第86話 帝都目前、不死身の分隊
第86話 帝都目前、不死身の分隊
帝政歴345年6月18日、午前5時42分。
帝国北部、帝都北方防衛圏。
夜明け前の空を、鈍い橙色の光が染めていた。
それは朝日ではなかった。北方の丘陵地帯で燃え続ける燃料集積所と、撤退する帝国軍が放棄した車両群から立ち上る炎だった。
レイブン・S・クロウは、輸送車両の荷台からその光景を眺めていた。
黒い猫耳には、遠方から響く砲声と、舗装路を走る車両の振動が絶え間なく伝わってくる。軍服は泥と煤に汚れ、左肩には包帯が巻かれていた。
隣では、ガイル・ベッカーが制式小銃を膝に置き、黙って座っている。
グラーフェン防衛線が崩壊してから、すでに何度も後退を繰り返していた。
最初は数キロメートル。
次は十数キロメートル。
その次は、地図に記された防御線そのものが消えていた。
異界軍は、帝国軍が新たな陣地を構築するよりも早く進撃してきた。
戦車部隊を投入すれば、大型の異界生物が現れた。
砲兵部隊が集中射撃を行えば、敵は損害を受けながらも別の経路から侵入してきた。
航空部隊による攻撃も行われたが、敵の兵器体系も防空能力も十分に解明されておらず、損害を覚悟した出撃が続いていた。
帝国軍は戦っていた。
ただし、戦いながら後退することしかできなくなっていた。
「……なあ、レイブン」
ガイルが口を開いた。
「何?」
「俺たち、今どこにいるんだ?」
レイブンは折り畳んだ軍用地図を広げた。
赤鉛筆で引かれた防衛線は、何度も書き直されていた。
「帝都から北へ、およそ四十キロの地点」
ガイルは顔を上げた。
「……四十?」
「うん」
「おいおい、冗談だろ。グラーフェンから、ここまで押し込まれたってのか?」
レイブンは地図を見つめた。
「……そういうことになる」
ガイルは舌打ちした。
「くそったれ……」
その時、車列の前方で警笛が鳴った。
輸送車両が減速し、やがて停止する。
前方には検問所が設けられ、帝国軍の憲兵と歩兵が車両の誘導を行っていた。
その向こうには、帝都へ続く幹線道路が見える。
道路の両側には、避難する民間人の車両が長い列を作っていた。
家財道具を積んだ乗用車。
荷台に家族を乗せた農業用トラック。
子供を抱えながら歩く母親。
荷車を引く老人。
そして、行き場を失った人々。
レイブンは、その光景から目を離せなかった。
「……帝都まで、逃げてきたんだ」
ガイルも黙って見つめていた。
帝国軍の兵士たちは、これまで国境の向こうにいる敵を想定して訓練を受けてきた。
だが今、敵は国境を越え、北部の都市を突破し、帝都の目前まで迫っていた。
帝国という国家そのものが、戦場になろうとしていた。
午前7時15分。
帝都、帝国中央政府庁舎。
重厚な扉が閉じられた会議室では、帝国政府の閣僚と軍最高司令部の将官たちが集まっていた。
壁には帝国全土の地図が掲げられ、北部から帝都へ向かう異界軍の進撃経路が記されている。
「北部方面軍の残存戦力は?」
政府首脳の問いに、参謀総長が答えた。
「現在、帝都北方防衛圏へ集結中です。ただし、部隊の再編は完了しておらず、指揮系統の一部も回復していません」
「共和国軍の動向は?」
「共和国軍も異界軍の攻撃を受けています。北部上陸部隊の多くが壊滅、あるいは孤立したと推定されます」
参謀総長は地図を指した。
「しかし、異界軍は共和国軍との戦闘に留まらず、帝国領内へ進撃を続けています」
会議室に沈黙が広がった。
別の将官が口を開いた。
「現時点で、敵の総兵力は不明です。異界門の向こうに、どれほどの戦力が存在するのかも確認できていません」
「つまり、敵の全容すら分からないまま、首都防衛戦を迎えるということか」
「……その通りです」
政府首脳は、しばらく地図を見つめていた。
帝国は、長い歴史を持つ国家だった。
幾度もの戦争を経験し、政変を乗り越え、広大な領土と軍事力を維持してきた。
しかし、その歴史の中でも、これほど異質な危機はなかった。
敵は領土を要求していない。
外交交渉も行っていない。
宣戦布告すら存在しない。
ただ、門から現れ、進撃し、目の前にあるものを攻撃していた。
「……最悪の場合」
一人の閣僚が、重い声で言った。
