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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第86話 帝都目前、不死身の分隊

第86話 帝都目前、不死身の分隊


帝政歴345年6月18日、午前5時42分。

帝国北部、帝都北方防衛圏。

 夜明け前の空を、鈍い橙色の光が染めていた。

 それは朝日ではなかった。北方の丘陵地帯で燃え続ける燃料集積所と、撤退する帝国軍が放棄した車両群から立ち上る炎だった。

 レイブン・S・クロウは、輸送車両の荷台からその光景を眺めていた。

 黒い猫耳には、遠方から響く砲声と、舗装路を走る車両の振動が絶え間なく伝わってくる。軍服は泥と煤に汚れ、左肩には包帯が巻かれていた。

 隣では、ガイル・ベッカーが制式小銃を膝に置き、黙って座っている。

 グラーフェン防衛線が崩壊してから、すでに何度も後退を繰り返していた。

 最初は数キロメートル。

 次は十数キロメートル。

 その次は、地図に記された防御線そのものが消えていた。

 異界軍は、帝国軍が新たな陣地を構築するよりも早く進撃してきた。

 戦車部隊を投入すれば、大型の異界生物が現れた。

 砲兵部隊が集中射撃を行えば、敵は損害を受けながらも別の経路から侵入してきた。

 航空部隊による攻撃も行われたが、敵の兵器体系も防空能力も十分に解明されておらず、損害を覚悟した出撃が続いていた。

 帝国軍は戦っていた。

 ただし、戦いながら後退することしかできなくなっていた。

「……なあ、レイブン」

 ガイルが口を開いた。

「何?」

「俺たち、今どこにいるんだ?」

 レイブンは折り畳んだ軍用地図を広げた。

 赤鉛筆で引かれた防衛線は、何度も書き直されていた。

「帝都から北へ、およそ四十キロの地点」

 ガイルは顔を上げた。

「……四十?」

「うん」

「おいおい、冗談だろ。グラーフェンから、ここまで押し込まれたってのか?」

 レイブンは地図を見つめた。

「……そういうことになる」

 ガイルは舌打ちした。

「くそったれ……」

 その時、車列の前方で警笛が鳴った。

 輸送車両が減速し、やがて停止する。

 前方には検問所が設けられ、帝国軍の憲兵と歩兵が車両の誘導を行っていた。

 その向こうには、帝都へ続く幹線道路が見える。

 道路の両側には、避難する民間人の車両が長い列を作っていた。

 家財道具を積んだ乗用車。

 荷台に家族を乗せた農業用トラック。

 子供を抱えながら歩く母親。

 荷車を引く老人。

 そして、行き場を失った人々。

 レイブンは、その光景から目を離せなかった。

「……帝都まで、逃げてきたんだ」

 ガイルも黙って見つめていた。

 帝国軍の兵士たちは、これまで国境の向こうにいる敵を想定して訓練を受けてきた。

 だが今、敵は国境を越え、北部の都市を突破し、帝都の目前まで迫っていた。

 帝国という国家そのものが、戦場になろうとしていた。

 午前7時15分。

 帝都、帝国中央政府庁舎。

 重厚な扉が閉じられた会議室では、帝国政府の閣僚と軍最高司令部の将官たちが集まっていた。

 壁には帝国全土の地図が掲げられ、北部から帝都へ向かう異界軍の進撃経路が記されている。

「北部方面軍の残存戦力は?」

 政府首脳の問いに、参謀総長が答えた。

「現在、帝都北方防衛圏へ集結中です。ただし、部隊の再編は完了しておらず、指揮系統の一部も回復していません」

「共和国軍の動向は?」

「共和国軍も異界軍の攻撃を受けています。北部上陸部隊の多くが壊滅、あるいは孤立したと推定されます」

