第85話 崩壊する北部戦線、二つの軍旗の撤退
第85話 崩壊する北部戦線、二つの軍旗の撤退
帝政歴345年、第一次世界大戦開戦後。帝国北部、グラーフェン市街地北東部。
遠くで砲弾が炸裂し、地面が大きく揺れた。
レイブン・S・クロウは崩れた建物の外壁に背中を預け、荒い呼吸を整えていた。軍服は泥と煤に汚れ、左腕には瓦礫で擦った傷が残っている。黒い猫耳は度重なる爆発音で痛み、金色と黒色の瞳には疲労が滲んでいた。
隣では、ガイル・ベッカーが制式小銃を抱えながら、道路の向こうを警戒していた。
「……なあ、レイブン」
「何?」
「俺たち、いったい何と戦ってんだ?」
レイブンは答えられなかった。
つい数時間前まで、彼らの敵は連邦共和国軍だった。
国境を越えて進軍してきた共和国軍の機甲部隊と歩兵部隊に対し、帝国軍は北部防衛線で抵抗を続けていた。塹壕を巡る攻防は激しく、双方に多数の死傷者が出ていたが、それでも戦場には一定の秩序があった。
相手の兵器も、戦術も、少なくとも理解できる範囲にあった。
しかし、今は違う。
北東部に出現した巨大な門。
そこから現れた未知の軍勢。
異様な装甲をまとった兵士たちと、見たこともない大型生物。そして、砲弾の炸裂とは異なる光を放つ兵器。
彼らは、上陸作戦を進めていた共和国軍を背後から襲撃し、そのまま帝国軍の北部防衛線へ侵入してきた。
帝国軍も共和国軍も、突然現れた第三の軍勢に対応できていなかった。
「……分からない」
レイブンはようやく答えた。
「俺にも、何なのか分からない」
ガイルは歯を食いしばった。
「くそっ……。共和国軍だけでも手一杯だったってのに」
その時、通りの向こうから銃声が響いた。
続いて、聞き慣れない低い咆哮が建物の間に反響する。
レイブンの耳が動いた。
「……来る」
「またかよ!」
二人は崩れた窓の陰から道路を確認した。
黒煙の向こうに、異界軍の歩兵らしき集団が現れた。
人間に近い体格の者もいたが、角や鱗を持つ者、長い腕を持つ者など、姿は統一されていない。装備もさまざまで、金属製の装甲に見えるものを着込んだ兵士がいる一方、薄い布のような装備で動き回る者もいた。
その後方には、四足歩行の大型生物がいた。
肩の高さだけでも軍用トラックに迫るほどの巨体で、背中には厚い装甲板のようなものが並んでいる。
「……冗談じゃねえぞ」
ガイルが呟いた。
レイブンはSG-44を構えたが、すぐに銃口を下げた。
ここから撃っても、敵を確実に止められるとは思えなかった。
それに、二人の背後には負傷した帝国兵がいた。
彼らを置いて戦闘を続けるわけにはいかない。
「ガイル、ここは撤退しよう」
「……分かってる」
ガイルは頷いた。
「けど、どこへ行く?」
「西側の道路。さっき撤退していった部隊がいた」
「通れる保証は?」
「ない」
レイブンはガイルを見た。
「でも、ここに残ったら包囲される」
ガイルは一瞬だけ黙り、やがて頷いた。
「……よし。行こう」
レイブンは背後の兵士たちへ声を掛けた。
「移動できますか?」
脚を負傷した兵士が苦しそうに答えた。
「……一人じゃ無理だ」
「俺が支えます」
ガイルがすぐに近づいた。
「肩を貸す。無理に走らなくていい」
負傷兵は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「……すまない」
「謝るな。今は生きて帰ることだけ考えろ」
ガイルは彼を支え、レイブンは周囲を確認した。
異界軍の足音が近づいてくる。
もう時間はなかった。
「……行くよ!」
レイブンの声を合図に、一行は西へ向かって移動を始めた。
午前11時47分。グラーフェン市街地西部、旧工業地区。
市街地の西側は、すでに撤退する帝国軍の兵士たちで混乱していた。
破壊された装甲車が道路を塞ぎ、砲撃で崩れた建物の間を、歩兵や衛生兵が行き交っている。負傷者を乗せた車両が何台も後方へ向かい、道路脇では整備兵たちが故障した輸送車両の復旧を試みていた。
レイブンたちは、負傷兵を支えながらその流れに合流した。
「おい! そこの連中!」
道路脇から、帝国軍の軍曹が手を振った。
「負傷者がいるなら、あっちの救護所へ連れていけ!」
「了解!」
ガイルが答えた。
