第90話 偽りの撤退命令、海岸の再会
第90話 偽りの撤退命令、海岸の再会
帝政歴345年6月20日、午後4時38分。
帝国北部、ハルテンフェルト森林地帯。
夕暮れが近づく森の中で、レイブン・S・クロウは足を止めた。
帝都北方の司令部から撤退命令を受けて、すでに十分ほどが経過していた。〈不死身の分隊〉は観測地点から離れ、南へ続く林道を進んでいたが、レイブンの胸には説明のつかない違和感が残っていた。
風が木々を揺らし、枝葉の擦れる音が頭上から降ってくる。
それ以外に、異常な音は聞こえない。
それなのに、何かがおかしかった。
「……全員、停止」
レイブンが声を落とすと、先頭を歩いていたフェリックス・ブラントが振り返った。
「どうした?」
「少し待ちたい」
ガイル・ベッカーが眉を上げた。
「待つ? 司令部から帰還命令が出てるんだぞ」
「分かってる。でも、気になることがある」
レイブンは背後の森を見た。
黒い猫耳が、ゆっくりと向きを変える。
「さっきの通信、少し変じゃなかった?」
通信担当のユリウス・ヴェーバーが顔を上げた。
「……変?」
「いつもの司令部なら、帰還地点と合流先を指定するはずだよね」
ユリウスは無線機を見下ろした。
「確かに、今回は『後退して後続部隊と合流しろ』としか言われなかった」
「それに、後続部隊の識別情報もなかった」
レイブンが続けると、ユリウスの表情が険しくなった。
「……言われてみれば、そうだな」
ガイルは周囲を見渡した。
「つまり、命令が怪しいってことか?」
「まだ分からない。通信が混乱しているだけかもしれない」
レイブンは答えた。
「でも、確認せずに動くのは危険だと思う」
エミール・シュナイダーが、救護装備の肩紐を直しながら言った。
「それなら、ここで通信を取り直そう」
「うん。ユリウス、お願い」
「了解」
ユリウスは無線機を操作した。
だが、返ってきたのは激しい雑音だった。
『……ザザッ……こちら……北方……』
「こちらクロウ分隊。第三臨時歩兵集成隊本部、応答願います」
応答はない。
代わりに、同じような雑音が繰り返された。
ユリウスは周波数を確認し、もう一度呼びかけた。
「……おかしい」
「どうした?」
「さっきまで使えていた回線なのに、応答がない」
レイブンは森の奥を見た。
異界軍は秩序を保って北へ撤退していた。
その動きを確認した直後に、曖昧な帰還命令が届いた。
偶然かもしれない。
だが、もし違うとしたら。
「……もう少し、ここに留まろう」
ガイルはレイブンを見た。
「お前の勘か?」
「……うん」
ガイルは一度だけ息を吐き、小銃を持ち直した。
「分かった。お前がそこまで気にするなら、付き合う」
午後4時51分。
ハルテンフェルト森林地帯、南側林道。
しばらくすると、森の向こうから車両の走行音が聞こえてきた。
レイブンの耳が動いた。
「……車両が来る」
フェリックスが双眼鏡を構えた。
「帝国軍だ。軽装甲車が二両、その後ろに歩兵がいる」
やがて、林道の向こうから帝国軍の車列が姿を現した。
先頭の車両には帝国軍の識別標識があり、その後ろを一個分隊規模の歩兵が警戒しながら進んでいる。さらに後方には、徒歩と車両に分かれた歩兵中隊が続いていた。
レイブンは道路脇へ出て、片手を上げた。
「帝国陸軍! 第三臨時歩兵集成隊、独立行動分隊です!」
先頭の車両が停止した。
車内から、帝国軍の中尉が顔を出した。
「クロウ分隊か?」
「はい!」
中尉は車両から降りると、レイブンたちを見渡した。
「お前たち、ここで何をしている?」
「司令部から撤退命令を受けました。ただし、内容に不審な点があったため、再確認を試みています」
中尉の表情が変わった。
「……撤退命令?」
「はい」
「いつ受信した?」
「約二十分前です」
中尉は舌打ちした。
「やはり、ここにも流れていたか」
レイブンは眉を寄せた。
「……どういうことですか?」
中尉は、同行していた通信兵へ合図した。
「説明してやれ」
通信兵が携行端末を開いた。
「現在、北部方面軍の複数部隊で偽命令が確認されています」
ユリウスが顔を上げた。
「偽命令?」
「ああ。正規の通信回線に似せた音声で、撤退や部隊移動を指示している」
中尉が続けた。
「軍の認証情報と一致しない命令が、いくつも流れているんだ」
ガイルが目を見開いた。
「……じゃあ、俺たちが聞いたのも?」