 参謀総長は地図を指した。

「しかし、異界軍は共和国軍との戦闘に留まらず、帝国領内へ進撃を続けています」

 会議室に沈黙が広がった。

 別の将官が口を開いた。

「現時点で、敵の総兵力は不明です。異界門の向こうに、どれほどの戦力が存在するのかも確認できていません」

「つまり、敵の全容すら分からないまま、首都防衛戦を迎えるということか」

「……その通りです」

 政府首脳は、しばらく地図を見つめていた。

 帝国は、長い歴史を持つ国家だった。

 幾度もの戦争を経験し、政変を乗り越え、広大な領土と軍事力を維持してきた。

 しかし、その歴史の中でも、これほど異質な危機はなかった。

 敵は領土を要求していない。

 外交交渉も行っていない。

 宣戦布告すら存在しない。

 ただ、門から現れ、進撃し、目の前にあるものを攻撃していた。

「……最悪の場合」

 一人の閣僚が、重い声で言った。

「帝都が陥落すれば、帝国政府の継続そのものが困難になります」

 誰も、その言葉を否定しなかった。

 やがて、政府首脳が口を開いた。

「国家非常事態宣言を発令する」

 参謀総長が顔を上げた。

「全国に対してですか」

「そうだ」

 政府首脳は立ち上がった。

「帝都の防衛、民間人の避難、医療体制の確保、軍需産業の継続。すべてを国家の最優先事項とする」

 そして、ゆっくりと続けた。

「国民には、事実を伝えなければならない」

 午前9時00分。

 帝国全土、緊急放送。

 帝都の放送局から、全国へ向けて緊急放送が開始された。

 各地の駅、工場、学校、軍施設、そして民家に設置された受信機から、同じ声が流れ始める。

『帝国政府より、全国民に対して緊急声明を発表します』

 街頭の人々が足を止めた。

 軍の輸送車両でも、通信担当者が音量を上げた。

『現在、帝国北部において、所属不明の武装勢力による大規模な侵攻が発生しています』

『この勢力は、従来確認されていない兵器および戦闘生物を運用し、帝国軍ならびに連邦共和国軍の双方に対して攻撃を行っています』

『帝国北部方面軍は、民間人の保護と戦力再編のため、帝都北方防衛圏まで後退しました』

 放送を聞く人々の表情が変わっていく。

『帝国政府は、この事態を国家存亡に関わる危機と認定しました』

『本日午前9時をもって、帝国全土に国家非常事態を宣言します』

 レイブンとガイルも、輸送車両の荷台でその放送を聞いていた。

 周囲の兵士たちは誰も話さなかった。

『国民の皆様には、軍および行政機関の指示に従い、指定された避難経路を使用するよう求めます』

『軍人、医療従事者、輸送関係者、公共施設の職員、ならびにすべての国民に対し、国家の存続と人命の保護のため、必要な協力を要請します』

 そして、放送は一瞬だけ途切れた。

『帝国は、未曾有の危機に直面しています』

『しかし、我々は国民を見捨てません』

『最後まで、国家としての責任を果たします』

 放送が終わると、車内には重い沈黙が残った。

 ガイルは、ゆっくりと息を吐いた。

「……国家非常事態、か」

 レイブンは頷いた。

「……うん」

「まさか、こんなことになるなんてな」

 レイブンは、膝の上のSG-44へ視線を落とした。

 銃の金属部分には、何度も使用した痕が残っている。

 グラーフェンで初めて実戦に参加した時、自分たちは共和国軍との戦争を戦っているのだと思っていた。

 だが、今は違う。

 帝国も共和国も、未知の敵によって追い詰められている。

「……ガイル」

「何だ?」

「俺たち、まだ戦えるかな」

 ガイルは、少しだけ眉を寄せた。

「何言ってんだ?」

「……分からないんだ」

 レイブンは正直に答えた。