救護所は、半壊した倉庫の一階に設けられていた。
内部には担架が並び、衛生兵たちが負傷者の処置に追われている。血の匂いと消毒薬の匂いが混じり、奥では誰かが痛みに耐えながら呻いていた。
「脚部負傷、一名! 歩行困難です!」
レイブンが報告した。
衛生兵がすぐに近づいた。
「こっちへ! 担架を用意する!」
ガイルは負傷兵を慎重に下ろした。
衛生兵が状態を確認し、別の兵士が担架を運んでくる。
ようやく負傷者を引き渡した時、ガイルは大きく息を吐いた。
「……助かったな」
「うん」
レイブンも頷いた。
だが、休む時間はなかった。
倉庫の外から、突然、爆発音が響いた。
窓ガラスが砕け散り、天井から埃が降ってくる。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。
レイブンは反射的に身を低くした。
次の瞬間、外から悲鳴が上がった。
「敵だ! 異界軍が来たぞ!」
ガイルが顔を上げた。
「……もう追いついてきやがったのか!」
レイブンはSG-44を握り直した。
救護所には、まだ動けない負傷者が大勢いる。
ここで敵に踏み込まれれば、逃げ場がない。
しかし、倉庫の入口へ向かおうとした時、救護所を指揮していた軍医が叫んだ。
「戦闘可能な者は外の警備隊に合流しろ! 負傷者の搬送を優先する!」
レイブンとガイルは顔を見合わせた。
「……行こう」
「ああ!」
二人は倉庫の外へ出た。
そこには、帝国軍の歩兵たちが臨時の防御線を作っていた。
土嚢を積み、車両を遮蔽物として利用しながら、異界軍の接近を阻止しようとしている。
レイブンは近くの下士官へ報告した。
「クロウ、ベッカー! 戦闘可能です!」
下士官は二人を見た。
「お前ら、どこの部隊だ?」
「グラーフェン防衛線所属です!」
「分かった! こっちへ来い!」
二人は指定された位置についた。
異界軍の兵士たちが、道路の向こうから姿を現した。
帝国軍の小銃が火を噴く。
銃声が連続し、敵の一部が倒れた。
しかし、後続の兵士たちは進撃を止めなかった。
さらに後方から、大型生物が姿を現す。
その巨体が道路を進むたび、地面が震えた。
「……あんなの、どうやって止めるんだよ」
ガイルが呟いた。
レイブンはSG-44を構えながら、答えられなかった。
帝国軍の機関銃が大型生物へ向けて発砲した。
弾丸が外皮に当たり、表面から破片が飛び散る。
しかし、敵は完全には止まらない。
続いて、後方から対装甲火器が発射された。
爆発が起き、大型生物の身体が大きく揺れた。
それでも、巨体は倒れなかった。
「……嘘だろ」
ガイルの声が震えた。
レイブンは、その光景を見つめていた。
帝国軍は何もしていないわけではない。
兵士たちは戦っている。
持てる装備を使い、敵の進撃を止めようとしている。
それでも、相手の能力も弱点も分からない。
どこまで損傷させれば動きを止められるのかさえ、誰も理解していなかった。
その時、後方から命令が届いた。
「全員、撤退準備! 救護所の搬送が完了次第、後退する!」
下士官が叫んだ。
「ここを保持する必要はない! 時間を稼げ!」
レイブンは頷いた。
「了解!」
ガイルも答えた。
「了解しました!」
二人は仲間とともに防御を続けた。
やがて、最後の衛生車両が倉庫を離れた。
その直後、下士官が叫んだ。
「撤退! 全員、西へ下がれ!」
レイブンとガイルは、他の兵士たちとともに後退した。
背後では、異界軍の咆哮と銃声が響き続けていた。
午後3時26分。グラーフェン西方、帝国軍臨時集結地点。
広い農地の一角に、撤退してきた帝国軍の部隊が集められていた。
兵員輸送車両、装甲車、牽引砲、補給車両が道路沿いに並び、その間を疲れ切った兵士たちが歩いている。
レイブンとガイルは、ようやく北部から撤退してきた部隊と合流した。
集結地点では、所属部隊ごとの人員確認が行われていた。
「所属と氏名!」
受付の下士官が叫んだ。
レイブンは姿勢を正した。
「レイブン・S・クロウ! 北部方面軍、グラーフェン防衛線所属!」
「ガイル・ベッカー! 同じく!」
下士官は名簿を確認した。
「所属小隊の指揮官は?」
「……部隊が分断されました」
レイブンは答えた。