「敵の欺瞞通信である可能性が高い」
中尉は頷いた。
「司令部は、正規の認証を伴わない撤退命令には従わないよう通達している」
レイブンはユリウスを見た。
ユリウスも、険しい表情で頷いた。
「……やっぱり、何かおかしかったんだ」
中尉はレイブンへ視線を戻した。
「お前たちが留まっていたのは正解だった。ただし、勘だけで判断するな。今後は命令の認証を必ず確認しろ」
「了解しました」
レイブンは敬礼した。
中尉は地図を取り出した。
「我々は第六機動歩兵中隊だ。北方の部隊と合流するために移動している」
彼は地図の東側を指した。
「それと、もう一つ。帝国北東部の海岸で異常が確認された」
「……海岸ですか?」
「ああ」
中尉は続けた。
「新たな異界門が開きつつあるらしい」
レイブンの表情が引き締まった。
異界門。
グラーフェンを崩壊させ、帝都を目前まで追い詰めたものと同じ存在。
「……規模は?」
「まだ不明だ。ただし、周辺の沿岸警備部隊から緊急支援要請が出ている」
中尉はレイブンたちを見渡した。
「お前たちも動けるなら、我々と同行してくれ」
レイブンはガイルを見た。
ガイルは頷いた。
「……どうする、分隊長?」
レイブンは少し考えた。
司令部との通信は混乱している。
しかし、目の前の中尉は正規の部隊を率いており、命令の認証情報も確認できた。
それに、異界門の出現を放置するわけにはいかない。
「……同行します」
中尉は頷いた。
「よし。車両に乗れ」
ガイルは小さく笑った。
「……また忙しくなるな」
レイブンも苦笑した。
「……本当にね」
午後5時17分。
連邦共和国西部、第十九独立歩兵大隊前線指揮所。
エリシア・L・ヴォルハラム少尉は、最後の負傷兵が救護車両へ搬送されるのを見届けていた。
前日の《メデューサー》投下によって、共和国西部の沿岸地域は甚大な被害を受けていた。
異界軍の集結部隊は損害を受けたものの、周辺の道路や施設も破壊され、避難民の移動は困難になっていた。
エリシアは、臨時小隊の兵士たちとともに避難民の誘導と負傷者の救護を続けていた。
「……少尉」
セルゲイ・オルロフ軍曹が近づいてきた。
「最後の車両が出発しました」
エリシアは頷いた。
「ありがとう、軍曹」
「これで、担当区域の避難民は全員移動したはずです」
「負傷兵は?」
「救護所への引き渡しを確認しました」
エリシアは、ようやく小さく息を吐いた。
「……よかった」
しかし、休む間もなく通信兵が駆け込んできた。
「ヴォルハラム少尉!」
エリシアは振り返った。
「どうしました?」
「大隊本部から緊急命令です!」
通信兵は書類を差し出した。
エリシアは受け取り、内容を確認した。
そこには、予想していなかった命令が記されていた。
帝国北東部沿岸地域への即応支援派遣。
エリシアは目を見開いた。
「……帝国へ?」
通信兵は頷いた。
「はい。異界軍の新たな侵攻に対し、共和国軍の一部部隊が帝国軍と共同で対応することになったそうです」
オルロフ軍曹も驚いた。
「……帝国軍と?」
エリシアは書類を読み進めた。
共和国軍と帝国軍の間では、異界軍への対処を目的とした限定的な軍事連絡が始まっていた。
正式な講和ではない。
両国の戦争が終わったわけでもない。
しかし、異界軍の侵攻によって、双方の軍は協力を迫られていた。
エリシアは、しばらく書類を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「……出発準備を」
オルロフ軍曹が顔を上げた。
「了解しました」
「負傷者の搬送が完了したことを大隊本部へ報告してください。それから、派遣要員の装備を確認します」
「了解!」
オルロフ軍曹は敬礼し、部下たちへ指示を出し始めた。
エリシアは、もう一度命令書を見た。
帝国北東部沿岸。
そこには、レイブンがいるかもしれない。
だが、今は個人的な理由で動くわけにはいかなかった。
彼女は共和国軍の少尉として、与えられた任務を果たさなければならない。
午後6時02分。
帝国北東部、シュタイン湾沿岸。
海岸線には、激しい風が吹いていた。
灰色の雲が低く垂れ込め、波が防波堤へ打ちつけている。
その沖合に、奇妙な光が浮かんでいた。
青白い光の輪。
空間そのものが歪んだような、不自然な円形の構造。
異界門だった。
しかも、その門は徐々に大きくなっていた。