「今まで、目の前の敵を倒せば、少しは前に進めると思ってた。でも、あいつらは……」

 言葉が途切れた。

 ガイルは、しばらく黙っていた。

 やがて、レイブンの肩を軽く叩いた。

「……俺も分からねえよ」

 レイブンが顔を上げる。

「でもさ、俺たち、まだ生きてるだろ?」

「……うん」

「だったら、まだやれることがあるんじゃねえか?」

 レイブンは、少しだけ笑った。

「……そうだね」

 ガイルも笑った。

「そうだろ?」

 その時、車列の前方から集合命令が響いた。

 兵士たちが次々と車両を降り始める。

 レイブンとガイルも装備を確認し、荷台から降りた。

 午前11時38分。

 帝都北方防衛圏、第三臨時歩兵集成隊本部。

 仮設指揮所の内部では、帝国軍の将校たちが部隊の再編を進めていた。

 グラーフェンから撤退してきた兵士たちは、所属や兵科を問わず臨時の部隊へ編入されている。

 レイブンとガイルも、その一員だった。

「クロウ、ベッカー」

 指揮所の入口で、エルンスト・フォーゲル少尉が二人を呼び止めた。

 かつてグラーフェン防衛線で小隊を指揮していた将校だった。

 軍服は汚れ、左腕には包帯が巻かれている。

「少尉!」

 二人は敬礼した。

 フォーゲルは頷いた。

「生きていたか」

「はい!」

 ガイルが答えた。

 フォーゲルは、少しだけ安堵した表情を浮かべた。

「……よかった」

 そして、机の上に広げられた地図を示した。

「現在、帝都北方では防衛線の再構築を進めている。ただし、前線からの情報が不足している」

 レイブンは地図を見た。

「偵察部隊ですか?」

「そうだ。だが、正規の偵察部隊は損耗が激しい。小規模な分隊単位で、必要な地点へ派遣できる部隊が求められている」

 ガイルが口を開いた。

「それなら、俺たちにもできます」

 フォーゲルは眉を上げた。

「簡単に言うな、ベッカー。敵は共和国軍とは違う」

「分かっています」

 ガイルは真剣な表情で答えた。

「でも、俺たちはグラーフェンから撤退してきました。あいつらがどんな奴らか、少しは見ています」

 レイブンも続けた。

「敵の動きや、遭遇した場所について報告できます。それに、少人数なら移動しやすいと思います」

 フォーゲルは二人を見比べた。

「……なるほど」

 しばらく考えた後、彼は頷いた。

「分かった。お前たちを中心に、臨時の独立行動分隊を編成する」

 ガイルが顔を上げた。

「本当ですか!」

「ただし、任務は偵察、連絡、捜索、救出が中心だ。敵の主力と正面から戦うための部隊ではない」

「了解しました!」

 レイブンも敬礼した。

「了解しました」

 フォーゲルは書類を取り出した。

「分隊長は、当面クロウが務めろ。ベッカーは副分隊長だ」

 レイブンは驚いた。

「……俺が、ですか?」

「お前は状況判断が比較的冷静だ。ベッカーは行動力がある。二人で補い合え」

 ガイルは笑った。

「頼むぜ、分隊長!」

「……まだ慣れないよ」

 レイブンは苦笑した。

 フォーゲルは、少しだけ表情を緩めた。

「分隊の正式名称は、第三臨時歩兵集成隊・独立行動分隊とする。通称は好きにしろ」

 ガイルは、すぐにレイブンを見た。

「なあ、レイブン」

「何?」

「俺たち、何度も死にかけてるよな」

「……うん」

「でも、まだ生きてる」

「そうだね」

 ガイルは笑った。

「だったらさ、〈不死身の分隊〉ってどうだ?」

 レイブンは目を瞬かせた。

「……不死身?」

「ああ。どこへでも行って、何があっても帰ってくる分隊だ」

 レイブンは、少し考えた。

 不死身。

 もちろん、本当に死なないわけではない。