「帝都が陥落すれば、帝国政府の継続そのものが困難になります」
誰も、その言葉を否定しなかった。
やがて、政府首脳が口を開いた。
「国家非常事態宣言を発令する」
参謀総長が顔を上げた。
「全国に対してですか」
「そうだ」
政府首脳は立ち上がった。
「帝都の防衛、民間人の避難、医療体制の確保、軍需産業の継続。すべてを国家の最優先事項とする」
そして、ゆっくりと続けた。
「国民には、事実を伝えなければならない」
午前9時00分。
帝国全土、緊急放送。
帝都の放送局から、全国へ向けて緊急放送が開始された。
各地の駅、工場、学校、軍施設、そして民家に設置された受信機から、同じ声が流れ始める。
『帝国政府より、全国民に対して緊急声明を発表します』
街頭の人々が足を止めた。
軍の輸送車両でも、通信担当者が音量を上げた。
『現在、帝国北部において、所属不明の武装勢力による大規模な侵攻が発生しています』
『この勢力は、従来確認されていない兵器および戦闘生物を運用し、帝国軍ならびに連邦共和国軍の双方に対して攻撃を行っています』
『帝国北部方面軍は、民間人の保護と戦力再編のため、帝都北方防衛圏まで後退しました』
放送を聞く人々の表情が変わっていく。
『帝国政府は、この事態を国家存亡に関わる危機と認定しました』
『本日午前9時をもって、帝国全土に国家非常事態を宣言します』
レイブンとガイルも、輸送車両の荷台でその放送を聞いていた。
周囲の兵士たちは誰も話さなかった。
『国民の皆様には、軍および行政機関の指示に従い、指定された避難経路を使用するよう求めます』
『軍人、医療従事者、輸送関係者、公共施設の職員、ならびにすべての国民に対し、国家の存続と人命の保護のため、必要な協力を要請します』
そして、放送は一瞬だけ途切れた。
『帝国は、未曾有の危機に直面しています』
『しかし、我々は国民を見捨てません』
『最後まで、国家としての責任を果たします』
放送が終わると、車内には重い沈黙が残った。
ガイルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……国家非常事態、か」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「まさか、こんなことになるなんてな」
レイブンは、膝の上のSG-44へ視線を落とした。
銃の金属部分には、何度も使用した痕が残っている。
グラーフェンで初めて実戦に参加した時、自分たちは共和国軍との戦争を戦っているのだと思っていた。
だが、今は違う。
帝国も共和国も、未知の敵によって追い詰められている。
「……ガイル」
「何だ?」
「俺たち、まだ戦えるかな」
ガイルは、少しだけ眉を寄せた。
「何言ってんだ?」
「……分からないんだ」
レイブンは正直に答えた。
「今まで、目の前の敵を倒せば、少しは前に進めると思ってた。でも、あいつらは……」
言葉が途切れた。
ガイルは、しばらく黙っていた。
やがて、レイブンの肩を軽く叩いた。
「……俺も分からねえよ」
レイブンが顔を上げる。
「でもさ、俺たち、まだ生きてるだろ?」
「……うん」
「だったら、まだやれることがあるんじゃねえか?」
レイブンは、少しだけ笑った。
「……そうだね」
ガイルも笑った。
「そうだろ?」
その時、車列の前方から集合命令が響いた。
兵士たちが次々と車両を降り始める。
レイブンとガイルも装備を確認し、荷台から降りた。
午前11時38分。
帝都北方防衛圏、第三臨時歩兵集成隊本部。
仮設指揮所の内部では、帝国軍の将校たちが部隊の再編を進めていた。
グラーフェンから撤退してきた兵士たちは、所属や兵科を問わず臨時の部隊へ編入されている。
レイブンとガイルも、その一員だった。
「クロウ、ベッカー」
指揮所の入口で、エルンスト・フォーゲル少尉が二人を呼び止めた。
かつてグラーフェン防衛線で小隊を指揮していた将校だった。
軍服は汚れ、左腕には包帯が巻かれている。
「少尉!」
二人は敬礼した。
フォーゲルは頷いた。
「生きていたか」
「はい!」
ガイルが答えた。
フォーゲルは、少しだけ安堵した表情を浮かべた。
「……よかった」
そして、机の上に広げられた地図を示した。