帝国軍の沿岸警備部隊は、すでに周辺地域の避難を開始していた。
しかし、異界門からは未知の兵士たちが次々と現れ始めていた。
海面近くに浮かぶ門から、装甲をまとった異界軍兵士が出現する。
その中には、水面を移動できる大型生物もいた。
帝国軍の沿岸砲台が火を噴いた。
砲弾が海面に着弾し、巨大な水柱が立ち上がる。
しかし、異界軍は進撃を止めなかった。
午後6時14分。
シュタイン湾、南側臨時上陸地点。
共和国軍の輸送艇が、波を切って接近していた。
艇内には、エリシア少尉とオルロフ軍曹を含む即応支援部隊が乗っていた。
エリシアは、海岸の向こうを見つめた。
そこでは、帝国軍の砲撃による煙が立ち上っている。
「……もう戦闘が始まっている」
オルロフ軍曹が言った。
「少尉、上陸後の指揮系統は?」
「現地の帝国軍沿岸防衛司令部と連絡を取ります」
エリシアは答えた。
「ただし、共和国軍の部隊としての指揮権は維持します。共同任務の範囲を確認してから行動しましょう」
「了解しました」
輸送艇が岸へ近づいた。
上陸地点では、帝国軍の兵士たちが待機していた。
エリシアは装備を確認し、艇が接岸すると同時に降り立った。
帝国の海岸。
かつて敵国として見ていた場所。
今は、その国を守るために来ていた。
午後6時17分。
シュタイン湾、沿岸防衛線。
同じ頃、帝国軍第六機動歩兵中隊の車列が海岸へ到着した。
その中には、〈不死身の分隊〉の姿もあった。
レイブンは車両から降り、海岸線を見つめた。
遠くの海には、青白い異界門が浮かんでいる。
その周囲には、異界軍の兵士たちが集まり始めていた。
「……また、あれか」
ガイルが呟いた。
レイブンはSG-44を握り直した。
「……うん」
ユリウスは通信機を確認していた。
「現地司令部から連絡が入った。南側防衛区画へ移動してほしいそうだ」
「了解」
レイブンは頷いた。
その時、海岸の反対側から別の部隊が到着した。
灰色がかった軍服。
帝国軍とは異なる装備。
そして、見覚えのある識別章。
ガイルが目を丸くした。
「……おい、レイブン」
「何?」
「あれ、共和国軍じゃねえか?」
レイブンは振り返った。
確かに、共和国軍の兵士たちが海岸へ上陸していた。
その先頭に、一人の金髪の女性将校がいた。
レイブンの足が止まった。
「……え?」
金色の髪。
凛とした表情。
そして、見覚えのある横顔。
「……エリシア?」
その声に、女性将校が振り返った。
エリシア・L・ヴォルハラム少尉だった。
彼女も、レイブンを見た瞬間に動きを止めた。
「……レイブン?」
しばらく、二人は互いを見つめていた。
周囲では、帝国軍と共和国軍の兵士たちが慌ただしく移動している。
遠くでは砲声が響き、異界門から現れた敵が海岸へ向かっていた。
それでも、二人には一瞬だけ、周囲の音が遠くなったように感じられた。
レイブンは、ゆっくりと近づいた。
「……無事だったんだ」
エリシアも歩み寄った。
「……あなたこそ」
レイブンは、少しだけ笑った。
「……久しぶり」
エリシアも微笑んだ。
「……ええ。久しぶりね」
ガイルが二人を見比べた。
「……おいおい、こんなところで再会するのかよ」
エリシアはガイルへ視線を向けた。
「ガイルも無事だったのね」
「おう。何とか生きてるぜ」
ガイルは笑った。
「それより、エリシア中尉――」
そこで言葉を止めた。
彼女の肩章が、以前と違っていたからだ。
「……あれ?」
エリシアは、少しだけ目を伏せた。
「……今は少尉よ」
レイブンも気づいた。
「……少尉?」
「いろいろあったの」
エリシアは短く答えた。
レイブンは、それ以上尋ねなかった。
彼女の表情から、簡単に話せることではないと分かったからだ。
その時、沿岸防衛司令部から命令が響いた。
「全員、戦闘配置! 異界軍が海岸へ接近中!」
レイブンとエリシアは、同時に海の方を向いた。
青白い異界門から、さらに多くの異界軍兵士が現れている。
その中には、巨大な装甲生物もいた。
帝国軍の沿岸砲台が再び火を噴いた。
砲弾が海面に着弾し、水柱が立ち上がる。
しかし、異界軍の一部はすでに浅瀬へ到達していた。
「……話はあとね」
エリシアが言った。
レイブンは頷いた。
「うん」
ガイルが小銃を構え直した。
「よし。じゃあ、久しぶりの共同戦闘といくか!」
エリシアは、少しだけ笑った。