 グラーフェンで失った仲間たちのことを思えば、そんな言葉を軽々しく使うべきではないのかもしれない。

 それでも、ガイルが言いたいことは分かった。

 必ず帰ってくる。

 誰かを連れて帰る。

 そのために戦う。

「……いいと思う」

 レイブンは答えた。

 ガイルは嬉しそうに笑った。

「決まりだな!」

 フォーゲルは二人を見て、小さく息を吐いた。

「……まったく、お前たちらしい」

 そして、少し真剣な表情に戻った。

「ただし、その名前を使うなら、覚えておけ」

 二人は姿勢を正した。

「不死身を名乗るなら、部下を無駄死にさせるな。必ず帰還することを最優先にしろ」

 レイブンは頷いた。

「……了解しました」

 こうして、帝都北方防衛圏に一つの小さな分隊が誕生した。

 第三臨時歩兵集成隊・独立行動分隊。

 通称、〈不死身の分隊〉。

 その中心にいたのは、まだ十七歳の二人の兵士だった。

 午後2時17分。

 帝都北方、放棄農村ハルテンフェルト。

 かつて農業地帯として栄えていた小さな村は、今や人の気配を失っていた。

 石造りの家々は窓を閉ざし、農機具が畑の脇に放置されている。

 村の中央を流れる細い川には、小さな橋が架かっていた。

 その向こうには、帝都へ続く旧街道が伸びている。

 レイブンたち〈不死身の分隊〉は、この村へ向かっていた。

 任務は、放棄された農村の状況確認と、敵の侵入経路の調査だった。

 分隊には、レイブンとガイルのほか、数名の帝国兵が編入されていた。

 通信担当のユリウス・ヴェーバー。

 衛生担当のエミール・シュナイダー。

 そして、偵察を担当するフェリックス・ブラント。

 いずれも、レイブンたちと志願兵時代をともにした仲間だった。

 ただし、彼らは別々の部隊から撤退してきたため、再会は偶然に近かった。

「……まさか、こんなところでまた集まるとはな」

 ユリウスが無線機を確認しながら言った。

 ガイルは笑った。

「いいじゃねえか。知ってる顔が多い方が安心するだろ?」

 フェリックスは周囲を見渡した。

「安心するには、少し静かすぎるけどな」

 エミールも頷いた。

「住民は全員避難したのかな」

 レイブンは村の入口に立ち、建物を見つめた。

「……確認しよう」

 一行は慎重に村へ入った。

 通りには、避難の際に落とされた荷物が散乱していた。

 壊れた荷車。

 空になった食料箱。

 そして、家の前に置き去りにされた子供用の靴。

 レイブンは、その靴を見つめた。

 ここにも、生活があった。

 戦争が始まる前は、家族が暮らし、子供たちが遊び、農民たちが畑を耕していたのだろう。

 だが、今は誰もいない。

「……レイブン」

 フェリックスが小声で呼んだ。

「何?」

「村の西側、何か動いた」

 レイブンは顔を上げた。

「異界軍?」

「分からない。人影だった」

 ガイルが小銃を構え直した。

「……行くか?」

 レイブンは頷いた。

「確認しよう。ただし、撃つのは識別してから」

 分隊は村の西側へ向かった。

 午後2時39分。

 ハルテンフェルト村、西側農家。

 古い納屋の前で、レイブンは足を止めた。

 建物の内部から、微かな物音が聞こえた。

 誰かがいる。

 それも、一人ではない。

 レイブンはガイルへ視線を向けた。

 ガイルも頷いた。

 フェリックスは建物の側面を確認し、ユリウスは通信機を握った。

 レイブンは声を上げた。

「帝国軍だ! 中に誰かいるなら返事をしてくれ!」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、建物の内部から声が返ってきた。