「最後に確認した時点では、指揮系統が途絶していました」
下士官は眉を寄せた。
「指導担当の下士官は?」
レイブンは、少しだけ言葉に詰まった。
「……マティアス・H・レンツ軍曹です」
その名前を口にした瞬間、胸の奥が重くなった。
北部へ来たばかりの頃。
初めての警備勤務。
初めての塹壕生活。
そして、実戦での恐怖。
レンツ軍曹は、いつも二人の近くにいた。
『勇敢なのと無謀なのは違うぞ』
『仲間を置いていくな。だが、助けようとして全員倒れるような真似もするな』
『二つ名なんてものは勝手につく。そんなものより、生きて帰ることを考えろ』
レイブンは、その言葉を覚えていた。
下士官が尋ねた。
「レンツ軍曹は、今どこにいる?」
レイブンは目を伏せた。
「……戦死したと聞きました」
下士官は手を止めた。
「……確認したのか?」
「いえ。直接は確認していません」
レイブンは答えた。
「撤退中に、別の部隊からそう伝えられました」
下士官は頷いた。
「分かった。現時点では戦死情報あり、確認未了として記録する」
「……はい」
「二人とも、第三臨時歩兵集成隊へ編入する。まず衛生確認を受けろ。その後、装備と弾薬の残量を報告すること」
「了解しました」
レイブンとガイルは敬礼した。
受付を離れた後、ガイルが口を開いた。
「……レイブン」
「何?」
「レンツ軍曹、本当に死んじまったのかな」
レイブンは歩みを止めた。
「……分からない」
「……そうだよな」
「俺たちは、直接見てない」
ガイルは黙っていた。
レイブンは続けた。
「だから、正式な確認が出るまでは……」
そこで言葉が止まった。
希望を持ちたい。
しかし、戦場では、希望だけで現実を変えられないことも知っていた。
ガイルは小さく頷いた。
「……ああ」
二人は再び歩き始めた。
同日午後6時41分。連邦共和国西部、ヴォルコフ軍管区、共和国軍西部方面軍前線指揮所。
「第三警備連隊との通信は、まだ回復しないの?」
エリシア・L・ヴォルハラム中尉の声が、指揮所に響いた。
机の上には共和国西部の軍用地図が広げられ、複数の地点に異常事態を示す印が書き込まれていた。
通信兵が受話器を握ったまま答えた。
「回復していません! 最後の報告では、敵の大型個体が防御陣地へ接近しているとのことでした!」
エリシアは地図へ視線を落とした。
数時間前、共和国西部に巨大な門が出現した。
その門から未知の軍勢が現れ、周辺の警備部隊を攻撃し始めたという。
当初、共和国軍は帝国軍による新型兵器の投入を疑った。
しかし、現地から届く情報は、その推測を否定していた。
未知の装甲兵。
人間とは異なる身体構造を持つ兵士。
大型生物。
そして、従来の兵器体系では説明しきれない現象。
エリシアは通信兵へ尋ねた。
「敵の所属を示す標識は?」
「確認できていません!」
「帝国軍の識別標識も?」
「ありません!」
エリシアは唇を噛んだ。
「……いったい、どこの軍なの」
その時、背後から声がした。
「エリシア」
振り返ると、マルタ・ケスラー大尉が立っていた。
「……大尉」
「北部方面軍からも、緊急報告が入っているわ」
エリシアは顔を上げた。
「北部でも?」
「ええ。帝国軍と共和国軍が交戦していた地域に、同じような未知の軍勢が現れたらしい」
エリシアの表情が変わった。
「……帝国北部に?」
「そう。共和国軍の上陸部隊が背後から攻撃を受けたという報告もある」
ケスラー大尉は地図の北東部を指した。
「そのまま帝国軍の防衛線まで突破した可能性があるそうよ」
エリシアは、しばらく言葉を失った。
帝国北部。
グラーフェン。
かつて出会った黒猫の少年が、配属されているかもしれない地域。
「……レイブン」
小さく名前が漏れた。
ケスラー大尉が顔を向けた。
「何か言った?」
エリシアは、すぐに首を横に振った。
「……いえ」
しかし、胸の奥には不安が広がっていた。
レイブン・S・クロウ。
ガイル・ベッカー。
二人は今、どこにいるのだろう。
無事なのだろうか。
そして、帝国軍の兵士たちは、未知の敵を前にどうしているのだろう。
考え始めると、次々と疑問が浮かんできた。
だが、今はそれを確かめる方法がない。
エリシアは拳を握りしめた。
「……大尉」
「何?」
「西部の民間人避難を優先しましょう」