「共同戦闘なんて、初めてでしょう?」
「細かいことはいいんだよ!」
レイブンも小さく笑った。
しかし、すぐに表情を引き締めた。
「……ガイル、分隊をまとめて」
「了解!」
レイブンはユリウスへ視線を向けた。
「通信を確保して。帝国軍と共和国軍の位置情報を共有したい」
「了解」
エリシアもオルロフ軍曹へ指示を出した。
「共和国軍の小隊を南側へ展開。帝国軍と射界が重ならないよう、現地指揮所と調整して」
「了解しました!」
オルロフ軍曹が部下たちへ指示を伝えた。
レイブンとエリシアは、互いに顔を見合わせた。
帝国軍の兵士と共和国軍の将校。
本来なら、敵国同士。
しかし、今は同じ海岸を守るために立っていた。
「……エリシア」
「何?」
「無理しないで」
エリシアは、少しだけ目を丸くした。
そして、微笑んだ。
「……あなたもね」
午後6時29分。
シュタイン湾、南側防衛区画。
異界軍の先鋒が、ついに海岸へ到達した。
帝国軍の機関銃が火を噴き、共和国軍の小銃も応射を始める。
銃声が重なり、海岸に硝煙が広がった。
レイブンはSG-44を構え、接近する異界軍兵士へ照準を合わせた。
ガイルはその隣で小銃を構えている。
少し離れた位置では、エリシアが共和国軍の兵士たちを指揮していた。
「左側の敵を確認! 射撃位置を維持して!」
エリシアの声が響く。
オルロフ軍曹が答えた。
「了解!」
レイブンは、異界軍兵士の動きを確認した。
装甲をまとった敵が、海岸の岩場を越えて接近してくる。
SG-44が火を噴いた。
銃声とともに、敵の装甲へ衝撃が走る。
しかし、敵は完全には止まらなかった。
「……硬い!」
レイブンが呟いた。
ガイルが隣から応射した。
「レイブン、下がれ!」
レイブンは遮蔽物の陰へ身を寄せた。
異界軍の兵士が、手にした武器から青白い光を放った。
光弾が岩場へ着弾し、破片が飛び散る。
「……っ!」
レイブンは腕で顔を庇った。
その時、少し離れた場所からエリシアの声が響いた。
「レイブン! 右側!」
レイブンは反射的に顔を向けた。
右側の岩場から、別の異界軍兵士が現れていた。
エリシアの小隊が応射し、敵の動きを止める。
レイブンはすぐに体勢を立て直した。
「……ありがとう!」
エリシアは頷いた。
「お互い様よ!」
ガイルが笑った。
「いい連携じゃねえか!」
しかし、次の瞬間、海の向こうから巨大な咆哮が響いた。
異界門が、さらに大きく開いていた。
青白い光の輪が海面を照らし、その奥から巨大な影が現れ始める。
帝国軍の観測兵が叫んだ。
「大型個体、出現!」
レイブンは、ゆっくりと海を見た。
門の向こうから現れたのは、これまで見た異界生物よりも大きな存在だった。
分厚い装甲に覆われた巨体。
長い四肢。
そして、背中に並ぶ巨大な突起。
その姿は、海岸に展開していた帝国軍と共和国軍の兵士たちを圧倒した。
「……嘘だろ」
ガイルが呟いた。
レイブンは、SG-44を握り直した。
エリシアも、遠くの巨体を見つめていた。
やがて、彼女が口を開いた。
「……レイブン」
「何?」
「今度は、逃げるわけにはいかないわね」
レイブンは、少しだけ黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……うん」
帝国軍と共和国軍。
二つの軍旗が、同じ海岸で翻っていた。
その前方では、異界門から現れた巨大な敵が、ゆっくりと海岸へ向かっていた。
レイブンはガイルを見た。
「……準備は?」
ガイルは小銃を構え直した。
「いつでも!」
レイブンはエリシアへ視線を向けた。
「……行こう」
エリシアは頷いた。
「ええ」
その瞬間、海岸に再び砲声が響いた。
帝国軍の沿岸砲台が火を噴き、共和国軍の支援火器が応射する。
レイブンとエリシアは、それぞれの部隊を率いて戦闘を開始した。
帝政歴345年6月20日。
帝国北東部、シュタイン湾。
偽りの撤退命令を見破った〈不死身の分隊〉は、帝国軍の増援部隊とともに沿岸へ向かった。
そして、共和国軍から即応支援として派遣されたエリシア・L・ヴォルハラム少尉と再会した。
帝国と共和国は、なお戦争状態にあった。
しかし、異界軍という共通の敵を前に、両軍は初めて本格的な共同戦闘を開始した。
その戦場で、レイブンとエリシアは再び肩を並べた。
そして、彼らの目の前では、新たな異界門が開き続けていた。