「……帝国軍?」

 聞き慣れない訛りのある声だった。

 レイブンは眉を寄せた。

「そうだ! こちらは帝国陸軍! 所属を教えてくれ!」

 再び沈黙。

 そして、扉の隙間から一人の兵士が姿を現した。

 灰色がかった軍服。

 帝国軍とは異なる装備。

 そして、胸元に付けられた識別章。

 レイブンは、その徽章を見た瞬間、息を呑んだ。

「……共和国軍?」

 ガイルも驚いた。

「おいおい、冗談だろ……」

 そこにいたのは、連邦共和国軍の兵士だった。

 兵士は小銃を持っていたが、銃口を地面へ向けていた。

 顔には疲労が滲み、左腕には包帯が巻かれている。

「……撃つな」

 兵士が言った。

「俺たちは、もう戦うつもりはない」

 レイブンはSG-44を構えたまま、静かに尋ねた。

「……何人いる?」

「七人だ」

「所属は?」

「連邦共和国軍、西部偵察小隊」

 レイブンは少し驚いた。

「……西部?」

 兵士は頷いた。

「北部上陸作戦の支援として、偵察任務に就いていた」

 そして、苦しそうに続けた。

「だが、異界軍の攻撃で部隊が壊滅した」

 ガイルは眉を寄せた。

「……帰らなかったのか?」

 兵士は首を横に振った。

「帰れなかったんだ」

 彼は、遠くの北方を見た。

「俺たちを回収するはずだった船が、港で撃沈された」

 レイブンは黙って聞いていた。

「ほかの船も撤退した。無線は途絶え、補給もない。ここまで逃げてきたが、もう行く場所がない」

 兵士の声には、疲労と絶望が混じっていた。

 納屋の内部から、別の兵士たちが姿を現した。

 その中には、負傷した仲間を支えている者もいた。

 彼らは、レイブンたちを警戒していた。

 当然だった。

 つい最近まで、帝国軍と共和国軍は互いに殺し合っていたのだから。

 ガイルが小さく呟いた。

「……どうする?」

 レイブンは、しばらく考えた。

 共和国軍。

 敵国の兵士。

 だが、目の前にいる彼らは、異界軍によって帰還手段を失った孤立兵だった。

 そして、負傷者もいる。

 レイブンは、ゆっくりとSG-44の銃口を下げた。

「……まず、負傷者を見せてください」

 共和国軍の兵士が顔を上げた。

「……何?」

「衛生兵がいます」

 レイブンはエミールへ視線を向けた。

「エミール、お願いできる?」

 エミールは頷いた。

「分かった」

 彼は救護装備を持ち、共和国軍の兵士たちへ近づいた。

 共和国軍の兵士は、信じられないという表情を浮かべていた。

「……俺たちは、お前たちの敵だぞ」

 レイブンは頷いた。

「……分かっています」

「それなのに、助けるのか?」

 レイブンは少しだけ目を伏せた。

 グラーフェンでの戦闘。

 レンツ軍曹の戦死報告。

 そして、北部からの撤退。

 そのすべてが、脳裏をよぎった。

「……今は、異界軍が攻めてきています」

 レイブンは静かに答えた。

「帝国軍も共和国軍も、同じ敵に襲われている」

 共和国軍の兵士は黙っていた。

 レイブンは続けた。

「だから、少なくとも今ここで、あなたたちを撃つ理由はありません」

 ガイルも小銃を下げた。

「……まあ、そういうことだ」

 彼は少し笑った。

「俺たちも、帰る場所を失いかけてるからな」

 共和国軍の兵士は、しばらく二人を見つめていた。

 やがて、ゆっくりと息を吐いた。

「……助かる」

 レイブンは頷いた。

「まずは、全員の状態を確認しましょう」

 午後3時12分。

 ハルテンフェルト村、西側農家。

 納屋の内部では、エミールが共和国軍の負傷者を診察していた。

 レイブンとガイルは、共和国軍の偵察小隊長から状況を聞いていた。

 小隊長の名は、アンドレイ・セルゲーエヴィチ・マルコフ少尉。

 共和国軍の偵察部隊に所属する若い将校だった。

「……俺たちは、北部上陸作戦の前に偵察任務へ出た」

 マルコフ少尉は地図を広げた。

「上陸部隊の進路を確認し、帝国軍の配置を調べる予定だった」