「現在、帝都北方では防衛線の再構築を進めている。ただし、前線からの情報が不足している」
レイブンは地図を見た。
「偵察部隊ですか?」
「そうだ。だが、正規の偵察部隊は損耗が激しい。小規模な分隊単位で、必要な地点へ派遣できる部隊が求められている」
ガイルが口を開いた。
「それなら、俺たちにもできます」
フォーゲルは眉を上げた。
「簡単に言うな、ベッカー。敵は共和国軍とは違う」
「分かっています」
ガイルは真剣な表情で答えた。
「でも、俺たちはグラーフェンから撤退してきました。あいつらがどんな奴らか、少しは見ています」
レイブンも続けた。
「敵の動きや、遭遇した場所について報告できます。それに、少人数なら移動しやすいと思います」
フォーゲルは二人を見比べた。
「……なるほど」
しばらく考えた後、彼は頷いた。
「分かった。お前たちを中心に、臨時の独立行動分隊を編成する」
ガイルが顔を上げた。
「本当ですか!」
「ただし、任務は偵察、連絡、捜索、救出が中心だ。敵の主力と正面から戦うための部隊ではない」
「了解しました!」
レイブンも敬礼した。
「了解しました」
フォーゲルは書類を取り出した。
「分隊長は、当面クロウが務めろ。ベッカーは副分隊長だ」
レイブンは驚いた。
「……俺が、ですか?」
「お前は状況判断が比較的冷静だ。ベッカーは行動力がある。二人で補い合え」
ガイルは笑った。
「頼むぜ、分隊長!」
「……まだ慣れないよ」
レイブンは苦笑した。
フォーゲルは、少しだけ表情を緩めた。
「分隊の正式名称は、第三臨時歩兵集成隊・独立行動分隊とする。通称は好きにしろ」
ガイルは、すぐにレイブンを見た。
「なあ、レイブン」
「何?」
「俺たち、何度も死にかけてるよな」
「……うん」
「でも、まだ生きてる」
「そうだね」
ガイルは笑った。
「だったらさ、〈不死身の分隊〉ってどうだ?」
レイブンは目を瞬かせた。
「……不死身?」
「ああ。どこへでも行って、何があっても帰ってくる分隊だ」
レイブンは、少し考えた。
不死身。
もちろん、本当に死なないわけではない。
グラーフェンで失った仲間たちのことを思えば、そんな言葉を軽々しく使うべきではないのかもしれない。
それでも、ガイルが言いたいことは分かった。
必ず帰ってくる。
誰かを連れて帰る。
そのために戦う。
「……いいと思う」
レイブンは答えた。
ガイルは嬉しそうに笑った。
「決まりだな!」
フォーゲルは二人を見て、小さく息を吐いた。
「……まったく、お前たちらしい」
そして、少し真剣な表情に戻った。
「ただし、その名前を使うなら、覚えておけ」
二人は姿勢を正した。
「不死身を名乗るなら、部下を無駄死にさせるな。必ず帰還することを最優先にしろ」
レイブンは頷いた。
「……了解しました」
こうして、帝都北方防衛圏に一つの小さな分隊が誕生した。
第三臨時歩兵集成隊・独立行動分隊。
通称、〈不死身の分隊〉。
その中心にいたのは、まだ十七歳の二人の兵士だった。
午後2時17分。
帝都北方、放棄農村ハルテンフェルト。
かつて農業地帯として栄えていた小さな村は、今や人の気配を失っていた。
石造りの家々は窓を閉ざし、農機具が畑の脇に放置されている。
村の中央を流れる細い川には、小さな橋が架かっていた。
その向こうには、帝都へ続く旧街道が伸びている。
レイブンたち〈不死身の分隊〉は、この村へ向かっていた。
任務は、放棄された農村の状況確認と、敵の侵入経路の調査だった。
分隊には、レイブンとガイルのほか、数名の帝国兵が編入されていた。
通信担当のユリウス・ヴェーバー。
衛生担当のエミール・シュナイダー。
そして、偵察を担当するフェリックス・ブラント。
いずれも、レイブンたちと志願兵時代をともにした仲間だった。
ただし、彼らは別々の部隊から撤退してきたため、再会は偶然に近かった。
「……まさか、こんなところでまた集まるとはな」
ユリウスが無線機を確認しながら言った。
ガイルは笑った。
「いいじゃねえか。知ってる顔が多い方が安心するだろ?」
フェリックスは周囲を見渡した。
「安心するには、少し静かすぎるけどな」
エミールも頷いた。
「住民は全員避難したのかな」
