゾフ中佐が続けた。

「門の活動は昨日から低下している。しかし、完全な停止は確認されていない」

ヴェルナー大佐は地図を指した。

「観測班の報告によれば、異界門の周辺では周期的な発光が確認されている。発光の直後には、通信障害が発生することもある」

ユリウス・ヴェーバーが顔を上げた。

「……通信障害?」

「そうだ」

大佐は頷いた。

「原因は不明だが、異界門の活動と関係している可能性がある」

レイブンは、ハルテンフェルト森林地帯で発見した通信装置を思い出した。

あの装置も、青白い光を放っていた。

そして、異界軍の撤退命令に似せた偽通信が流れたのも、その後だった。

すべてが同じ仕組みなのかどうかは分からない。

しかし、無関係だと決めつけることもできなかった。

レイブンは手を挙げた。

「……質問してもよろしいでしょうか」

ヴェルナー大佐が頷いた。

「構わん」

「以前、ハルテンフェルト森林地帯で異界軍の通信装置と思われる施設を発見しました」

「報告は受けている」

「その装置も青白い光を放っていました。今回の異界門と関係がある可能性はありませんか?」

大佐は、しばらく考えた。

「現時点では断定できない」

モロゾフ中佐が口を開いた。

「だが、調査する価値はある」

レイブンは頷いた。

「ありがとうございます」

ヴェルナー大佐は、地図の南側を指した。

「クロウ分隊とヴォルハラム少尉の小隊には、南側防波堤の警戒を任せる」

エリシアが姿勢を正した。

「了解しました」

「任務は、観測班の護衛と異界門周辺の監視だ。敵が現れた場合は、まず報告を優先しろ」

レイブンも頷いた。

「了解しました」

モロゾフ中佐が続けた。

「今回の任務では、帝国軍と共和国軍の双方が共同で行動する。ただし、各部隊の指揮権はそれぞれの所属軍に残る」

エリシアは頷いた。

「承知しています」

レイブンも同様に答えた。

こうして、〈不死身の分隊〉とエリシアの臨時小隊は、正式な共同戦線の下で初めて同じ任務へ向かうことになった。

午前9時28分。

シュタイン湾、南側防波堤。

海風が強く吹き、波がコンクリート構造物へ打ちつけていた。

帝国軍の観測班は、防波堤の上に設置された測定装置を確認していた。

その周囲では、レイブンたちが警戒に当たっている。

フェリックスは双眼鏡で海面を監視し、ユリウスは通信状態を確認していた。

エミールは、共同救護班との連絡を担当している。

ガイルは、少し離れた場所で共和国軍のオルロフ軍曹と話していた。

「……共和国軍の小銃って、帝国軍のより重いのか?」

ガイルが尋ねた。

オルロフは自分の小銃を見た。

「モデルによるな。こちらは耐久性と整備の容易さを重視している」

「なるほどな。俺たちのはアタッチメントが多いから、装備によっては結構重くなる」

「共和国軍も同じだ。特殊部隊向けの装備は別だが」

ガイルは笑った。

「結局、どこの軍でも重いもんは重いってことか」

オルロフも苦笑した。

「そういうことだ」

少し離れた場所で、レイブンとエリシアは異界門を見つめていた。

門は海面からわずかに浮かび、青白い光を放っている。

以前ほど大きくはない。

しかし、内部の光はゆっくりと回転していた。

「……不思議ね」

エリシアが呟いた。

「何が?」

「昨日まで、私たちは敵国の軍人だったのに」

レイブンは彼女を見た。

「……うん」

「今は、こうして一緒に海を見ている」

レイブンは少し笑った。

「そうだね」

エリシアは、しばらく黙っていた。

そして、静かに尋ねた。

「……レイブンは、これからどうしたい?」

レイブンは海を見つめた。

「……まずは、異界軍を止めたい」

「ええ」

「それから、帝国の北部を取り戻したい」

エリシアは頷いた。

「……そうね」

レイブンは続けた。

「でも、それだけじゃない」

エリシアが顔を向けた。

「……何?」

「戦争が終わったら、家に帰りたい」

エリシアは少しだけ目を丸くした。

「……家?」

「うん。父さんと母さん、それからルナに会いたい」

レイブンは微笑んだ。

「もう、ずいぶん長いこと帰ってないから」

エリシアは、少しだけ表情を和らげた。

「……いいわね」

「エリシアは?」

彼女は少し考えた。

「……私も、帰りたい場所はあるわ」

そして、静かに続けた。

「でも、その前に、助けられる人を助けたい」

レイブンは頷いた。

「……エリシアらしいね」

彼女は小さく笑った。

「そうかしら」

その時、観測班の兵士が声を上げた。

「……異界門の発光が変化しています!」

二人は同時に振り返った。

海面に浮かぶ異界門の光が、ゆっくりと強くなっていた。

青白い光の輪が広がり、その内部に複雑な模様が浮かび上がる。

レイブンは、思わず息を呑んだ。

「……あれ」

エリシアが顔を向けた。

「どうしたの?」

「ハルテンフェルトの通信装置と、似てる」