 レイブンは黙って聞いていた。

「だが、作戦開始後に異界軍が現れた。港は攻撃され、輸送船は沈んだ」

 マルコフは地図の北東部を指した。

「俺たちは撤退命令を受けたが、回収地点へ戻った時には船がなかった」

 ガイルが尋ねた。

「ほかの部隊とは合流できなかったのか?」

「何度か試みた。だが、通信が途絶えていた」

 マルコフは首を横に振った。

「共和国軍の残存部隊がどこにいるのかも分からない」

 レイブンは地図を見つめた。

「……ここまで、どうやって?」

「徒歩だ。途中で何度も異界軍を避けた」

 マルコフは苦笑した。

「正直、もう限界だった」

 レイブンは頷いた。

「……そうですか」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、マルコフが口を開いた。

「クロウ」

「はい」

「一つ、聞いてもいいか?」

「何でしょう」

「お前たちは、なぜここに来た?」

 レイブンは答えた。

「この農村の状況確認です。敵の侵入経路を調べる任務でした」

 マルコフは頷いた。

「……そうか」

 そして、少し考えた後、続けた。

「なら、俺たちの情報も役に立つかもしれない」

 レイブンが顔を上げた。

「情報?」

「ああ」

 マルコフは地図の北東部を指した。

「異界軍は、ただ無秩序に進んでいるわけじゃない」

 レイブンは眉を寄せた。

「……どういうことですか?」

 マルコフは真剣な表情で答えた。

「俺たちは、敵の行軍を何度か観察した」

 彼は地図へ指を滑らせた。

「奴らは道路や橋を使って移動している。補給らしき部隊も確認した」

 ガイルが顔を上げた。

「……補給部隊?」

「ああ。大型生物や荷車のようなものを使って、物資を運んでいた」

 レイブンは地図を見つめた。

 異界軍。

 未知の敵。

 しかし、彼らも軍隊である以上、何らかの補給や指揮系統を持っているのかもしれない。

 マルコフは続けた。

「それと、もう一つ」

「……何ですか?」

「敵の部隊は、ある地点を避けるように移動していた」

 レイブンは顔を上げた。

「避けていた?」

「ああ」

 マルコフは地図の一点を指した。

「この森だ」

 レイブンは、その場所を見つめた。

 帝都北方に広がる、古い森林地帯。

 地図には、小さな湖と廃道が記されている。

「……理由は?」

「分からない」

 マルコフは首を横に振った。

「だが、何度も確認した。敵はその森を通らず、遠回りしていた」

 レイブンは、しばらく考えた。

 異界軍が避ける場所。

 それが偶然なのか、それとも何らかの理由があるのか。

 今は分からない。

 しかし、帝都防衛にとって重要な情報になる可能性があった。

「……ありがとうございます」

 レイブンは言った。

 マルコフは少し驚いたように顔を上げた。

「礼を言われるとは思わなかった」

 レイブンは微笑んだ。

「……俺たちも、情報が必要なので」

 ガイルが笑った。

「まあ、敵の敵は味方って言うだろ?」

 マルコフは苦笑した。

「……そんな単純な話じゃないだろう」

「分かってるよ」

 ガイルは肩をすくめた。

「でも、今ここで撃ち合うよりはマシだ」

 マルコフは、しばらくガイルを見つめていた。

 やがて、小さく笑った。

「……確かにな」

 午後5時46分。

 ハルテンフェルト村、中央広場。

 夕暮れが近づき、村の建物が赤く染まり始めていた。

 レイブンは、共和国軍の偵察小隊を一時的に保護することを決めていた。

 ただし、彼らをそのまま帝国軍の部隊へ編入することはできない。

 正式な扱いは、上級司令部の判断が必要だった。

 レイブンはユリウスへ声を掛けた。

「司令部へ連絡できる?」

 ユリウスは無線機を確認した。

「試してみる。通信状態は良くないけどな」

「お願い」

 ユリウスは頷いた。

 ガイルは、共和国軍の兵士たちへ水を配っていた。

「ほら、飲めるうちに飲んどけ」