レイブンは村の入口に立ち、建物を見つめた。
「……確認しよう」
一行は慎重に村へ入った。
通りには、避難の際に落とされた荷物が散乱していた。
壊れた荷車。
空になった食料箱。
そして、家の前に置き去りにされた子供用の靴。
レイブンは、その靴を見つめた。
ここにも、生活があった。
戦争が始まる前は、家族が暮らし、子供たちが遊び、農民たちが畑を耕していたのだろう。
だが、今は誰もいない。
「……レイブン」
フェリックスが小声で呼んだ。
「何?」
「村の西側、何か動いた」
レイブンは顔を上げた。
「異界軍?」
「分からない。人影だった」
ガイルが小銃を構え直した。
「……行くか?」
レイブンは頷いた。
「確認しよう。ただし、撃つのは識別してから」
分隊は村の西側へ向かった。
午後2時39分。
ハルテンフェルト村、西側農家。
古い納屋の前で、レイブンは足を止めた。
建物の内部から、微かな物音が聞こえた。
誰かがいる。
それも、一人ではない。
レイブンはガイルへ視線を向けた。
ガイルも頷いた。
フェリックスは建物の側面を確認し、ユリウスは通信機を握った。
レイブンは声を上げた。
「帝国軍だ! 中に誰かいるなら返事をしてくれ!」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、建物の内部から声が返ってきた。
「……帝国軍?」
聞き慣れない訛りのある声だった。
レイブンは眉を寄せた。
「そうだ! こちらは帝国陸軍! 所属を教えてくれ!」
再び沈黙。
そして、扉の隙間から一人の兵士が姿を現した。
灰色がかった軍服。
帝国軍とは異なる装備。
そして、胸元に付けられた識別章。
レイブンは、その徽章を見た瞬間、息を呑んだ。
「……共和国軍?」
ガイルも驚いた。
「おいおい、冗談だろ……」
そこにいたのは、連邦共和国軍の兵士だった。
兵士は小銃を持っていたが、銃口を地面へ向けていた。
顔には疲労が滲み、左腕には包帯が巻かれている。
「……撃つな」
兵士が言った。
「俺たちは、もう戦うつもりはない」
レイブンはSG-44を構えたまま、静かに尋ねた。
「……何人いる?」
「七人だ」
「所属は?」
「連邦共和国軍、西部偵察小隊」
レイブンは少し驚いた。
「……西部?」
兵士は頷いた。
「北部上陸作戦の支援として、偵察任務に就いていた」
そして、苦しそうに続けた。
「だが、異界軍の攻撃で部隊が壊滅した」
ガイルは眉を寄せた。
「……帰らなかったのか?」
兵士は首を横に振った。
「帰れなかったんだ」
彼は、遠くの北方を見た。
「俺たちを回収するはずだった船が、港で撃沈された」
レイブンは黙って聞いていた。
「ほかの船も撤退した。無線は途絶え、補給もない。ここまで逃げてきたが、もう行く場所がない」
兵士の声には、疲労と絶望が混じっていた。
納屋の内部から、別の兵士たちが姿を現した。
その中には、負傷した仲間を支えている者もいた。
彼らは、レイブンたちを警戒していた。
当然だった。
つい最近まで、帝国軍と共和国軍は互いに殺し合っていたのだから。
ガイルが小さく呟いた。
「……どうする?」
レイブンは、しばらく考えた。
共和国軍。
敵国の兵士。
だが、目の前にいる彼らは、異界軍によって帰還手段を失った孤立兵だった。
そして、負傷者もいる。
レイブンは、ゆっくりとSG-44の銃口を下げた。
「……まず、負傷者を見せてください」
共和国軍の兵士が顔を上げた。
「……何?」
「衛生兵がいます」
レイブンはエミールへ視線を向けた。
「エミール、お願いできる?」
エミールは頷いた。
「分かった」
彼は救護装備を持ち、共和国軍の兵士たちへ近づいた。
共和国軍の兵士は、信じられないという表情を浮かべていた。
「……俺たちは、お前たちの敵だぞ」
レイブンは頷いた。
「……分かっています」
「それなのに、助けるのか?」
レイブンは少しだけ目を伏せた。
グラーフェンでの戦闘。
レンツ軍曹の戦死報告。
そして、北部からの撤退。
そのすべてが、脳裏をよぎった。
「……今は、異界軍が攻めてきています」
レイブンは静かに答えた。
「帝国軍も共和国軍も、同じ敵に襲われている」
共和国軍の兵士は黙っていた。
レイブンは続けた。