ケスラー大尉は頷いた。
「そうね」
「前線部隊が後退するなら、避難経路の確保が必要です。使用可能な道路と鉄道を確認したいと思います」
「分かったわ。輸送担当と連携して」
「了解しました」
エリシアは通信兵へ向き直った。
「西部方面軍の輸送担当へ連絡。使用可能な車両と鉄道区間を確認して」
「了解!」
通信兵が受話器を取り直した。
その時、別の通信兵が叫んだ。
「緊急通信! 第二警備連隊から後退要請です!」
指揮所の空気が変わった。
「敵の大型個体が防御陣地を突破! 現有火力では進撃を阻止できないとのこと!」
エリシアは地図へ身を乗り出した。
「……何ですって?」
通信兵は続けた。
「さらに、第三警備連隊の指揮所との通信が完全に途絶しました!」
参謀たちが慌ただしく動き始めた。
地図上の印が次々と更新される。
共和国軍は、帝国軍との戦争に備えていた。
装備も、兵站も、作戦計画も、帝国軍を相手にすることを前提として整えられている。
しかし、今現れた敵は、そのどれにも当てはまらなかった。
エリシアは、地図を見つめた。
共和国軍は何もしていないわけではない。
兵士たちは戦っている。
砲兵も、装甲部隊も、航空部隊も、投入可能な戦力を使っている。
それでも、敵を止められない。
未知の敵を前に、軍の常識が通用しなくなっていた。
「……どうすれば」
エリシアは呟いた。
しかし、すぐに顔を上げた。
今、自分にできることを考えなければならない。
「大尉」
「何?」
「避難経路の再確認をお願いします。前線の部隊が後退するなら、民間人の移動を急がせる必要があります」
ケスラー大尉は頷いた。
「分かったわ」
エリシアは通信兵へ向き直った。
「西部方面軍の輸送担当へ連絡。使用可能な車両と鉄道区間を確認して」
「了解!」
彼女は地図を見つめた。
その表情には、焦りと恐怖があった。
しかし、まだ諦めてはいなかった。
同日午後11時28分。帝国北部、グラーフェン西方臨時集結地点。
レイブンとガイルは、野営用の天幕の下で休んでいた。
周囲には、撤退してきた兵士たちが横になっている。
誰もが疲れ切っていた。
レイブンはSG-44を傍らに置き、手帳を開いた。
しかし、何を書けばいいのか分からなかった。
北部戦線の崩壊。
未知の異界軍。
撤退。
そして、マティアス・H・レンツ軍曹の戦死報告。
どれも、短い言葉では書き表せなかった。
「……レイブン」
隣からガイルの声がした。
「何?」
「……俺たち、生きてるんだよな」
レイブンは顔を上げた。
ガイルは天幕の天井を見つめていた。
「さっきまで、死ぬと思ってた」
レイブンは静かに頷いた。
「……俺も」
「……レンツ軍曹、いつも言ってたよな」
「うん」
「二つ名があっても、弾は避けてくれねえって」
レイブンは、少しだけ目を伏せた。
「……言ってたね」
ガイルは小さく笑った。
「……あの人らしいよな」
レイブンも、少しだけ笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
遠くで砲声が響いた。
異界軍の進撃は、まだ止まっていない。
レイブンは手帳へ一文を書いた。
『今日、俺たちは撤退した。』
少し考え、続けた。
『何もできなかったわけじゃない。負傷者を連れて戻れた。』
さらに、もう一文。
『それでも、守れなかった人たちがいる。』
ペンを置く。
レイブンは、静かに目を閉じた。
帝国北部では、〈塹壕の悪魔〉と〈鋼のHOUND〉が撤退軍へ合流した。
連邦共和国西部では、エリシア・L・ヴォルハラム中尉が未知の異界軍に対する防衛と避難支援に追われていた。
帝国と共和国。
二つの国家は、互いを敵として戦争を続けていた。
しかし、その両方に、同じ未知の軍勢が襲いかかっていた。
国境線も、軍旗も、異界軍には意味を持たないようだった。
そして、レイブンとエリシアは、互いの無事を知らないまま、それぞれの戦場で夜を迎えていた。
二つの戦線で、同じ疑問が生まれ始めていた。
この敵は、いったい何者なのか。
何のために、この世界へ現れたのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。