 共和国軍の兵士が戸惑いながら受け取った。

「……ありがとう」

「いいってことよ」

 ガイルは笑った。

 その様子を見ながら、レイブンは少しだけ息を吐いた。

 帝国軍と共和国軍。

 本来なら、互いに銃を向け合う存在だった。

 しかし、今この村では、両軍の兵士たちが同じ水を飲み、同じ夕暮れを見つめていた。

 それがいつまで続くのかは分からない。

 明日には、再び敵同士になるかもしれない。

 それでも、今は互いに生き延びることを選んでいた。

 その時、フェリックスが村の北側から戻ってきた。

「レイブン!」

 声に緊張が混じっていた。

「どうした?」

「北側の丘から、煙が見える」

 レイブンは顔を上げた。

「……異界軍?」

「まだ分からない。でも、複数の移動体がいる」

 ガイルが小銃を持ち直した。

「……また来やがったか」

 レイブンは、村の北側を見つめた。

 遠くの丘陵地帯に、黒煙が立ち上っている。

 その下で、何かが動いていた。

 異界軍なのか。

 撤退してきた帝国軍なのか。

 それとも、別の共和国軍部隊なのか。

 まだ分からなかった。

 レイブンは、静かにSG-44を握り直した。

「……全員に伝えて」

 ガイルが顔を向けた。

「何を?」

 レイブンは、はっきりと答えた。

「ここを離れる準備をする」

 ガイルは頷いた。

「了解、分隊長」

 マルコフ少尉も、レイブンへ視線を向けた。

「……俺たちは、どうすればいい?」

 レイブンは彼を見た。

 共和国軍の将校。

 本来なら、敵国の兵士。

 しかし、今は負傷した部下を抱え、帰還手段を失った一人の指揮官だった。

「……一緒に来てください」

 マルコフは驚いた。

「……いいのか?」

「ここに残れば、危険です」

 レイブンは答えた。

「それに、あなたたちの情報は帝都防衛に必要かもしれません」

 マルコフは、しばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりと頷いた。

「……分かった」

 レイブンはガイルを見た。

 ガイルは笑った。

「……不死身の分隊、初仕事から大所帯だな」

 レイブンも少し笑った。

「……そうだね」

 しかし、その笑みは長く続かなかった。

 北方の丘陵地帯から、低い地響きが聞こえてきた。

 レイブンの猫耳が動いた。

 ガイルも、遠くを見つめた。

「……おい」

 レイブンは答えなかった。

 夕暮れの向こうに、巨大な影が現れ始めていた。

 それは、グラーフェンで見た異界軍の大型生物に似ていた。

 しかし、さらに大きい。

 そして、その周囲には無数の小さな影が動いていた。

 レイブンは、ゆっくりと息を吸った。

「……全員、急いで」

 ガイルが叫んだ。

「撤収準備! 負傷者を先に動かせ!」

 共和国軍の兵士たちも動き始めた。

 帝国軍と共和国軍。

 二つの軍旗を背負った兵士たちが、同じ村から脱出しようとしていた。

 帝都まで、残された距離はわずかだった。

 そして、異界軍の進撃は、まだ止まっていなかった。

 帝政歴345年6月18日。

 帝国は国家非常事態を宣言した。

 首都防衛線は、国家存亡を賭けた最後の防壁となりつつあった。

 その一方で、帝都北方の放棄農村では、小さな分隊が誕生していた。

 〈不死身の分隊〉。

 彼らは、帝国軍の兵士でありながら、敵国の偵察小隊を保護し、共に生き延びる道を選んだ。

 それは、後に続く戦いの中で、レイブン・S・クロウという兵士の在り方を形作る出来事の一つとなる。

 しかし、この時の彼らには、まだ分からなかった。

 異界軍が、なぜこの世界へ現れたのか。

 帝国と共和国が、これからどのような選択を迫られるのか。

 そして、帝都の目前まで迫った巨大な軍勢を、どうすれば止められるのか。

 その答えを探す時間すら、彼らには残されていなかった。

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