「だから、少なくとも今ここで、あなたたちを撃つ理由はありません」
ガイルも小銃を下げた。
「……まあ、そういうことだ」
彼は少し笑った。
「俺たちも、帰る場所を失いかけてるからな」
共和国軍の兵士は、しばらく二人を見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
「……助かる」
レイブンは頷いた。
「まずは、全員の状態を確認しましょう」
午後3時12分。
ハルテンフェルト村、西側農家。
納屋の内部では、エミールが共和国軍の負傷者を診察していた。
レイブンとガイルは、共和国軍の偵察小隊長から状況を聞いていた。
小隊長の名は、アンドレイ・セルゲーエヴィチ・マルコフ少尉。
共和国軍の偵察部隊に所属する若い将校だった。
「……俺たちは、北部上陸作戦の前に偵察任務へ出た」
マルコフ少尉は地図を広げた。
「上陸部隊の進路を確認し、帝国軍の配置を調べる予定だった」
レイブンは黙って聞いていた。
「だが、作戦開始後に異界軍が現れた。港は攻撃され、輸送船は沈んだ」
マルコフは地図の北東部を指した。
「俺たちは撤退命令を受けたが、回収地点へ戻った時には船がなかった」
ガイルが尋ねた。
「ほかの部隊とは合流できなかったのか?」
「何度か試みた。だが、通信が途絶えていた」
マルコフは首を横に振った。
「共和国軍の残存部隊がどこにいるのかも分からない」
レイブンは地図を見つめた。
「……ここまで、どうやって?」
「徒歩だ。途中で何度も異界軍を避けた」
マルコフは苦笑した。
「正直、もう限界だった」
レイブンは頷いた。
「……そうですか」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、マルコフが口を開いた。
「クロウ」
「はい」
「一つ、聞いてもいいか?」
「何でしょう」
「お前たちは、なぜここに来た?」
レイブンは答えた。
「この農村の状況確認です。敵の侵入経路を調べる任務でした」
マルコフは頷いた。
「……そうか」
そして、少し考えた後、続けた。
「なら、俺たちの情報も役に立つかもしれない」
レイブンが顔を上げた。
「情報?」
「ああ」
マルコフは地図の北東部を指した。
「異界軍は、ただ無秩序に進んでいるわけじゃない」
レイブンは眉を寄せた。
「……どういうことですか?」
マルコフは真剣な表情で答えた。
「俺たちは、敵の行軍を何度か観察した」
彼は地図へ指を滑らせた。
「奴らは道路や橋を使って移動している。補給らしき部隊も確認した」
ガイルが顔を上げた。
「……補給部隊?」
「ああ。大型生物や荷車のようなものを使って、物資を運んでいた」
レイブンは地図を見つめた。
異界軍。
未知の敵。
しかし、彼らも軍隊である以上、何らかの補給や指揮系統を持っているのかもしれない。
マルコフは続けた。
「それと、もう一つ」
「……何ですか?」
「敵の部隊は、ある地点を避けるように移動していた」
レイブンは顔を上げた。
「避けていた?」
「ああ」
マルコフは地図の一点を指した。
「この森だ」
レイブンは、その場所を見つめた。
帝都北方に広がる、古い森林地帯。
地図には、小さな湖と廃道が記されている。
「……理由は?」
「分からない」
マルコフは首を横に振った。
「だが、何度も確認した。敵はその森を通らず、遠回りしていた」
レイブンは、しばらく考えた。
異界軍が避ける場所。
それが偶然なのか、それとも何らかの理由があるのか。
今は分からない。
しかし、帝都防衛にとって重要な情報になる可能性があった。
「……ありがとうございます」
レイブンは言った。
マルコフは少し驚いたように顔を上げた。
「礼を言われるとは思わなかった」
レイブンは微笑んだ。
「……俺たちも、情報が必要なので」
ガイルが笑った。
「まあ、敵の敵は味方って言うだろ?」
マルコフは苦笑した。
「……そんな単純な話じゃないだろう」
「分かってるよ」
ガイルは肩をすくめた。
「でも、今ここで撃ち合うよりはマシだ」
マルコフは、しばらくガイルを見つめていた。
やがて、小さく笑った。
「……確かにな」
午後5時46分。
ハルテンフェルト村、中央広場。