観測班の兵士が記録装置を操作した。

「発光周期が変化! 通信障害も確認!」

ユリウスが無線機を確認した。

「……本当だ。雑音が増えてる」

レイブンは異界門を見つめた。

その時、門の内部に一瞬だけ、黒い影が現れた。

人間のようにも見える。

しかし、輪郭がはっきりしない。

「……何かいる」

レイブンが呟いた。

フェリックスが双眼鏡を構えた。

「どこ?」

「門の中央」

フェリックスはしばらく観察した。

しかし、首を横に振った。

「……見えない」

レイブンは、もう一度目を凝らした。

だが、影はすでに消えていた。

エリシアが静かに言った。

「……見間違い?」

「……かもしれない」

レイブンは答えた。

しかし、胸の奥には嫌な感覚が残っていた。

午前10時14分。

シュタイン湾、共同臨時作戦指揮所。

観測班からの報告を受け、ヴェルナー大佐とモロゾフ中佐は緊急協議を行っていた。

「異界門の発光周期が変化した?」

ヴェルナー大佐が尋ねた。

通信担当者が頷いた。

「はい。さらに、周辺の通信機器で障害が発生しています」

モロゾフ中佐は資料を確認した。

「……ハルテンフェルトの装置と似た現象か」

「可能性があります」

ヴェルナー大佐は、しばらく考えた。

「……門の向こうに、何かがいるのかもしれん」

モロゾフ中佐が顔を上げた。

「……何か?」

「分からん。だが、異界軍が撤退した理由も、まだ解明されていない」

大佐は地図を見つめた。

「もし、撤退が単なる敗走ではなかったとしたら……」

モロゾフ中佐は、しばらく黙っていた。

そして、低い声で言った。

「……何かを準備している可能性がある」

ヴェルナー大佐は頷いた。

「その通りだ」

彼は通信担当者へ指示した。

「観測を継続しろ。異界門周辺の警戒を強化する」

「了解しました」

大佐は、さらに続けた。

「それと、両国の技術調査班へ連絡しろ。異界門の構造解析を急がせる」

「了解!」

午前11時36分。

シュタイン湾、南側防波堤。

異界門の発光は、再び弱まっていた。

しかし、観測班の測定装置には、通常とは異なる反応が記録されていた。

レイブンは、海面に浮かぶ門を見つめていた。

エリシアが隣へ来た。

「……まだ気になる?」

「うん」

レイブンは頷いた。

「何か、見られているような気がした」

エリシアは、しばらく彼を見つめた。

「……殺気を感じたの?」

レイブンは首を横に振った。

「……違うと思う」

彼の〔殺気看破(アタック・シールド)〕は、敵意や攻撃の兆候を感じ取る能力だった。

しかし、今回の感覚はそれとは違っていた。

ただ、何かがそこに存在しているような気がした。

「……分からない」

レイブンは呟いた。

エリシアは、静かに頷いた。

「……そう」

その時、ガイルが近づいてきた。

「おーい、二人とも!」

レイブンが振り返った。

「何?」

「交代時間だ。飯が来たぞ!」

エリシアは少し笑った。

「……あなた、本当に食事の時間だけは忘れないのね」

「当たり前だろ! 腹が減ってちゃ戦えねえ!」

レイブンも笑った。

「……そうだね」

三人は、防波堤の後方へ歩き始めた。

帝国軍と共和国軍の兵士たちは、同じ補給所で食料を受け取っていた。

まだ互いに警戒する者もいたが、少しずつ会話が生まれていた。

装備の話。

故郷の話。

食事の話。

そして、戦争が終わった後の話。

その光景を見ながら、レイブンは思った。

昨日まで敵だった相手と、同じ場所で食事をする。

それは、決して当たり前のことではない。

しかし、今は確かに、そうした時間が生まれていた。

午後1時09分。

シュタイン湾沖合、異界門内部。

青白い光が、静かに揺れていた。

門の向こう側には、帝国軍も共和国軍も知らない空間が広がっている。

その奥で、何かが動いた。

黒い影が、ゆっくりと光の前へ現れる。

その姿は、まだはっきりとは見えない。

しかし、影はしばらくの間、門の向こうから海岸を見つめていた。

やがて、低い声が響いた。

「……二つの軍旗が、並んだか」

その声は、人間の言葉に似ていた。

だが、帝国語でも共和国語でもなかった。

影は、しばらく黙っていた。

そして、静かに続けた。

「……ならば、次の段階へ進む」

青白い光が、一瞬だけ強くなった。

その後、門は再び静寂に包まれた。

帝国と共和国は、正式な共同戦線を結んだ。

両国の兵士たちは、同じ戦場で協力し始めていた。

しかし、異界軍もまた、何かを準備していた。

その目的は、まだ誰にも分からない。

レイブン・S・クロウとエリシア・L・ヴォルハラムは、同じ海岸で新たな任務を続けていた。

そして、彼らの目の前にある異界門は、静かに次の戦いを待っていた。

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