夕暮れが近づき、村の建物が赤く染まり始めていた。
レイブンは、共和国軍の偵察小隊を一時的に保護することを決めていた。
ただし、彼らをそのまま帝国軍の部隊へ編入することはできない。
正式な扱いは、上級司令部の判断が必要だった。
レイブンはユリウスへ声を掛けた。
「司令部へ連絡できる?」
ユリウスは無線機を確認した。
「試してみる。通信状態は良くないけどな」
「お願い」
ユリウスは頷いた。
ガイルは、共和国軍の兵士たちへ水を配っていた。
「ほら、飲めるうちに飲んどけ」
共和国軍の兵士が戸惑いながら受け取った。
「……ありがとう」
「いいってことよ」
ガイルは笑った。
その様子を見ながら、レイブンは少しだけ息を吐いた。
帝国軍と共和国軍。
本来なら、互いに銃を向け合う存在だった。
しかし、今この村では、両軍の兵士たちが同じ水を飲み、同じ夕暮れを見つめていた。
それがいつまで続くのかは分からない。
明日には、再び敵同士になるかもしれない。
それでも、今は互いに生き延びることを選んでいた。
その時、フェリックスが村の北側から戻ってきた。
「レイブン!」
声に緊張が混じっていた。
「どうした?」
「北側の丘から、煙が見える」
レイブンは顔を上げた。
「……異界軍?」
「まだ分からない。でも、複数の移動体がいる」
ガイルが小銃を持ち直した。
「……また来やがったか」
レイブンは、村の北側を見つめた。
遠くの丘陵地帯に、黒煙が立ち上っている。
その下で、何かが動いていた。
異界軍なのか。
撤退してきた帝国軍なのか。
それとも、別の共和国軍部隊なのか。
まだ分からなかった。
レイブンは、静かにSG-44を握り直した。
「……全員に伝えて」
ガイルが顔を向けた。
「何を?」
レイブンは、はっきりと答えた。
「ここを離れる準備をする」
ガイルは頷いた。
「了解、分隊長」
マルコフ少尉も、レイブンへ視線を向けた。
「……俺たちは、どうすればいい?」
レイブンは彼を見た。
共和国軍の将校。
本来なら、敵国の兵士。
しかし、今は負傷した部下を抱え、帰還手段を失った一人の指揮官だった。
「……一緒に来てください」
マルコフは驚いた。
「……いいのか?」
「ここに残れば、危険です」
レイブンは答えた。
「それに、あなたたちの情報は帝都防衛に必要かもしれません」
マルコフは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
レイブンはガイルを見た。
ガイルは笑った。
「……不死身の分隊、初仕事から大所帯だな」
レイブンも少し笑った。
「……そうだね」
しかし、その笑みは長く続かなかった。
北方の丘陵地帯から、低い地響きが聞こえてきた。
レイブンの猫耳が動いた。
ガイルも、遠くを見つめた。
「……おい」
レイブンは答えなかった。
夕暮れの向こうに、巨大な影が現れ始めていた。
それは、グラーフェンで見た異界軍の大型生物に似ていた。
しかし、さらに大きい。
そして、その周囲には無数の小さな影が動いていた。
レイブンは、ゆっくりと息を吸った。
「……全員、急いで」
ガイルが叫んだ。
「撤収準備! 負傷者を先に動かせ!」
共和国軍の兵士たちも動き始めた。
帝国軍と共和国軍。
二つの軍旗を背負った兵士たちが、同じ村から脱出しようとしていた。
帝都まで、残された距離はわずかだった。
そして、異界軍の進撃は、まだ止まっていなかった。
帝政歴345年6月18日。
帝国は国家非常事態を宣言した。
首都防衛線は、国家存亡を賭けた最後の防壁となりつつあった。
その一方で、帝都北方の放棄農村では、小さな分隊が誕生していた。
〈不死身の分隊〉。
彼らは、帝国軍の兵士でありながら、敵国の偵察小隊を保護し、共に生き延びる道を選んだ。
それは、後に続く戦いの中で、レイブン・S・クロウという兵士の在り方を形作る出来事の一つとなる。
しかし、この時の彼らには、まだ分からなかった。
異界軍が、なぜこの世界へ現れたのか。
帝国と共和国が、これからどのような選択を迫られるのか。
そして、帝都の目前まで迫った巨大な軍勢を、どうすれば止められるのか。
その答えを探す時間すら、彼らには残されていなかった。




